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孤独な魂2

第二章


     一


「聞きました?」

 専用兵舎の戸口を入るなり声を掛けられて、素影は目を上げた。通路の壁に凭れて、すらりとした茶色の髪の少年が立っている。西獺(せいだつ)族の飛瀑(ひばく)、十四歳。三丙(さんぺい)と呼ばれている、素影の同僚の一人である。

「小犲族の征討に行ってた遠征軍、もうすぐ帰ってくるって伝令が来たらしいですけど」

 飛瀑は、瑠璃色の双眸に知的な光を湛えて言った。

「聞きましたよ」

 素影は薄い唇に笑みを浮かべる。

「そして、人間の捕獲に成功したということも」

「……どんな奴なんでしょうね……」

 飛瀑は、好奇心半分同情半分といった様子で呟いた。狗王国大王が〈生まれながらの人〉――人間を求めた理由は、物珍しさと、やはり、手中にした者に繁栄をもたらすという伝説を多少なりとも信じたからだと推測される。

「ここに来ても珍品扱いだろうし。気の毒に……」

「君は優しいですね」

 素影は微笑んで言うと、飛瀑の前を通り過ぎて自室へと向かった。薄暗い通路を歩く彼の顔は、一変して厳しい表情を浮かべている。

(私はまず、〈十幹〉である私達の境遇の方を憐れみますけれどね)

 人間の捕獲に成功したということは、遠征軍がこの王都に帰還してすぐ、祝賀の闘技大会が催されるということである。大王の子飼いである〈十幹〉と、諸侯の頂点に立つ八州侯が雇っている戦士達を闘わせる、生死問わずの大会だ。その後まで、現〈十幹〉の一体何人が生き残れるのか。素影は厳しい表情のまま、機械的な動作で自室に入った。



 扉が閉まる音を聞いてから、飛瀑は軽く溜め息をついた。まだ二年足らずの付き合いだが、今し方自室に消えた青年が、なにを考えていたかくらいは推測できる。

「なんだか素影って、いつも暗い……」

「狐族の習性なのさ」

 独り言に返事を貰って、飛瀑は振り向いた。いつの間にか戸口のところに、巒丘(らんきゅう)が立っている。

「常に最悪の事態を考えて心構えをする。備えられる時は、最大限に備えておく。それが狐族だ。……まあ、哀しい性とも言えるがな」

 七庚(しちこう)と呼ばれる斑猫(はんびょう)族の女は、素影について勝手に論評すると、癖のある金茶色の豊かな髪をふわりと揺らして飛瀑の前を通り過ぎ、素影同様、自室へ消えた。

 〈十幹〉達に、日々の定まった仕事はない。だが、大王からは頻繁に召し出しがあり、また、闘技大会や戦に出されても死なない為に、暇さえあれば修練場で体を鍛える必要はあった。

「さてと。夕御飯まで、僕も一休みするか」

 飛瀑は壁から背を離して呟いた。大王の命令で、今日は一日、庭園にある大池の掃除をしていたのだ。全身が疲労を訴えている。通路に留まっていたのは、単に、一緒に池掃除をした衛兵や掃除人達から聞いた遠征軍帰還間近の噂を、同僚達に確かめたかったからだった――。


          ◇


 左足は折れておらず、両腕も健在なので、全く動けないという訳ではなかった。だが肋骨が折れているので、彩雲が体をどう動かそうと、殆どの場合、痛みが走る。その為、彼女が輿に移ってからは、雪渓と、そしてもう一人の〈十幹〉である林霏が、毎晩彼女のところへやって来て、手当てや洗面その他の為に、近くの水場へ連れて行ってくれるようになっていた。

「王都まで、後どのくらいな訳……?」

 細い川辺の薮から輿へと戻りながら、その日、彩雲は二人に問うた。

「三日程……かな? もう明日には、王都に行く道筋の村とか町にさしかかると思うけど」

 彼女の体を支えて一緒に歩く林霏が、小首を傾げて答えた。

「そう」

 彩雲は相槌を打って黙る。小犲族の集落を離れて最初の夜、森で自分達を襲った黒狼族の青年に雪渓が言った言葉が気になりだしていた。

 彩雲の痛みは日が経つにつれ徐々に薄れて、かなり自力で動けるようになったので、少し前まで林霏と共に彼女を支えて歩いていた青年は、今では、ただ傍らを歩いている。

(こいつ、どうする気なんだろう……?)

 石などを踏んで転ばないよう、黄昏の中、足元に目を凝らしながら彩雲は思った。崖で彼女達を襲った黒狼族の首長だという少年に、雪渓はなんの弁明もしなかった。彼は、彼ら白狼族の罪を認めているようだった。

(まさか、殺される気……?)

 彩雲は青年の白い横顔を上目遣いにそっと窺ったが、なにも読み取ることはできない。沈黙の内に、三人は夜営に帰り、兵達の間を通り抜けて輿に戻った。



「ほんと、あいつってばよく分かんない」

 林霏は、地面に腰を下ろすなり言った。彩雲を輿に入れてから、雪渓と共に、自分達が鎧を置いた場所に戻った直後のことである。

「突然なんか言ったと思ったら、すーぐまた意味ありげに黙ったりしてさー。さっきだって、王都までどのくらいって訊いといて黙っちゃうし、昨日手当てしてる時なんか、ほら、あんたが水汲みに行ってた時ね、『実のところ、私が死ぬと、どのくらい困る訳?』なんて、しらっと訊いてくるから、腹立って、『少なくとも、その場合のあんた程は困らないわよ』って答えたけどさ。なんか、ろくな育ち方してないって感じだよ。人間だから、かもしれないけど」

 一息に話した同僚を、傍らに座った雪渓は静かに見遣る。彼女は、かなり不満を蓄積させているらしい。ぶすっと不機嫌な顔をして、更に言葉を続けた。

「大体、世話されてる身でさ、なんか偉そうなんだよね。小犲族の集落じゃ、そういう扱いされてたのかもしれないけど、あたしはあんたの下僕じゃないっつうの。最初は、ちょっと可哀想かもとか思ってたけど、もう愛想が尽きた。王都に行って、畜生並の扱いとかされて、思い知ればいいんだよね、ああいう奴は」

 雪渓は、黙ったまま林霏から視線を外した。

 彩雲がなにを考えているのか、雪渓にもそう分かる訳ではない。だが、彼女の暗い眼差しや、その口元に時折浮かぶ自嘲の笑みの意味が、全く分からない訳でもなかった。

「あいつをどう扱うかは、陛下が決める」

 雪渓は、低い声で言った。

「我々は、ただ、闘技大会に備えておくだけだ」

「そう……だね……」

 群青色の空の下、林霏は答えて溜め息をついた。


          ◇


 翌日、長閑な佇まいを見せる幾つかの村落を遠目に眺めて通り過ぎた遠征軍は、夕方になって、城壁に囲まれた一つの町へと辿り着いた。

「やっとこれで、野宿生活とおさらばだねー」

 林霏が嬉しげに呟く声を横に聞きながら、雪渓は城門の一角に設けられた門扉に視線を注ぐ。夜に備えて閉ざされていたらしい門扉は、開門、の声を待つこともせずに、しずしずと開きつつあった。遠征軍が掲げる第三王子・天飆の印旗の威力だろう。

 やがて門扉が開ききると、

「前進!」

 と副将・沃土の号令がかかり、疲労を溜めた遠征軍は、ゆっくりと町の中へ進んで行った。

「人間はどこだね」

「見て分かるのかい?」

「ただ獣態になれないってだけだろう?」

「皆人態じゃ、どれがそうだか分かんないね」

 道の両側から浴びせられる歓呼の声の合間に興味津々の囁きを耳に拾って、雪渓はちらと輿の方を見遣った。人間――彩雲は依然輿の中にいる。

(大王は、彼女を一体どうする気だ……?)

 手中にした者に繁栄がもたらされるというのは、単なる伝説のはずである。あの現実的な大王が、根拠のない伝説を信じたとは思いにくい。雪渓は、ハッと瞼を震わせた。

(なにか……根拠が見付かったのか……?)

 脳裏を過ぎったのは、侍従長・皦日の姿である。大王が、王国の辺境まで伝令を送って人間探しをさせ始めたのはいつからだったろう。遂に小犲族の集落に人間がいることを知った大王は、躊躇なく遠征軍を組織させた。

(侍従長が、大王になにか吹き込んだのか……?)

 それこそ根拠のない推測である。だが、ふと浮かんだその考えが心の奥にひっそりと根を下ろすのを、雪渓は暗い面持ちで感じた。



 輿の中、相変わらず横になっている彩雲は、耐え切れなくなって両手で耳を塞いだ。狗王国万歳、王室万歳、の歓呼の声は、彼女にはただうるさい。

(馬鹿の一つ覚えだね……)

 冷ややかに評した少女の心には、二つの憶測が浮かんでくる。歓声を上げている人々は、本当にそう思っているのだろうか、それとも、そう言っていれば安全だからそうしているのだろうか。

(でも、狗族なら、本当にそう思ってても、おかしくない……)

 狗王国は強大だ。そしてその狗王国を先頭に立って創り上げたのは、王室の狗族達である。狗族の人々が彼らの王室と国とを誇りに思っても、なんら不思議はない――。

「うるさ……」

 騒音に重なって不意に聞こえた言葉に、彩雲は目を瞬いた。彼女の心の内を代弁したような言葉は、しかし彼女の口から出たものではない。彩雲は眉をひそめて、そっと頭を動かし、傍らの青年の横顔を見上げた。無愛想で薄情そうな顔に浮かんでいるのは、つまらなそうで鬱陶しそうな表情だ。

(今の、こいつ……?)

 恐らく間違いない。彩雲は殆ど確信しながらも、納得しがたい思いがした。第三王子・天飆が、王室の一員が、「狗王国万歳、王室万歳」の歓呼の声を、「うるさ……」と言ったのだ。

(こいつ……、ふざけてる……?)

 響き続ける歓呼の声は、相変わらず彩雲に不快感をもたらしている。だが天飆の言葉は、それ以上の不快感を彼女にもたらした。

 彩雲は青年から顔を背けて目を閉じる。天飆は高圧的ではない。無口だが、息詰まるような雰囲気を作ったりもしない。少なくとも、輿の中の狭い空間を分け合う相手としては、そう悪くない。だが、王室の一員として、支配する側の人獣としては、好ましからざる性格に思えた。


          ◇


 その夜、町の酒場はどこも兵達で賑わっていた。副将・沃土が兵達の気持ちを汲んで天飆に諮ったところ、

――「好きにすれば? 但し、俺はすぐ寝るから、邪魔しないでよ?」

 と、お許しが出たのである。

「で、王子殿下の安眠が妨げられることなきようにって、王子さんの宿所をいっちばん町外れの金持ちの家にするなんてさ、沃土もなかなかやるよね」

 混雑している酒場の一席を陣取った林霏は、向かいに座った雪渓相手に、楽しげに事の顛末を語っていた。

「軍師殿は反対したそうだけど、王子さんは柔らかい寝台に満足で、文句の一つも言わなかったらしいし。とにかく、お陰であたしらはこうして遠慮なく騒げるって訳さ。ほんと、沃土に感謝しなくっちゃねー」

 御機嫌な様子で、常にも増して話しまくる女戦士を、雪渓はただ黙って観察していた。彼女の手には、マタタビ酒の杯がある。このマタタビ酒というものが、猫族に対しては極少量で効果覿面だということを目の当たりにして、彼は静かに感心しているところだった。

「こういう機会は、王都じゃー、あんま持てないしさー。あそこってば、結構窮屈だもんねー」

 林霏の話し方は段々と崩れていく。

「だからさー、今日は飲もう!」

 言われて、雪渓は目の前に置いていたブドウ酒を飲んだが、しかし元々そう酔える体質ではないのだ。少しも酔った気配のない青年に、林霏は口を尖らせた。

「全くー、あんたってば、いっつまでも暗い顔ばっかしてさー! その顔見せられてる方の身にもなれっつうの! 一体なにが不満な訳ー? もしかして、あの人間ちゃんのところから無理やりここに引っ張って来られたから、それで不機嫌な訳ー?」

「いや、単に酔えないというだけだ」

 雪渓は誤解を解こうとしたが、酔っ払いは聞く耳を持たなかった。

「あーの人間、さっき着替えさせてやったんだけどさー、もー衣脱がせてみてびっくりだよー。すっごい厚着してんの。小犲族は、あれをなんだと思ってたんだろーねー? たーだ獣態になれないってーだけの変異個体ちゃんをー、人間様ーって崇めてたのかねえ? それにしてはー、あっさり差し出したけどー」

「林霏、あまり飲むと明日の行軍に障る」

 雪渓はとうとう忠告を口にしたが、縞猫族の女は、またごくりとマタタビ酒を飲み下して、話を続けた。

「それでさー、手当てン時は気ィ付かなかったんだけどさー、あいつってば、首に変な飾りもん下げてんだよねー。なーんか、衣の一番下に隠してんだけどさー、着替えさせる時見えた訳よ? それで、『それなに』って訊いたら、ぶっあいそうに『飾り』って答えんの。ンなこと訊いてんじゃねー、見りゃ分かるっつうのよ。ほーんと、やな奴なんだからー」

「林霏」

 雪渓はたしなめる顔で、もう一度忠告を試みる。

「本当にもう、やめた方がいい」

 しかし林霏の口は止まらない。

「人間なんてねー、気にしてる場合じゃないっつうの。分っかるー? 分っかんないでしょー? だからあんたは駄目だっつうのよー。ほーんと駄目駄目なんだからー」

 雪渓は溜め息をついた。本当に自分は「駄目」なのかもしれない。

(こんな時、あいつなら、もっとうまく対応するんだろうが……)

 ふと雪渓の心に浮かんだのは、一腹の兄の面影である。雪渓とは違い、話し上手で、人付き合いの巧かった兄。そもそも兄ならば、林霏にここまで心配させはしなかったろう。

 心配をかけている――と、そう感じた。林霏は、優し過ぎる。

(俺のことなど、放っておけばいいものを……)

 確かに自分は彩雲に構い過ぎている。人間という存在に対する関心と、過去の自分に重なる姿への同情心で、つい彩雲に感情移入し過ぎた。だが、王都に帰還した後まで彩雲を気にかけてはいられない。そんなことをしていては、危険なことになる。林霏はそれを危惧しているのだ。

 ガタッと不意に音がした。見れば、林霏の手から空になった杯が落ちて、床に転がっている。拾おうと雪渓が椅子から立ち上がった途端、今度は林霏自身が崩れるようにして、椅子から床にずり落ちた。

「おい――」

 雪渓が声をかけた時はもう遅い。獣態に戻った林霏は、床の上で幸せそうに目を閉じてしまった。

「林霏」

 呼んで、紅色の衣を着た体を揺すっても、ネコに起きる様子はない。仕方なく、雪渓は苦労してネコを抱え上げた。鎧を着けていないのがせめてもの救いだが、四つ足をぶらんと垂れた体は重い。青年はなんとかネコを肩に担ぐと、卓の上に二人分の飲み代を置いて、酒場から出た。

 空には、大月と小月が仲良く浮かんでいた。雪渓は林霏を担いだまま足を止めて、月を眺め、澄んだ夜気を呼吸する。やはり、多少酔ったのだろうか。月が美しいという、ただそれだけのことで、切ない気持ちになる。

(生きているなら――)

 どこかで、同じように月を見上げているだろうか。

(戻って来い、碧渓(へきけい)

 祈るように心中で呼びかけると、雪渓は家々の灯りに照らされた石畳の道を、自分達が泊まる、鎧冑その他を置いた宿屋へと歩み始めた。


     二


 早朝の修練場で、銀髪を首の後ろで束ねた青年は、静かに刀を振るっていた。彼の愛刀は、幅広で反り返った刃を備えた、切れ味鋭い鎌形刀である。そのきちんと研がれた鋭利な刃で、彼は宙に思い描いたなにかを、次々に両断していた。

「精が出るな」

 澄空(ちょうくう)が扉のところから前置きなく声をかけると、青年――深潭は振り向き、刀を下ろす。整った顔立ちの中の、琥珀色の双眸が真っ直ぐに澄空を見つめる。

「おはようございます、叔父上」

「ああ、おはよう」

 王弟・澄空は気さくに応じて修練場の中へ入ると、中央に立つ深潭に対し間合いを取るようにして足を止め、板張りの場内を見回した。早朝のこの時間は深潭が毎日使っている為、〈十幹〉や兵達も心得て遠慮しており、広い場内はしんとして他に誰もいない。

「もうすぐ帰ってくるな、天飆達」

 澄空は、深潭へ視線を戻して言った。

「ええ」

 相槌を打った深潭は、大して嬉しそうでもない。

「なんだ、久し振りに弟が帰ってくるというのに、浮かない顔だな」

「あいつももう二十歳です。一人前の王子が辺境の弱小な一部族を下して帰ってくるというだけのことで、一々浮かれてなどいられませんよ」

 冷たい答えに、澄空は微かに苦笑した。幼い頃から、深潭は天飆に対していつも手厳しい。だが決して冷酷ではないのだ。

「しかし、あいつの方は、お前と離れていて寂しかったと、喜んで帰ってくるだろうな。出発前も、お前にだけは長々と話しかけていたしなあ」

「あいつは自覚が足りないのですよ」

 深潭は愛刀を腰の鞘に戻し、素っ気無く言った。

「いつまでも子供の頃のように馴れ合っていればいいと思っている。甘いのです。王位継承権第一位という自分の立場が、まるで分かっていない。あのままでは、いずれ清霄に蹴落とされるでしょうね。この国の未来の為には、その方がいいのかもしれませんが」

 いつになく饒舌になった甥を見て、澄空は微笑みを浮かべる。澄空も先王の妾腹の子であり、同じく妾腹の子である深潭をずっと気にかけてきた。そして深潭が、二つ年下の異母弟・天飆を如何に憎み、そして如何に慈しんできたかを、ずっと見てきたのである。深潭は、第四王子・清霄には単なる異腹の兄として接してきたが、天飆に対しては真に兄なのだった。

「俺は、あいつに期待しているんだがな」

 澄空は微笑したまま言うと、

「邪魔したな」

 軽く手を振って、修練場から出た。



 叔父の大きな背中が内宮の方へ去るのを見送った深潭は、小さく溜め息をつく。彼とて天飆をそれなりに評価しているのだ。だが――。

 深潭はシャッと愛刀を抜き放ちざま、鋭利な刃を一閃させて空を切った。天飆は、王の器ではない。最近、徐々にその思いが募ってくる。

(第一、あいつは大王になりたがってなどいない……)

 ダンッと踏み込んで更に三度連続して空を切ると、深潭はゆっくりと刀を下ろし、鞘に収めて、修練場を後にした。


          ◇


 突発的な殺意や抑えきれない憎悪は、やがて時間に洗い流される。だが、許せないという思いだけは、如何に時が過ぎようとも、朽ちることなく胸の内にあり続けるのだ。それは、亡くした者への愛情と表裏一体の、決して消えることのない思いだった。

(俺は、貴方が許せない)

 大剣と弓袋を背負った黒いオオカミは、急な斜面を規則的な足取りで登り続ける。

 薄雲がかかった空からは柔らかな日差しが降り始め、周囲の木々の枝では、鳥達が大分前から賑やかにさえずり交わしている。それらに心地良さを覚えながらも、青年の心が完全に晴れることはない。恐らく、もう、永遠に。

(月華、俺は、雪渓を殺す――)

 登り続けたオオカミの視界が、不意に開けた。そこは尾根の上で、眼下には、向こうの地平線に至るまで平原が広がっている。川がゆるやかに蛇行する広大な平原だ。その川に寄り添うようにして建物が点在し、街道が通り――、そしてその、巨大な城郭都市もあった。

 川から水路を引いて造られたその都市の周囲は、郭とも呼ばれる外の城壁によって守られ、その内側には市街が広がっている。普通の都市と異なるのは、更にその内側に、内の城壁によって守られた、広々とした緑の庭園や石畳の広場を備えた宮殿があるという点だった。

「王都――」

 呟いた姿は、最早オオカミではなく人である。

 黒雨は、険しい眼差しで遥かに霞んだ目的地を睨み据えると、尾根に沿って、山を下り始めた――。


          ◇


 軍列を整えた遠征軍は、再び歓呼の声を浴びながら、昨日通った城門の反対側にある城門を潜って町を出た。

 城壁の外は、また長閑な田園風景である。しかしそこを縦断する街道は幅広くしっかりとしており、王都が近いことを示していた。

(行きたくない……)

 ゆらゆらと揺れる輿の中で、彩雲は、ぽつりと思った。今更だが、王都に行くのが怖くなっていた。どんな扱いを受けるのか、どんな暮らしが待っているのか、まるで分からない。

(行きたくない……)

 王都に着けば、雪渓や林霏とも、会えなくなるかもしれない。

(――おかしいな……)

 ふと彩雲は薄く笑った。小犲族の集落を出てから、ずっと独りぼっちだったはずなのに、大して淋しいなどと思わなかった。それが今は、王都で孤独になることを恐れている。〈十幹〉の二人と離れることを、恐れている。

(怖いよ、雪渓……)

 少女は横向けに寝た体を丸め、両腕で自分の体を抱き締めた。

(母さん……! 怖い、とても、怖いよ――)

 目頭が熱くなり、涙が滲んだが、彩雲はそれを拭おうともせずに、ただ固く固く自分を抱き締めていた。



 多少うとうととしていた天飆は、輿が一際大きく揺れた時にハッと目覚め、そして、傍らの少女が体を丸くしているのに気付いた。

「……もしかして、腹でも痛い……?」

 訊いてみたが、返事はない。意識がないようには見えないが、人間の体は、自分達人獣よりも弱いと聞いていた。

(もしかして、やばいのかな……?)

 じりりと、天飆は揺れる輿の中人間ににじり寄って、薄茶色の髪のかかる顔を覗き込む。少女の目元が、濡れていた。

(なんだ……)

 天飆は、ほっとして少女から離れた。人間は、ただ泣いているだけなのだ。

(……でも、鬱陶しい……)

 思ってから、天飆は、自分も昔そうして泣いていたことを思い出した。小さい頃の彼は、感情の表し方が分からず、怒りや悲しみが募ると、ただ体を丸めて泣いていた。そして、そんな時はいつも深潭がどこからか匂いを嗅ぎ付けてきて、黙って天飆の背中に手を置いたのだ。その手を払い除けたこともあるが、それでも異母兄は、泣いている天飆の傍を離れようとはしなかった。

(……深潭)

 生真面目で不器用だが、誠実で優しい異母兄。ふと、天飆は仄かに笑った。

(また眉間に皺寄せて待ってるのかな……)

 王都までは後一日の道のりである。帰って異母兄の顔を見ることだけが、楽しみだった。


     三


 王都の周囲を守る外の城壁は、近付くにつれ、その高さを増していくかに思われた。優に四丈分はあって、とても跳び越えられるものではない。また、切り出した石を隙間なく垂直に積み上げ、漆喰で目張りされたその表面に、足掛かりになりそうな場所は一つも見つけられなかった。

 黒雨は威容を誇る外の城壁を睨み上げ、越えるのは無理だと悟ると、視線を動かして城門の方を見た。外の城壁に囲まれた王都への出入りは、東西南北に設けられた四大門に詰めている衛兵達が管理している。黒雨の視界にあったのはその内の西大門で、巨大な門扉は街道を飲み込むように開かれていたが、そこを通る人獣や馬車の流れは滞りがちで、衛兵による出入りの検査が厳しく行われていることを示していた。

(ここまで街道を避けてきたのが、無意味になったか)

 仕方ない、とあっさり結論を出すと、黒雨は西大門に向かって歩き始めた。衛兵達を振り切る自信はある。後は、闘技大会が始まるまで王都の中で潜伏していればいい。建物に埋め尽くされた王都のことだ、隠れる場所など幾らもあるだろう。

 堂々と近付いてきた黒雨を、衛兵達は眉をひそめて見つめた。黒い長衣の上に黒い帯を締めた黒髪の青年から、それと明らかな狼族の匂いがする。まるで、全身で自分は黒狼族だと主張しているようだ。

「何者だ……?」

「間違いなく黒狼族のようだが……」

 衛兵達は黒雨に視線を注いだまま互いに囁き交わした。未だ狗王国に服属を誓っていない黒狼族が、何故人目もはばからずこんなところにいるのか。

(なんのつもりか知らんが、とにかくここを通す訳にはいかん)

 西大門の衛兵隊長・凍原(とうげん)は決意を固め、一歩前に進み出る。

「――貴様、黒狼族だな?」

「ええ、そうです」

 黒髪の青年は答えた直後に獣態になり、凍原に飛びかかってきた。

 ガッ。

 凍原は手にした矛でオオカミの牙をなんとか防いだが、勢いを受け止めきれず、後ろへ倒れる。黒雨は構わず凍原の上を乗り越え、他の衛兵達が繰り出す槍を掻い潜って、開かれた門扉の内へ走り込んだ。頭上の物見台から矢が射掛けられたが、黒雨は街中目指して構わず走る。立ち止まったりすれば、それこそいい的になるだけだ。ところが、不意に視界の隅をなにかが過ぎって、左後足に絡み付いた。グッと引き止められて、黒雨は左後足を振り返る。足首に、端に分銅の付いた鎖が巻き付いていた。目で辿れば、ピンと張った鎖のもう一端は一人の少年が右手で握っている。しかし鎖はそこで終わらず、更に少年の左手の鎌へと繋がっていた。物見台からの攻撃は、少年が現れた為か、やんでいる。

「黒狼族か……」

 鎖鎌を手にした少年は、真剣な中にも複雑な顔をして言った。

(獺族か)

 黒雨は頭の中で思った。狼族よりも先に狗王国に目を付けられた獺族は、現在、西獺族と北獺(ほくだつ)族の二部族が王国の傘下に下っているはずである。状況からすると、彼を止めた少年は、その二部族の内、どちらかの出身ということのようだった。

(――邪魔をする者は、殺す)

 黒雨は、躊躇なく少年に襲いかかった。左後足に巻き付いた鎖が引かれるより速く少年に達すれば、鎖分銅など多少重いというだけで問題ではない。獺族の少年もそのことは先刻承知なのか驚かず、身を低くして咽と腹を庇い、鎌は振るわずにただその切っ先をぴたりと黒雨に向けた。動きの速い相手に対して、確実に身を守る構えである。黒雨はしかし鎌の刃を避けるのではなく、真っ向から飛びかかって右前足でその鎬を叩き、次に左前足で少年の左肩を踏み付け、最後に両後足で少年の背中を蹴って、少年の斜め後ろに着地した。続いて間髪入れずに四肢をたわませて、少年の首筋目掛けて飛びかかる、その寸前、

「そこまでだ!」

 凛とした、少女の声が響いた。黒雨が振り向くと、いつ間にか西大門のところへ、数人の騎馬兵に守られた馬車が一両現れている。声は、その馬車から上体を乗り出した、亜麻色の髪の少女が発したものらしかった。

「そこの黒狼族、人態になれ。三丙殿も、武器を引いて頂きたい」

 少女は言いながら、馬車から降り、黒雨達に歩み寄ってくる。匂いから、狗族であることは間違いない。

(何者だ……)

 訝る黒雨は、少女の背後に控えた騎馬兵の一人が掲げる旗に目を留めた。

(あの印旗……(けん)州侯……!)

 狼族を追い詰めたのは、狗王国の北州侯軍、そして乾州侯軍である。黒雨の双眸に、あからさまな殺気が宿った。一瞬で人態になり、少女を睨み据える。

「お前は、乾州侯か?」

「いや、私は侯の娘、乾州侯女だ」

 少女は答え、そして冷ややかな笑みを浮かべた。

「そうか、乾州侯が憎いか」

 独り言めいた口調で言い、琥珀色の双眸で、改めて黒雨を見つめる。

「だが、ここでの騒ぎはまずい。……そうだな、我が家に雇われる気はないか? 丁度、戦士が一人欲しかったところなのだ」

 少女の挑戦的ともいえる言葉に、黒雨は眉をひそめた。「憎いか」と言っておいて、雇うとはどういうつもりなのか。だが、彼の疑問などお構いなしに、少女はさらりと言葉を続けた。

「近く、闘技大会が開催されることを知っているか?」

 黒雨は少女を凝視して動きを止めた。

「大王陛下の御命令でな、州侯は、それぞれ一人、戦士を闘技大会に出場させねばならぬのだ」

 少女の説明は、何故、黒狼族である彼を雇うかの答えにはなっていない。しかし、闘技大会参加の足掛かりを得る、せっかくの好機を逃す訳にはいかなかった。

「――いいだろう」

 黒雨は冷ややかに少女を見据えて応じた。



「乾州侯女・沙磧(させき)、か……」

 王都の中へ去って行く馬車と騎馬兵達、そして黒狼族の青年を見送りながら、飛瀑は呟いた。彼ら西獺族を服属させたのも、乾州侯軍だ。そして現在、その乾州侯軍を病弱な乾州侯に代わり実質的に動かしているのが、一人娘の沙磧だと言われていた。

(でも、あの黒狼族、一体なんでこんなところに……)

 いやな予感がする。

(面倒なことにならなきゃいいけど……)

 飛瀑は深刻な顔をして鎖を鎌の柄に巻き付けると、会釈する西大門の衛兵達に手を振って、とりあえず夕方の散歩を再開した。


          ◇


 小月だけが残った夜空の下、紫色の衣を着た黒いオオカミは、平原を何度も行き来して辺りの地面を嗅いでいた。だが、幾ら捜してみても、ない。

(あの野郎、やっぱ引っ返して来てねえ。ってことは)

 オオカミ――残星は頭を上げ、向こうに見える王都の西大門を見た。ここまで辿ってきた黒雨の匂いは西大門へ向かい、そして引き返してきた匂いはどこを捜してもない。つまり、黒雨はなんらかの方法で王都への侵入に成功したのだ。

(こりゃ、厄介だな……)

 思った残星の脳裏に、朗月の顔が蘇った。あの真摯な眼差しには逆らえない。

(仕方ねえ、俺もなんか方法を考えるとすっか……)

 残星は、とりあえず、落ち着ける木立や薮のある山の方へ、来た道を戻り始めた。


          ◇


 黒雨は案内されるまま、夜の街にちらちらと視線を走らせながら歩いていた。これまでは遠目に見るばかりだった王都。中に入ったのは初めてである。

「もうすっかり祝祭気分だな」

 前を歩く少女が、皮肉な口調で呟いた。その言葉通り、主な街路はどこも飾り付けがなされ、火の点った提灯が明々と並んでいる。人通りも多く賑やかだ。奥地で暮らしてきた黒雨にとっては、かなり異様な光景だった。

「随分と無駄に明るくしている」

 黒雨が呟くと、沙磧はやや複雑な表情をした。

「そうだな……」

 相槌を打って、口元に微笑を浮かべる。

「これは私の推測だが、恐らくは、より人らしい生活を求めてのことではないかな」

「……『人らしい』?」

 黒雨は、僅かに知的好奇心を刺激されて聞き返した。



「そう、人らしい、文明化された生活。我々狗族は、何故かそういうものを求めてやまぬ種族なのだ」

 説明してみた沙磧は、浮かべた笑みが小さく歪むのを自覚した。

(だから人間などを有り難がるのか? 大王は、一体何故、人間などに執着する?)

 沙磧には、人間に関する大王の一連の命令が、ひどく不可解だった。裏に、なにかあるとしか思えないのだ。



 不意に黙ってしまった少女を、黒雨は訝しげに、警戒を顕にした顔で見下ろした。提灯の光を映す彼女の亜麻色の髪は然程長くなく、白い首筋は半ば顕になっている。その髪の下から覗いた首筋の感じが、亜麻色と黒色という毛色の違いはあっても同じような髪型だった月華を、時折彷彿とさせる。

(月華……)

 黒雨は険しく目を細めた。同じ年に生まれた、腹違いの妹。生きていれば、黒雨と同じく十八歳になっているはずの異母妹は、彼の心の中で永遠に少女の姿のままである。

(あいつを殺したのは、狗王国と、白狼族――)

 斜め前を歩く亜麻色の髪の少女は、利用価値があるとはいえ、そもそも敵なのだ。用心するに越したことはない。

「――なにを企んでいる?」

 冷ややかに、黒雨は問うた。

「企む?」

 少女は暗い笑みを大きくして、黒雨を振り仰ぐ。

「それを言うならお前こそ、闘技大会など、お前から見れば下らぬ余興だろうに、何故私の誘いに乗った?」

 探る少女の眼差しを、黒雨は冷徹に受け止める。

「俺は闘技大会に出る為にここへ来た。大会参加者の中に、殺したい奴がいる」

 底冷えのする声で返された答えに、少女はほんの僅か目を見開いたが、

「成る程、そういうことか」

 と低く呟いた。

「その『殺したい奴』というのは、壬雪渓――だな?」

 黒狼族と白狼族の確執は、狗族の間では語り草になっている。黒雨は僅かに眉間に皺を寄せただけで、黙ったまま、否定しないことで肯定を表した。

「ならば、お前は運がよかった」

 沙磧はやや声を高くして言う。

「大会に出る戦士には、皆後ろ楯が必要なのだ。〈十幹〉の後ろ楯は当然大王陛下だが、彼らに挑む戦士には州侯の誰かの後ろ楯が要る。単身乗り込んでいって出場できるものではないのだよ」

 成る程、と思って黒雨は微かに眉根を寄せる。ここで州侯女と会えて運がいいという思いより、狗族への嫌悪の方が勝る。



「……用心深いことだな――」

 感謝など微塵も表さず、冷ややかに言ってのけた青年の横顔に凍て付いた憎悪を見て、沙磧は、吹雪の山の暗く重い寒さを感じた。


     四


 王都への凱旋を前に、彩雲は再び馬車の檻の中へ移されることになった。彼女の骨折はまだ直りきってはいなかったが、やはり王子の輿に人間が同乗しているというのは、まずいらしい。

「これでまた、景色がよく見える……」

 雪渓に馬車まで運ばれながら、彩雲は平原の彼方に輝く朝日に目を細めて呟いた。



 南大門の門扉は大きく開け放たれ、多くの衛兵達が左右に整列して、遠征軍の凱旋を今や遅しと待ち構えていた。そこへ、軍列を正した遠征軍は堂々と進んでいく。

(さ、次は闘技大会、か)

 気持ちを切り替えた林霏の目に、衛兵達より奥に並んで待つ、〈十幹〉達の姿が飛び込んできた。

(あ、皆……!)

 王都に残った同僚達とは、実に二ヶ月振りの再会である。

(飛瀑も沛沢(はいたく)も元気そう。夕靄(せきあい)、相変わらず綺麗な衣着てるし、素影も相変わらず義務ですって顔しちゃって。崇阿(すうあ)も、ほんと久し振りだなー。巒丘の奴は、まーた嫌味な笑い方して。幽谷(ゆうこく)も、ちゃんといるし。……と、あれ、冽泉(れっせん)だけいない……。なんか仕事言い付けられて、出てるのかな……)

 とにかく、〈十幹〉の殆どが集まっている。それだけで林霏は嬉しい。

(今晩、兵舎であたしらだけの宴がやれたらいいなー)

 素影辺りが、ささやかなりとも酒肴を用意したりしていないだろうか。林霏は小さな期待を胸に抱きつつ、規則正しく歩みを進めた。

 待ち受けていた〈十幹〉達はきちんと列を組むと、遠征軍の先頭に合流して先導者となり、遠征軍は彼らに率いられて、王都の中央を通る大路を王宮へと、凱旋行進していった。大路の両側には今まで通ってきた町々を軽く凌ぐ分厚い人垣ができており、歓呼の声は、まるで嵐のようである。



 檻の中の彩雲は、衆目が自分に集中するのを感じながら、石畳で跳ねる馬車の揺れに耐えて、毅然として座っていた。直りきっていない骨折が痛んだが、弱っているような姿を、王都の住人達の目に晒したくなかった。

 王宮は、市街と宮殿とを分かつ、外の城壁と同等に堅固な内の城壁に囲まれているが、南向きの城門――南宮門を開いて、遠征軍の入宮を歓迎した。

 民衆に代わり、百官が左右に並んで歓呼の声を上げる中、遠征軍は奥を目指しゆるゆると進んでいく。

(なに……? この大きな建物……)

 彩雲は、心ならずも目を丸くして、格子の外を過ぎていく眺めを見ていた。街中とは違い、人垣の後ろにあるのは漆喰の塗られた滑らかな塀や門、或いは広場で、住むような場所が見当たらない。だが、全ては一続きに並んでいるので、同じ建物内だと知れた。

 やがて遠征軍は、石畳が敷き詰められた四角い広場のようなところに出た。だだっ広くて灰色しかないところだと彩雲が周囲を見回していると、

「全軍停止!」

 と前の方から号令が聞こえ、少し遅れて馬車が静かに動きを止めた。馬車の横に付いていた雪渓、林霏や、他の兵達も歩みを止め、改めて軍列を整える。その動きは小波のように列の後ろへ伝わっていき、間もなく、遠征軍全体の動きが止まった。

 聞こえていた歓呼の声もぴたりと止み、しんとした中に、馬の低い嘶きだけが聞こえる。

(なにが起こる……?)

 状況の読めない彩雲は、一人眉をひそめた。兵達は皆直立不動で前方を注視している。だが座ったままでは、馬車の高い御者席が邪魔で前方がよく見えない。

(なにか始まる……?)

 彩雲は意を決し、伸び上がるようにして檻の中で立ち上がった。

 前方には広場と同じ横幅の階段があり、それを上がりきったところに、壮大な建物を背景にして、ごてごてと異様に着飾った人々が並んでいていた。獣態になった時に困るだろうと思う、髪飾りや冠、裾を引きずる重そうな衣服。そういったものを身に着けた彼らが、彩雲が初めて見る、狗王国の中枢に位置する王族と諸侯、諸官達だった。

 と、彩雲の視界に、階段を登っていく青年の姿が現れた。

(天飆?)

 背格好とたなびく砂色の髪でそれと分かったが、しかし青年は、いつもの身軽な格好ではない。頭には冑を被り、上着と袴の上にきちんと鎧を着け、足には革靴を履いている。そのどれもに飾りが付いていて、階段の上に並んだ人々に劣らない、ごてごてとした格好だった。



 階段を登りきった天飆は、ちらと視線を動かして異母兄を見た。深潭は、周囲の王族達同様きちんと礼服を着て、真面目腐った顔をしている。

(相変わらず、堅苦しくしてる……。なんでそんなに忠実なんだか……)

 呆れた思いを表情には出さず、天飆は、並んだ人々の中央に椅子を置かせてただ一人座っている、顎鬚を生やした大柄な男の前に歩いていった。

(……こんな男に)

 思いながら、さっと居住まいを正して跪き、口を開く。

「第三王子・天飆以下小犲族征討軍、ただ今帰還致しました。陛下の御命令通り、〈生まれながらの人〉の保護にも成功致しましてございます」

 淡々と述べた後、天飆は上目遣いに目の前の男――狗王国大王にして彼の父親たる、玄穹(げんきゅう)の顔を見る。

「すぐ、御覧になられますか?」

 問うと、玄穹は重々しく頷いた。

「御意のままに」

 天飆は答えて数歩後退り、階段が始まる端のところで身を起こす。立ち上がってスッと背筋を伸ばし、眼下に整列している、率いてきた軍を見下ろした。人間を乗せた馬車は、軍列のやや後ろ寄りにある。

(しん)林霏、壬雪渓、人間をこれへ」

 天飆はよく通る声で、馬車の傍らに控えた〈十幹〉二人に命じた。



 ドクンと、彩雲の胸の中で心臓が重い鼓動を打った。輿の中とは全く様子の異なる天飆に半ば呆気に取られて見入ってしまっていたが、しかし、これからが本番なのだ。

 素早く動いて檻の鍵を開ける雪渓を、彩雲は緊張した面持ちで見つめる。一瞬二人の目が合ったが、お互いに無言のまま、檻の扉を開けた雪渓がつと伸ばした手に彩雲は掴まり、半ば抱えられて馬車から降りた。

 雪渓の横で待っていた林霏が、彩雲に気遣わしげな顔を向け、小さな声で、

「あそこまで歩けるかい?」

 と問うてきた。

「なんなら、あたしが抱えていってもいいけど?」

 身を屈めてくる縞猫族の女戦士を尻目に、彩雲は遠く離れた階段の上を見つめる。確かにあそこまでは距離があり、特に階段を登るのは困難だろう。だが――。

「自分で行く」

 彩雲は〈十幹〉二人にきっぱりと告げた。



 毅然として歩き出した少女の後に続いて、雪渓と林霏も歩き出す。軍列の真ん中を通っていく彩雲達に、兵達は無言で道を空けていった。

(あれじゃ、まるで王侯貴族の登場だ……)

 天飆は、軍列を縦断してやって来る人間の少女を冷ややかに見下ろしながら思った。整列した兵達にわざわざ道を空けさせて歩いて来る姿は、高貴な身分を主張しているようにしか見えない。

(わざとか、或いは無意識にか。どっちにしろ、最初っから玄穹の反感を買ったね)

 天飆と同じことを思ったのか、大王の周囲に控えている王族、諸侯、百官達から低いざわめきが生じた。しかし、大王本人はなにも言わない。微妙な緊張感が漂う中、彩雲と雪渓、林霏は、階段の下まで辿り着いた。



 彩雲は階段を見上げ、顔をしかめた。骨折箇所が、悲鳴を上げていた。直りかけ、くっ付きかけている部分が熱を持ち、疼いている。特に右足の複数の骨折箇所は疼きがひどく、殆ど体重をかけることができなくなっていた。

(片足ずつ交互に上げて階段を上がるのは無理……)

 彩雲は、目の前の一段目を睨み付ける。一段の奥行きは二歩分余りあるが、段差は然程大きくない。

(なんとか、いける――)

 彩雲は一瞬だけ右足に体重をかけて、左足を一段目の上に乗せた。そして左足に力を込めて右足を引き上げ、同じ一段目の上に乗せる。そうして一段ずつ登っていくしかなかった。手を付いて登る程傾斜の大きな階段ではないし、そんな真似もしたくはない。彩雲はびっこを引いて二段目のすぐ前まで進むと、激痛に耐える心積もりをして、再び一瞬だけ右足に体重をかけた――。

 ぐらりと、体が傾くのが分かった。力の入らない右足は、最早全体重を支えなかった。反射的に左足や両腕が動いて平衡を保とうとしたが、無理だった。視界が回り、彩雲は衝撃を覚悟した。

 ガッと肩の辺りを支えられ、次いで掬い上げるように抱き上げられて、彩雲は軽い眩暈を覚えた。心臓が、今更ながらに激しく鼓動を打っている。少し、冷や汗も掻いた。呼吸を整えながら目を上げると、彼女を抱き上げた青年の、冑の陰の厳しい横顔が見えた。彼はそのまま彼女を下ろさずに階段を登っていく。軽く口を引き結んだその顔から自分の胸元に視線を戻して、少女は唇を噛んだ。



 林霏は、両腕で彩雲を抱き抱えた雪渓に一歩遅れてついて行きながら、心中で溜め息をついた。こういう状況になることを危惧して、彼女は最初に「なんなら、あたしが……」と申し出たのだ。

(雪渓がこの人間に執着してるなんていうふうに、見えなきゃいいけど)

 この王宮の中では、なにが命取りになるか分からない。弱味となる、なにかに対する強い執着など、一つも知られていれば、充分なのだ。

(これ以上、背負うものを増やすんじゃないよ、雪渓……)

 林霏の心配を他所に、雪渓は規則正しい歩みで階段を登っていく。歩調を合わせて段を踏みながら、林霏は頭を切り替えて、大王に対する時の畏まった表情を顔の表面に張り付かせた。



 階段の上で待ち受けていた天飆は、雪渓から彩雲をまるで荷物のように受け取り、〈十幹〉二人はその場に跪かせて、自ら玄穹の前に人間を運んだ。

「こちらが〈生まれながらの人〉、即ち人間でございます」

 言って、天飆は彩雲を下ろし、玄穹の目の前に立たせる。玄穹は、その小柄な少女を、じっと見つめた。

 黒いが、黒狼族のような漆黒ではなく、やや茶色味を帯びている、細く癖のない髪。白く張りのある肌。瞳の色は、狗族の大部分や狼族、犲族などの琥珀色よりもずっと濃く、猿族などの葡萄色よりも更に濃い、鳶色。そして、独特の匂い。

(間違いない、こやつだ)

 九年間捜し続けた〈生まれながらの人〉が、目の前にいる。玄穹は、心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。

「陛下」

 冷静な声を耳元に聞いて、玄穹は振り向いた。すぐ傍らに控えていた侍従長・皦日が、身を屈めて、間近から彼の顔を見ていた。

「この〈生まれながらの人〉、陛下の先の仰せ通り、内宮(ないぐう)西殿(せいでん)に置く、ということで宜しゅうございますか?」

 確認されて、玄穹は重々しく頷き、

「連れていけ」

 と短く命じた。

「御意のままに」

 皦日は答えると、背筋を伸ばし、パンパンと両手を打ち鳴らす。すぐに二人の少年が、並んだ人々の間から走り出てきた。皦日の部下である侍従達である。

「〈生まれながらの人〉を、内宮西殿の例の部屋へ」

 皦日の命令に従い、二人の少年は優雅な動きで彩雲の左右に付くと、おのおの少女の腕を掴んだ。



 彩雲は抵抗しなかった。彼女はただ、大王に向かって跪いたままの雪渓を振り返り、無言で別れを告げただけで、大人しく二人の侍従に連れられていった。


          ◇


 分厚い人垣が崩れ、右も左も分からなくなった人込みからやっと逃れ出て、十五歳の少女はほっと一息ついた。

「大丈夫でございますか、姫様?」

 顔を覗き込んで心配する侍女に頷いてみせ、少女は苦笑する。

「駄目ですね。普段宮殿の奥に引っ込んでいると、これだけのことで気分が悪くなってしまって」

「けれど姫様は、元々そう丈夫な方ではないのですから。今回のことも、わたくしは反対だったのですわ。姫様を、このような群衆の中にお連れするなど」

 歳若い侍女が興奮に任せて言った言葉に、少女は顔から笑みを消し、目を伏せた。自分は確かに体が弱い。生まれ付きの欠陥(・・)の所為だろう。しかし、その欠陥のお陰で宮殿に召し上げられ、なに不自由なく暮らしてこられたのだ。

「そう言わないで下さい」

 少女は建物の影が落ちた石畳に視線を落としたまま言った。

「私でないと分からないこともありますし、それになにより、私が、直にこの目で見たかったのですから」

「――それで姫様、どうだったのですか?」

 真剣な表情で、声を低くして問うてきた侍女に、少女も真剣な表情をして、

「恐らくは、――本物(・・)だと」

 低い声で告げた。

 人垣を縫ってなんとか最前列に陣取り、少女は、通り過ぎていく馬車を見た。護衛する兵達の隙間から、格子の中の〈生まれながらの人〉を見た。

「確証はありません。人込みで匂いも散漫でしたし。――でも」

 仕草が、座った姿勢で足を踏ん張ったあの様子が、人間だった。あんな瞳の色の人獣を見たことも、ない。それに。

「嶔崖が言っていたこともあります。間違いないと、思います」

 結論を述べて、少女は街路を行き交う人々の向こう、城壁に囲まれた王宮を見つめる。彼女の名は細颸(さいし)。猱族の嶔崖にかの人間の奪取を依頼したのは、彼女の育ての親であり、猿族の首長である、溟沐(めいもく)であった。


     五


 乾州侯が王都に構えた邸の、二階建ての館の露台からは、王宮を間近に望むことができた。といっても、内の城壁の外からである。宮殿内の人々の動きなどは分からない。ただ、あちこちに灯りの点った王宮の眺め自体は、非常に美しく、見飽きないものだった。

「しかし、目の前を殺したい相手が通ったというのに、よく我慢できたな。尤も、お前がそう約したから、私と共に見物に出ることを許したのだが」

 露台の手摺りに凭れた沙磧は、純粋に感心した様子で言った。黒狼族の青年の内にある殺意は静か過ぎて、時折その存在が分からなくなる。

「今は、あいつを襲う必要がない」

 黒雨は王宮を見つめたまま淡々と答えた。

「雪渓は、闘技大会でなら最後まで俺の相手をすると言った。だから俺も、その時までは待つ」

 妙な信頼関係だ、と沙磧は思ったが、口には出さない。二人の間に暫し沈黙が流れ、やがて今度は黒雨の方が先に口を開いた。

「――どういうつもりで俺を雇った?」

 言って、青年は目の端で沙磧を見下ろす。

「俺は黒狼族だ。未だ、お前達に服従していない部族の人獣を、何故雇った?」

「……黒狼族とは、もう縁を切ったと言わなかったか?」

 沙磧は眉をひそめて問い返した。雇った日の夜、黒雨自身が、自分は黒狼族とは縁を切っていて、狗王国になにかしようという気はないと明言したのだ。

「確かに言った」

 青年はあっさりと認め、そして沙磧に向けた眼差しを鋭くする。

「だが、お前が俺を雇うと言った時には、まだ言っていなかったはずだ」

 訝る黒雨から視線を外し、沙磧は王都の夜空へ目を遣った。星が瞬き始めた藍色の空を見ながら、彼女は、二歳年上だったかの少女の面影を心に蘇らせる。

「……私が一方的に背負わされたものを、少しでも軽くしたいと思ったのだ」

 返した抽象的な答えに、黒雨は沙磧を見つめたまま微かに眉を寄せた。沙磧は続けて言った。

「私は、月華が好きだった」

 意外な告白だったのだろう、黒雨は沙磧を凝視する。沙磧は、王都の夜空を眺める目を細め、話し出した。

「勿論、私と彼女とは敵同士の立場にあったが、しかし、そんな立場を超えて、私は彼女が好きだった……」

 当時十一歳だった沙磧は、まだ乾州侯軍の中枢にはおらず、ただ将来に備えて父親について来ていた。最初に沙磧が月華と会ったのは、本当の偶然だった。陣営を離れ、水を飲みに近くの川を訪れたところ、陣営の様子見に来ていた月華を見つけたのである。向こう岸の薮から現れた小柄な黒いオオカミと目が合った時、沙磧はどうしていいか分からず、暫し川を挟んでそのオオカミ――月華と対峙した。

「父に報せる為逃げるべきか、或いは逃がさぬよう追うべきか、私には咄嗟に判断がつかなかった。そして判断は、月華の方がつけてくれた」

 黒いオオカミは少女の姿になり、沙磧と目を合わせたまま微かに苦笑した。

――「私より年下ね」

 独り言めいた口調で言うと、あっさりと踵を返した。背中を見せた黒狼族の少女の意図が理解できず、沙磧は、

――「何故、私を見逃す?」

 と硬い声で問うた。すると月華は、肩に付かない程度の黒髪を揺らして振り返り、

――「敵であっても、自分より年下の者を殺すと後味が悪いということ。ただそれだけの理由よ」

 十一歳の沙磧から見ても妙に大人ぶった物言いで告げて再び獣態になり、足早に去っていった。

「実に爽やかな立ち去り方だった。私は暫くして陣営に戻ったが、ついに彼女と会ったことを父に報告できなかった。そしてその時から、彼女は私の中で特別な存在になり、死んでからは、一層特別な存在になった」



 詩でも口ずさむように語られた過去の情景に、黒雨は眉間に皺を寄せ、袖の陰で拳を握った。

(あいつは、優しかった……)

 抑えがたい悲憤が、体内で渦を巻く。

 亜麻色の髪の少女は、黒雨に視線を戻し、

「……だから私も、裏切り者の白狼族のことは嫌いなのだ」

 淡々と告げた。


          ◇


 彩雲は、生まれて初めて目にした絹張りの寝台の上で、蒲団の中に頭まですっぽり入れて丸くなっていた。蒲団の中の生温かい暗闇で目を開けたまま、じっと動かず、静かに呼吸しながら、全神経を背後の戸の方へと集中させていた。

 出入り口の戸の脇には、一人の少年が椅子を置いて座り、彼女を見張っている。彩雲をこの部屋に連れて来た二人の少年の片割れで、香霧(こうむ)と名乗った方である。もう一人の岫壑(しゅうがく)と名乗った方は、彩雲が寝台に寝た後部屋から出ていったきりであり、どうやら彼らは交代で彼女の世話と見張りをするようだった。

 彩雲は、蒲団の中で体を強張らせていた。最悪に惨めな夜だと思われた。彼女には、絹張りの寝台や蒲団とて馴染みがなく、不快で、おまけに明日からの己の運命が知れず、不安だった。

(いやだ、こんなところ、いたくない――)

 胸中で呟いてから、少女は小さく苦く笑う。最悪に惨めな夜は、本当はあの小犲族の集落から連れ出された日に訪れるはずだった。だが、彼女が惨めな思いに沈む前に、雪渓が来た……。

(――やっぱり、もう会えないのかな……)

 孤独が、胸を締め付ける。彩雲は息苦しさを覚えて、できるだけ音を立てずに蒲団から頭を出した。体温で温められた蒲団の中の空気よりも冷えた空気が顔に当たる。そっと澄んだ夜気を吸うと、少しだけ気持ちが晴れた。彩雲は寝台に横になってから初めての寝返りを打つことにした。香霧の視線を感じながらも、蒲団の中で一部が痺れた体を動かし、直りかけの骨折を気遣いながら、ゆっくりと仰向けになる。すると、高い位置にある明かり取りの窓から差し込む月光が見えた。更に少しだけ頭を動かし見てみると、やや黄色がかった青白い月光は、床に明るい円を描いている。綺麗だった。重く暗く、行き場がないように沈んでいた気持ちが多少なりとも癒されて、彩雲はそっと吐息を漏らした。

 雪渓は、この大きな建物の、一体どの辺りにいるのだろう。もう会えないとしても、あの青年には生きていてほしい気がする。

(……闘技大会で、死ななきゃいいけど……)

 彩雲は、首に紐で吊るした飾りを肌着の単の上から両手で押さえて、目を閉じ、白狼族の青年の為に祈った。母の無事を祈った時でさえ半分以上は自分の為だったので、純粋に他人の為に祈るのは、恐らく初めてのことだった……。



 深夜、専用兵舎内で林霏の期待通り〈十幹〉達だけの宴が行われたが、飛瀑の報告によって、全く盛り上がらないものになってしまった。

「しかし、そいつも自分達を攻めた乾州侯の娘に雇われるなど、尋常ではないな」

 通路の壁に凭れて立ち、腕組みした巒丘が、感心したように言った。

「それだけ白狼族に対する恨みが深いってことだろ」

 さらりと言ってのけたのは、(せい)族の幽谷。十癸(じゅうき)と呼ばれる、弱冠十二歳の少年戦士である。

「お門違いもいいところだけどね」

 二乙(におつ)と呼ばれる原狢(げんかく)族の青年・夕靄は突き放すように言って、雪渓を見遣った。兵装を解いた白狼族の青年は、通路に腰を下ろして、先程からずっと沈黙している。

「けど、そいつが雪渓と当たるとは限らないんだろう?」

 疑問を呈したのは、中犲(ちゅうさい)族の崇阿。六己(ろっき)と呼ばれている十六歳の美少女である。

「乾州侯女・沙磧は、やり手だ」

 巒丘が重々しく答えた。

「いずれにしろ、黒狼族の者が王都内に入り込んだという事実は、心に留めておいた方がよいようですね」

 素影が考え深げに意見を述べると、幽谷が薄笑いを浮かべた。

「少なくとも俺には関係ないね。酒が飲めるっていうから出てきたけど、鬱陶しい話し合いに付き合う気はねえよ」

 言って、くるりと皆に背中を向け、さっさと自室に引き上げてしまう。

「全く、もー、あのイタチっ子」

 林霏は顔をしかめたが、幽谷を止めようとは思わない。薄情な論理でいけば、確かに幽谷の言ったことは正しいのだ。

「全く無関係とは言えないと思いますがね」

 独り言のように発言したのは、冴えない顔色をした()族の青年・沛沢。五戊(ごぼ)と呼ばれている。

「幾ら乾州侯に雇われたとはいえ、黒狼族は未だ狗王国に服属していない部族です。この王都内にそういう人獣がいるとなれば、〈十幹〉である我々も気にしておいた方がいいと思いますが」

 〈十幹〉は厳密にいえば大王の命令でしか動かないが、治安を乱す者などを見かければ、先日の飛瀑のように狗族の為に働く立場にあるのだった。

「……そうだな……」

 素影は深刻な顔をして頷く。

「凱旋の時は何事もなかったが、闘技大会を待たずして襲ってくる可能性もなきにしもあらず、だしな……」

「それはない」

 静かな声で否定したのは、他でもない雪渓だった。

「彼には、私から闘技大会で相手をすると伝えた。彼は、闘技大会まで待つ」

 確信に満ちた言葉に、他の〈十幹〉達は一斉に雪渓を見つめたが、飛瀑が真面目な顔のまま小さく肩を竦めただけで、誰もなにも言わなかった。

「……あ、そうだ」

 訪れかけた重い沈黙を覆すため、林霏は口を開いた。

「ずっと訊きたかったんだけど、冽泉はどこ行ってるの?」

 ()族の冽泉は、彼らの中では最も古参の〈十幹〉で、一甲(いっこう)と呼ばれており、現〈十幹〉の筆頭の役目を担っている。

「大王の密命です。仕事の内容は知らされていません」

 素影が答えた。巒丘が、

「また、どこかの部族を調べに行かされたという噂だがな」

 と付け加えた。


     六


 妙な夢だった。彼女は、どこかの部屋にいた。明かり取りの窓から僅かな光が差すそこには、暗がりの中、いろいろな訳の分からない、しかし見ていて飽きないものが並んでいて、彼女はそれらのものを一つ一つ丹念に見ていく――。そんな夢だった。

(こんなところで寝た所為かな)

 彩雲は、さらさらとして寝心地の悪い蒲団から顔を出しながら思った。第一、彼女はここへ来て初めて、部屋などという奇妙な構造を見たのである――。

 明かり取りの窓からは、月光に代わって眩い朝日が差し込んでいた。その光に目を細め、彩雲が視線を転じると、こちらをじっと見ていた岫壑と目が合ってしまった。彼女が寝ている間に、香霧と交替したらしい。

「おはようございます」

 挨拶して歩み寄ってきた少年から目を逸らし、彩雲は寝台の上で起き上がる。全く慣れない、知らないもの尽くめの場所での不愉快な日々が、これからずっと続くのかと思うと、一気に心が重くなった。


          ◇


 内宮中殿の私室の居間で、提出された木簡に目を通した玄穹は、その内容に顔をしかめた。現時点で、闘技大会に出場を申告してきた戦士は、東州侯配下の(かく)族、南州侯配下の山狢(さんかく)族、(こん)州侯配下の小犲族、西州侯配下の大犲(だいさい)族、乾州侯配下の黒狼族、(ごん)州侯配下の北獺族の六名であるという。

「如何でしょうか?」

 木簡を持ってきてそのまま控えていた皦日が、抑揚に乏しい声で問うてきた。

「駄目じゃな」

 玄穹は失望も顕に言った。

(えん)族も(こう)族も出てこぬ。やはり我が国の支配下に収めねば、集まらぬか」

「まだ時はございまする。闘技に多様性を持たせる為、陛下が猿族、猴族の出場を望んでおられると、州侯らにそれとなく伝えておきましょう」

「うむ」

 皦日の申し出に承認を与えながらも、玄穹の顔は晴れない。

「お焦り下さいますな」

 皦日は、笑みの一片もない表情で言った。

「入手が最も困難であると予想された、要であるヒトは手中になされたのです。〈初めの十幹族〉も、既に八族が揃っております。計画は、すこぶる順調に進んでおりまする」

「……そうじゃな」

 玄穹は、過ぎ去った歳月を思いながら相槌を打った。


          ◇


 庭園で大剣を振る黒雨を、沙磧は露台から見下ろしていた。緑に注ぐうららかな陽光の中で、冷徹な目をした青年は、汗を散らしながら黙々と、無駄のない動きで右に左に虚空を薙いでいる。恐らくは、あの白い髪の青年を思い浮かべて斬っているのだろう。

「お嬢様」

 不意に背後から呼ばれて、沙磧は振り向いた。乾州侯家の忠実な家臣である湍水(たんすい)が、開けっ放しにしてあった露台と部屋とを隔てる扉のところに、難しい顔をして立っていた。

「どうした?」

 沙磧が問うと、湍水は、

「お話があります」

 とだけ言って、くるりと踵を返した。

 沙磧が怪訝な顔をしてついて行くと、湍水は広い部屋の中程、露台から差し込む陽光が届かない暗がりまで歩いて足を止め、再び彼女の方を向き、そして一呼吸置いてから、きっぱりと言った。

「彼を雇うことに、私は反対です」

 沙磧は険しく眉を寄せた。

「彼はもう正式に戦士として雇った。父上にも許可を頂いた。既に陛下へも御報告済みだ」

「では、彼を解雇なさり、新たな戦士を雇って、改めて陛下へ御報告なさいませ」

 一歩も譲らずに冷然と言ってのけた家臣を、沙磧はまじまじと見つめる。湍水には確かに融通の利かないところがあったが、主人である彼女達に対して、ここまで断固として主張することも珍しい。

「……何故そこまで彼を厭う?」

 沙磧が硬い声で問うと、湍水は酷薄そうに見える端正な顔をしかめた。

「『何故』と仰られるか」

 さも意外そうに言って、視線を沙磧の向こう、露台の方へ向ける。

「あの男は、我ら乾州侯軍の追撃を振り切り逃げ延びた生き残り。当然我らに恨みを抱いているはず。今はまだ白狼族への恨みの方が勝っているとしても、いつ何時我らに対し牙を剥いてもおかしくはない輩なのですよ?」

 沙磧は唇を噛んで俯いた。十一歳だった彼女は直接には戦闘に参加しなかったので、頭では分かっていても、やはり感覚として分かっていないらしい。黒狼族を征討したのは、彼ら乾州侯軍なのだ。黒狼族に最も恨まれて然るべきなのは、白狼族ではなく、彼らなのである。

(だが、それでも私は)

 あの西大門のところで、忘れかけていた狼族の匂いを嗅ぎ、黒いオオカミを見た時、助けたいという、贖罪にも似た思いに捕らわれたのだ――。

「話がそれで終わりなら、下がれ」

 沙磧は抑揚のない声で言った。

「私は彼を解雇しない」

「何故ですか……」

 湍水は納得いかないというふうに沙磧を見つめる。

「――下がれ」

 沙磧はもう一度、今度は低い声で命じた。

「――分かりました……」

 湍水は顔をしかめたまま頭を下げると、踵を返して部屋から歩廊へ出ていった。その背中を見送って、沙磧は露台を振り返る。暗い部屋の中から見た陽光は、眩い。王都の建物群の上には、快晴の青空が広がっている。

(この空の下に月華がまだ生きていたなら、私はもっと楽だっただろうか……?)

 黒雨に手を差し伸べたのは、月華に借りを返したかったからだ。もう永遠に返せないと思っていた借りを、返せるかもしれないと直感的に思ったからだ……。

(そう言えば、父上はどうして反対なさらなかったのだろう?)

 湍水があれ程反対することを、父は何故あっさりと承諾したのだろうか。

(父上も、あの戦いでなにかを背負われたのだろうか……?)

 白狼族による裏切りが語り草になったような戦である。それも充分あり得ることだと思われた――。



 恋着だろうか。

(まさか……!)

 ふと思い浮かんだ考えを、湍水は慌てて否定した。しかし、不安は拭い去れない。沙磧は確かに頑固だが、頭脳は明晰であるし、ここまで彼の言うことを聞かないというのも珍しいのだ。

(一体、どうなされたのか……)

 二十六歳の青年は、歩廊を行きながら眉をひそめた。


     七


 辺りを宵闇が覆い尽くした頃、王都の裏通りに面した古い宿屋の一室では、とある密談が始められた。

「で、人間の奪取の算段はどう致しますかな?」

 重々しく話を切り出して、猱族の嶔崖は、部屋の中に集った面々の顔を見回す。鎧戸を閉めきり、中央の卓の上に置いた蝋燭の灯火だけで照らされた室内には、嶔崖の他に、彼に仕事を依頼した猿族の首長・溟沐の養女である細颸と、その侍女である霖瀝(りんれき)、そして名うての盗賊であるという猿族の少年の、計四人が車座になっている。

「ずばり、忍び込んでさらうってのは?」

 盗賊少年があまり真面目とは思えない口調で発言した。彼は名を殷雷(いんらい)という。嶔崖が黒雨の替わりを探していたところ、溟沐が新たに雇って紹介した協力者だった。

「王宮の警備がどれ程厳重か、知らんのか」

 嶔崖が言下に却下すると、殷雷はふざけた様子で首を竦める。

「あんたが行商人にでも化けて中に入って、命がけで人間を外に出すってのがいいかと思ったんだが」

 無茶な作戦を言ってみせて、暗い笑みを浮かべた。

「死者は、出したくありません」

 細颸が、殷雷の言葉に真面目に応じた。

「人間を狗族の手中にしておくことは危険(・・)です。なんとしても私達が保護しなければなりません。けれど、その為にどなたかが死ぬのは、駄目です」

「相変わらず甘えたこと言うねえ」

 感心したように言った殷雷を、霖瀝が睨む。その視線に苦笑いしてから、盗賊少年は、

「しょうがねえ、俺が行ってやるよ」

 あっさりと言った。

「大丈夫なのですか……?」

 細颸は心配を絵に描いたような面持ちで少年を見つめる。

「ああ、俺様に任せときな」

 殷雷は自信たっぷりに答えた。

「小僧、過ぎた自信は身を滅ぼすぞ?」

 冷ややかに言った嶔崖を、殷雷は不敵な笑みを浮かべて見つめ返す。

「今日の昼間、街で、北州侯と(そん)州侯が、闘技大会用に猿族か猴族の戦士を探してるって噂を聞いた」

「闘技大会に出る気か?」

 嶔崖は険しく眉をひそめた。

「一戦くらいはしてやるさ」

 殷雷は答えて、傍らに置いていた、鞘に収まった中剣を手にする。

「とにかく、闘技大会出場者になれば、王宮の外宮(がいぐう)までは出入りできるようになる。後は隙を窺って内宮に侵入するだけさ」

「それでも成功の確率は低い」

 嶔崖は吐き捨てるように言った。

「闘技大会で殺されるかもしれんし、内宮への侵入に失敗する可能性とて充分にある……」

 シャッ。

 乾いた音が狭い室内に響き、蝋燭の炎がゆらりと揺れた。

「殷雷……!」

 細颸が制止の声を上げて腰を浮かす。嶔崖は、自分の咽がヒイと鳴るのを聞いた。呼吸がうまくできない。瞬時に突きつけられた剣の切っ先は、微動だにせず、まだ咽元にある。

「――俺様を、誰だと思ってやがる」

 笑みを含んだ声に嶔崖がそろそろと目を上げて見ると、鋭利な剣の向こうで、盗賊少年は両眼に凶悪そうな光を宿らせていた。西方では名の知れた盗賊団の頭目。弱冠十七歳と侮っていたが、十七歳ならではの気の短さや凶悪さもあるらしい。

「殷雷、やめて下さい!」

 細颸が重ねて言った言葉で、少年は漸く剣を引いた。シャッと、抜く時と同じ音を立てて剣を鞘にしまい、また傍らに置く。嶔崖はほっと息をついて、顔をしかめた。溟沐の紹介だったので拒否できなかったが、殷雷は黒雨と同じくらい扱いにくそうである。

「それで、わしはなにをすればいいのかね?」

 嶔崖は不機嫌な声で問うた。

「役割がないのなら、もうこの件から手を引かさせて頂くがね」

「早まるなよ。立派な役割があるじゃねえか」

 殷雷が言った。

「なんだ?」

 短く聞き返した嶔崖に、殷雷は先程とは打って変わった悪戯っぽい笑顔を見せる。

「俺を州侯に売りつける売人の役さ。あんたなら地でいける。但し高く売れよ? 安く買われたとあっちゃあ、幾ら仕事とはいえ、子分どもに合わせる顔がねえからな」


          ◇


 バシャ……パシャ。

 夜の水路に水音を響かせて、しなやかな体をした獣は、水中から岸へと這い上がった。そして、毛から雫を振り飛ばすよりも先に、月光に濡れた黒い毛皮を一瞬光らせて、すぐ目の前に口を開けた路地の暗がりへと滑り込む。

(うまくいったぜ)

 できるだけ静かに全身の毛から水を振り飛ばしながら、残星は胸中でにやりと笑った。夜になると王都に流れ込む水路は封鎖されるが、しかし水の流れまでが止められる訳ではない。そこで彼は、水路の水に潜って侵入してきたのだった。幸い彼の、背中に僅かに白い斑点が散る以外真っ黒な毛皮は、夜の闇に紛れて衛兵の目にも留まらないし、水中ならば、匂いで気付かれることもない。上流から水の流れに身を任せてくれば、水音を立てる心配もなく、水門通過も、深く潜って少々長く息を止めているだけで済んだ。

(さて、後はどうやって黒雨を捜し出して、そして止めるか、だな……)

 水気を振り飛ばし終わった残星は、人態になり、腹に括り付けていた、まだ濡れている衣を無理やり着ると、路地の先へと用心深く進んでいった――。


     八


 昨日、夢に見たのと同じ部屋だった。部屋の両側に並べて置かれたり掛けられたりした様々なものを、彼女は飽くことなく眺め、勝手な想像を膨らませて楽しんでいた――。

(また、同じ夢……)

 彩雲は心中で呟いて目を開け、体を動かす。薄暗い部屋の中、明かり取りの窓からの光で、今朝も晴天らしいことが窺える。

「おはようございます」

 朝一番の挨拶をして寝台に歩み寄ってきたのは、今日は香霧である。彩雲は少年の動きに合わせて寝台から起き上がり、掛け布団を押し遣って床に足を下ろした。

「体調は如何ですか?」

 昨朝、岫壑がしたのと同様に為された質問に、彩雲は俯いたまま、

「なんともない」

 不機嫌に答えた。

「そうですか。では」

 香霧は言って、帯に下げていた小さな銅鑼を手にする。カァン、カァンという高く響く音によって呼び出されたのは、これまた昨朝同様、游糸(ゆうし)という官女であった。

「おはようございます」

 と挨拶して室内に入ってきた少女は、香霧と入れ替わるようにして彩雲の前に来ると、抱えてきた水桶を床に置く。縁に掛けてあった白い布を中の水に浸し、固く絞ると、それで彩雲の顔やうなじ、手や足を拭いた。拭き終わると、次に少女は、寝台の脇の小机に畳んで置いてあった上着と袴、裳をおもむろに広げる。彼女は、彩雲の着替えや水浴等に携わる役目にあるらしく、昨日、彩雲が無理やり水浴びさせられた時も、来て世話を焼いたのだった。

 肌着の単の上に袴と裳を穿かされ、上着を着せられ、帯を締められ、最後に布靴を履かされて、彩雲の昼の装いはできあがる。それだけを終えると游糸は会釈して部屋から出ていき、今度は香霧が自ら櫛を持ってきて彩雲の髪を梳かし始めた。ここまでは全て昨日と同じ流れである。

 寝台に腰掛けて大人しく髪を梳かれながら、彩雲はなんとなく香霧を観察していた。髪の梳かし方は、岫壑よりも優しく丁寧である。容姿も、香霧の方がほっそりとしていて美形である。しかし岫壑の方が、表情が柔和で気安い感じがした。香霧は常にどこか張り詰めたような表情をしていて、生真面目で冷徹そうに見える。

(……でも、髪を梳かされるのは、嫌いじゃない……)

 彩雲は、十の歳まで母に髪を梳いて貰っていた。誰かに髪を梳かれるのは、思えばあの頃以来なので、少しばかり懐かしい。それに、他者に直接触れられる訳であるから多少緊張はするが、くすぐったいような気持ち良さもあるのだ。

(猿族とかは互いに毛繕いするっていうけど、こういう感じだからかな……)

 彩雲がそうして他愛もないことを考えている内に、香霧は彼女の髪を梳き終えて、櫛を部屋の隅に置かれた卓の上の小箱にしまった。次いで彼は、また小さな銅鑼を手にして、今度は三回鳴らした。昨日と同じ流れなら、次は朝餉が運ばれてくるはずである。だが、その後無理やりさせられた水浴びは、まさか毎日ではないだろう。とすれば、今日はまた違うなにかをさせられるのだろうか。

「ねえ」

 彩雲は、唐突に香霧に話しかけた。



 香霧は、驚いて人間の少女を見た。常に不機嫌そうで無口な人間が彼に話しかけてきたのは、これが初めてである。

「なんでしょう?」

 驚きを押し隠して平坦な声で先を促すと、人間は寝台に腰を下ろしたまま真っ直ぐに香霧を見上げ、一言、

「外に出たい」

 と言った。


          ◇


 内宮西殿の侍従長室。午前中の仕事を終え、岫壑と交替してきた香霧は、漆塗りの机に着いた皦日の前に立ち、報告を行っていた。

「……わたくしが許可できないと答えると、人間は、『もし駄目なら、食事は要らない』と。そして実際、朝餉は幾ら食べさせようとしても、口に入れませんでした」

 事の顛末までを語ると、香霧は口を閉ざし、皦日の言葉を待つ。頭の中では、報告内容の情景がぐるぐると回っていた。

 今朝、人間の少女の要求を聞いて、香霧は眉をひそめた。倉庫を改造した、明かり取りの窓しかない部屋に見張り付きで置かれている意味が、彼女には分からないのだろうかと思った。

――「許可できません」

 答えると、人間は、香霧の顔を真っ直ぐ見上げたまま、

――「もし駄目なら、食事は要らない。今日の朝餉も今日の夕餉も、明日の朝餉も明日の夕餉も。もうずっと、要らない」

 淡々と、そう言ってのけたのだった。

 運ばれてきた朝餉を食べなかった少女は、午前中ただひたすらじっとしていた。その姿は、まるで死を待っているようにも見えた。

(――あいつ、外に出して貰えなければ、本当に死ぬ気なのだろうか……)

 香霧には、人間の考え方など分からない。しかし、皦日が人間に死を許さないことは、分かっていた。



「『外に出たい』とな……」

 皦日は呟いて、鉄面皮と陰口される表情を崩さないまま、視線を机上に落とし、思考する。彼の心の中には、沮如から受けた報告と凱旋の日に見た光景が浮かんでいた。

「では、こうしよう」

 暫くして、皦日は言った。

「内宮西殿の中に限り、人間の外出を許可する。但し、お前か岫壑と、〈十幹〉の壬雪渓が必ず付き添うようにせよ」

「九壬殿……ですか?」

 香霧は多少意外そうな顔をする。彼か岫壑が傍に付くのは当然として、いきなり壬雪渓の名が出てきたことに驚いたのだろう。

「そうだ。陛下には私から話を通しておく」

 皦日はなんでもないことのように答えた。

「壬雪渓ならば、人間と既に顔見知り。人間の方にしても、ひと月共にいた相手だ、心安かろう」

「はい。では、そのように致します」

 香霧は一礼して侍従長室を出る。部下の姿が扉の向こうに消えると、皦日は椅子から立ち上がった。机から離れ、簾の掛かった窓に歩み寄る。手で簾を持ち上げ、真昼の日差しが降り注ぐ庭園を眺めた。

 内宮西殿の中に限るといっても、その敷地は広く、植え込みや芝生、池の間を小道が通る庭園も備えており、散歩程度には充分である。

(これで今回は収まるだろうが……)

 ヒトを使うにも、弱味を握っておいた方がやり易い。雪渓は、その弱味となり得るかもしれなかった。


          ◇


 この街並みのどこかに黒雨がいる。そう思うと、見慣れた街並みもまた違うように見える。心地良い風に柔らかな髪をなぶられながら、雪渓は市街を見下ろす目を微かに鋭くした。

(あいつと、真剣勝負をする……)

 負けてやる気も、殺されてやる気もない。ただ、全力を出しきるのみだ。何故なら、雪渓は黒狼族に対して、申し訳ないとは思っていないからである。

(俺は、後悔していない――)

 月華達の信頼を守るか、白狼族を守るかの選択を迫られた時、雪渓は白狼族を、自分の一族を選んだ。心は痛んだが、迷いはしなかった。まず守るべきは自分の一族である。月華にとっては黒狼族が第一だったように、雪渓にとっては白狼族が第一なのだ――。



「せっけーい、雪渓やーい」

 呼ばわりながら歩いていた林霏は、外宮の端で、漸く青年の姿を見つけた。白い髪の青年は、内の城壁の上に座って市街の方を眺めている。彼のお気に入りの場所だ。また、当直の衛兵に断わって登ったのだろう。

「おーい、せっけーい!」

 林霏は一際大きな声を出して呼んだ。高い城壁の上まで声は届いたらしい、雪渓は肩越しに振り返り、林霏に気付いた様子である。

「雪渓、陛下がお呼びだよー!」

 林霏は、余り嬉しくはない呼び出しを、できるだけ明るい口調で伝えた。


          ◇


 部屋に現れた雪渓を見て彩雲は目を瞬いたが、口元に小さく笑みを浮かべただけで、なにも言わなかった。

「では、行きましょう」

 再び岫壑と交替した香霧が言って、三人は部屋の外へ出る。彩雲は、連れて来られた時に一度だけ通った歩廊を逆に辿って、庭園へ向かった。香霧はその横について歩き、雪渓は二人の後からついて行く。

 夕食前。既に空は夕焼けに彩られていた。茜色、丹色、橙色、黄赤色などが現出した西の空を、彩雲はじっと眺める。

 昨日一日憂鬱に沈んで、結論は出た。ここまで来た以上、自分を知らねばならない。自分は一体何者なのか、何故、ここへ連れてこられたのか。

「ねえ」

 彩雲は、彼女の名前の如く美しい空を見つめたまま口を開いた。

「――人間って、なに……?」

 返答はない。彩雲は続けて問うた。

「狗王国は、なんで私を欲しがったの……?」

 やはり返答はない。少女は、ゆっくりと頭を動かし、監視の二人を振り返る。

「――私は、狗王国にとって必要な存在、だね……?」

 食事を拒否したら、要求が叶えられた。それを確認する為に要求してみたのだ。狗王国は――狗王国大王は、彼女が死ぬことを良しとしない。

 彩雲は、口を閉ざしたままの二人を視界の端に捕らえたまま、不敵に、くすりと笑った。彼女自身の命が、狗王国大王の弱味ならば。

(生きていける――)

 少女は確信して、もう一度夕焼け空を見上げる。

(ここで、私は)

 とても、能動的に。



 雪渓は、一、二歩進んで、彩雲の顔が見えるところまで行き、夕日に照らされた少女の横顔を窺った。僅か二日間程会わなかった間に、なにがあったのだろう。少女の顔は、夕日に照らされているというだけでなく、輝いている。

(なにか、希望が見いだせたのか……)

 雪渓も彩雲に倣って顔を上げ、遥かな夕焼け空を見つめた。

 人間――〈生まれながらの人〉とは、初めから人態で生まれてきた、変異個体。百年に一度現れるか否かという珍しい存在であり、これを手中にした者に繁栄をもたらすと信じられている。大王が、何故人間を欲しがったのかは雪渓にも分からない。だが、一つだけ彼が新たに知ったことがある。人間の血の臭いは、彼ら人獣の動きを、封じてしまうのだ――。

(その辺りに、理由があるのかもしれん)

 雪渓は、また彩雲に視線を戻した。大王の命令で、これから彼女が外出する時には、雪渓も付き添わねばならないことになった。彼女と接し続ける内には、人間の謎も解けてくるのかもしれない。だがそれは、闘技大会の後まで生き残っていたら、の話である。

 会話もなく佇んだ三人の視界の隅では、最後の西日が、宮殿の瓦屋根に反射していた。

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