scene 46 女神(おとな)になったセレーネ
有益な情報も無いまま、当てにならない地図を見ながら不慣れな旅は続く。
セフィリアもセレーネも、情報を得る事が出来ないもどかしさと残念さはあったが、二人で昔、旅をした事を思い出しつつ歩みを進めた。
「あ、そういえば、さっきの村で地図買えばよかったね……」
「ごめんなさい、私とした事が……」
二人とも今思い出したかのように言った、村の安寧に気をとられていた為だろう。それでも暖かい気持ちを持ちつつ、旅足を進めていく。
「あれは?」
ふと、セレーネが空を指した。そこには光の粒のような物が無数に、まるで夜空の星達の様に煌いていた。
しかし、今は昼間である。当然星は見えるわけも無い。
「……遂に来たようですね」
セフィリアは厳しい顔つきと共に、サンクトゥスを取り出し構えた。その様子を察し、セレーネも銀の十字架を剣に変えて構えた。
「天界からの軍勢? まだあんなに戦力があったなんて……」
「数から察するにほぼ全軍でしょう、天界も私の抹殺に本気の様ですね」
「……カタストロフィでどーんって、……出来ないよね」
「あれだけの数を倒すのにはちょっと時間が足らないですが、戦いながら力を溜めておきます」
セフィリアやセレーネが察した通り、光の粒は無数の天使達であった。天使達は各々が銀色に輝く甲冑を身に着け、その手に持った得物でセフィリアの命を奪わんとしてきたのである。
「それにしても……」
「どうしたの? セフィリア様?」
最後まで言えなかったが、セフィリアには思うところが一つだけあった。たとえ天界が全軍をあげて私を倒そうとしても、力のある高位天使は主だった者でラファエルとガブリエルくらいしか居ず、どちらも前線で戦う事を主とした天使ではない、そうなれば残るは私やセレーネには遠く及ばない下位天使と名も無き中位天使だろう、それらを集めたところで結果は目に見えているはずなのに。何か勝算でもあるのだろうか?
「いいえ、何でもありません。来ますよ! セレーネ!」
今は無用な考えは捨てて、目の前の光の怒涛を打ち破らなければならない。
二人は翼を広げ、跳躍し迫り来る天使達に迫る。遠方から放たれる光の矢を自身の得物で弾き飛ばしながら切り込み次々になぎ払っていく、遠距離からの攻撃が通じないと察した天界勢は近接戦闘に持ち込もうと、重装備の天使達が二人を取り囲んだ。
「実質主が居ないのに、全員の意思が無い……?」
主が健在の時でも自由意志に目覚めている天使は少なかれ居た、そして主が亡くな……いるけれども、信仰の対象を失った今、彼らを縛る物は何も無く、皆が各々自由な意思に目覚めているはずだった。
しかし、セフィリアは感じていた。今まさに迫ってくる天使達には自身の意思はないと言う事を。
セフィリアが主として覚醒したからだろうか?
それともラファエルの新たな天空術なのだろうか?
天使達の剣撃をかわし、セフィリアはサンクトゥスを振るう。炎を纏った神剣は重厚な鎧をも切り裂き、苦痛に顔を歪める事無く一瞬のうちに天使は消滅してしまった。
「よく考えたら空中で戦うのって久しぶりかも……、なんかなれないなあ」
天使になってから飛んで見た事があった、それ以前に幼少の頃は空中で戦った事もあった。しかし今回はそれとはわけが違う。多方向から来る攻撃を回避、防御し反撃しなければならない。以前よりもより確実で精密な動きを要するのだ。セレーネは戸惑いつつも、自身の編み出した光の速さを伴う攻撃で迫り来る天使達を貫き打ち滅ぼしていった。
形勢は圧倒的にセフィリアとセレーネに有利であった、まず負ける戦いでは無い事はセフィリアが予想した通りであった。天界側の軍勢はじりじりと数を減らしていく。
「準備が出来ました、セレーネ! 離れて!」
「はいっ!」
セフィリアの合図でセレーネは戦場から一時離脱し地上へ戻る。セレーネの離脱を確認したセフィリアはサンクトゥスをしまい、銀の杖に持ち替えて詠唱に入った。
「滅亡の破光、カタストロフィ!」
セフィリアは今までの戦闘で力を蓄えつつ戦っていたのだ、そしてそれを解き放つ時が来たのである。光の力を携えた杖を天界の軍勢に振りかざすと、莫大な光のエネルギーはセフィリアの敵めがけて飛んでいく。
光のエネルギーが着弾すると大爆発を引き起こし、辺りを眩い閃光が包んだ。一瞬のうちにセフィリアを抹殺せんとした天使達が悲鳴ごと消滅していった。
セフィリアはカタストロフィの着弾を確認すると、セレーネが居る地上へと向かった。これで天界側は大規模な遠征が出来るほどまとまった戦力は無いだろう。二人の生活を脅かされる事も無いだろうと、そう思っていた。
しかし、閃光がおさまり、周囲が確認出来た時、セレーネは絶叫した。
「危ない! セフィリア様!!」
セレーネの銀の十字架の剣が、セフィリアに迫る一筋の光を払いのけたのであった。あと少し気づくのが遅かったら一筋の光はセフィリアを貫き、最悪の結果をもたらしていただろう……。
弾かれた一筋の光は地上へ飛来し、一人の天使に姿を変えた。
全身真っ白なローブを着ている天使、フードを深くかぶっているせいか顔を確認する事は出来ない、一体何者なのだろうか。
「……助かりました。しかしあの天使は?」
「解らないけど、あの速度、私の速さと同じくらいかも……」
「ラファエルの策とは、あの天使の事なのでしょうか?」
今まで相手してきた多数の天使とは桁違いの力を感じる。二人は今まで以上により気を引き締め剣を持ち構えた。
「やっと会えた……、会いたかったようセラフィム様……」
聞きなれた声と共に、白いローブの天使は深々とかぶったフードを外した。そしてセフィリアとセレーネは稲妻を受けたような衝撃が全身を貫いた。
「セ……セレーネ!?」
「わ、私がもう一人!?」
なんと白いローブの天使はセレーネであった。
もう一人のセレーネは持っていた武器を捨て、泣きながらセフィリアの胸に勢いよく飛び込み抱きついた。
「どういう事でしょう……? これは一体?」
何が何だか理解は出来ないが、紛れも無くセレーネである事は抱いた時に解った。セフィリアはいつものように優しくもう一人のセレーネの頭を撫でる。
「私にそっくりの天使ってわけでもないようだし、あなたは誰……?」
「彼女の体は本来、ベルゼブブの毒によって腐り果ててしまうだけだったのです。けれど流石は月の女神の力を受けた肉体、セレーネはその猛毒を克服したのです」
穏やかな声の後、青白く輝くリング状のゲートが出現すると、そこから一人の天使が現れる。その天使は現在天界統治代行の役目を担っており、セフィリアの抹殺命令を出した張本人、ラファエルであった。
「私は人間のセレーネから天使のセレーネへと転生する際、魂を移すのではなく複製したのです。だから、セレーネはこの地上に二人居る事になるのです」
「魂の複製……? あなたはそんな事も出来てしまうの?」
セレーネの顔が青ざめる。そしてセフィリアも同様の感覚が全身を駆け巡った。
セフィリアはもう一人のセレーネから慌てて離れた。そんなに簡単に複製が出来るのならば、天使創造が出来なくても無尽蔵に天使を増やせると言う事ではないか。
「ねえセラフィム様、天界に戻ろうよ。また一緒に天界で暮らそ」
ラファエルとセフィリアのやり取りを無視し、もう一人のセレーネはあどけない表情でセフィリアの天界帰還を願った。私の抹殺が目的では無いのだろうか?
天界に戻り、主としての使命を果たせば許すというのだろうか。
「あなたの大好きなセレーネもこう言っている訳ですし、戻って見たらどうでしょうか」
ラファエルの強調された言葉、大好きなセレーネ。その言葉を聞いたセフィリアは急に激しい頭痛と眩暈に襲われる。頭をかかえ、その場に座り込んでしまった。
「セフィリア様! あなた達、何をしたの!?」
「何もしていないわ、もう一人の私。あなたこそ、セラフィム様を変にたぶらかして……」
もう一人のセレーネがセフィリアと接する時とはまるで違った。あからさまな敵意はセレーネを数歩後ずさりさせるほどであった。
セフィリアは相変わらず頭を抱えて動けない状態である。どういう原理か解らないが、明らかにもう一人のセレーネとラファエルが何かしているのは明白であった。
「今は細かい事はいい、あなた達を倒してセフィリア様を救う!」
銀の十字架の剣を構え、切っ先をもう一人のセレーネに向けた。
「……私と戦うと言うの?」
もう一人のセレーネも武器を構える、水晶の様に透き通り、虹の様に七色に輝く鋭利な剣の切っ先をセレーネと同じ様に向けた。
「全てを穿つ貫通の光、ピアシングオブディバイニティ!」
奇しくも二人のセレーネは全く同じ天空術で攻撃する。力は一分の差も無く互角だったのだろう、ぶつかった瞬間、光の粒は弾け飛び、互いが大きく吹き飛ばされ、体勢を整えつつ大きく後ろへ後退した。
「確かに、同じ私だものね……」
「そうかなあ、私はもう一人の私よりも強いよ」
「でも、ピアシングオブディバイニティは人間の肉体では耐え切れないはず……」
ルシフェルやセフィリアの指摘で、人間時代で貫通の神光の使用は控えるようにしていた。それはこの天空術があまりにも体に負荷をかけ過ぎる為である。今は天使の体な為問題ないが、もう一人の私は人間なはず。
そう疑問していた時、まるでその疑問を解消するかの様にもう一人のセレーネはローブを脱ぐ。ローブの下には、金に縁取られた銀色に輝く金属製の鎧を着込んでいたのであった。
「その鎧が、体の負担を軽減しているってわけね」
「それだけではありませんよ、その鎧は大天使の知識と呼ばれる天界の神器の一つ。天空術の力を遮る対天使用の装備なのです」
神器で強化されたかつての私、それが今目の前で私を倒しセフィリア様の命をも奪おうとしている。それだけは何としても止めなければならない、たとえ天界の全てが敵になったとしても全力で立ち向かうんだ。
セレーネは銀色の鎧の輝きと威圧感に負けない様、歯を食いしばり、強い眼差しを向けて対抗した。それに対してもう一人のセレーネは鼻で笑うと、漆黒の霧の様な物が全身から噴き出してきた。
「何これ……? 瘴気……?」
天使の力の受け、天界の神器を扱う者が何故ここまで禍々しい力を発せされるのか、セレーネは数歩後ずさりしてしまう。
「瘴気なんてそんな弱弱しい物じゃない、これは邪気よ」
もう一人のセレーネから発せされる邪気の量に比例し、その表情は狂気に満ち、青く透き通った瞳はまるで血の様に赤く染まり、明るい金髪は深く暗い紫へと変色していく、その姿は天使と言うより悪魔に近い。
「猛毒を克服した時に私は大悪魔の驚異的な力の片鱗を授かった、それがこの力!」
邪気で辺りが包まれ、セレーネは視界を奪われてしまった時。もう一人のセレーネがまるで邪気に溶け込んでしまったかのように姿が見えなくなってしまった。
セレーネは銀の十字架の剣を構えながらも周囲を見回したが、気配が掴めない。それは邪気のせいか、まさか本当にどこかへ行ってしまったのかはまるで理解出来ないのである。
「地獄へ落ちなさい。光すらも滅する惨壊の神光、アルカナブレイクディバイニティ!」
邪気の中から、異常なまでの殺気が自身に向かってくる。セレーネは自身の神速をもってその殺気の方へと突撃し、ピアシングオブディバイニティを繰り出した。
爆発する音と金属がぶつかりあう音がした時、今まで戦っていた場所を覆っていた邪気が衝撃によって晴れ、二人のセレーネの姿が確認出来るようなる。
お互いが持てる力の全てをぶつかった結果……。
「あう……、こんな事が……」
もう一人のセレーネは見下していた。そしてセレーネは砕けた銀の十字架の剣を持ったまま、その場に突っ伏していた。
「さようなら、もう一人の私」
ラファエルともう一人のセレーネは、うずくまるセフィリアと共にゲートを潜り、天界へと帰っていった。
残されたセレーネは静かに涙を流していた。大切なものを奪われた事、自分自身に負けてしまった事の二つのショックは、武器だけではなく自身の心をも破壊するのに十分であった……。
私は何も出来なかった。
セフィリア様を守るなんて言っておきながら守れなかった。
私は無力、下劣、敗者……。
こんな弱者はもう……。
「泣いても今のお前を救う者は誰もいない。だから自分で立ちあがれ。」
自身の無力感に苛まれている中、思い出した言葉は、かつて同じ様な境遇に立たされた時、その時の仇だった相手に言われた言葉であった。
今ここで泣いて寝てても誰も私を救ってくれない、自分で立ち上がらなければならないんだ。奪われたのならば取り返す。力不足なら、相手を凌ぐ力を身につければいい!
しかしもう一人のセレーネの力は圧倒的、今の私では到底敵わない。
もう一人の自分、私の大事なセフィリア様を奪った。それは私の全てを奪ったも同然。
あいつが憎い、恨めしい。
あいつを倒すんだ、絶対に許してはいけない。
あいつを超えられるならなんだってしてやる……!
その時、セレーネの強い意志に反応したかの様に、しまっていた琥珀色の知恵の実が目の前に転がる。セレーネは無意識の内にその知恵の実を手に取り見つめて考える。
「……超越天使になれば、もう一人の私を倒せるかもしれない」
その行為は、即座に行われた。それは喉の渇きを潤すために水を飲む様な、生理現象にも似た行為だったのかもしれない。それほど自然、かつ必然的に、セレーネは琥珀色の知恵の実を口に入れ、飲み込んだ。
「罪を受け入れよ、己が罪受け入れし時、汝は真なる力に目覚めるであろう……」
セレーネの声ではない、今まで聞いた事がない低く響いた声がふと聞こえると、セレーネの体はたちまち琥珀色の光に包まれる。
セレーネの全身を不思議な感覚が支配していく。内側から何かに強く引っ張られているような、胸が熱くなるような、今までに受けた事のない感覚がどんどん強くなる。
意識が薄れていくほど、琥珀色の輝きは増していき、やがてセレーネ自身が見えないほどに光りだした。
「これが私!?」
光がおさまり、虚ろだった意識を取り戻したセレーネは自身の体がどう変わったかを確認するため、近くの湖畔でその水面にうつる自分の姿を見た、そして変わり果てた姿にただ純粋に驚いた。
シェムハザやアザゼルと同様に白金の髪色と琥珀色の瞳の色になっただけではなく、体つきはセフィリアと同様に大人の女性の体つきとなり、髪は腰ほどの長さまで伸びている。今まで年齢より幼い体系だったセレーネとはまるで違う、すらっとした姿をした天使がそこにいた。
「遂に我々と同じ力を手に入れましたね」
まるで狙ったかの様に、眩い光からシェムハザとアザゼルが現れた。
「その格好では恥ずかしいでしょう。こちらをお召し下さい」
体形は大人のままでも着ていた服は変わらず昔のままだったため、丈が合わず極端にスカートが短くなっていたり、所々……、特に胸がきつくなっていた。セレーネは無言で後ろを向き、シェムハザから受け取った衣装を受け取り着替えていく。
セレーネの着替えが終わった。
新しい衣装はノースリーブの白いロングドレスに頭には天使の翼を模った白銀のアクセサリを、右腕には同じ色のアームレットをつけている。
「お似合いですよ、セレーネ様。新たな主よ……」
まだ自分の劇的な変化についていけないセレーネであった。その様子を表すかのように両手を呆然と見つめたり、自分の体を手で触ってみたり、長い髪の先を手でいじったりしている。
「主ってどういう事?」
「今の天使の時代はもう終わりました。ラファエル、ガブリエルと言った旧世代の天使は今の座を退いて、我らが新しい時代の天使に天界の主権を渡すべきなのです。そしてあなたは我々新時代の天使達の象徴となるのです」
セレーネはシェムハザの目的を理解した。元々彼らは天界の現統治者に従属していたわけではない、今までの野心家だった天使と同じ、天界の覇権を奪おうとしていたのである。
「私は主になんかなりたくないし、興味もない」
勿論セレーネはそんな事には興味が無かった、それ以上に深く関わりたいとも思わなかった。様々な苦難があった、そしてそれらのおおよそは天界の天使達によって引き起こされた。これ以上関わっても再び過去と同じ事を繰り返すであろうと考えていたからである。
「ですが、ラファエルともう一人のあなたを倒さなければ、セフィリア様を取り戻す事は出来ないでしょう? 我らの利害は一致しており、故に私はあなたに我々と同等の力を与えたのです」
そうだ、私はラファエルともう一人の私を倒してセフィリア様を取り返さなければならない。私がこの力を欲して手に入れたのも、全てはセフィリア様……、いや大切なものを取り返す。私自身の為……。
今はどんなものでも利用しなければならない、綺麗ごとや私情なんて二の次三の次だ。何としてでも取り返す!
「我らグリゴリの天使達が潜む隠れ家へ案内しましょう、まずはそこで準備をしてくださいませ」
シェムハザは笑顔でセレーネを迎えた。その笑顔はまるでセレーネの考えを何もかも見透かしているかのようにも見えた。




