1-1 日はまた昇る
事の始まりはあの頃だっけ。
俺は浹川太陽。この春に中学二年生になったばかり。
休み時間。教室で俺の二つ隣の席にいる、女子二人の会話が聞こえる。
「ねぇ昨日お母さんと外食言ったんだけどさ、お腹いっぱいでもういらないっていうのに食べさせるんだよ」
「えぇ。ウチなんか勝手に部屋掃除してくるから、それだけでキレちゃう」
俺には親の話をできる奴が理解できない。
今度は男子三人が俺を取り囲んで会話を始める。
「お前らまだ親に服たたんでもらってんだろ。普通自分でやるよな。な? お前んとこはどう?」
俺に聞かれても困る。
「何かにらんでるし」
にらんでないし笑うな。
「そういえば、お前から親のこと聞いたことないよな」
男子たちが笑っていると、後ろから声がする。
「お前らまた太陽のことイジってんのか」
このいじわるそうな笑みを浮かべた男子生徒は、斉堂恭弥。当時は俺のことをかばってくれたんだ。
放課後。俺を取り囲んでいた男子生徒の一人、加藤に理科室に呼び出され、仕方なく行ってみることにした。
「なぁお前なんで親のこと話せねぇの? 人が聞いてんだから答えろよ」
「い、いや……関係、ないから」
加藤が俺の胸ぐらを掴んで凄む。
「あ? 関係ないことねぇだろ! 俺たち友達だろ……?」
その言葉とは裏腹に、俺を突き飛ばす。
「なぁ……」
加藤が後ろに脚を引いたその時、恭弥が俺の前に立ち塞がる。
「うっ!」
加藤の蹴りを受け止め、声を漏らす恭弥。
俺は思わず息を呑む。
「おいなんだよ、邪魔なんだよっ!」
加藤は、これでもかと恭弥を蹴り続ける。
恭弥は息を切らしながら、「逃げろ」と言った。
「いやだ……」
俺は立ち上がり、加藤を後ろから掴む。しかし恭弥が声を荒らげる。
「逃げろって言ってんのが、わかんねぇのか!」
「わかんないよっ! 俺は、友だちが殴り合うとこなんて見たくないっ。もうやめてよっ!」
加藤は俺を振り払う。
「はぁ、はぁ。友達……? ふざけてんのか。友達だったら言えねぇことなんてねぇだろっ!」
言い返す言葉がない。
「はぁ、もうバカみてぇ。帰るわ。まぁお前らはせいぜい仲良しごっこでもしてるんだな」
加藤が出ていく。すぐに俺は恭弥に駆け寄る。
「恭弥っ! なんで、こんなこと――」
「お前を守れて、よかっ――」
恭弥の頬に涙が落ちる。
「お前、泣いてるのか。せっかく守ってやったってのに、泣かれるなんてたまったもんじゃねぇ……」
恭弥は座り直してそっぽを向く。人前だというのに、俺はしばらく泣き続けた。
恭弥が沈黙を切る。
「なぁ、今日俺の家来ないか?」
「え?」
「帰っても誰もいねぇし、やることねぇしな」
「いや、でも」
「チッ、いいから行くぞ」
こうして恭弥の家へ二人で帰ることに。
そこでやることは、テレビゲーム。
恭弥が声を掛けてくる。
「お前家でゲームとかしてんの?」
「え? えっと、まぁ……」
恭弥は俺のことをじっと見てくる。
「え、何」
「変なやつ」
「な、なんでだよ……」
二人でゲームをして流れるこの時間は、いつまでも俺の心に残ってる。
「よっしゃ! 俺の勝ちだ。お前ジュース取ってこいよ」
ゲームで負けた方が、勝者の欲しい物を持ってくるルール。俺が物置を探っていると、親切かお節介か、恭弥が場所を教えてくる。
「そこの棚の上にあるから」
適当に返事をして戻り、ジュースをコップに注ぐ。
次のゲームに俺が勝つと、「おしっ」と恭弥は部屋を移動し、手を後ろに隠して戻ってくる。
「ほい」
腕時計が俺の前に置かれる。
「これは?」
「もう使わないから、やる」
「いや、でも……」
俺は性懲りもなく、口ごたえをしてしまう。
「何。俺が使ったからいらないって言うの?」
「いや、そういう訳じゃ――」
「だったら持ってろよ」
そんな言い方しなくても。と思ったが、流されて納得せざるを得なくなる。
そうしている内に、気付けば夕方に。
「あ、もう帰らなきゃ」
「なんだよ。まだ晩飯まで時間あるだろ」
「し、宿題とか……やんなきゃいけないし」
言い訳なんて思いつかないし。
「はぁ。じゃあまた明日な」
「うん」
一人で歩く帰り道。恭弥とずっと友だちでいたい、家に帰りたくない、そんなことを考えている内に家に到着。
田舎なのでいつも鍵の開いているそのドアを、恐る恐る開ける。音を立てないように廊下を通って階段を登り、自分の部屋に入る。
安堵の時間も僅か、母親が帰ってくる。
夕飯の時間になると、一階のダイニングに家族で集まる――といっても、ほとんど母と二人きりだが。
いつもテレビを見ながら食べるのだが、話し相手のいない母は常にテレビに文句を言っている。俺は母の意見に同意できないので黙って聞き流す。
食べ終わったら自分の食器は自分で洗って、俺は自室にこもる。
俺は訳もなく、泣き出す。悲しいとかつらいとかじゃない、何かが、何かが足りないんだ。
それから二時間。時刻は午後九時。父親が帰ってくる。
俺は部屋でゲームをしている。勉強なんてやる気ない。だって、俺にとって勉強なんて何の意味もないから……。
一階から父の声が聞こえる。
「お前また飲んでるのか」
「何、悪い?」
「あいつも将来のこと考えなきゃいけない年頃なんだぞ。お前がそんなんで大丈夫なのかよ」
「あんたに言われたくないわ」
「はぁ?」
誰かが階段を登ってくる。
「おい、飯食ったのか?」
ドアの向こうで父の声が呼び掛ける。
「もう寝たのか?」
父の足音が遠ざかっていく。
俺はいつものあれが始まる前に、こうして電気を消して息を潜めている。
そしてゲームをしながら、二人の会話に聞き耳を立てる。
「チッ、くそオヤジ……」
「なんか言ったか?」
「明日も仕事なので私はもう寝ます」
「……こんなに散らかして」
静かになって、俺は安心して眠りに就く。
午後十一時。俺は物音に起こされる。
「んだよ。こんな時間に……」
母の怒鳴り声が家中に響く。
「あんたに何かわかんの!? 私がどんな教育してるか、あんた知らないでしょ! 人に全部押し付けて!」
「お前こんな時間に騒いで、迷惑だろ!」
あんたも負けじと大声出して、迷惑だよ。
「じゃああんたがやりなさいよ! 流産してやっと産んだのよ。あの子はねぇ、自分で考えなきゃいけないの!」
母の声が近付いてくる……俺は布団を被って声を漏らす。
「やだ……やめて」
ドアが開けられる。
「おら、寝てんのか?」
強引に布団が剥がされる。
「お前宿題やってんのかよ」
勝手に俺のカバンまで漁って、机の引き出しも物色する。
「あ? 何これ」
母が手に取ったのは、恭弥からもらった大事な腕時計だった。
「あんたこんなの持ってても意味ないでしょ」
そう言いながら窓を開ける。何をするか予想できたけど、蛇ににらまれた蛙のように、完全に萎縮した俺は何もできなかった。
「こんなゴミ置いてないで勉強しろ」
そう言った母は、ゴミ捨て同様に軽々と腕時計を放り投げる。
「あっ! あっ、あっ……」
俺は情けない声を出すことしかできなかった。
母が部屋を出ていった直後、窓の外を確認する。
「お、俺の、恭弥の……」
涙を堪え、取りに行ける隙を見計らった。
すぐに静かになったものの、母が起きていると厄介なので一時間待った。
懐中電灯を持って外に出て、腕時計を捜す。幸いすぐに見つかり、部屋に戻って机の引き出しにしまっておいた。二度も同じ場所を探るはずもない。