17 ここにいる
杏珠が出ていかないから、何度も部屋のチャイムを鳴らしている。
「杏珠ちゃん? 杏珠ちゃん!」
男の声が言う。おまけにドアも叩きだした。いい近所迷惑だ。
「どうしたの!? ねぇ、いる?」
杏珠はようやく動きだし、壁伝いに玄関へ向かう。その足取りは重い。
「杏珠ちゃん! あっ」
「……」
「どうしたの? 具合いでも悪いの?」
「……うっ」
住所を知っているこの男は……キャバクラの店長か?
店長の前で、杏珠は泣き出した。
店長に連れられてベッドに移動する。
「……今日は休もうか。何があったか教えてくれる?」
「……分からない」
杏珠は消え入りそうな声で返答した。
あんなことがあって、分からないのか……。教えてやるよ。俺の手によってお前は、地獄の入り口に足を踏み入れたんだよ。
「後で差し入れを持ってくるよ。ゆっくり休んでて」
店長は帰っていった。
それからも杏珠は寝たまま動かなかった。俺は夕食も外で済ます。
女の家に戻る。しばらくすると、杏珠のスマホが鳴る。
昼よりは早めに出た。
「杏珠、今何してる」
「あっ、えっとね……」
「どうでもいいけど。お前家にいるんだろ」
この、人を見下す言い方と声。恭弥だ。
「俺に会いに来い」
「ごめん、今日……」
「あ? 来れないの? じゃあ俺が行くから、住所教えろよ」
「え……」
「俺には教えられないのか? はぁ。あんなに払ってるのに。明日は来いよ」
杏珠の声を遮るように喋って、恭弥は通話を切った。
三十分後には、店長が訪問してきた。
「杏珠ちゃん。差し入れ、持ってきたんだけど。開けてくれる?」
丸一日寝て少しは回復したのか、杏珠は玄関へと歩いていく。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「……」
「その顔、食べてないでしょ」
店長はビニール袋に入れた果物やジュースを部屋に置いて、弁当を温める。
テーブルに着かせた杏珠の前に、温まった弁当を置いた。
「食欲ない? でも食べて元気つけないと。お腹空いた方がつらいよ?」
「……」
何も言わずに、もらった弁当を食べ始めた。
この男、女の扱いに慣れてる感じだな。まぁ店を経営するくらいだ。そんなもんだろ。
食べ終えるまで居座って、店長は帰った。
杏珠はため息を吐いて、スマホをいじりだした。
更に三十分後、また誰かがチャイムを鳴らす。他に約束してた男がいるのか?
「杏珠〜、来てやったぞ」
「えっ?」
恭弥がここまでやってきた。さっきは住所を教えろと言っていたはずだが……。
「なんでここに?」
「ああ、店長が教えてくれたよ」
「そんなはずは……」
「早く開けろ。開けないとお前が淫売であることをバラすぞ。それとも、このドア壊してやろうか?」
「やめて!」
玄関が開かれるなり、恭弥は部屋に入って鍵を閉めた。
「物分かりのいい女だな。ところで、今日はなぜ休んだ?」
「……」
「まぁ休みたい日もあるだろうが、他の男と会ってたのか?」
「っ……違う!」
「今日のお前変だぞ。歯切れが悪く、ウジウジと……どっかの馬鹿を見てるみたいで、イライラするんだよ!」
……また俺のことか。いつもいつも、俺のことばかり考えて。
待てよ。元はと言えば、恭弥が杏珠と出会ったから俺は見捨てられることになったんだ。
恭弥と出会ったから、恭弥のせいで。恭弥の、恭弥……。
「うわぁぁあ!」
急に、頭が、割れるように痛い。
「っ、ぐっ……!」
まぶたをすり抜けてくる光。
「ここは……」
いつも寝るのに使ってるホテルか。
「あの後どうなった?」
「普通に交わっていたぞ。あの二人だけで、事務的だった」
デッドオーバーは二人のやり取りを見てから、俺をここに運んだのか。
頭痛がしてから、記憶がない。意識を失ったみたいだ。
朝食にサンドイッチを食べる。薬がないと手が震える。炙った草の煙を吸った。
俺は透明になって杏珠を見に行く。すっかり元通りになって、朝食を食べていた。
休憩後に外出するみたいだ。スマホに連絡はない。
ついていくと、スーパーに入っていった。買い出しか。
キャベツやキノコ類をカゴに入れた。へぇ、意外と野菜も食うんだな。てっきり一切自炊しないのかと思ったよ。
ここで、買う予定のないものでも入れてやろうか。そのためには俺の姿を晒さなきゃいけない。大した見返りもない。今回は見逃してやるか。
買い物を終えてアパートに帰ってきた。杏珠はスマホをいじったり、飯の準備をしたりして過ごした。
こんなところでいい女アピール……。浮気性でさえなければいいんだがな。
杏珠がキャバクラに行く時間だ。杏珠はバッグを持って出ていく。強かな女だ。
店に到着すると、裏で店長に心配されていた。
「もう出れるの? 体調の方は大丈夫?」
「はい。家にずっといても退屈ですし」
「もしつらくなったら言ってね」
「はい」
こんな女でも心配されるのか。俺は……。
「太陽、女が表に行ったぞ。苦しくなったら言え。いつでも用意してやるぞ」
パケに入れた草を見せびらかして、デッドオーバーは言った。
昨日もこいつは、倒れた俺をホテルまで運んでくれたんだよな。
俺には味方がいるんだ。
客の前に行った杏珠を追う。知らない男の前で猫なで声を出して、無理して笑顔を振りまいている。
健気で……。
「はは……壊したくなるなぁ」
「我も同じ意見だ」
さて、まずは何をしようかな。
男の前のグラスにワインを注ごうとしている。俺はテーブルの足に手をかけ、透明化を解いた一瞬の内に引く。
「あぁっ!」
「おっと」
「うわー、掃除するんでちょっと待ってくださぁい」
テーブルの上に零れたワインを拭いたら、またワインを注ぐ。今度はワインのビンを持って、男の方に動かす。
「わぁっ!」
「うわっ! つめたっ!」
「ご、ごめんなさい! すぐに拭きますぅ!」
雑巾でワインを拭き取る杏珠を、男が止める。
「ちょっと待って。杏珠ちゃん、ここ、口で吸い取ってくれる?」
男が指差したのは自身の股間。誰とでも寝る女にはピッタリの要求だな。
「すいません。そういうサービスはやってないんですよ」
口を挟んだのは店長だ。
「誰ですか、あなた」
「この店のオーナーですよ」
「そうですか、この店は客にワインぶっかけておいて、こっちの要求は聞かないんですか」
「ええ」
店長は一万円札をテーブルに置いた。
「クリーニング代は出しておきます」
「あー……! 気分悪いわ。帰らせていただきます。代金は払う必要ないよな?」
「一口も飲んでませんね?」
「一口行く前にやられたんだよ!」
客は万札をポケットに入れると舌打ちをして、小言を言いながら帰っていった。
「……す、すみません」
「いいよ。杏珠ちゃんが悪いんじゃないでしょ? それより、まだ休んでた方がいいんじゃない?」
「いえ、私は……」
「杏珠ちゃんのためなんだよ。今回はケガがなくてよかったけど」
「……はい」
杏珠は裏にいってイスに座る。
そこに他の女従業員がやってきた。
「大丈夫? 熱とかあるんじゃない? 一週間でも何日でも休んでいいんだよ?」
「大丈夫、ちょっとめまいがしただけだから」
本当は俺がやったから、本人には何も異常がない。でも「誰かに押された」なんて言ったところで、信じる奴はいない。
だから杏珠はお得意の嘘でごまかしているんだ。
「本当? 顔色悪い気がするんだけど」
女従業員が杏珠の目の前に迫る。この女はライバルを蹴落として業務成績を伸ばそうとしているんだ。ギスギスしてるところに、一突き加えるとどうなるかな。
視線が杏珠に向いている今、女の足を蹴る。杏珠がやったように思わせるため、角度を合わせて。
「いたっ……!」
「えっ、なに?」
「何よあんた……わたしは心配して言ってるのよ!? そんな奴だと思わなかった」
「なに? どういうこと?」
「もういい。二度とわたしに関わらないで」
「ねぇ、待ってよ!」
女従業員は表に出ていった。
「……何なの。私が何をしたって言うの……」
おぉ、杏珠の顔が苦痛に歪んだ。ようやく自分の状況に気付いたのか。
今更気付いたところで、お前には何もできないけどな。




