十五
その瞬間、私の足は彼を追いかけた。
ざぶざぶと水の中を足早に。
話をしている間、ずっと彼のことが嫌いだった。
汚いと思っていた。
自分より劣っていると思っていた。
それなのに、今は出来る事なら捕まえて連れ戻したい。
傍にいて欲しい。
ずっと話をしていたいし、愛してもらいたい。
名前も聞いていなかったので、何と言って叫べばいいのか分からないまま無言で追いかけた。
水が腰のあたりまで来たところで、私は立ち止まって叫んだ。思いの丈を正直に、後悔のないように叫んだ。
「逝くな!戻って来い。馬鹿野郎!」
霧の彼方、消えそうになっている彼の赤い花が揺れる。
何も言えなくなった彼が最後に振り絞って出した別れの合図。
私もそれに合わせて手を振る。
「また会おうね!」
それっきり彼は白い闇の中、向こう岸へと消えていった。
彼は無事、向こう岸へ辿り着いただろうか?直ぐにでも追いかけたいけれど、水の流れが私を阻む。
屹度彼は上流で、今の私と同じ気持ちにさせられた『或る事』のために、それを追い。流され。そして、今やっと追いかけていたものに届いたのだろう。
私は腰までつかった川に突立ったまま身動きしないでいる。
これ以上水かさが増せば流れに抗うことが出来なくなり流されるだろう。そして水が引けば、自力で向こう岸に歩いて渡る。
しかし、いつまでたっても水かさは増えることも引くこともなく、私は仕方なく前に居た所まで引き返した。
蝉が鳴き、蜻蛉が川面を渡り、どこかで鈴虫の声が聞こえてくる長く永い一日。
相変わらず霧は濃く、川は流れ続けている。
彼は無事に向こう岸に辿り着いたのだろうか。分かれて先立ったものに合えたのだろうか。もし、私が向こう岸に着いた時に、ちゃんとした姿でもう一度会えたならどんなにか嬉しいだろう。
聞きなれた感じの電子音がピピピと言う音がした気がした。
「目覚まし時計かしら」
なぜか後ろを振り向く。
相変わらず霧が濃いなと思って、首を前に戻すと目の前の霧が、すうーっと薄くなってゆく。そして向こう岸まで見えるころになると、意外に近かったことに驚いた。
向こう岸からこっちのほうへ小さな風が吹いて髪をなびかせる。風と共に大好きなキンモクセイの甘い香りが運ばれた。
「ああ。良い香り」
大きく背伸びをして深呼吸をした。
ピーと言う電子音が鳴り続いている。
それを合図に水の引いた川を渡る。
後ろから名前を呼ばれた気がしたが、振り返っても後ろ側の景色は霧が濃くてなにも見えない。
「空耳かしら」
私は河原を向こう岸へと歩き出した。