捨てられた妻と拾った男
信都太守の任伯卿は、南陽は宛の人である。
宛の城で県吏として働き、新帝国の末端行政を支えていた。
地皇三年(西暦二十二年)十月、宛の李次元と朱仲先、新野の鄧偉卿、そして舂陵の劉伯升兄弟が、長安の皇帝に対して反旗を翻した。李氏、朱氏、鄧氏、劉氏、すべて南陽の豪族大家である。
任伯卿は吏として、郡大夫甄阜の命令に従わざるを得ず、叛乱を起こした者の家族を収監し、李家の六十四人を誅殺し、死体を宛の市で焼いて見せしめするという陰惨な状況を、ただ、見ていることしかできなかった。
年明けの黄淳水の戦いで郡大夫も殺され、宛の城は叛乱軍に包囲される。中央派遣の上官か、あるいは叛乱を起こした地元の友人たちか。どちらに与してもどちらかを裏切らねばならない。そういう立場の中、数か月の包囲の後、宛はようやく落ちる。雪崩れ込んできた叛乱軍は、緑林上がりのならず者ばかりで、伯卿は危ういところで殺されるところだった。……ちょっといい服を着ていたのが、奴らの目に着いたのだ。たまたま通りかかった劉子琴が助けてくれて、命拾いをした。その後は叛乱側の官吏となり、昆陽を脱出した文叔の募兵に応じる形で、実は、昨年夏の昆陽の戦いにも参加していた。それらの働きが認められ、更始帝から河北は信都太守として派遣されたのである。
地味で穏やかな、事務仕事に通じた能吏。それが、南陽にいた時の任伯卿の評判だった。あの十月の叛乱から一年と数ヶ月。およそ英雄とかけ離れた彼もまた、否応なく歴史の渦に巻き込まれる形で、波乱万丈の日々を送ってきたのである。
昨年秋に王莽政権が潰えたとはいえ、更始帝が天下を掌握するまでは至っていない。全く知らない土地に郡太守として派遣され、さらに、十二月には邯鄲で成帝の皇子を名乗る劉子輿が立った。信都太守を預かる任伯卿は、劉子輿への帰順を拒否した。
「本物の皇子のはずがない。また、自分は洛陽の更始帝から派遣された太守である。裏切ることはできない」
郡太守を補佐し、軍事面を掌る都尉の李仲都、そして信都県令の萬君游や、配下の郡吏は、もともと王莽の官吏である。その彼らが任伯卿を支持した。ほんの数か月ではあったが、任伯卿の実直で飾り気のない人柄は、周囲の信頼を勝ち取っていたのだ。伯卿は劉子輿への帰順を主張する吏を信都の市で斬り、四千人の精兵を徴発して信都の県城を守ったが、周囲の郡県は瞬く間に劉子輿陣営へと流れ、気づけば信都は孤立無援に陥っていた。
更始二年(西暦二十四年)の正月、薊に滞在していた更始帝の大司馬、劉文叔将軍が、薊を脱出して南のかた、信都へ向かっているという、情報がもたらされる。
「とにかく、劉将軍を迎え入れるのだ!」
都尉の李仲都は、もう少し冷静だった。
「しかし、たいした兵力でもなく、薊から逃げてくるのですよ? 状況の不利は変わらないのでは……」
「馬鹿言え、劉文叔将軍だぞ?! たった一万足らずで、雲霞の如く昆陽を囲んでいた、王莽の百万の兵を潰滅させた天才将軍だ! 私はこの目で見たんだ!」
任伯卿が自身の目を指差しながら言う。
「あの人に指揮されれば、兵は十倍、いや、百倍の力を発揮できる。我々が信都で生き延びるには、あの人が必要なんだ!」
饒陽まで来ていると聞いたのに、なかなか到着しない。先に、劉文叔将軍の配下の、南陽冠軍出身の賈君文将軍の一隊が信都に到着し、こちらからも捜索隊を派遣して、ようやく、明け方近くになって、劉文叔将軍を信都に迎え入れることができた。
更始帝より与えられた大司馬の節(大権を付与したことを示す、旗指物)を振り立てながら入場する劉文叔将軍の一行を、信都太守任伯卿以下、都尉李仲都、信都令萬君游らは、郡吏や民衆とともに万歳歓呼の声で出迎えた。
「ありがとう、こんな格好で申し訳ないが、助かった! 大司馬劉文叔、信都太守閣下には大変感謝する!」
武装も鮮やかに――とはいかない。何日も野宿を続け、薄汚れ、疲労の色も濃い。それでも劉文叔将軍は、自信に満ちた態度で任伯卿に礼を述べる。
――ああ、これでやっと、軍隊を率いる重圧から解放される。
任伯卿は根っからの文吏だから、太守の職責の一つとしての、軍隊の統帥が本当に苦痛だったのだ。
「お疲れでしょう。すぐに宿舎にお入りください。沐浴の仕度もさせています。それとも食事を先に?」
「まずは風呂に――それから、荷駄が川に落ちて、替えの衣類が全滅なんだ。申し訳ないが、衣服を借りられるだろうか?」
「すぐに準備させましょう。妻に――」
「任伯卿殿?」
任伯卿がそう言った時、劉文叔将軍の背後から、ある男が声をかけた。
「――朱……朱仲先……殿……」
任伯卿が実直な顔の、丸い目をさらに見開く。朱仲先は宛では、同じ里に住んでいた、隣人であった。
「ご無事で、あられたのですか。……いえ、噂ではあなたは劉伯升殿の護軍を務めていたので、あるいは伯升殿とともに……と」
「辛うじて命を繋ぎ、何とかここまでやってきた。申し訳ないが、世話になる」
「いえ、そんなことは――」
任伯卿はしばらく絶句していたが、気を取り直したように、二人を宿舎に案内し、僮僕に命じて風呂の仕度をさせた。
数日ぶりにお湯で身体を清め、髪も洗い、垢と埃を落とす。風呂上りに用意されていた、清潔な肌着と襦衣を身に着け、文叔はボロボロになった襦衣と絮衣を撫でる。
どちらも、陰麗華が手ずから縫ってくれたもの。汗と垢に汚れ、あちこちほつれて、酷い有様だ。
――でも、捨てられない。
あの結髪を失くしてしまった今は、陰麗華の唯一の形見だ。文叔は酷い匂いのする襦衣と絮衣を抱き締める。
――麗華。
「失礼します」
声がかかり、ハッと顔を上げると、女主人らしい若い女が下婢を指図して食事を運んできた。髪を控えめながら結って、曲裾深衣に刺繍の入った綿入れの褶衣を羽織っているから、かなり上位クラスの人間の、奥方だ。思い当たるフシとしたら、郡太守である任伯卿の妻しかいない。その割にはえらく若いけれど、後妻だろうか、などと思いながら、文叔は奥方に挨拶するために、慌てて袷衣を羽織り、帯を締め、髻を結って冠を被る。それから、案を並べて料理の配膳を差配している女に近づき、声をかけた。
「郡太守閣下の奥方と存じます。お初にお目にかかります、某は――」
「あらやだ、文叔さん、そんな他人行儀な。わたしよ、寧君です!」
気軽に言われ、「は?」と顔を上げる。困ったように眉尻を下げ、首を傾げているのは――。
「え……仲先の奥さん?! 何で?」
文叔が茫然と目を見開く。そう、胡寧君は、以前は何度か家にもお邪魔したことのある、朱仲先の細君――。
胡寧君は下婢に後を頼むと、文叔の側まできて、牀に並んで腰を下ろす。
「びっくりしたでしょう。わたしだって、自分がまさか、河北の郡太守夫人に収まるなんて、予想してませんでしたし。……さらに、文叔さんとあの人が、信都に逃げ込んでくるなんて――」
文叔は周囲を見回し、胡寧君に小声で尋ねた。
「その……仲先は君のこと――」
「叛乱を起こす前に、あの人はわたしを離縁したんです。……もちろん、わたしは叛乱を起こすつもりだなんて知りませんし、あの人も何も言いませんから、わたしは突然、訳も分からず離縁されたようなもので……実家にも帰れませんで、オロオロしているわたしを、ひとまず匿ってくれたのが、今の主人……任伯卿なんです。そうこうするうちに、官憲の追及も厳しくなって。わたしは離縁が直前だったので、偽装を疑われてしまい、収監されそうになったのを、任伯卿が妻として官(届け出)してくれて、命拾いしました」
「そんなことが――」
文叔が目を丸くする。胡寧君は南陽の湖陽の胡氏の出だ。突然、理由もわからずに離縁され、のこのこ実家にも戻ることもできず、同じ里内の任家に身を寄せたのだ。任伯卿は当時、妻を亡くしたやもめで、任仲和という男の子が一人いた。胡寧君は十歳になる仲和少年の世話をしながら、叛乱で混乱する宛の街で息を潜めるようにして、暮らした。官憲の手が朱仲先の元妻に及ぶのを恐れ、任伯卿は官に正式な妻として官(届け出)した。――そうして今は、ともに河北の信都にいる。
「じゃあ、仲先は君がここにいるのは……」
「知らないと思います。たぶん、びっくりするでしょうね」
そう言って笑う胡寧君の表情は吹っ切れているように見え、文叔はどう、接するべきかわからない。目を瞬いている文叔を見て、それから、胡寧君は文叔の傍らにある、汚れた衣類を見る。
「それ――洗濯してしまっても?」
「あ!……そうなんだけど。大事なものなんです。妻が、縫ってくれたもので……他のはみんな、呼沱河に沈んでしまって、残ったのはこれだけで――」
「……奥さん……もしかして、『妻を娶らば陰麗華』さん? ご結婚なさったの?」
朱仲先の家でも、飲めばさんざん、「陰麗華、陰麗華」と管をまいていたから、胡寧君も文叔の〈陰麗華病〉を知っている。
「そう、なんだけど……ちょうど身籠っているから、南陽に帰したんだ。だから――」
文叔が俯く。
「そうなんですか。じゃあ、大事に洗わせていただきますよ。洗い張りだと、解いて縫い直すことになるから、普通に洗うだけでいいですか?」
「そ、それでお願いします!」
文叔が目を輝かせて頼めば、胡寧君も微笑んだ。
「わかりました。大事に洗濯させていただきます」
と、その時。入浴と身支度を済ませた、朱仲先が入ってきた。
「おい、文叔、今後のことでちょっと――」
「……あなた……」
そうして、かつての夫婦は一年と数ヶ月ぶりに再会した。
「寧君……? どうしてここに?」
「どうしてって、わたしにだっていろいろ人生はあるんですよ。あなたには一方的に離縁されたんですから、とやかく言われる謂れはありません!」
「なっ……! 別にとやかくは言ってないだろう? ただ、聞いただけで」
「仲先!」
いきなり喧嘩腰になる二人を見て、文叔が慌てて間に入る。
「下婢たちの前で……落ち着けよ」
そう言われ、朱仲先は食事の支度をする下婢たちと、上流婦人らしく装った胡寧君を見比べる。以前、朱仲先と結婚していた時はただの士大夫の女房だったから、褶衣なんか着ることもせず、地味な曲裾深衣に蔽膝なんかして、髪も二つに分けてうなじあたりで一つに纏めていただけだ。
「……なんだかずいぶんと、羽振りがよさそうだな?」
かつての妻のいでたちを上から下まで値踏みするように見て、朱仲先が訝しげに言えば、胡寧君は勝気そうな眉を顰める。
「べ、別に……そりゃ、こう見えても郡太守様の奥方ですからね! 昔みたいな貧乏くさい格好なんてしてられませんよ! 格ってものがありますもの、格ってものが!」
「な……まるで、昔は俺がケチだったから貧乏くさい格好しかできなかったと、言いたげじゃないか!……え、今、何つった? 郡太守様の奥方? お前が?!」
「やめろよ、仲先!」
文叔が朱仲先を宥め、小声で言う。
「任伯卿殿の奥方だ。わざわざ僕たちを歓待してくれているんだよ、乱暴な言い方はよせ」
「任伯卿のぉ……! な、なんだってそんなっ……」
朱仲先がただでさえギョロっとした目を、さらに丸くする。
「女房を離縁してほっぽり出した考えなしのアンタと違って、伯卿さまは将来のことまでちゃーんと見据えて、わたしを正妻にしてくださったんです! 文句があるなら信都の城から叩き出してやるわよ!」
「何だとこのっ……!」
「まあまあ、お互いに……! 事情が、事情があったんだから、落ち着いて!」
ちょうど、そこへ任伯卿が現れ、睨み合う妻とその元・夫の様子に、眉を顰める。
「あー、朱仲先殿、これについては説明しなければならないことがいろいろとあって……」
「何だとこの、寝取り野郎! 人格者のフリしてとんだ――」
「仲先!」
文叔が朱仲先を羽交い絞めにし、口を手で覆って暴言を抑える。モガモガと暴れる朱仲先に、だが任伯卿は冷静な態度を崩さず、まっすぐに目を見て言った。
「この件に関して、寧君に落ち度はないと思っています。貴卿も死線をくぐり抜けるため、そして寧君を守るためであったと、私も理解している。でも、寧君も私も、同じように叛乱と戦乱の中で生き抜かなければならなかった。……少なくとも、私と結婚しなければ、寧君は今頃、生きてはいなかったでしょう。だからこのことで、私はともかく、貴卿が寧君を詰るのは許せません。――でも、今はまず、食事をなさってください。劉文叔将軍の肩には信都の、そして河北の行く末もかかっているのですから」
任伯卿の静かな威厳に満ちた言葉に、朱仲先もそれ以上は何も言えず、ぐっと両手を握り締めて引き下がる。その様子に、文叔はホッとして友人を解放し、任伯卿に言った。
「申し訳ない。府君(郡太守への尊称)の言うとおりだ。……まずは、食事をいただこう。ほら、仲先も座って。……他の奴らはもう?」
「あ?……ああ。仲華はまだ微熱があるから、風呂には入れずに休ませてる。風呂に入りたいと駄々をこねていたが……薬を飲ませて寝せておく。他の面々も食事をいただいている」
朱仲先の報告を聞き、文叔が頷いた。そうして、心配そうに友人と、そのかつての妻、そして彼女の現在の夫を見比べる。
「その……話し合い……した方がいいなら、僕は席を外すけど……」
任伯卿が言った。
「もし、できますならば、劉将軍にも立ち会っていただきたい。その方が、仲先殿も冷静になれると思うので」
文叔は、朱仲先が妻を離縁した理由は、兄と李次元が計画した叛乱に参加するためだと知っているので、断ることができなかった。
「もちろん、僕は構わないが……」
朱仲先は無言で、掻きこむように黍の粥を食べている。それを了解とみなして、任伯卿は席に着き、下婢に何事かを命ずると、下婢がみな給仕をやめて下がっていく。
「寧君、お前も座りなさい」
「でも……」
胡寧君がためらいがちに任伯卿の隣に腰を下ろし、話合いが始まった。
文叔と朱仲先が、上座である北の牀に南面して座り、任伯卿はその東の西面する牀に座っている。隣に胡寧君。任伯卿が言う。
「まずは食事をなさってください。お二人とも、大変な目をして信都まで辿りついたのですから。本当なら、おやすみいただいてから、話合いの席を設けたいと思っていました。いえ、そもそも、もっと早くに仲先殿には説明しておかねばならなかったのです。宛の混乱を理由に、きちんと話を通さなかった、私の責任です」
任伯卿が二人を労うように言い、文叔は素直に頷いて粥を口に運ぶが、朱仲先の方は眉を寄せ、二人を見ないようにしている。――突然のことに、気持ちがついていかないのかもしれない。
叛乱に先んじて、女房は離縁して実家に帰した――そんな風に、朱仲先は言っていた。あれから一年と数か月。嫌って離縁したわけではない、むしろ、愛しているからこそ、命を守るために自ら縁を切った妻が、他の男――それも以前からの顔見知りの男の妻になっていると聞かされたら、覚悟の上とはいえ、動揺しないではいられないだろう。文叔自身、陰麗華がそんなことになっていたら、発狂する自信がある。
二人の食事が進む様子を見ながら、任伯卿が言った。
「食事をしながらお聞きください。――胡寧君殿が、夫婦喧嘩をして行き場がない、数日、匿ってもらいたいと、我が家に来た。地皇三年の九月のはじめでした」
朱仲先が手にした匙を案に戻し、絞り出すように言った。
「……たしかに、俺は寧君に離縁を言い渡して、実家に戻るように言った。まっすぐ、湖陽の実家に戻っているとばかり――」
「彼女には、戻れない理由があったのです。何より、貴卿の言い渡した離縁の理由に、納得がいかなかった。……添うて三年、子なきは去る、そんな風に仰ったそうですね。以前は、子供などいなくてもいいと言っていた貴卿が、突然、掌を返した。彼女は動顛し、本当の理由を知りたいと思った」
任伯卿の隣で、胡寧君が俯き、膝の上で袖をいじくっている。何も言わない朱仲先の代わりに、文叔が言った。
「それで、彼女を匿った……。僕は、仲先からは挙兵に先立って離縁したとしか聞いていなかった。てっきり、彼女も納得しているとばかり――」
任伯卿も頷く。
「あの十月、宛は大変な騒ぎでした。李家の一族六十名以上、朱家も数人……胡寧君にも捕縛命令が出ました」
「まさか!」
朱仲先が顔を上げる。ギョロ目をさらに見開いて、信じられないという風に。
「離縁したのに! 戸籍の上でも、俺とは関係が――」
「離縁が貴卿からの一方的なものだったので、偽装を疑われたのです。……郡大夫は冷酷な男でしたから。ですから、私が婚姻の届けを出したのです。叛乱前に遡って、日付を偽ったものを。役所には、私との不義密通がバレて、怒った朱仲先殿が妻を離縁し、私が娶ったと誤魔化しました。貴卿が私を寝取り男と言うのも、あながち間違いではないのです。でもそうしなければ、彼女は間違いなく、郡県の獄に収監されて殺され、死体を市に曝されていた」
任伯卿の言葉に、朱仲先が両手をつき、頭を下げる。
「先ほどは、頭に血が上り、大変失礼した。……俺が、妻を離縁した事実は変わらない。密通などとんでもない。貴公には大変な不名誉を被せてしまった。深くお詫びするし、命を助けてくれたことに、礼を言う」
「……そのことはいいのです。私は鰥夫で、当時妻もいなかった。ただ、そんなことより、仲先殿にはどうしても、話しておかねばならないことがあるのです」
任伯卿は手を叩く。入ってきたのは赤ん坊を抱いた女中らしき中年の女。女は赤ん坊を胡寧君に渡すと、再び無言で下がっていく。
朱仲先がギョロ目をさらに驚愕に見開いて、息を飲んで赤ん坊を見つめている。
暖かそうな刺し子のおくるみに包まれた、赤子。――仲先が結婚して三年。子のできないことを、密かに気にしていたのを、文叔も気づいていた。
俺には子種がないのかもな、なんて冗談めかして笑っていた朱仲先は、ずっと、妻の胡寧君を庇っていた。その彼が、叛乱に先んじて妻を離縁した。そして――。
任伯卿は胡寧君が抱く子を見下ろしてから、朱仲先に言う。
「さきほど、寧君には実家に帰れない事情があった、と言いましたね。それが、これです。……あの時、寧君はすでに身体の異常に気付いていたのに、確証がなかった。貴卿に告げるべきかどうか迷っている間に、突然、離縁されてしまったのです」
朱仲先が茫然とした表情で、胡寧君と任伯卿を見る。
「じゃあ、その子は……」
胡寧君が前の夫と、今の夫を見比べるようにして、でも何も言えずに目を伏せた。
「ちょうど、宛の包囲戦のさなかに生まれて、私の子として育ててきました。宛の城が『漢』に落ちた後も混乱は続き、寧君の体調もよくなかった。貴卿を探して事情を説明することもできないまま、劉伯升殿が殺され、伯升殿の配下もみな殺されたと噂に聞きました。ですから、仲先殿もあるいはと――そんな中、信都太守として転出することになり、私はそのまま、寧君と子を河北に伴ったのです」
あくまでも穏やかに任伯卿は語り、朱仲先と、胡寧君を見る。
「私は、仲先殿が死んだならば、父親代わりにこの子を育てるつもりでした。でも今、天の導きによって、仲先殿はここ、信都にやってきた。この子は本来なら、朱家の嫡男であるはずです。それを奪うことは天の怒りを買うのではと、内心畏れておりました。もし、二人が望むならば――」
朱仲先はただ、膝の上で両手を握り締め、眠る赤子を見つめていた。胡寧君が不安そうに、朱仲先と任伯卿を見る。朱仲先はしばらく茫然とした後、天を仰ぐようにして、深い溜息をつく。
「任殿、寧君。俺は――俺は間抜けにも、寧君に子が出来ている可能性なんてものに、全く思い至らなかった。もし子供がいたらどんなことになるのか、そんな当たり前の想像力すら働かず、寧君のその後の苦労も思いやらず、ただ、湖陽で安全に暮らしていると信じていた。俺は馬鹿だ。父親としても、夫としても失格だ。俺は――」
朱仲先は牀を降り、磚敷きの床に膝をつくと、冠を外して髻をさらし、床に額がつくまで、二人の前に深く頭を下げた。
「仲先殿!」
「すまない、俺は天下をひっくり返すために、妻も家族も捨てた。今、寧君と子を守る力も資格も俺にはない」
胡寧君が息を飲む。
「あんたは、わたしが伯卿様の妻になっていたことが、許せないの?」
朱仲先は少しだけ顔を上げ、首を振った。
「許す、許せないなんて、そんな資格もない。今まで、お前とその子を守ってきたのは、俺じゃなくて、任伯卿殿だ。伯卿殿が、もうお前みたいな女の面倒は見られないと言うなら話は別だが――」
「なっ! 失礼な! どうして、あんたって人はそう――」
「寧君……」
再び喧嘩腰になる妻を、任伯卿が宥める。
「いきなり、子供がいるなんて言われても、男は受け入れられないものです。それに――戦乱の中で生きるためとはいえ、他の男の妻として暮らしていた女を、信じろと言うのも無理なものかもしれない」
「でもっ!」
胡寧君が唇を噛む。その様子に、文叔は思わず、口を挟んだ。
「その……お二人は、どう思っているのです? 仲先は、奥さんのことが好きで、でも叛乱を起こす前に彼女のために離縁した。でも、奥さんは? そして、任伯卿殿は、どう思っているのです?」
「わたしは――」
俯いてしまった胡寧君に代わり、任伯卿が言った。
「寧君は、文句のない妻でした。息子の、仲和とも上手くやってくれて……今ではかけがえのない大事な家族だと思っています。だからこそなおさら、戦乱で引き裂かれた二人に乗じているようで――」
ずっと冷静な態度を崩さなかった仁伯卿の表情に、初めて感情の揺らぎを見て、文叔は何も言えなくなる。
「俺と寧君の離縁は官にも受理された正式なもの。あんたたちの結婚も、そうだろう。気にすることはない。あんたたちはこれからも、胸を張って夫婦でいればいい。あ、それより、粥のお替りをもらえるかな、もう腹が減って、あは、あははは……」
「……仲先……」
胡寧君と任伯卿は、歳は離れているものの、円満な夫婦としてやってきたように見える。ここでもし、朱仲先が胡寧君とよりを戻すと言い出せば、それはそれで厄介なことになる。何より、薊から信都までの強行軍を思い出しても、妻子を伴ってその安全を守るなんて、文叔の配下にはどうにも不可能に思われる。任伯卿も筋を通したいのかもしれないが、どう考えても、朱仲先が身を引くのが、一番、丸く収まる。
ことさらに明るく振る舞う友人の姿が痛々しくて、文叔はふいに、河に落としてしまった陰麗華の結髪を思い出す。
――麗華、僕は――。
この後、まさか自分も夫としての決断を迫られるとは、この時の文叔は想像もしていなかった。
任伯卿:任光
南陽宛の人。信都太守。
李仲都:李忠
東莱黄の人。信都都尉。
萬君游:萬脩
扶風茂陵の人。信都県令。




