ミラーハウスの怪‐転生‐【夏のホラー2017 参加作品】
暑い。もう、2時間はここに閉じ込められている。
暑い暑い。
あついあついあついあついあつい……。
出口がいっこうにわからない。
四方はどこも、自分を映す鏡で覆われている。
背負っていたリュックから水の入ったペットボトルを一本取り出す。一口。のどを潤す。
もう残り三分の一を切っている。
これがなくなったらさすがにまずいのではないか……と思うが、出られたらまたすぐに飲めるだろうと、節約することを極力考えないでいる。
「ああ……まだ駄目か」
ポケットから取り出したスマホは、圏外のままだった。
この建物に入ってからずっとこうだ。
助けは呼べない。
たとえ呼べたとしても、親しい友人や家族はひとりもいない。だから、来るとしたら交番のお巡りさんくらいだ。でも今は誰でもいい。このサウナみたいな地獄から助け出してくれるなら。誰だって。
「おおおおおい!」
声を唐突に張り上げてみる。
助けてくれる人なんか来るわけないのに。
すぐ後悔した。余計な体力を使ったせいで、汗がいたるところから噴き出している。ああくそっ。
こんな廃園になったテーマパークなんかに来るのは、俺ひとりぐらいのモンだった。他には誰も来ていない。ここに来るまでに、出くわした人なんか一人もいなかった。
今は廃墟探索ブームとかじゃないのか?
ひとりくらいそういうマニアがまぎれこんでたっていいのに。
ああまったく、ネットでの噂なんかうのみにするんじゃなかった。俺は本当に馬鹿だ。しかも一人でノコノコと。こんなふうなアクシデントに見舞われれば、すぐに詰むってわかるのに。
なにが「裏野ドリームランドのミラーハウスに行けば、生まれ変わることができる」だ。ちょっと考えればそんな夢物語みたいなこと、あるわけないんだ。転生モノ小説の読み過ぎだ。ったく。クソみたいな人生が劇的に変わるなんて、そもそもありえないことだ。
それでも……毎日通勤途中のホームで、電車に飛び込みたくなる衝動を抑えるのには、いい加減うんざりしていた。
死ぬ気になったらなんでもできる。
誰かがそう言ってた。
だったら、死ぬんだったら、その前に一度だけここを試してみたっていいだろって、そう思ったんだ。
「ああ、くそっ! さっきもこの角を曲がった気がする……」
俺は目の前の壁に、拳を叩きつけた。
壁に張り付いているのは一枚の大きな鏡。それがずっと奥まで続いている。
拳が当たった瞬間、ゴツンという鈍い音がしたが、どうにも割れにくい素材でできているようだった。憎らしいほどにヒビひとつ入っていない。落ちてた角材で叩いても、まるで割れる様子がなかった。
「ちっ……!」
俺は舌打ちをして、また蒸し暑い鏡の迷路の中を進む。
足元と、天井にだけは鏡がなかった。
床は大きめの黒いタイルが敷き詰められている。その上に、長年堆積したホコリ。そこについている無数の足跡は、俺のものかもしれないし、前に来た他の誰かのものかもしれない。
これだけぐるぐると歩き回っていたら、さすがに俺の歩いた跡がたくさんついているはずだったが、なぜか来た時とほとんど変わっていないようだった。
天井にはところどころに天窓がついている。その明かりで、どうにか前に進めている。
明かりは嬉しいが、脱出経路となると全く期待していいもんじゃなかった。
どう見ても三メートル以上は上にある。とても手が届く高さではない。踏み台になるものも、もちろんどこにもなかった。
窓からの脱出は諦めて、俺はただひたすらに出口を求めてさまよい歩く。
「ふう、またここかよ……」
入り口に戻れることも多々あった。
けれど、どうしてもその錆びついた扉を開けることができない。
このミラーハウスに入った時、まるで誰かがそうしたみたいに、急にバタンと扉が閉まった。
ただの風だったのかもしれないが……今思い返してみると、そこまで強い風が常に吹いていたわけではなく、気味が悪いとしかいえない状況だった。
とにかく、その時の衝撃で入り口の扉はわずかに歪んでしまっていた。がっちりと固く閉ざされてしまい、以後、俺の努力を全て無に帰すモノと成り果ててしまっている。
こじ開けようにも隙間がどこにもなく、取っ掛かりさえどこにも見つけることができなかった。
俺はまた諦めて、違う場所へと歩き出す。
きっと、もう一つの扉を見つければ出られるはずだ。「入り口」があるなら「出口」も必ずある。
そう、ここから出るためには「出口」を探さなければならない。
入り口のように壊れている可能性もあったが、まだ確認はしていなかったのでかすかな望みもあった。
「ああ、くそっ」
のどがヒリヒリとしている。
さっき水を飲んだばかりなのに。
汗は額と背中を滝のように流れ落ちていた。服もこれでもかというくらい濡れそぼっている。
ああ、この汗が飲めたらな……。
でもやっぱダメだ。しょっぱいだろうし、なおさら喉が渇くに違いない。
徐々に頭がくらくらしてくる。
めまいか。
これはいよいよ熱中症になってきたかな、と心の中でぼやく。
今朝のニュースでは……たしか最高気温は……35度とか、体温に近い温度だったような。あー、北関東はどうしても高温になりがちなんだよな。内陸は海沿いよりも気温がこもりやすい……から……。
「あー、もう! 何でもいいから早く風呂に入りてえっ。そんで冷蔵庫でキンキンに冷やしたビールを……!」
叫んだ瞬間、こめかみを伝っていた汗が顎の先に移り、足元にぽたりと落ちる。
俺はもうろうとしながらその床を見つめた。
数滴のしずくの跡。
「…………ん?!」
今。なにか見てはいけないものを見てしまったような気がする。
視界の端に。
視界の端に「何か」がいた。真横に誰かがいた……ような。そんなバカな。
「なんだ、俺か……」
ゆっくり横を見ると、そこには「汗だくの俺」が映っていた。いよいよ幻覚を見始めたかと、心臓がきゅっと縮む。
顔色が悪い。
残りの水をすぐ飲んだ方がいいだろうか。いや……まだ早い。
もし今日中にここを出られなかったら……? そうなったら明日まで確保しとかなきゃまずい。明日までいたくはなかったが、その可能性を考えて、俺は結論を後回しにした。
ホコリに足跡をつけながら、さらに先を進む。
左右をずっと鏡に挟まれていると、二人の俺にも常に挟まれているように感じる……。
鏡の向こうの、もう一人の俺たち。
そのさらに奥には、幾人もの俺が鏡の枚数だけ存在していた。
じっと見つめていると、どこまでも奥行きがあるような気がしてくる。
そしてその先は……。
ふと、何かが奥で動いた気がする。
「え……?」
またか。俺は目をこすった。
流れ落ちる汗で、一瞬視界がぼやけたのかもしれない。
そうだ。きっと。そんなわけがない。
得体のしれない不安がせりあがってきたが、気のせいだと思い込もうとした。でも、何か良くないモノだったのでは……との不安も同時に湧き上がってくる。
なんだ、その「良くないモノ」ってのは。俺は自分で自分につっこんだ。
「暑さで……おかしくなってん……のか?」
俺はもう、ここで死ぬんだろう。
ここまでひどい妄想におちいったり、幻覚を見るのははじめてだ。
これが熱中症の末期症状なのかとも考えたが、誰にも見つからずに、一人この廃園となったテーマパークで死んでいくのは嫌だった。
「はあ……はあ……」
電車にとびこむのとどっちが楽だっただろうか……。
あっちは衆目を集めて派手に。こっちは誰の目にも映らずに。
死にたい、と思っていたけれど……でも本当は……生きたかった。
生きて、このクソみたいな人生じゃなく、楽しい人生を謳歌してみたかった。
だから来たんだ。ここに。
生まれ変わりたかったんだ。ここで。
「……嫌だ。これで終わりなんて。……くそっ!」
歩きながら、奥歯を強く噛みしめる。
けれど、まったく力が入らない。
その間にも、汗はとめどもなく流れていく。足元がおぼつく。
ふと、誰かがすぐ後ろをついてきているような錯覚を覚えた。
一度そう思うと止まらない。
誰もいないはずなのに、「誰かが背後にいる」と思い込んでしまう。
「なん……だ?」
男か女かはわからない。でも、きっと俺以外の誰かだ。
息遣いや足音まで聞こえはじめている。
「な……なんでこんなことに……嘘だ。あるわけない……そう、あるわけないんだ!」
首を振って妄想を追い出そうとするが、なかなかその感覚は途切れない。ずっと、何者が近づいてきているような気配がする。
背中の5センチぐらい後ろだろうか。それくらいそばにいる気がする。
「なん、だよ……ったく!」
早く出口を見つけなければ。
後ろにいる奴に気付かれる前に。俺がそいつに気付いたと気付かれる前に。
そう思ったところで声が聞こえた。
『あ”あ”あ”あ”あ”――――』
え? なんだいったい、今――。
『生、マれ……変ワろウよ……』
すぐ耳元でささやかれた。
男でも女でもない声。壊れたラジオのような、幼児のつたないしゃべり方のような、しわがれた老人のような、狂った――その低い声が、ぞくりと俺の背筋を震わせる。
「うわああっ……! ひいッ!」
悲鳴を上げて振り向くと、そこには誰もいなかった。
代わりに、鏡の中に真っ黒い「何か」が出現している。
「なっ……!?」
立ち姿は腰の曲がった老人の様。でも、顔が変だった。
幼児のようなつぶらな瞳に、女の真っ赤な唇、そして男の太い眉……そしてしわだらけの顔。
そいつの濡れた唇がニイッと笑った形になった。
そして、黒い靄のようないびつな体が陽炎のように揺れている。
そいつはただ立ち尽くして俺を見つめていた。
鏡の中で。ねめつけるような視線で。
「なっ……あっ……!」
度肝を抜かれつつも、俺はそんな言葉にならない声を発し続けていた。
『あ”あ”あ”あ”あ”――生マれ、変ワろウよォ』
狭い室内で、反響したような声が響く。地獄の底から響いてくるような重低音。
俺に向かって。確実に俺へ向けて語りかけてくる。
気が付くと走り出していた。
足がうまく前に出せない。まろびながら床に手を突くと、まるで犬のような走り方になった。
早く。早く逃げないと。
途中盛大に転んで、肩をしたたかに壁にぶつけた。痛みに顔をしかめながら突き当りを右に曲がると、大きめの広間に出る。
ここはおそらく、ミラーハウスの中央だ。
丸く切り取られた天窓が、明るい光を室内に投げかけていた。
「はあ、はあ……な、なんなんだ? あいつは……」
荒い息を吐きながら背後を振り返ると――追いつかれていた。
鏡の中をすうっとスライドするように移動してくる。
「う、うわあああああっ!」
俺は腰を抜かしながら後ずさった。
別に奴は走ってくるわけじゃない。だけど確実に、俺へと忍び寄ってきた。そして声は耳元でずっとささやき続けてくる。
『あ”あ”あ”あ”あ”――生マれ……変ワろウよォ』
俺は、たしかに……生まれ変わりたかった。
だけどあんな化け物に、どうにかされるために来たわけじゃない。
ネットで噂を流した奴はこんなやつがいることを知ってたのか? だとしたらどうやってそのことを……。
とにかく考えている暇はない。
俺はまた追いつかれないように全力で走り出した。
「はあ、はあ……はあっ……!」
荒い俺の呼吸音だけが聞こえる。
ただでさえ暑苦しいのに。動きたくないのに、猛烈な勢いで走っている。玉のような汗がまた体のそこらじゅうから噴き出した。
もうだめだ。限界だ。
恐怖で体中がガタガタと震えている。
いったい、どこまで逃げればいいんだ。あいつはいったいなんだ。捕まったら終わりだというのだけは本能的にわかる。けど、だからといって、逃げるにもどこにも逃げ場なんてない。どこまでだって袋小路だ。
「ああっ!」
恐れていた通り、ついに行き止まりに来てしまった。
左右と前方の鏡に囲まれ、俺が立ち往生していると、やつは左側と右側に姿を映しながら徐々にこちらへと近づいてくる。
「うわああああっ! く、来るなああっ! 来るなあっ!」
またそこらに落ちていた角材を振りまわし、威嚇してみたが、まるで効果がない。
やつはまた、俺のすぐそばまでやってきた。
動きを止め、鏡の中の俺の前に立つ。
『あ”あ”あ”あ”あ”――生マれ、変ワろウよォ』
馬鹿の一つ覚えみたいに、同じ言葉をつぶやいている。
なんだ? なにか俺の返答を待っているんだろうか。さっきからずっとそのままの状態で静止している。俺が黙り続けていると、やがてやつは首をゆっくりと傾げだしてきた。
『う、う、生マれ、変ワろウよォ……生マれ、変ワろウ? 変ワろウ。変ワろウ、変ワろウ、変ワろウ、変ワろウ、変ワろウォオオオ……!』
言いながらそいつの首は、90度曲がり、100度、120度、と曲がっていった。そして180度、ついに真下までやってくると、さらに一回転して、鏡の中の俺にかみついてくる。
「ぎゃああああっ!」
つい悲鳴をあげてしまったが、痛みはまるでない。
驚きながら鏡を見ると、「鏡の中の」俺の肩口にそいつは噛みついていた。現実の俺はまったく無傷だ。けれど、鏡の中の俺は血を大量に流している。
正直見ていて気持ちのいいものではなかった。あまりにもおぞましい光景が目の前に広がっている。
「うっ、ううっ! や、やめろおおおっ!」
叫んでやめさせようとしたが、時すでに遅し。ついに左肩が完全にえぐれてしまった。むき出しの肉の中に、白い骨が覗いている。次いで左腕が完全にもぎとられ、「やつ」にむしゃむしゃと食べられていってしまった。
ぐちゃ、ぐちゃという咀嚼音が響く。
「うわっ、や……やめろよ……やめろよっ! やめおおおおっ!」
バンッと鏡に向かって拳を叩き続けるが、鏡の中の俺は同じような動きをしても、右手だけしか呼応してくれなかった。
すでに無くなった左手は、やつの腹の中にすべて飲み込まれてしまっている。
「や、やめろっ……おいっ、おい! やめろって……言ってるだろおおっ!」
なんども声を張り上げてみるが、そいつはいっこうに止めてくれなかった。
今度は顔に噛みついて、俺の頬の肉や鼻、耳をかじっていく……。
鏡の中の俺が徐々にスプラッタになっていくのを、俺はどうしても見ていられなかった。
「ううっ……ううっ、おえっ……」
吐き気をもよおし、床にくずおれる。一刻も早くここから逃げ出したかったが、一歩動き出すだけで、計り知れないプレッシャーを感じていた。そいつは俺がまた逃げ出せばすぐにまた追いかけ、鏡の中の俺を喰らうだろう。
『生マれ……変ワろウよ?』
相変わらずのデスボイスだったが、なんとなく機嫌が良さそうな気配が伝わってきて、俺はひどく気分を悪くした。こうしていても、事態は変わらない。仕方なく動き出そうと俺は思い切って駆け出した。
「くっ……!」
だが、いくら走っていっても鏡の中の俺は……ついてこなかった。
食べられていたあたりで座り込んだままついてこない。
何故動けないのか。よくよく見てみたら、なんとすでに足も食べられてしまっていた。
『……へ、へ。生マれ変ワろウ、よォ?』
ニマニマ笑いながら、そいつは相変わらず鏡の中の俺を食べていく。
どうすることもできずに俺は見守っていることしかできない。
やがてやつはすっかり俺を食らい尽くすと、咀嚼していた俺の肉の一部をベッと床に吐きだした。
『変ワる、変ワる……生マれ変ワる。生マれ……変ワるよォオオオ!』
呪文のようにつぶやいている中で、俺の肉の一部は徐々にその体積を増やしていった。そしてそれは……いつしかそいつそっくりの化け物に、成り替わった。
「なっ……!」
俺はそいつの前におそるおそる近づく。
化け物が二体。そのうちの俺に近い方に駆け寄る。
右手を鏡に近づけてみた。
すると、鏡の中のそいつも右手を近づけてくる。
俺は左手を近づけてみた。
すると、そいつの左手も近づく。
「な、なっ、なんなんだよっ……!」
はは、これは……。俺だ。「俺」なんだ。
なんだこれ。なんだこれ!
鏡の中の俺が「これ」になっただと? 嘘だろおい。冗談じゃねえ。誰か嘘だと言ってくれ。
『生マれ、生マれ変ワっタ!』
ケタケタと笑っている元の化け物は、そうしてすぐに消えていった。
あとには「元俺だったもの」しか残されない。こいつは、なんだ。化け物が増えた? そいつは俺をじっと見つめている。
「なんだよ……これ」
こんなことが。この結果が「ネットの噂」だったっていうのか? 俺はずっとこの姿と付き合っていくのか……?
良い感じの絶望感に苛まれていると、ふいに鏡の中の元俺が、突き当りの鏡だったところを指さした。
「え……?」
なぜそこを指し示すのか。
俺は突き当りの鏡を、よく調べてみた。すると、壁の中ほどに小さな丸い取っ手があるのがわかる。俺はさっそくそこに手をかけてみた。
ギイ、という軋み音とともに、重い扉が開いていく……。
「やった! そ、外だっ!」
そこは青い空の広がる「外」だった。
俺はすぐさまスマホを取り出す。
圏外のマークが消えて、アンテナがなんと三本も立っていた。
「やった、で……出られたぞ! やったやった! 死なずにすんだぞぉおおおっ!」
スマホを見ながら喜んでいると、また風もないのに急に出口の扉が勢いよく閉まった。
バタン!
大きな音とともに、俺の体は硬直する。
「な……なんだよ……。なんでここも勝手に……」
相変わらず強い風なんか、どこにも吹いていない。
なのに扉は完全に自動で閉まった。
「うっ……ああ……っ!」
声にならない悲鳴を発しながら、俺は一目散に駆けだす。
どこをどう走ったのか、気づいたときには俺は裏野ドリームランドの入り口付近までやってきていた。荒い息を整え、あたりを見回す。
来た時と同じ、塗装のはげた、みすぼらしいゲートと高い金属の柵。
チェーンが入り口にかけられているが、その防犯具合はザルもいいところだった。抜け穴がたくさんあり、そこから俺はこの廃園に立ち入っていた。
「とりあえず、帰るか……」
俺は深く息を吐きながら、歩き出す。
一旦街まで戻って、それから自販機のあるところかコンビニに行こう。
もう喉がカラカラのカラカラだった。
ペットボトルの水をあわてて飲み干すが、全然足りない。
坂道を下り、ふもとの住宅街に近づいてくるとようやく人心地ついてきた。
裏野ドリームランドは小高い山の上にある。
下山してみればすぐに街が広がっているという不思議な立地だった。
住宅街を駅に向かって歩いていると……突然スマホに非通知の電話がかかってくる。
「ん? はい……もしもし」
俺は首をかしげながら出てみた。
すると――。
『あ”あ”あ”あ”あ”――生マれ変ワろウよ!』
俺はすぐにスマホから耳を離し、通話を切った。あの化け物からだった。なぜこの電話に……。俺は触れていた画面を見てハッとした。スマホの黒々とした画面には、あの化け物の姿が映っていた。
それは「元俺」の成れの果て。
幼児のようなつぶらな瞳と、女の真っ赤な唇、そして男の太い眉を持った、しわだらけの顔だ。
「……うわああああっ!」
俺は叫び声をあげると、思わずスマホを取り落としてしまった。
住宅街ではたくさんの人間が歩いている。そのうちの誰もが、俺を不審な目で見ていた。
「違う……違うッ! 俺は……こんなんじゃないっ……!」
なんなんだ、あの視線は。
俺は特別変な恰好はしてないはずだ。あのミラーハウスで多少は埃っぽくなったかもしれないが……汗だくになっているのがおかしいのか? とにかく彼らのそれは、異様なものを見る目だった。
スマホの画面を見ないようにして、うまく拾う。
言いようのない不安感で、俺は駅までの道を全力で走った。
違う。違う!
そうだ……これは普段、俺に向けられる視線じゃない。
考えなくてもかわる。
俺は普段、いつも無関心な、どうでもいいというような視線を向けられていた。親にも教師にも、クラスメイトにも、会社の上司にだって、同僚も、街にいる誰からも同じ扱いを受けていた。生まれた時からそうだった。なぜか店員からも、警察官からも、駅員からも。誰からも興味を持たれない。空気か、それ以下の存在だった。
それが……今はどうだ。
畏怖、というか嫌悪感のようなものすら抱かれている。
明確な「拒絶」だ。
「なんだ、いったい……何が起こっている?」
駅に着くまでに、誰もがそう俺を見ているのを目撃した。街のショウウインドウには俺の――化け物の姿が映っている。皆、これを見ているんだろうか。でもそれにしたって悲鳴があがっている様子はない。
「はあ……はあ……」
駅に着いて、俺は自宅行きのホームへと駆け上がった。
電車がくるまで、周囲の異質な視線に耐える。
スマホに、また着信があった。今度はなんだ。
母親からだった。
「あ、シンちゃん。もう……いいんじゃないかしら?」
「え? 何だ? 久しぶりに電話が来たと思ったら、何の話だ」
「もう、わかってるんでしょ? 頑張ったりしなくても、いいじゃないって言ってるの」
「母さん? あの……だから何のこと」
「あなた、だってねえ? まるで世の中の役に立ってないんですものねえ。ようやくはじめたお仕事だって、とても人様に胸張れるようなこと、してないんでしょ? なあに? 入社してからずっと窓際って。会社の方々にもうご迷惑かけるのはやめなさい。まさか横領までするなんて……母さん悲しいわあ」
意味が……わからない。
俺は、一度も窓際族なんかにはなっていない。淡々と日々のノルマをこなしていた。ただ、たいした手柄を立てたこともなく、同僚や上司に感謝されることも無かった。それは事実だ。
あとは普通の会話。普通の毎日を送っていた。
皆に好かれてはいないのはなんとなくわかっていたが……迷惑を不必要にかけている、なんてことはなかったはずだ。
いったい、なにが起こっているんだ。
横領? わけのわからない脈絡だ。なんだそれは。いったいどこから出てきた話だ?
オレオレ詐欺の電話にでも引っかかっているのか。
「ねえ、気づかないの? 誰もがあなたのこと、いらないって思ってるのよ。いると邪魔なの。いないほうがスムーズに社会が回るの。ね? わたしたちもそう思ってるわよね、お父さん」
しばらくしゃべると、母親は近くにいただろう父親に代わった。
「ああ、私だ。シンタロウ。お前にはもう何も期待していない。結婚もせず、40過ぎになってもふらふらしおって。だらしのない。弟のタカシを見ろ。五つも下なのに、もう二人も子供がいるんだぞ。若いのに、大手商社の課長にもなってる。お前はずっと家に寄生していて恥ずかしくないのか。去年から働き出すまでは引きこもってばかりで……ようやくまともになったと思ったら、なんだ。痴漢騒ぎを起こしただと? お前は我が家の恥さらしだ!」
「え? ちょっと待って……父さん。いったい何を、言ってるんだ?」
意味不明すぎる。
急に親父は何を言い出してるんだ?
全部がでたらめだ。一部、合ってることもあるが。
たしかに俺はまだ結婚はしていない。けど、すでに一人暮らし始めて15年は経っている。それなのに家に寄生って……どういうことだ? それに引きこもっていた経験もない。学校だって辛いけど毎日行ってた。大学卒業してからはずっと今の会社で働いているし……。
そもそも痴漢騒ぎってなんだ。いよいよオレオレ詐欺案件か?
「もういい、切るぞ。あとはどうとでも勝手にやれ。俺たちはもう知らんからな」
ブチッと電話が切れた。
「何の……話だよ! ちくしょう」
もう一度着歴からリダイアルしてみたが、着信拒否をされたのか、すでに通じなくなっていた。
俺はだらだらとさらに汗をかく。今度は冷や汗だ。
ホームに置いてある自販機であわてて飲み物を買う。
飲もうとしたところで、スマホにメール通知が来る。
差出人は俺の会社。
『小野シンタロウさん。貴方は今日でクビですw 明日から来なくていいよ~ん』
「……は?」
なんだこのふざけた内容は。
しかし、差出人は間違いなく俺の勤めていた会社の人事課からだった。
なんなんだ、このイカレた状況は。
俺は、俺は頭がおかしくなってしまったのか?
ごくりと勢いよくお茶を飲む。
すると、また電話が鳴った。
「あー、小野さん? 大家なんだけどね。いい加減荷物出してくれないと困るよ。あさってから新しい人が入るんだからね。引っ越しするって言ってたよね? もし今日中にしてくれないんなら明日、業者入れて勝手に処分しちゃうから。あ、そこの費用はもちろん君持ちね、じゃ。たしかに伝えたから」
一方的にまくし立ててきたと思ったら、すぐ切れた。
なんなんだいったい……俺がアパートを引っ越す? そんなこと一言も言った覚えないぞ。それに、立ち退きだかなんだかしらないが、新しい住人が来る? そんなこと聞いてない。いったいなんだこの状況は。
電車が来て、それに飛び乗る。
車内はさほど混んでなかったが、座っている人たちがまたあの視線で俺を見てきた。
ひそひそと話し声がする。
「いやね、女性専用車両に乗ってくるなんて……」
「痴漢かしら……」
「駅員さんに連絡したほうが良いんじゃない?」
「そうね、いやそれよりも警察に……」
なんのことだ?
この電車には「女性専用車両」なんてどこにも書いていない。
それに、俺以外の男性も乗っている。
どうして女性たちがそんなことをつぶやき合っているのか。
他の男性たちは見て見ぬふりだ。
なんだ? なんなんだ。この状況は!
黒いスマホの画面を見ると、そこにはあの化け物が相変わらず映っていた。
『あ”あ”あ”あ”あ”――生マれ変ワれ、生マれ、変ワれ!』
俺にだけ聞こえる声で叫び続けている。
「くそっ!」
俺は次の駅で降りた。
人々は普通の行動をしているようだが、言っていることがむちゃくちゃだ。
これは、この化け物のせいなのか?
俺は、今まで空気以下の存在だった。
誰にも気にかけてもらえず、孤独を感じ続けていた。だから死にたくなった。
けど、今は違う。
他人に妙に注目されて、かついらぬ悪意をぶつけられている。それも理不尽で、意味不明だ。なんの益にもならない。
これじゃあ、どちらの方が良かったんだろう。
『あ”あ”あ”あ”あ”――生マれ、変ワる! 生マれ、変ワる!』
化け物は相変わらずそんなことを言っているが、その通りなのかもしれない。たしかに俺は生まれ変わったんだ。
空気以下の存在から「汚物」へと。
いい意味で生まれ変われるなんて、とんだ思い違いだった。
『次の電車が参ります。白線の内側までお下がりください』
電光掲示板には快速と書いてあった。
この駅には止まらない電車は、ものすごいスピードでやってくる。
最初からこうしていれば良かったのかもしれない。
「生まれ、変わる……か」
俺は一言だけそうつぶやくと、ホームの人々の黒い視線が集まる中、線路へとダイブした。