白衣老人
ボーイズラブ要素はありません(断言)。
「火を! 鄧仲華が!」
何とか陸に上がった文叔が叫ぶ。吹雪の中でびしょ濡れになり、文叔の歯がガチガチ鳴る。
「まず脱げ! 濡れたままでは傷寒をひく!」
朱仲先が文叔の斗篷と鎧を剥ぎ取り、戦袍の下の絮衣をひっぺがそうとする。これは陰麗華の絮衣だ。文叔はびしょ濡れの絮衣を奪われまいと死守する。
「いい! これは大丈夫だ! それより仲華が!」
仲華の方は、僮僕の阿捷と祭弟孫が介抱していたが、やはり意識がなかった。吹雪は激しさを増し、白い雪が周囲を覆っていく。このまま野外にいたら、確実に死ぬ。
「どこか、一晩でも屋根のある場所で休めないか!」
文叔が馮公孫の差し出した戦袍を羽織り、衣紋を掻き合わせながら命じ、傅子衛と王元伯がすぐに馬に跨り、走り出した。
しばらくして、王元伯が戻ってきて、言った。
「その先の邸が、馬小屋でよければ提供してくれるそうです」
「なんと!」
すっかり暗くなった吹雪の中を一行が向かった先、こんもりした松林に囲まれるようにして、古いが瀟洒な邸が現れた。門内には篝火が焚かれ、老僕が松明を掲げ、下級の吏は馬小屋へ、将吏クラスは邸内へと案内した。
「河に落ちた方はこちらに……厨に近くなりますが、一番、暖かいです」
意識のない鄧仲華は大柄な銚次況が抱えて、老僕が薦める牀の上の寝かせる。鄧仲華は真っ白な顔色で、唇は紫色になっていた。
「この裏が竈になっていましてね、暖かいんです」
「すまない、世話をかける」
下婢らしき女たちが何人も、盥のお湯やら、温めた醪やら運んできてくれる。
「たいしたおもてなしもできませんが、せめて温まってください」
「ご主人にご挨拶できるだろうか?」
文叔が言えば、女たちが顔を見合わせる。
「もう、夜も遅うございますので……。翌朝、ご案内いたします」
「我々のことはご主人は……」
「もちろん、承知しておられますが」
何か遇わせるのをしぶるような雰囲気を感じとり、文叔は引き下がった。
「いや、大変、感謝していると伝えていただきたい。夜が明ければすぐにも出立いたす。今は病人を休ませられるだけで、よかった。かたじけない」
「いえ、吹雪は難儀なこと。それに、こちらは劉氏ともゆかりがございますので……」
「ほう……」
文叔が傅子衛を見れば、実直そうに頷く。
「はい、劉将軍の一行だと言えば、まんざら赤の他人でもない、こちらも劉氏ゆかりの邸であるからと、迎え入れていただきました」
「とにかくありがとう」
「こちらが薬湯でございます。水に落ちたとなれば、これを飲んでからおやすみください」
「返す返すも、ありがたい」
文叔が丁重に礼を言えば、女たちは下がっていった。
「……厩の連中は大人しくしているか?」
「祭弟孫と銚次況が監視していますから、大丈夫と思います」
馮公孫の報告を聞き、朱仲先と阿捷を残して下がらせ、文叔はようやく、牀の上に腰を下ろす。……確かに暖かい。濡れた襦衣と絮衣を脱ぎ、犢鼻褌も外して素裸になる。そうして濡れた衣類を方爐の近くに広げ、火にあてて乾かす。――荷駄が水に落ちてしまったので、衣類はすべて失くしてしまったから、乾くまで裸で過すしかない。もらったお湯で身体を拭い、髻も解く。帯に通して常に身に着けている、小刀や櫛のセットは残っているから、櫛を外して髪を梳く。――ふと、陰麗華との婚礼の夜に結んだ結髪が見当たらないことに気づく。水に落ちた時かどこかで、失くしてしまったらしい。なんとも不吉な気分で、文叔は眉を顰める。
横では、朱仲先と阿捷が二人がかりで、意識のない鄧仲華の濡れた衣類を脱がせ、身体を拭って髪を梳く。全裸で眠る鄧仲華の痩せた体に、邸の老僕が貸してくれた衾をかけてもう一度横たえると、鄧仲華が身じろぎした。文叔が額に手を触れる。
「熱が高いな……」
「薬が飲めるようなら、飲んだ方がいい」
朱仲先がもらった薬湯を方爐で温め、椀に注いで文叔に渡す。文叔が薬臭い薬湯をまず半分飲み、残りを阿捷が抱き起した鄧仲華の口元に宛がう。
「んん……ぶん、しゅく……?」
「気が付いたか? 薬だ、少しでもいいから飲め」
「にが……まずい……」
「良薬、口に苦しだ」
朦朧としながらも、二口、三口ほど薬を飲み込み、鄧仲華は再び眠りに落ちる。
「坊ちゃんが熱を出すのはいつものことですから」
「だが、こんなところでは――」
長安の太学の寮でも、しょっちゅう熱を出して寝込んでいた。通常、二、三日で回復していたが、こんな状況ではゆっくり休ませてやることもできない。阿捷が鄧仲華に衾をかけ、言う。
「眠るのが一番の薬ですよ、文叔様も、仲先様もお休みください。俺も寝ます」
「そうだな、おやすみ」
文叔も鄧仲華の隣に横になり、衾にもぐりこむ。隣に男の人肌があるのが落ち着かないが、贅沢は言えない。
「俺も寝るぞ、阿捷、灯り消してくれ」
「はい、おやすみなさい」
朱仲先と阿捷の交わす声を聞きながら、疲労の限界にあった文叔の意識は、プツンと糸が切れるように途切れた。
「うう……うううう……」
深夜、苦し気な呻き声で、文叔は目を覚ます。あたりは暗いが、竈の火が入ったままなのか、牀の上は暖かい。隣で眠る鄧仲華がうなされているのだと気づき、文叔は身を起こす。雪はすでに止んで、高い位置にある窗から、青白い月明りが斜めに差し込んでいる。暗がりに、朱仲先のいびきと、阿捷の規則正しい寝息が聞こえる。
「仲華、だいじょうぶか」
「う……文、叔……」
苦し気に呻いている鄧仲華を揺り起こし、玉の汗を拭ってやる。昔、長安の寮で熱を出した時にも、阿捷と交代で付き添って、こうやって汗を拭いてやったことがある。もう二十歳を越えているのに、相変わらず細っこい。四年ぶりに再会して、身長はそこそこ伸びているのに、鍛え方が足りない。鄧仲華は本の虫で、大方、家に籠って本ばかり読んでいたのだろう。こんな身体で軍隊に参加しようというのが、無茶なのだ。
文叔は内心苦笑し、同時に、河北に陰麗華を伴っていたら……と少しだけゾッとした。
現在、陰麗華がどんな目に遭っているのか、想像もできないし、したくもない。もし、河北に陰麗華を伴っていたら、あの氷のように冷たい河に落ちていたのは、仲華ではなく、彼女だったはずだ。たとえ水に落ちなくとも、ここ数日の強行軍に、身重の陰麗華には絶対に耐えられなかっただろう。――そう、洛陽に彼女を残した判断は、間違っていない。ただ、託す相手を間違えただけ――。
文叔は頭を振り、陰麗華のことを意識から振り落とす。
「仲華、水、飲むか? 待ってろ」
「すまない……」
文叔が部屋の隅の水がめから、柄杓で水を掬ってくると、仲華がそれを一息に、喉を鳴らして飲み干す。柄杓を返しながら、仲華が言った。
「迷惑をかけて、情けない……」
「別に、お前が悪いわけじゃない。河北は寒すぎる」
「でも……とりあえずさ、何で二人とも全裸なの。僕は男色じゃないぞ。まさか僕の貞操は――」
「それはこっちのセリフだ! 河に落ちてびしょ濡れになっただろうが、この孺子が! つべこべ言ってないで、とっとと寝ろ!」
横になり睫毛を伏せた仲華は、解いた髪が白い顔の周囲を取り巻き、普段の二割増しで女にしか見えない。熱も上がって苦し気な息で、にもかかわらず、くだらないことを言う友人に、文叔は呆れる。
「ごめん……足手まといになるだけで、何の役にも立ててない」
ポツリとこぼす鄧仲華の言葉に、文叔が衾をかけてやりながら、言う。
「戦闘でお前に期待してない。お前の頭脳が役に立つ時まで、死ぬなよ?」
文叔が言えば、鄧仲華が微かに目を開け、掠れた声で言った。
「……陰麗華を、救い出すまでは、死ねない」
「仲華……」
文叔が月明かりの下で、目を見開く。
「……結婚前に手を出すなんて、この、恥知らず。あんたのせいで、彼女は家を、追い出されてしまった」
「……すまない。反省はしている。でも――」
婚礼前に関係を持ったことは、言い訳のしようがない。でも、どうして仲華が? 親戚だとは聞いていたが、そんなに親しい間柄だったのか?
「あんた、あの時、昆陽にいて、生きて戻れないかもって……いっそ、腹の子の父親は、僕だと、嘘をついていれば……」
仲華が目を伏せ、半ば眠りに落ちながら、うわごとのように呟く。
「……あんな――劉聖公の、クソ野郎の手に……僕は――」
仲華の頬が月明かりに光る。……涙に、濡れているのだ。
「彼女を助けないと……文叔は洛陽に戻れば、死ぬ……でも……陰、麗華が――」
「仲華、お前――」
やがて仲華の唇からは、規則正しい呼吸が漏れ、眠ったのだとわかる。文叔はしばらく、睫毛の長い端正な顔を見下ろし、それからもう一度横たわり、衾に潜りこむ。すぐそばに、友人の体温を感じる。
「……たしかに、男同士で裸で何やってんだろうな、全く……」
暗闇に向かって呟けば、いっそう虚しい気分になる。文叔は目を閉じる。陰麗華は、今頃――。
高い窗から青い光が斜めに差し込む中、ただ男たちのいびきと、寝息だけが響いた。
翌朝、文叔は夜明け前に目を覚ました。邸内の下婢らはすでに起き出し、すぐ裏の竈で忙しく働いている音がした。
「んん……朝?」
隣で鄧仲華が目を覚ましたので、文叔が額に手を当てると、露骨に不快そうに端正な顔を歪める。
「めちゃくちゃ気分悪い」
「まだ熱があるからな」
「そうじゃなくてさ、朝日の差す臥牀の上、男が二人で全裸だなんて、超絶キモいんだけど」
「お互い様だ」
文叔は起き上がり、全裸で方爐の側にいくと、衣類は何とか乾いていた。清潔とは言い難いが、これ以外に着るものがない。文叔は犢鼻褌の匂いを嗅いでから、諦めてそれを身につける。絮衣はまだ湿っていたが、構わず纏い、何日着ているか思い出したくもない、襦衣を羽織る。その頃には朱仲先と阿捷も目を覚まし、阿捷がまめまめしく鄧仲華の身支度を手伝う。
被髪を朱仲先に結ってもらいながら、小刀で髭を剃り、冷たい水で顔を洗う。邸の老僕が熱い粥を、下婢が薬湯の壺を運んできた。
「食事の後で主人がお会いすると申しております」
「それはありがたい。是非、直接お礼を申し上げたいと思っていた」
文叔は粥を急いで啜ると、鄧仲華の世話を後に任せ、下婢について部屋を出た。
雪もやんで雲のはざまに青空が広がり、冬の朝日が昨日の雪に反射して眩しい。庭には雪が積もり、磚の敷がれた小道の部分だけ、雪が除けてあった。下婢の後ろついていくと、庭から続く松林の中に導かれる。
冬でもなお青々とした松葉の枝に、こんもりと白い雪が積もっている。樹上の雪が解けて、ピチョン、ピチョン、と雫が落ちる。
松林が少し開け、呼沱河の流れが見下ろせる場所に、ほっそりした人物の後ろ姿が見え、下婢が言った。
「主人でございます。――お嬢様、劉将軍をお連れしました」
振り返った人物の、黒髪が川風に靡く。白い毛皮の縁取りのある、刺繍の入った白い斗篷を着たのは、まだ若い――と言っても、二十歳は過ぎているように見えた――女だった。
てっきり、主人は壮年の男性だと思っていた文叔は、目の前の女に目を瞬く。
「え……と――」
「お初にお目にかかります。郭聖通と申します。劉将軍におかれましては、吹雪の中を難儀なことでございました」
「え、あ、はあ……劉秀、字は文叔と申します。このたびは、一宿の恩義をありがとうございます。お礼の申し上げようもありません」
一瞬の戸惑いの後、丁重に拱手する文叔に向かい、女が微笑んだ。
「……本当に、運がよかった。あの河は、滅多なことでは凍りませんし、氷も薄いのです。よくぞご無事で」
「ええ。天の導きかと思います」
文叔は深く頷く。素性はわからないが、この節、女主人の邸なんて、極めて無防備だ。そんな中、吹雪に追われた旅の武装集団を泊めてくれるなんて、少し警戒心が緩いのではないか、とさえ思った。もし盗賊団だったら、女たちは大変な目に遭っていたに違いない。――昨夜、側仕えが主人の元に文叔を案内しなかったのは、女所帯と知られたくなかったからだと、納得する。
「わたくしが不用心だと思っていらっしゃる。……当然ですわ。でもわたくし、あなたがたは絶対に大丈夫だと、確信があったのです」
女はゆったりと微笑み、自信満々に言う。
文叔も朱仲先も士大夫であるし、鄧仲華に至っては非常に潔癖な性格だから、婦女子に乱暴などしないけれど、河北にうろつく盗賊どもの中には、不法な者も多い。
「わたくし、こちらの祠の天神を信奉しておりますの。その神様が数日前に夢に現れまして」
「はあ」
女が、足元の小さな石の祠を指さして言う。
「白髭の、白衣の老人なのですけれど、わたくしが遇うべき者が現れるから、河の畔で待てと言うのです。……劉氏の、真天子だと」
女の話に、文叔が目を瞠る。
「わたくし、普段は河の向こうの邸におりますけれど、きっと、この邸にどなたか、劉氏の方がお見えになると思いついて、こちらに参りました。そうしたら」
ふふふ、と女が切れ長の目を細める。その白い瓜実顔が、誰かに似ているとふと思ったが、文叔は思い出せなかった。
「そんな偶然がありましたとは」
「偶然ではございますまい」
「は?」
女が、黒い切れ長の瞳で、まっすぐに文叔を見つめる。
「あなたも先ほど仰った。天の、導きだと」
文叔はどうしたものか、返答に迷う。このちょっとばかり狐っぽい雰囲気の女の、言わんとすることがわからない。――文叔は昔から女にはモテたが、女好きではない。ただ、どんな女にも表面的な嬉しがらせを言って、そこそこ上手くあしらってきた。しかし、この目の前の女は、ちょっと勝手が違った。
「はあ……。ですが、助かりました。天の導きではありますが、つまりはあなたのおかげで、友人も命拾いをしました。あのまま寒い場所にいたら、今頃は死んでいたかもしれません。大変、感謝します。何か――」
文叔は顔をあげ、女を見た。
「某にできる恩返しがありましたら――」
「恩返しをしてくださるというなら、わたくしと結婚してくださらないかしら」
「ぶはっ!」
あまりの直球に、思わず噴いてしまった。
「ご冗談を!」
文叔は女の白い顔をまじまじと見る。絶世の美女とも思わないが、化粧も身のこなしも洗練され、十分、美しい部類に入るだろう。名家の令嬢にしては、嫁ぎ遅れの年齢に差し掛かっているようだが、焦るほどのことだろうか? この邸だけで、かなりの財産だ。この女の婿になりたいという男など、山ほどいるに違いない。食い詰めた賞金首の男に、結婚を迫る必要はあるまい。
だが女は真剣な表情で、文叔を見つめる。
「いいえ、本気です。わたくし、運命の人を待っておりますの。夢の中の天神は仰った。あなたはわたくしが遇うべき者だと。あなたこそわたくしの運命の人なのでしょう?」
女の返答に、文叔が慌てて顔の前て手を振る。
「いや、某はすでに妻帯しておりますので」
「え?!」
女が驚愕したように、切れ長の目を瞠る。その様子に、文叔は内心、呆れる。……本気で、文叔が運命の相手と信じ込んで、結婚するつもりだったのか?
「故郷の南陽に妻がおりまして、身籠っているので河北には伴いませんでした。来月には子も生まれる予定です。その――結婚は、ちょっと無理ですね」
だが、女は信じられないという表情で、なおも言う。
「でも、あなたは劉氏で、讖文に天命を受けた方なのでしょう?」
文叔は女の言葉を聞いて、合点する。
「ああ、あの讖文!」
思わず顔を歪め、皮肉っぽく笑ってしまう。
「偶然ですよ。劉秀なんて名前、別に珍しくもありませんしね」
「でも、昆陽で百万の兵を破ったとも――」
「まあ、それは、運がよかったというかですね――」
文叔は困ったなと思う。何しろ、昆陽の後はずっと、ついてない。天命が自分にあるなんて、到底信じられないくらいの、不運の連続だ。生き残るだけで精一杯。文叔はいつもの得意な、蕩けるような笑みを浮かべ、女には詫びた。
「申し訳ない、ご恩返しはしたいのはやまやまですが、ご要望には添えそうもない。……あなたの運命の方は、他にいらっしゃると思いますよ? とにかく、大変お世話になりました。こちらに追手がかかれば、さらにご厄介をかけることになる。その前に、我々は退散いたします」
頃合いだと思い、文叔は丁寧に頭を下げると、踵を返した。元来た道を戻るその背中に、いつまでも女の視線を感じていた。
文叔一行は再び出発する。
目指す信都郡は饒陽から呼沱河を挟んだまっすぐ南。河を渡るためにかなり西に向かっていたから、南東に向かえばいいはずだった。周辺の郡県は、軒並み邯鄲の天子を奉じ、ただ、信都のみが、洛陽の劉聖公への忠誠を表明しているという。つまりは敵陣の中に取り残された飛び地に、包囲をかいくぐって向かうのに等しい。
しかも、昨夜の吹雪で河北の畑は一面の雪野原に変じて、見渡す限りの銀世界。さっぱり道がわからない。ただでさえ土地勘のない未知の場所。起伏に飛んだ河南の地形と異なり、河北の太行山脈から東側一帯は、だだっ広い平原がどこまでも続く。地形の変化と太陽の位置から方角を割り出すことができず、文叔ら一行は目印のない平野に戸惑い、たびたび道を失った。
目的地の信都より南に行き過ぎてしまい、南宮という場所でひどい風雨に遭う。寒さが緩んだ故の雨なのだろうが、むしろ吹雪よりも辛い。ぬかるみに馬車の車輪が嵌って、動かなくなってしまう。
藁傘の縁から雨の雫を滴らせながら、篠突く氷雨の中、文叔も兵士に混じって車を押し、びしょ濡れになって路傍の空き家に逃げ込む。
調達できたのは、この当時だと救荒作物でしかない、麦や豆。それで粥を炊いて啜る。
火が焚けて、隙間風が入っても屋根があって、そして食べるものがあるだけで、どれだけマシか。
麦粥を調達してくれた馮公孫や配下たちに、殊更に笑顔で礼を言い、皆で僅かな食事を分け合う。上に立つ文叔が少しでも弱音を吐いたら、少しでも不満を零せば、ギリギリのところで堪えている、文叔の軍団は崩壊してしまう。
どれほど辛くても、笑顔で。
どれほど寒くても、やせ我慢して。
どれほど貧しい食事でも、美味そうに。
塩味すらしない麦粥を口に運びながら、かつての、陰麗華との日々を思い出す。
洛陽の舎なら、陰麗華がいつも暖かい黍や粟の飯を炊いてくれた。おかずは洛水の川魚か、邙山の鹿肉。陰麗華の自家製の醤は、舂陵の劉家のものより薄味で、文叔の舌に合った。干し肉はいつも、陰麗華が手ずから食べやすく裂いてくれ、時には魚の骨まで外してくれた。懸命に世話を焼こうとしてくれる陰麗華に甘え、そして、文叔もまた、できうる限り彼女を甘やかした。毎夜、褥の上で彼女を抱き締め、愛を囁いて――。
逢いたい。死ぬ前にもう一度でいいから。逢って告げたい。
誰よりも愛している。ただ、君一人だけ――。
湯気に隠れて掻きこんだ麦粥には、微かに涙の味がした。
数日後の夕暮れ、邯鄲の自称・劉子輿に呼応し、文叔を賞金首と狙う集団に追い回され、完全に道に迷ってしまった。太陽は西の山の彼方に姿を隠し、東からは藍色の夜が忍び寄ってくる。空腹と疲労で、皆な限界に近い。――他ならぬ文叔自身、もう心が折れかかっていた。何もかも投げ出したい。捕まってとっとと殺されて、この無意味なゲームを終わらせたい。そんな気分になっていた時。
薄暮の中、路傍の柳の木の横に、何か白いものが立っている。
(大理石の石像か何か――?)
文叔が馬車の垂れ幕を上げ、顔を突き出して見る。ガラガラと車輪を軋ませながら馬車が近づいていくと、それは白く長い髭を風に靡かせ、真っ白な衣をまとった老人であった。宵闇の中、ぼうっとけぶるように立つ白い老人の姿に、文叔は背筋がゾクリとする。
コブのあるくねった樹の杖を手にした老人と、文叔の目が合う。老人が二股に分かれた道の、一方を杖で指す。
「あと少しだ、頑張れ。信都に行けば、天道に至る。――ここから八十里(一里=約四百m、約32km)」
文叔は大きく目を見開き、じっと老人を見つめる。他の者たちは誰も、老人に目を留めない。……もしや、見えないのか――? 老人と文叔は見つめ合いながら、すれ違う。あの人、どこかで――。
「分かれ道です! どちらに?!」
文叔はハッとして、老人が杖で指した方を指差し、叫んだ。
「こっち! こっちだ!」
一行が方向を転じて、文叔が再び路傍を振り向いた時には、そこには忽として誰もおらず、ただ、柳の木立があるだけだった。
文叔は思い出す。
「あの人――饒陽の伝舎の門番だ……」
そのまま、夜の中を数十里走った時、後方から兵が叫ぶ。
「追手が来ました! さっき、まいた奴らです!」
「頑張れ、後少しだ!信都はすぐそこだ!」
文叔が馬車から顔を出し、叫ぶ。――ただし、さっきの爺さんが夢じゃないならだけど。
追い縋る敵を躱しながら全速力で走り続ける。今度は先頭の騎士が叫ぶ。
「前から、騎馬の一隊が――」
「敵か?」
「わからん?」
敵なら、万事休す――。
後ろの一隊に追いつかれそうになった時、風のように現れた騎馬隊が文叔らの一隊を囲み、矢が背後の敵に雨あられと降り注ぐ。
「間に合ったっすよー! 劉将軍! 何しろ俺様は、『塩を守った男』っすからね!」
夜の戦場に不似合いな、蓮っ葉で陽気な声が響く。
凄まじい勢いで駆け抜けた騎馬の先頭に立つのは、薊の南で別れた賈君文。統制の取れた動きで瞬く間に敵を撃退し、文叔らを守って信都郡に向かう。
「先に信都に着いて、待ってたっすよ! 何となく胸騒ぎがして迎えに来たっすよ。さすが俺様! 信都太守の任伯卿殿が、首を長ーくして待ってますよ!」
夜明け近く、ようやく辿りついた信都の城壁の周囲には篝火が焚かれ、門は開いて郡太守自ら文叔を迎えようと待っていた。
――文叔一行の地獄の逃避行は、ようやく、最悪の状況を脱したのだ。




