決闘
《劉秀、当に天子と為るべし》の預言に、一同が噴き出した中、当の劉秀――文叔――だけが一人、不愉快そうに顔を歪め、偉卿を睨んでいる。
「え、それは――どちらの劉秀さんが有力候補なの?」
劉君元が困ったように眉尻を下げて問えば、偉卿が続ける。
「……誰かが、《国師公劉秀か》って聞いたんだ。現状、おそらくもっとも有名で、政権の中心にいる《劉秀》だからな。そしたら俺の横でボソっと――」
「うるさいなあ、つい、口が滑っただけだよ!」
「文叔、あんた、何を言ったの!」
姉の問いかけに、文叔が気まずそうに肩を竦める。
「……何で僕じゃないってわかるの?って……その――ちょっとした諧謔のつもりで……」
次の瞬間、劉君元と劉伯姫が派手に噴き出し、陰麗華も笑いをこらえきれずに両手で口元を押さえた。
「そしたら意外と声が響いちゃってさ。中には、劉家の三男坊が劉秀だっての、気づいた人もいて、もう大爆笑。ドッカンドッカン受けまくっちゃって……まあ、滑るよりはマシだったけど、こういうウケかたもねぇ……」
鄧偉卿もまた笑いが込み上げてきたのか、肩を揺すってずっと笑っている。
「まあ、ウケたし、お前が劉秀なのは間違いないわけだし……まあ、所詮、図讖なんてそんなもの、大方、国師公の周囲にいる者が、一発逆転を夢見てでっちあげて流布させたんだろうし」
「でもその後、兄貴にすっげぇ叱られてさあ。あんなこと言って、天下でも取るつもりか、って、ガチ切れされちゃったよ。んなわけないでしょって。ちょっと言ってみただけなのに」
鄧偉卿も劉文叔も、図讖など取るに足りないと思っているが、伯升は信じているのか、おちょくった文叔を本気で叱りつけた。
「伯升は自分が高祖様みたいになりたいって思ってる男だから、気に入らなかったのよ。……災難だったわね、文叔」
「んー。まあ、僕もちょっと調子に乗ったところはあるし……」
姉に慰められて、文叔が肩を竦め、茶碗に残るほぼ出がらしになった荼を呷った。
「いっそ、天下取り目指してみるか?……ああいう流言が広まるってことは、どうも王氏の天下も長くないようだぞ?」
「勘弁してよ!」
文叔が慌てたように言い、漆塗りの椀を案に戻す。
「皇帝なんてなりたくないよ。変な格好してたし」
「見たことあるのか?」
「長安で、明堂に儀礼に来た行列を遠目に見たよ。太学生は全員、見に行かないと叱られるし」
壮麗な行列に守られた、馬車に乗る奇妙な冠を被った老人。――文叔の見た、皇帝のイメージはこんなところだ。
「冠が重そうだし、じゃらじゃら簾みたいなの顔の前に垂らして、ものすごく邪魔そうだったよ。あんなのは被りたくないなあ……あ、ハゲ隠しの幘もちゃんと確認したよ!」
「お前は全部、見かけで決める。……なんだっけ?仕官するなら執金吾、だっけか?」
「あの制服が一番、格好よかった。他は何だかねー」
ついでに言えば、執金吾は始建国元年(西暦九年)に「奮武」と名を改められているが、漢の官名に慣れ親しんだ身には、新しい官名はどうしても覚えられない。
「あれのついでに、《妻を娶らば陰麗華》って言ったんだろう?」
陰麗華がぎょっとして顔を上げる。その表情を見て、文叔が慌てて手を振った。
「いやあれはさ、その……太学の中の槐市の酒肆で友人たちと飲んでいて……僕が酔っぱらって言ったらしいんだけど、何しろ全く憶えていなくって……周囲からはよく揶揄われたから、言ったは言ったに違いないんだろうけど。おかげで陰麗華の求婚者が激増して、めちゃくちゃ競争率上がっちゃったし、何にもいいことなかった」
恥ずかしくて俯く陰麗華の膝を、劉伯姫がとん、とつっついた。
「ごめんね、ほんと、口の軽いチャラい兄で」
「口が軽いは認めるが、チャラくはないよ、チャラくは! つい、面白いこと言おうとしちゃうだけで!」
「それがチャラいってことでしょうが!」
妹に揶揄われ、姉に窘められて、文叔が頭を掻く。陰麗華は真っ赤になって両手で頬を覆って俯いた。
それから一月ほどして、陰麗華は母に呼び出しを受け、劉文叔の申し出を受けた、と伝えられた。
「ほんとうに? お母さま!」
陰麗華が目を瞠る。母の鄧夫人は少しばかり眉を顰め首を傾げる。
「わたくしはね、あまり気に入らないのだけど、お前はあの人以外に嫁ぐつもりはないのでしょう。お互い相愛なのを、親が邪魔をするのもよくはないし、あちらも邪な理由ではないようだから、これが潮時かと、許すことにしたわ」
「ありがとう、お母様!」
陰麗華が微笑み、背後に控える曄を振り返ると、曄もニッコリ笑って頷いている。
「ちょっとベタベタ触り過ぎらしいのが気になるけれど、あちらも士大夫である以上、婚礼までは節度を守るでしょう。婚礼は来年の春意向の予定だけど……いいこと? どんな甘い言葉を囁かれようとも、純潔は守ること。いいわね?」
「純潔……?」
陰麗華がこてんと首を傾げるのを見て、鄧夫人は眉間に深い皺を刻む。
「増秩……わたくしは、どうやら下の弟たちにかまけて、娘を放ったらかしにしすぎたようね」
「それは……でも、妙に耳年増だったりするよりは、ようございますよ。何分、あちらも年上ですし……」
鄧夫人の脇に控えていた増秩が、生成りの麻の頭巾で包んだ頭を振る。
「でも、何も知らないことにつけこまれても困るわ。麗華、結婚を許可したからと言って、二人きりで会ってはだめよ?ふしだらな女だなんて評判が立ったら、陰家の恥になるわ。曄も監視を厳しくすること」
「わかりました、奥様」
曄が深く頷き、陰麗華は母に言われた守るべき「純潔」の意味が理解できないながらも、でも文叔との結婚の許可が出たことで、歓びに胸をときめかせたのであった。
母が結婚の許可を出した数日後、劉文叔からの書簡が陰麗華のもとに届いた。いままでは書簡のやりとりも許されていなかったので、陰麗華は本当に結婚が許されたのだと実感する。
《九月の半ばに宛に穀物を売りに行く、そのついでに鄧家に一泊する。出来れば逢いたい》
稽古のおりに劉君元に確認すれば、数日後に泊まる予定だと聞かされ、陰麗華はそれまでとはまた違うドキドキする気持ちで、その日を待った。
――その日、いつもより念入りに髪を梳かし、晴れ着とまではいかないものの、お気に入りの白地に赤い襟のついた曲裾深衣を着て、赤と黄色の縞柄の帯を結び、金桂の花を布に包んで懐に入れた。ほんのり漂う香りになんとなく心も浮き立つようで、陰麗華は鄧家へと出かけた。門番に声をかけるが返事がなく、奥からは金属がかち合うような鋭い音が響いていた。
「何の音?」
陰麗華が呟き、曄も眉を顰める。
「これは……剣を打ち合わせる音ではありませんか?」
「剣?」
誰かが剣術の稽古をしているのだろうか。でも、真剣で稽古するなんて、危険なことは普通しない。何とも不吉な気がして、無人の門から中をのぞく。
奥から走ってきた門番の息子が、陰麗華を見て叫んだ。
「大変です! 鄧少君坊ちゃんが、劉家の若様と決闘してるんです!……早く止めないと! 今、奥様を呼びに行ったんだけど……」
「決闘?!……少君と、文叔さまが?」
陰麗華が驚きのあまり立ち尽くす。何だってそんなことに!
「お嬢様! 行きましょう、止めないと!」
曄に肩をゆすぶられて、陰麗華はようやくはっと我に返り、頷いて走り出した。
剣撃の音は中門の内側にある最初の中庭から聞こえてきた。ここが、鄧少君や鄧汎が剣の鍛錬をする場所だと、陰麗華は知っている。
キン! キン! と甲高い金属音が響き、周囲の僮僕たちのおろおろした声、そして、ヒュッ、ヒュンと空気を切り裂く音が聞こえてきた。滅多に走ることのない、陰麗華が必死に足を運び、息を切らせてやっと中門をくぐる。そこで目にした光景は――。
まず門に背を向けて、長柄の戟を構えて立ち塞がる鄧少君と、その向かい側で、剣を手に片膝をつき、息を荒げている劉文叔。身長も腕の長さも、すべてが鄧少君が勝っている。少君は学問がキライで、剣や槍、戟といった武芸をひたすら磨いてきたのだ。文叔も士大夫の習いで剣術は学んでいるだろうが、所詮は書生である。しかし、圧倒的に不利な情勢でも、文叔はギラギラした黒い目で鄧少君を睨みつけ、額から顎から汗を滴らせながら、怯む様子は見せなかった。
鄧少君がブンっと戟を反転させ、戟の刃のすぐ下に結びつけられた赤い裂が焔のように揺らめき、真上から凄まじい勢いで振り下ろされる。キン!と文叔が剣で弾き返し、青白い火花が散る。鄧少君はそれを読んでいたのか、弾かれた戟を素早く横倒しにすると、ブワンッと一気に水平に薙ぎ払う。文叔が横にゴロンと転がって躱す、その真上から戟が振り下ろされ、もう一度元の方向に転がって躱されて、ガリッと戟が硬く踏みしめられた土の地面を抉る。戟が地面にめり込んだ隙に文叔は立ち上がり、一歩踏み込んで鄧少君の喉笛を狙う。鋭い突きを鄧少君が間一髪、大きな身体を逸らして避ける。バランスを崩した足元を、今度は文叔の剣が横に薙いだ。少君が両脚で飛び越えて躱す。その時、身体を低くした文叔と、中門にいた陰麗華の目が合う。
「!!」
一瞬、陰麗華に気を取られて集中を欠いた文叔を、すぐに体勢を立て直した少君が戟を振り上げ、襲う。戟の刃をギリギリで文叔が避けたが、しかしそこで足元がふらついたところを、くるりと反転した戟の柄が飛んできて、文叔の横っ面を強打した。鮮血を飛び散らせて背中から地面に叩きつけられる文叔の姿に、陰麗華が耐えきれずに悲鳴を上げた。
「き、きゃああああ!」
背後の悲鳴に、少君が驚いて振り向く。だが陰麗華の目は無様に倒れた文叔だけを見ていて、中庭を横切って少君の脇を通り過ぎ、倒れている文叔の脇に膝をついて、縋りつく。
「文叔さま!」
「ぐ……れい、か……?」
文叔の顔の半分が鼻血で赤く染まっているのを見て、陰麗華は慌てて、腰に下げている巾を外し、鼻を押さえる。
「麗華、どけ! まだ勝負はついてない!」
鄧少君の声に麗華が膝をついたまま振り向く。
「いったい何をしてるの! どうしてこんな!」
「決闘だ! 俺より弱い奴に麗華を嫁がせられん!」
少君の返答に陰麗華が絶句する。
「何それ! いったい何のこと……」
「陰麗華との結婚の許しが出たって! でも俺は認めねぇからな!」
戟を振り回してなおも文叔に挑もうとする鄧少君に、陰麗華は呆れ、そして猛烈な怒りを感じた。
「何でそんな勝手な! なんであなたが決めるのよ! 関係ないじゃない!」
「関係なくなんかねぇ! ……俺も、俺もお前がっ……」
睨み合う二人に割り込むように、巾で鼻を押さえた文叔が起き上がる。
「大丈夫だ、麗華……勝負を挑まれて、逃げたら男が廃るだろ……」
巾を腰にたばさみ、まだ鼻血が止まらないまま文叔が剣を構える。
「わかってる。まだ終わってない。……麗華、下がって、危ないから」
「文叔さま、無茶はやめて!」
「無茶でもなんでも、僕にも少君にも意地がある」
麗華の縋る腕を振り払い、文叔は麗華を下がらせると間合いを取るように、剣を構えたまま半円を描きながら動いていく。戟を構えた少君もそれに呼応してじりじりと動く。文叔が陰麗華をちらりと見て言う。
「下がって!そこだとまだ、少君の戟が届く可能性がある!」
「文叔さま、少君、いい加減にして! わたしは賞品じゃないわ!」
「そんなのはわかってる!これは単なる男の意地だ!口を出すな!」
ぴしゃりと退けられて、陰麗華はただ両手を口に当てて黙るしかない。曄が陰麗華の腕を引き、後に下がらせる。
鄧少君がヒュンと空気を切り裂いて戟の柄を回し、文叔がじりじりと間合いを詰める。ブンッと軽く振り下ろされた戟を文叔がカキンと跳ね上げ、そのまま一気に大股で踏み込み、至近距離から肩口を剣で狙う。少君は大柄な体に見合わぬ素早さでそれを避け、ひらりと身体を反転させ、その勢いをも利用して跳ね上げられた戟をブーンと振り回して水平に文叔を狙う。文叔が姿勢を低くして真横に薙がれた戟を避けるが、髻を結う巾の、垂らした布の一部が戟の刃にかかって切断される。文叔はその膝を屈めた体勢から、下から一気に突き上げるよう飛び込んで、少君の首の位置を横に薙ぐ。
ガキン!
凄まじい火花と音がして、文叔の剣を少君の戟が防ぐ。ガリガリと力で押し合うが、もともと腕力で勝る少君に、やせ型の文叔が叶うわけがない。徐々に押されたと思った時。文叔が足元でわざと砂を蹴り上げ、大量の砂を少君に浴びせかける。
「うえっぷ!」
目と口に砂が入って少君が怯む隙に、文叔が一度後ろに飛び退って体勢を整え、上から剣を振り下ろす――。
だが次の瞬間。
ザッパーンと二人をめがけて大量の水が降ってきて、劉君元の声が中庭に響いた。
「それまで! 二人とも、何だって言うの!」
巨大な木の桶をもった劉君元は、臨月近い大きな腹を抱えて仁王立ちしており、その迫力に少君も文叔も思わず動きを止める。
「叔母さん……」
「姉さん……」
劉君元が桶を投げ捨てると、二人を睨みつける。
「本物の武器を持ち出して、いったい何のつもり?」
「いや、これは……」
「決闘だ!」
言い淀む文叔に対し、少君がやけくそになって叫ぶ。
「決闘ですって? いったい何のために!」
「この卑怯者に陰麗華は渡せねぇ!勝った方が陰麗華と結婚する!」
「勝手に決めないで!」
陰麗華が金切り声で叫ぶ。
「陰家は文叔との結婚にようやく許しを出したのよ。今さら何言っているの!」
「いや、姉さん、違うよ、これはその……練習というか……剣のお試し! 僕の買った剣の使い勝手を試すために、僕が少君に頼んだだけだから……」
「嘘ばっかり!」
文叔が少君を見て、話を合わせろ、と小声で言う。
「ね、だからさ……姉さんも出産を控えてもっと心穏やかに……」
「なるか!」
烈火のごとく怒り狂っている劉君元を宥めようと、劉文叔が笑おうとするが、何しろまだ鼻血も止まっていないのだから、説得力が全くない。
「どういう理由であれ、わたしの家の中で人切り包丁を振り回さないで頂戴!今度やったら没収して、鋳潰して農具にするわよ!」
「この剣、買ったばっかりだし、高かったんだよ、やめて!」
文叔が垂れてくる鼻血を拭いながら姉に懇願する。劉君元は不貞腐れて立っている鄧少君のことも睨みつけてから、陰麗華に向かって言った。
「悪いけど、お腹が張ってきたから、奥で休むわ。……文叔の手当、お願いできるかしら」
「は、はい!……もちろん」
大儀そうに大きなお腹を抱えて奥へと戻っていく劉君元を見送り、陰麗華が言った。
「……文叔さま、手当しましょう。ひどいお顔です」
「あっちゃー。僕の唯一の美点が……」
「あーもう! いちいちムカツク男だなっ!」
鄧少君が腹立ちまぎれに戟を回廊の脇にある武器架けに投げ込み――みごとに命中して戟は収まった――、ぷいと顔を背けて一人で出て行った。
井戸の水を汲んでもらい、陰麗華は曄に手伝ってもらって文叔の顔を綺麗に拭い、擦り傷に薬を塗り込んだ。傷に沁みるのか文叔が端麗な顔を顰める。
借りた薬箱を曄が返しに行き、二人だけになって、文叔が言った。
「ごめん……ちゃんと勝てなかった」
「そんなのはいいんです。でも真剣でなんて、もうやめてください」
「よくはないよ。これから先、少君に一生、言われそうだ。俺の方が強いって」
「少君はあれしか取り柄がないんだし、身体も大きいんだから、しょうがないです」
「でも悔しいなあ……」
竹筒に汲まれた水をがぶ飲みして、劉文叔が舌打ちする。
それからふいに、劉文叔が言った。
「ああ……ちょっと待ってて……これ、渡そうと思ってたんだ」
文叔は回廊の柱の影に置いておいた、鞍袋を持ってやってきた。階に座る陰麗華の隣に腰を下ろし、中から銀杏の葉のような形をした、金細工の飾りのついた釵を取り出す。蓮の花が精緻に透かし彫りにされ、白玉が華の中央に埋め込まれた、繊細な造りのものだ。
「これ……この前、宛に行ったときに見つけて……君に似合いそうだと思ったから。……その、結婚が決まった印に……」
陰麗華が目を瞠る中、文叔はその金釵を陰麗華の結った後頭部にそっと挿した。
「文叔さま……その……あ、ありがとうございます」
陰麗華が頬を染めて礼を言うと、文叔がほっとしたように微笑む。
「……わたせて、よかった。……すごく、よく似合っている」
「そ、そうですか……」
真っ赤になって俯く陰麗華の頬を劉文叔がするりと撫で、そっと唇で触れるだけの接吻を落とした。




