十二
「ひっ!」
人の気配に、慄いて耳に上げていた手を口に当てて音のした方向を凝視する。
どんなに小さな変化も見逃すまいと、目は瞬きもせず。どんなに小さな音もきちんと聞き取れるように耳障りな鼻呼吸から口呼吸に替える。それも最低限の酸素しか取り込まないような静かな呼吸。どんなに急な動きにも直ぐに対応できるように、心臓の鼓動だけはミドルレンジ。
確かに誰かがそこにいる。
だけど相手は、それ以降物音も立てずに葦の林に身をひそめたまま。まるで、それ以上のことを要求するような脅迫じみたものがそこにあった。
「誰?誰なの……」
相変わらず何の返事もなく、何の動きもない。
これ以上の緊張に耐えかねた私は、私の人生最大の命令をもって対応する。
「出て来なさい!この、意気地なし!」
言い終わるか終わらないかのタイミングで、再び葦の林が音を立てた。それは私には轟音のように聞こえ、人生最大の命令調を言い終われたか言い終われなかったのか自分でも分からないほどの狼狽振りで葦の林から離れて走った。
そう、人生最大の命令調から人生最大の逃げ足に乗り換えて。
パシャパシャパシャ。
水を踏む音と、足の濡れる感覚に気が付いて立ち止まると、いつの間にか足首くらいまで浸かる浅瀬まで来ていた。
どれだけ走ったのだろう。沢山走ったような気もするけど、ほんの少しだったような気もする。
とにかく、こう霧が深くては自分が何処をどう走ってきたのかなんて分かりはしない。それに今にして思えば、自分が本当に走って来たのかさえ定かではない。
だって、長くても短くても必死になって走ったにしては、それほど息も切れていないし心臓もドクドクと脅迫めいた音を打ち鳴らしていない。もちろん汗も。
でも、習慣なのだろうか手が勝手に汗を拭う真似をしている。
浅瀬に来てみると、さっきより少しだけ霧が薄くなっていることに気が付いた。だいたい五メートルくらい先まで見え、丁度そこには人間くらいの大きさの黒いものが横たわっているのが見えた。