十六
意外に浅いものだなと思った。
さっき流木か死体だか分からないものを追いかけたときには、もう少し手前の位置で腰まであった水かさが、今もう直ぐ渡りきろうとしているのに膝までしかない。
「楽勝だね」
気持ちも軽くなり口に出した。
キンモクセイの甘い香りも、霧が晴れているのも気持ちがいい。
あの死体だか木だか分からない物は、もう向こう岸に辿り着いたのだろうか?
気になって流れる方向に少し歩くと、浅くなった瀬に引っかかっていた。
近づいてみると死体ではなくて、ただの流木だった。
「あーあ。これじゃあ行くことも帰ることも出来ないじゃない」
よっこいしょと、流木を起こして直ぐ傍にある岸まで引っ張って行こうとしたときに気が付いた。
随分前にこの流木が死んでいることを。
だったら、私と話していたのは誰?
心の問いに誰も答えなかった。
死んだ流木から手を放したとき、木はクルリと向きを変え、伸びた枝先に絡みつきている小さな赤い薔薇が目についた。
あの手に持って打たように見えた赤いものは、この薔薇だったことに気が付く。
「私にお話ししてくれていたのは、あなたなの?」
だけど薔薇ははツルが切れて弱っているのか、私の問いかけには答えない。ツルのあちこちが傷だらけだ。
このまま一緒に連れて行ってもいいけれど、このバラの花はまだ小さくて若い。もちろん私だって若いけれど、このバラに比べれば屹度随分生きている。
私は流木からバラを外すと、川を逆方向に歩き出した。不思議なことに逆向きに歩くと霧が濃いばかりではなく、流れも強く、それに水かさも高く胸まで浸かる。
何度も溺れそうになりながら、気を失いかけながらやっと前にいた場所まで戻ることが出来た。
もうクタクタだったが河原にこのバラを置いても仕方がないので河原から抜け出す。
右も左も分からないけれど濃い霧が方向を教えてくれる。
より困難な道、霧で前の見えない方向に進めば石だらけの河原から抜け出せる。
葦の林がガサガサと不気味な声を上げるので、その林の中に入って行く。
折れた葦の茎で足が傷だらけになり痛い。
だけど我慢して歩き続ける。
漸く葦の林を向けると、今度は斜面の急な滑りやすい土手があり、それを上るために何度も転んだ。転ぶときにバラを傷つけないように胸に抱いていたものだから、あっちこっち傷だらけで痣だらけで体が痛い。
それでも、何度失敗して転んで土手の下まで落ちても、登り続けた。
そして土手の上に登った時には、足や手の骨も折れている気がした。
「痛っ」
土を掘ろうとしたときに指の爪が剝がれていることに気が付いたが構わずに掘った。だって、もう私には時間がないのだから。
バラの根を土に植えた途端倒れこんだ。
傷だらけで泥だらけの体。
もう、身動きできない。
私の意識が遠のいて行く。
そして暗闇のなかに落ちて行った。