19 白昼に消えゆく星
これ以上変化を与えても仕方がない。静かにしてやるか。
杏珠は布団にくるまって、スマホをいじっている。へっ、寝るのが怖いんだな。
「ふあっ……」
俺も眠くなってきたな。寝るか。
俺は夢を見た。それも常人が見るようなものじゃない。人間のいない世界が、虹色になって歪んでいく。
妙に色がはっきりとしていて、起きているかのように錯覚する。
「うぅ……」
目が覚めても、目の前が歪んでいる。ひどい頭痛付きだ。吐き気もする。
「大丈夫か。薬があるぞ」
「くれ……」
草のにおいを嗅ぐ。けむい。改善するどころか吐き気が悪化した。
「ぐぅ……」
「気分が悪そうだな。ほら、経口補水液だ」
ペットボトルを受け取って飲む。
うまい。
三十分座っていたら少しは楽になった。
最近ロクに運動もしてないし、同じ景色ばっかり見てるからな。今日は杏珠の部屋に行くのやめるか……?
「うわぁぁ!」
ふと自分の腕に目が行った時。上に十センチはあるクモが乗っていた。
慌てて払うと、落ちて部屋の隅に隠れた。
「どうした」
「虫が! 虫がいたんだよ!」
「そんなもの見てないのだが」
「お前が見てなかっただけだろ」
今日は外で過ごす。デッドオーバーを連れずに、普通の人間として。
通り過ぎる人は俺を見てない。でもなぜか視線を感じる。横目で見てるんじゃないのか。
俺は連日透明になってばかりで、人前に出ていなかった。引きこもりが突然出てきたと、奇異の目で見ているんじゃないか。
人の声が耳に入ってくる。
『あの人最近何してるの?』
『なんか、におわない?』
そんな言葉に聞こえてくる。
厳密にははっきりと聞こえないが、脳が勝手にそう捉える。
俺に関係する話をしている。そんなはずはない。たまたまだろう。
しばらく歩くと、悪寒がしてきた。建物の陰に隠れて、ポケットに入れたライターで草を炙る。
一時間に一回は吸わないと落ち着かなくなってきたな。
杏珠がキャバクラに勤務する時間になったら、様子を見に行く。
杏珠は女たちに無視はされているが、悪口が出るわけでもない。構っていても仕方がないと、見放されたんだろう。
この調子で職場にいづらくしてやれば、いつかは仕事を辞める。
そうなれば男に頼るしかなくなり、後ろ盾がなくなった杏珠は好き勝手されるだけになる。
『フフッ』
『最低』
『馬鹿なの?』
なんだ、この声は。
『帰れ!』
『お前の思い通りにはならない』
『使い捨てられる運命なんだよ!』
「うるさい!」
俺は今透明化していて、この声は誰にも聞こえない。しかし、女の声はそれっきりで止まった。
「どうした?」
声の主はどいつだ? あの女か? それとも……。
「聞こえたのか?」
「ああ。俺を悪く言う声が」
どの女だろうがいい。俺はお前ら全員に、思い通りにイタズラができるんだ。悪く言おうとも、俺には効かない。
ワインのビンをテーブルに置いて、すっかり男と話し込んでいる。二人の目を盗んで、ビンを落とす。
「キャー!」
赤いワインが女の足にかかって、血にまみれたようになった。
「ちょっと何!? 地震?」
近くには誰もいないから見回しても意味がない。お前たちに迫っているのは、実体のない魔の手だ。
杏珠のテーブルの上にあるビンには、刀を振る。
「いっ……!」
割れて飛び散った破片が杏珠と客の顔を切った。
「いってぇ……。なんだこの店は! 責任者を呼べ!」
客の怒号で店長が出てきた。
「申し訳ございません。治療費を払いますので……」
店長が責任を追及されている間に、女従業員が杏珠を連れて裏に行った。
俺は女共の行く末を見る。
「あんたのせいでしょ?」
「どういうこと? 私だってケガしてるんだよ。自分でそんなことすると思う?」
「またしらばっくれるの!? 嫌な女! 二度とわたしに関わるなって言ったよね」
女従業員は杏珠を突き飛ばして表に戻った。
杏珠の顔には怒りの色が見える。はは、屈辱だろう。ありもしない罪を着せられて、何を言っても聞いてもらえない。
表の方を見てみれば、客は一人もいなくなっていた。
店長が杏珠に近寄っていく。
「杏珠ちゃん……どうしちゃったんだ」
「違う……私じゃない!」
「いいよ。今日はもう閉店。片付けないといけないし」
「っ……!」
従業員の全員が追い出される形で店を出た。
店の外で、女たちが杏珠を囲む。
「あのままずっと休んでたらよかったのに」
「なんで出てきたの?」
「そんなにわたしたちが憎いの?」
特に被害を受けた訳でもない女も、便乗して杏珠を言い詰めている。
こいつらは最初から、ライバルである杏珠を蹴落としたかったんだ。
残念だったな。お前に味方はいない。
「ち、違う……」
杏珠の口から、虫の羽音みたいな声が漏れる。
「はぁ? 何か言った?」
聞く耳を持たない女をかき分け、杏珠は走っていった。
追いかけてみると、公園の近くに着いた。
「何なの……!」
喉から絞り出すような声で言いながら、柵を蹴った。
離れた場所に移動すると、電話をかけだす。
「今すぐ私と会って」
相手は恭弥の取り巻きの男だ。杏珠はヤケ食いの後、乱れるように男の体を貪った。
家に帰った杏珠はすぐに眠った。
さて、また暇な時間ができたな。キャバクラがどうなってるか、見に行くとでもするか。
……これは驚いたな。閉店なんてしてないし、いつも通り営業してる。ワインが零れた場所はきれいになってる。掃除が終わったのか。
閉店っていうのは、杏珠を帰すための嘘だったんだな。
優しくしてた店長も、杏珠を稼ぎの道具程度にしか思ってなくて、邪魔になったから追い出したんだ。
意外とえぐいことするよな。
その後は特に変化のない一日だった。寝苦しいことを除いて。
ベッドの上で目を閉じるまではよかったんだ。暗い中で杏珠の苦しむ声。人々の怒りの声が聞こえてくる。
杏珠はむごたらしく殴られ、刺し殺される。その犯人は恭弥で、俺もついでのように殺される映像。同じような映像が何回も頭の中で再生される。
夢であって、現実じゃない。なのに変に心臓がドキドキしてなかなか眠りに就けない。
俺は多量の薬を吸引した。
十分もしない内に眠気が襲ってきて、気が付けば朝になっていた。
部屋中に、ほんのり甘いにおいが漂っている。焦げた草が、灰皿の上に小さな山を作っている。
草を追加したら、いつも通りの生活をする。
杏珠の仕事の時間。準備をする杏珠のもとに、電話が入った。
「あのさ……実はみんなと話し合ったんだけど、杏珠ちゃんがいるとよくないことが起こるんだよね」
「えっ……」
「それでさ、杏珠ちゃんにはもっといい仕事があると思うんだよね」
「ま、待って。そんな――」
「他の子もケガさせたくないしさ、もっと健全な仕事見つけた方がいいよ。それじゃ」
「あっ……!」
通話が切られたようだ。杏珠はスマホを見つめたまま固まった。と思えば震えだした。
「……あいつのせいだ。あいつに会ってからおかしくなったんだ……! 許せない……!」
『あいつ』ね。俺のことだろうけど。もしかしたら別の男かも。ってそんな冗談は置いといて。
俺には無敵の力がある。それに比べてお前はどうだ。非力な女、それもただの女だ。
杏珠は外に出ていく。どこへ行くかと思えば、キャバクラだった。
店内に入るなり、店長に直談判しに行く。
「店長!」
「シッ。話は裏で聞くよ」
店長に腕を掴まれて、バックヤードへ移動する。
「どうしても働かせてもらえないんですか? 急に言われても納得できません!」
「あんまり大きな声出さないでよ。変なことをしようものなら、こっちにも手段があるんだよ」
そう言って店長は、杏珠の口と鼻を手で塞いだ。
「んんっ……!」
壁に追いやられた杏珠は小さく揺れるだけで、何もできずにいる。
顔がどんどん赤くなっていく。
窒息させる前に、店長は手を離した。
「はぁっ、はぁっ……!」
「もう二度と寄らないでくれる? 女の子たちも、君が怖いんだよ」
「っ……」
杏珠は何も言わずに店を出た。




