再始動
文叔らが信都の県城に入城したその午後、和成太守の邳偉君が精鋭の騎兵二千騎を率いて、洛陽の更始帝への帰順を表明し、信都に入った。
邳偉君はもともと信都郡の出身で、王莽より和成卒正(卒正は漢の郡太守のこと)に任じられ、先に文叔から太守の官を保証されていた。ちなみに和成郡というのは王莽が鉅鹿を割いて新たに置いた郡であり、郡治は下曲陽にあった。彼は邯鄲で自称・劉子輿の挙兵を聞いても靡かず、文叔が薊を脱出して信都に向かうと察知するや、文叔を迎えるために兵を出したのである。
ところが、河北の地理に疎い文叔らは道に迷い、かえって下曲陽のあたりをうろついていて、完全にすれ違ってしまったのだ。
とにかく、わざわざ兵を率いてやってきた邳偉君に、文叔は感激する。
「いや、ありがとう! 心強い! もう、味方なんていないかと思っていた!」
「いえ、ご無事で何よりでした! 下曲陽に近い深沢が凍って、そこを渡ったとも聞き、そんな近くにいながらご案内できず、忸怩たる思いでございました!」
河北人らしい、ややつり上がった目にすっきりした顔だちの邳偉君は、いかにも真面目な能吏といった趣。年の頃は四十を過ぎたあたり、信都生まれの名家の出で、河北で太守まで上り詰めた男は、地域での名望も高く、ようやく、同郷人以外の信頼できる仲間を得たと、文叔はホッとした。
だがそれでも――。
「信都郡の兵力が四千、下曲陽から来た和成の部隊が騎兵二千……」
合わせて六千では、邯鄲の劉子輿に対抗するには、あまりに少ない。かつて、文叔は一万足らずで百万を破ったけれど、それはさまざまな条件が有利に働いた結果であって、やはり兵法の常道は、敵よりも多くの兵力を集められるか、である。
「いったんは、引くべきではありませんか。洛陽に帰りましょう」
「いや、信都の四千を護衛に、西の長安で再起を図っては……」
河南からついてきた者たちは、逃避行に疲れてすっかり里心がついている。だが、皇帝の許しなく洛陽に戻れば、間違いなく殺される。長安に行く、という案に、文叔が食いつく。
「長安? 長安に行って、どうする」
「長安は秋に王莽が死んで、現在はまともな主がおりません。洛陽の皇帝を長安に迎え入れるという話です。その前に――」
「いや、それはダメだろう。私が受けた命令は河北の平定だ。勝手に長安に入ったら叱られるよ」
文叔が配下を咎める。皆には言っていないけれど、文叔の妻・陰麗華が更始帝・劉聖公の人質に取られている。迂闊な行動は取れなかった。
「だが、実際問題、信都と和成の二郡以外、邯鄲に帰順しているとなると、敵陣の中に孤立しているに等しい。ここから巻き返すのは難しいのでは――」
馮公孫の言葉に、傅子衛も同意する。
「いったん、河南か関中に引いて、仕切り直しをするべきではありませんか」
「うーん……」
文叔だって、でき得るならば今すぐ洛陽の、陰麗華のところに帰りたい。いっそ、ダメもとで帰ってしまおうか。眉をしかめ、腕を組んで考え込む文叔に、邳偉君が言う。
「逃げるなど、とんでもないことです。天下の民はずっと、漢を思慕してまいったのです。だからこそ、更始帝が皇帝の尊号を名乗ったとき、天下は呼応し、長安は王莽のいなくなった宮殿に皇帝を迎えようとしているのです。邯鄲の天子は、成帝の落胤などと称していますが、実は卜者の王郎なる男だとわかっています。偽りの名で烏合の衆を集めていますが、遠からず、化けの皮がはがれるに違いない。劉将軍、あなたは皇帝の親族でもあり、漢を継ぐ劉氏の一族だ。あなたが信都・和成の二郡の兵をもって、できないことがありましょうか! 河北を捨て、さらに長安に行くなんて、愚の骨頂です! 今、あなたが西の長安に行ってしまったら、我々信都をはじめとする河北の民を見捨てるも同然ですぞ!」
唾を飛ばし、身を乗り出して力説する邳偉君の迫力に、文叔は圧倒される。
「え、いやあ、その……別に見捨てるとか、そんなつもりは……」
そもそも、河北の者たちにあっさり裏切られて、賞金目当てに追っかけまわされたではないか。文叔は顎に手を当てて考える。
河北ですら兵力を集められないのに、長安で上手くいくとは思えなかった。そのまま浮き草のように漂う、根無し草になって黄色い大地の塵となるのがオチだ。更始帝から与えられた兵のほとんどは離散し、河北の大部分を劉子輿だか王郎だかに奪われた状態で河北をから逃げれば、更始帝から責任を追及され、間違いなく殺される。――河北を捨てるのは更始帝への離反であり、現在のボロボロな文叔に自立勢力として独り立ちする力はない。
結論。河北で盛り返し、兵を集めるしかない。
文叔は考えを纏めると、信都都尉の李仲都に尋ねた。
「信都の周囲はすべて、邯鄲に帰順してしまった……」
「ええ、あっという間に草木も靡くというか、そんな感じでした」
李仲都もまた、四十半ばのたたき上げの能吏である。王莽によって新博属長(王莽は王国であった信都を新博と名を改め、都尉を属長と呼んだ)とされ、その後、更始帝から、改めて信都郡の都尉に任じられた。要するに、もともとの信都都尉である。
「信都より東で、劉子輿に味方していない勢力は?」
「東には城頭子路と号すボスが率いる武装勢力が、南東の東海郡には力子都の集団がいます」
「それってつまり、赤眉の残りカスみたいな奴らだな」
「そうなりますね」
李仲都が頷く。王莽という中央政権が消滅し、代わりの更始帝は天下を支配するには至っていない。権力の空白地帯に、地元の武装勢力が割拠した無政府状態。それが現在の河北一帯である。邯鄲で王郎が成帝の皇子・劉子輿を自称し、そのハリボテの権威が河北を覆わんとしている――。
傍系のさらに分家の三男坊とはいえ、文叔は正真正銘、漢の皇族の裔である。にもかかわらず、怪しさ満点のご落胤「劉子輿」に逆賊扱いされ、獲物のように追い立てられたわけだ。この屈辱。――文叔は、邯鄲を任せてきた耿伯山のことを思い出す。あいつもあっさり裏切ったのか?
「鉅鹿はどうなっている? 邯鄲が騒乱に陥る以前、私は宋子の耿伯山に会い、彼に邯鄲を託してきたのだが――」
邳偉君が「ああ」、と手を打った。
「宋子の耿伯山ですね。彼は、王郎に帰順を求められたのを蹴って邯鄲を脱出し、宋子に戻ったと聞いています。現在、鉅鹿や中山あたりの豪族連中を説得して、邯鄲に対抗しようと考えているようです」
「耿伯山が?」
文叔がホッとして息をつく。――一応、太学の同期生なのだ(忘れられていたけど)。彼にまで裏切られていたら、人間不信に陥るところだった。
文叔もだんだん頭が働き始める。耿伯山が邯鄲に取り込まれていないならば、まだ希望はある。もしかしたら、耿伯山も文叔の行方を追っていたかもしれない。そして薊ではぐれた耿伯昭はどうなったか。それに常山太守の鄧偉卿。――全く味方がいないわけではない。楽観的過ぎるのもよくはないが、絶望するよりは、幸せな未来を思い描ける方がいい。河北で失った尊厳は、河北で取り戻すしかないのだ。
「その……城頭ホニャララって奴らを呼び寄せることはできないのかな」
「ダメですよ!」
文叔の思いつきのような策に、任伯卿が即座に反論する。
「要するに、緑林の賊みたいなやつらですよ! そんな奴らを城内に呼び入れたら、何をしでかすかわかりません!」
宛の包囲戦の後、緑林上がりの叛乱軍に身ぐるみ剥がされそうになった任伯卿は、頑として拒否する。
「じゃあ……だったらどうする? 信都の兵四千ではいくら何でも……」
文叔に問われた任伯卿は、しばし考え、言った。
「要するに、味方を増やせばよろしいのでしょう。周囲の郡県も、たまたま、邯鄲に付いただけで、情勢が変わればすぐに寝返りましょう。……そうですね、新たに募兵をかけ、周囲の県城に討って出ます。大人しく降伏すればそれもよし。もし降伏をしない場合は――」
「場合は?」
任伯卿が顔を歪め、声を低める。
「……その県の掠奪を許しましょう。人間は財物を貪るものです。恣に人から奪っていいと知れば、兵もやる気が出ます」
「……人格者のフリしてすごいこと言うよね、任府君もさ」
文叔が思わず言い、だがニヤリと笑う。
「だが、悪くない。こういう時代にキレイゴトを言っているようじゃあ、生き残れないしね」
文叔は朱仲先に皇帝・劉聖公から授けられた節を持ってこさせる。河北において、官職の任免を自由にできる特権。これを使わない手ははない。
「任伯卿殿……もとい、信都太守任光を左大将軍に任じ、武成侯に封ずる。信都太守であるのは故の如し、ただし、近日中に信頼できる留守居役を決めるように。その者を行信都太守事に任じ、左大将軍任伯卿には、私とともに先陣に立ってもらうことになる。――貴卿は文吏で、檄文を作るのに慣れているだろう。大司馬である私、劉文叔が、東方の城頭子路、力子都の衆百万を率い、邯鄲に天子を僭称する反虜を討伐すると、檄文にして鉅鹿を中心にバラまくんだ」
文叔の命令に、任伯卿がえっと目を見開く。
「その……官職のことはともかく、城頭子路と力子都は……」
「いいんだよ、何でもいいから東から百万の衆を私が率いて、邯鄲の賊を討つと書いとけ。こういうのはハッタリなの、ハッタリ」
文叔に言われて、任伯卿が「ハッ」と頭を下げる。――先ほどまでの、容姿がいいが大人しそうな若い男の雰囲気は消え、常勝将軍のカリスマがにじみ出て周囲を圧する。
――これが、劉文叔。そうだ、自分はあの日、昆陽でこの人を見たのだ――。
また文叔は、信都太守の副官である李仲都を右大将軍、武固侯に封じ、信都令である萬君游は偏将軍、造義侯に封じる。――将軍号はともかく、列侯にはまともな封地もあるわけなく、たんなる虚封だけれど、言うだけならタダだと大盤振る舞いだ。
「邳府君は、後大将軍で和成太守であることは保証しよう。私とともに邯鄲を落とした暁には、封侯すると約束する」
「有難き幸せ。必ずやお役に立ってみせます」
タッチの差ではあったが、実際に文叔を保護できた信都の者には先に褒賞を、努力はしたが文叔を保護するに至らなかった邳偉君には、次の功績での褒賞を約束し、差を示す。
「まずは周囲の県城を落とし、味方につける。そして次は鉅鹿だ。鉅鹿の豪族たちに檄文を送り、味方につけ、鉅鹿から中山に向かい、北方の諸王とさらに北、上谷郡、漁陽郡の太守の協力を取り付け、『漢』軍を糾合して邯鄲の逆賊を討つ!」
明確なプランを打ち出し、その実行のための手段を講ずる。
どん底を彷徨った文叔が、再び動き始める。――河北を手中に収め、愛しい陰麗華を取り戻すために。
軍議を終えて、文叔は伝舎に戻る。奥の房の帳の中、人影が蠢く。
「起きていたのか」
「寝てるのも飽きたよ」
文叔が帳を捲って牀に腰を下ろし、中の人物の額に手を当てる。
「熱は下がったな」
「もう、昨日のうちに下がってるって言ってる! 退屈だ! 僕も軍議に出たかったのに!」
鄧仲華が文叔の手を鬱陶しそうに払って、不満そうに頬を膨らます。
「大丈夫だ、お前の立てた戦略の通りに、上手くやっておいたから」
「ほんとう? 上手くいきそう?」
「わからんよ。とりあえず、郡太守のオッサンたちは納得したみたいだ」
「僕も現場で見たかったのに――」
「ただでさえ若くて細っこくて頼りないのに、病み上がりで青白い顔の軍師を連れていけるか。そんな弱々しい奴の立てた策に乗れるかって、太守のオッサンどもが逃げるだろ」
――そう、文叔の打ち出したプラン、実際の立案者は鄧仲華である。だが文叔は鄧仲華を隠して表には出さなかった。
もちろん、宛出身の任伯卿は、天才少年と名高い鄧仲華の評判を知っているけれど、実物の仲華は美少年過ぎる。さらに、発熱を押しての行軍がたたって、一時は肺炎になりかかっていた。軍議の場に引っ張りだすべきでないと、文叔は判断した。
「こんな奥の房に押し込められて、君の寵童か何かと勘違いされたら、僕の名誉にかかわる!」
「気色の悪いことを言うなっての!」
文叔は溜息をつき、それから鄧仲華に尋ねる。
「……朱仲先に変わったことはない?」
「仲先? 仲先がどうかしたの?」
「……昔の奥さんに会った。お前も回復したから、今度挨拶させる。――任伯卿殿の、奥方だ」
鄧仲華が目を見開く。やや色素の薄い、茶色い瞳。
「どういうこと?」
「叛乱を起こす前、奥さんに累が及ばないように離縁して……その後、近所に住んでいた任伯卿が奥さんを匿って、結婚したらしい」
「……そっか、宛はずっと包囲されてたもんね」
文叔が頷く。
「仲先は、なんて……?」
「どんな理由があれ、一度は捨てた女房だし、拾った男がずっと守ってきたんだよ。だから――」
朱仲先は、身を引くと決めたらしい。
「でも、奥さんはどう思ってるの?」
「……わからない。今の夫の……任伯卿とも上手くやっていたし、何より恩もある。生活も平穏だ」
「それは、そうだけど……」
潔癖な鄧仲華には消化しきれないことだろう。
「夫婦のことは、夫婦にしかわからない。……お前も、口を出すなよ。それだけ、先に釘を刺しておこうと思って」
「……わかった」
鄧仲華が複雑な表情で頷き、それから尋ねた。
「ねえ、文叔。……もし、陰麗華が――」
鄧仲華は途中まで言いかけて、慌てて首を振った。
「いや、いい。なんでもない」
二人の間に、沈黙が下りた。
呼沱河の畔、松林に囲まれた邸から、筑の音が響く。
北方に佳人有り
絶世にして独り立つ
一たび顧みれば人の城を傾け
再たび顧みれば人の国を傾く
寧んぞ知らず 傾城と傾国とを
佳人 再びは得難し
漢の武帝の寵姫、李夫人を歌った有名な曲。その音を聞き、耿伯山は彼の従妹が邸に滞在しているのだとわかり、思わず舌打ちした。
「老莱! どういうことだ! 聖通がなぜ、ここにいる!」
邯鄲に劉子輿――実は卜者王郎の僭称であると、だんだん明らかになりつつあるが――が天子を称し、河北一帯が戦乱に巻き込まれつつあるこの時に、女の身で何をしているのか。
耿伯山の馬を受け取りに来た老僕が、慌てて頭を下げる。
「いえ、その――お嬢様がどうしてもと……」
「こんなところにいて、盗賊にでも目を付けられたら! すぐに本邸に……いや、それも危ない。真定の伯父上の元にでも身を寄せるべきだ」
「わしらもそのように申し上げているんですが、何でも、天神のお告げがあったからと――」
耿伯山が凛々しい眉を寄せ、もう一度舌打ちする。従妹の郭聖通は、元の真定王劉揚の姪である。生まれた時、掌に「太后」と書かれた手書の瑞兆を持っていたため、すぐに真定王の世子の許嫁と定められた。――将来「太后」となる。つまり、未来の真定王を産む娘だと、周囲は考えたからだ。
ところが、世子は一年も経ずに早世し、次の世子が立てられる。その世子も数年で世を去り、次の世子の母親が、郭聖通との婚約を拒否した。
『掌の吉兆だか何か存じませんが、郭氏の女は不祥です。わたくしの子をも殺されたくはございません!』
北国の厳しい気候もあり、子供の死亡率は高い。真定王の後宮でも、さまざまな要因で幼子は命を落とす。――幼い時から頭脳明晰であった耿伯山は、世子の相次ぐ早世は、けして聖通のせいではなく、むしろ後宮特有の嫉妬や対立による悪意のためではないと疑っていたが、証拠もなく口に出せることではない。結局、郭聖通が「吉兆を有しながら不祥な女」と呼ばれ、そのあおりを食わされたのだ。
郭聖通が十歳の時、「太后」の瑞兆を持つ彼女に、北の広陽国の王子が結婚を申し込む。広陽王家の世継ぎ争いから、聖通のもつ「瑞兆」をあてにしたのだ。あからさまな「瑞兆」目当てとわかっても、王家からの申し出は断れない。が――。
直後に王莽が即真し、漢の天命を簒奪し、諸侯王は廃され、王子も事故で世を去る。こうして、聖通は三人目の許嫁にも先立たれてしまう。それから十五年が過ぎ、王莽の新も滅びた。
二十五という年齢は、当時においてははっきり、嫁ぎ遅れである。なまじ厄介な「瑞兆」を持っているため、嫁に迎えればありもしない野心を疑われかねない。周辺豪族の子弟で、彼女を妻にしようと名乗り出る者などいなかった。将来の「太后」に相応しく、教養豊かに、そして十分美しく育った従妹の盛りの花が過ぎていくのを、耿伯山は惜しいとは思うもの、河北の名家の跡取りの立場として、伯山もまた三年前に親族の薦めに従い、他から妻を娶った。
婚期を逸した郭聖通は、郭氏の本邸には居づらく思うのか、呼沱河の対岸、下曲陽の別邸に暮らすことが多い。呼沱河の畔の松林の中、こじんまりとした瀟洒な別邸は、耿伯山の住む鉅鹿の宋子から目と鼻の先であるため、伯山は時折訪問しては、従妹のつれづれを慰めていたのである。
地皇四年(西暦二十三年)の十月、長安の王莽政権が瓦解し、平和に見えた河北にも戦乱の足音が忍び寄る。洛陽に本拠を置き、更始の元号を立てた皇帝・劉聖公は、一族の劉文叔を大司馬に任じ、河北平定を命じた。昆陽の戦いの立役者である劉文叔のカリスマに注目した耿伯山は、劉聖公政権の下での、河北の安定を目論んでいた。だが、十二月、北方の薊に向かった劉文叔の留守をついて、邯鄲で成帝の皇子を名乗る劉子輿が蜂起した。邯鄲を任されていた耿伯山は完全に不意打ちをくい、捕縛の手をギリギリで逃れて、途中、馬車を強奪して無理矢理、故郷の宋子まで帰りついたのである。幼少期から才識を評価されてきた耿伯山にとっても、痛恨の、そして初めての挫折であった。このままでは、河北は劉子輿の元に統一されてしまう。
もし、劉子輿が真実、成帝の皇子ならば、耿伯山とてもろ手を挙げて馳せ参ずる。だが成帝の死から三十年、突如現れたご落胤を信じるなんて、馬鹿のすることだ。本物のはずがない。
――まだ定安公(前漢最後の皇太子、孺子嬰)を担ぎだすならば、ともかく。
どうやら、劉子輿の正体は、河北一帯をうろついていた、詐欺師的な卜者の王郎という男らしい。劉氏ですらない、怪しい男を天子と戴くなんて、プライドの高い耿伯山には到底、耐え難い屈辱である。
耿伯山が見込んだ劉文叔は、薊を維持できず、軍をほぼ失う形で南に逃れたという。
――クソ、俺が付いていればこんなことには……。
今さら臍を噛んだところで、すべては後の祭りである。南陽や潁川あたりの出身者ばかりの劉文叔の軍団は、河北の地理にも疎く、突然、掌を返されれば逃げ出すしかない。
ニセのご落胤・王郎から、どうやって河北を取り戻すのか。耿伯山が次に思いついたのは、伯父の真定王劉揚。かつての真定王として十万の兵を動かすことができるが、自尊心と虚栄心ばかり高い、平凡な男で、天下を争う器量などありはしない。しかも馬鹿だから、早くも「劉子輿」に味方するなどと言い出しているらしい。
――本当に、世の中、馬鹿ばっかりで頭にくる!
昔から、耿伯山はその優れた頭脳を誉めそやされてきたが、それは違う。他の奴らの頭が悪すぎるのだ。しかも、そういう馬鹿が権力や金を握り、たやすく詐欺師に騙される。急ぎ真定の伯父の元に赴き、「劉子輿」はニセモノだと説得しなければならない。ニセモノの劉子輿を担ぐくらいなら、いち早く王莽に叛旗を翻し、王莽を殺した南陽の劉氏の方がよっぽど正統性がある。その当たり前のことを、一から説かねばわからぬ馬鹿が多過ぎる!
故郷の宋子で、親族の者たちを説得するのにさえ手間取り、真定への出発が遅れた。途中、日が暮れかかったため、下曲陽の郭家の別邸に厄介になろうと思ってやってきた。まさか、この非常時に郭聖通が滞在中だとは思いもよらなかったのだ。
とにかく従妹に説教し、引きずってでも真定に連れて帰ろうと、老僕に命じて奥に通る。二階建てになった楼の、呼沱河を見下ろす眺めのいい露台で、郭聖通は筑を弾いていた。
ピイイン……
最後の音の余韻が消えるまで待ってから、耿伯山は声をかける。
「聖通。今の状況はわかっているのだろう? 今夜は俺と俺の部隊がいるが、明日、一緒に真定に戻ろう」
郭聖通は一瞬、従兄の存在に驚いて目を瞠るが、すぐに微笑んで言った。
「まあ、お久しぶり。伯山にいさま。戦乱だとは存知ておりますけれど、わたくしは大丈夫ですわよ」
「そんなわけあるか」
「だって、わたくしは天子を産むのでございましょ? 天の護りと、導きがございますわ」
「本気で言っているのか?」
耿伯山が眉を顰める。確かに、そうやって誉めそやし、最高の教育を受けさせ、そして相応しい相手に出会うまでは、と二十歳を過ぎても嫁ぐこともできずきたのだ。今さら運命の不確かさを説くのも残酷なことに違いないけれど――。耿伯山が言葉を探していると、郭聖通は控えていた侍女に菓子と白湯を命じ、筑を片付けながら言った。
「わたくし、運命の方に出会いました。天神のお導きで」
「は?」
耿伯山が切れ長の目を見開く。郭聖通はまっすぐに従兄を見つめ、微笑んで言い切る。
「天神の夢の通り、この邸で待っておりましたら、お会いしたのです。劉氏の、真天子に」
「真天子だと?」
郭聖通は頷く。
「ええ。吹雪の夜に、あの滅多に凍らない呼沱河が凍って、深沢を渡っていらっしゃった。でも水に落ち、助けを求めていらっしゃったので、一晩、お泊めしましたの。劉文叔将軍という、本当に美しくて、凛々しい方でしたわ。年の頃はお兄様くらいか、もう少し若いかも」
「劉……文叔、将軍……だと?! それは本当か、聖通!」
耿伯山は思わず立ち上がっていた。劉文叔が、下曲陽に立ち寄っていた。それも、従妹の邸に。
「ええ、間違いないわ。すぐに出立なさったけれど。わたくし――」
郭聖通が長い睫毛を伏せ、項垂れるように言った。
「あの方こそ運命の方に違いないと思うのに、彼は違うと仰るの。自分はもう、妻がいると――」
邳偉君:邳彤
信都の人。和成太守。和成は鉅鹿郡を割いて王莽が新たに置いた郡。