scene 38 罪が始まりし時の記憶
映し出されたのは天界の居住区にある下位天使が住まう小さな部屋。そこには静かに本を読む白衣の天使がいた。
白衣の天使は栗色の髪を後ろで束ね、露出の控えめなドレスを着ている。
読んでいる本は、天上の主の教えが記された経典。
彼女は部屋に居る時は常にこの本を何度も何度も繰り返し読んでいた。一字一句暗記しているほど内容に熟知していただろう。
「なんて素晴らしいお考えなのでしょう」
彼女は主の教えに感動しており、共感していた。彼女は自由な意思を持っていた、本来天使とは主に従順であるが、高位天使となる者や一部の天使は自分自身の考えを持っている。
彼女はそれを有りながら主の教えに従い、主を愛した。何の疑いも無く、一点の曇りも無い純粋な感情である。
「入ります、よろしいです?」
「あ、はい。どうぞ」
丁度経典を読み終えた時、扉の向こうから声が聞こえた為返事をする、扉が開くとそこにはラファエルがいた。
「悪魔達との戦いに参加をお願いしたいのです、行けますか?」
「はい、ラファエル様。お任せください」
彼女はラファエルの命令に答える様、経典を引き出しにしまい戦場へ赴く。
彼女とラファエルはお互い主従の関係であった、天使達は主を頂点とし以下位の高い天使が位の低い天使を指揮、補佐する役割を持っている。下位天使は実戦部隊であり、戦闘はよほどの事がない限りは位の低い天使で行われる。
彼女は最も位の低い天使であったため、高位天使であるラファエルの命令に従う必要があった。
天界の主は万人が平等で、法と秩序を以って世界を制す事を正義として掲げている。よってこの上下関係は役割においてであって、支配欲を満たす物ではない事も十分に伝えられていた。
彼女の戦場での役割は傷ついた味方を治療する事、回復能力に長けた天使はラファエルの配下へと行く事が基本となっており、彼女もそれに習っていた。
「大丈夫です、主の教えを守り広めればきっと世界は素晴らしくなります……」
他の天使にそういいながら彼女は治療に励んだ、治療を受けた天使は笑顔で彼女の働きに答え、彼女もまた笑顔を返す。
彼女が生まれてからは戦場では傷ついた者の治療をして、そして部屋で待機している時は経典を読む。たまには他の本も読んでいたが主だった事はその二つくらいしかしていなかった、普通の人間ならば退屈で仕方がなかったであろう変化の無い日々も、彼女は何の疑問も感じず苦痛も感じず過ごしてきたのである。
そんな彼女の生活を一変させるささやかな、しかし全てのきっかけとなる出会いが始まる。
「……何か、私に御用でしょうか?」
「そんな固くならないで! もっとリラックスしていこー」
彼女の部屋に一人の少女が訪れた。銀色のショートヘアと同じ色の瞳、同じ色のドレスを身に纏っている。どことなく神秘的な雰囲気も無くはないが、その振る舞いから明るく活発的な印象を感じた。
「私は月の女神セレーネ! あなたの名前教えて欲しいなあ~」
少女は自身を月の女神と名乗る。
その存在に関して、彼女は本で読んだ事があった。
天界、地上、魔界のどこにも属さない世界に住んでおり、どこにも加担せず中立を保ち世界の様子を見続ける。月の三女神、アルテミス、ディアナ、セレーネ、その一人。
でも何故月の女神が私に会いに来たのだろう?
そう疑問を持ちつつ、彼女は名前を答えようとする。
「すみません月の女神様、私に名前はありません」
天使は高位に属する天使や他一部例外を除き名前は無い、複数の天使がいる場合は専ら指差しや代名詞で呼ばれる。
「じゃあこれから私はあなたの事をセフィリアって呼ぶね!」
月の女神は満面の笑みで彼女に命名する、我ながら良い名前だと満足げだ。そんな月の女神とは逆に、彼女は戸惑っていた。
今まで名前の事なんて気にもしなかったし、特別不自由だったわけでもない、別に欲しい物でもなかった、大多数の天使が自分と同様に名前なんて無いのだから当たり前と思っていた。
それでも折角くれた、どうやら良好な関係を持ちたいと言う事は伝わった、月の女神の行為を無碍にも出来ないと考え、彼女はそっと微笑んだ。
「今日はちょっと用事あってこれで帰っちゃうけど、今度は一緒に遊ぼうね♪」
彼女の笑顔により一層の満足感を得た月の女神は、そのまま駆け足で部屋を出て去っていった。いなくなった後に妙な静けさを感じるのは、まるで大嵐が通り過ぎた後のように、それだけ彼女の存在が大きかったのであろうか?
セフィリアの名前を貰った彼女はただ呆然としていた。
「遊ぶって……、どういうことでしょう……?」
あれから数回の日没と日の出を繰り返した後。
「だ、駄目です! こんな服に着替えるなんて!」
「絶対似合うって! かあいいから着てよー! ついでにその髪留めもとっちゃおー」
再び月の女神セレーネがセフィリアの部屋を訪問していた。
セレーネは白いホルターネックのドレスといくつかのアクセサリーを持ってきてセフィリアに着せようとするが、背中が大きく開き、胸を強調したノースリーブドレスである。今まで露出を控えてきたセフィリアにとって余りにも敷居の高い衣装である。
しかしセレーネは半ば強引にセフィリアを着替えさせていく、そんな強引さに負けてセフィリアも渋々セレーネに従う事にした。
「わあ~、似合うー!」
「は、はあ……、そうですか……」
困り果てた表情をしながら着替え終えたセフィリアは、その姿をセレーネに見せる。セレーネは目を輝かせて感動していた。その様子には一切の悪意は無く、本当にセフィリアの為と思ってしている事だと解っていた。それだけにあまり強く拒絶も出来なかったのであったが……。
「じゃあ遊びにいこっか♪」
「遊びに行く……とはどう言う事なのでしょうか?」
今まで主の命令でしか動いた事が無く、自発的にした事といえば経典と多少の本を読んだ程度である。そもそも遊ぶと言う概念がセフィリアの中には無かった。
「うーん……、楽しいって解るかな……?」
セレーネもセフィリアの思わぬ無知にどう説明したらよいか困る、なんとか漠然とした感覚での答えを出してセフィリアの様子を見る。
「ごめんなさい、でもそれは素晴らしい事なのですね」
勿論楽しいという概念も無い、多少の知識欲以外は主に従う事がセフィリアの全てである。自由な意思を持ちながらここまで俗世に興味を示さないのも天使の中では稀であったが。
それでもセフィリアは、自分の為にいろいろしてくれたセレーネをがっかりさせたく無いと言う思いで、自分自身の答えを出した。元々名前すら無かった下位天使に何故ここまでしてくれるのだろう、他の天使にも同様な事をしているのだろうか?
「すごく素晴らしいよー、一緒に行こう~」
半ば強引に、セフィリアの手を引きセレーネは地上へと向かう。ラファエルからの指示が無い限りは自由な時間であり、地上へ行ってはいけないというきまりも無かったが、誘われたとはいえ戦場以外で地上へ行く事はセフィリアにとって初めての事であった。
セレーネに手を引かれ、到着した場所は人間がたくさんいる場所、地上の世界では街と呼ばれているにぎやかな所であった。
「こんなにたくさんの人間がいるなんて……」
「こっちこっちー」
人々の賑やかさと街の華やかさに圧倒しつつ、セフィリアはセレーネに手をひかれある店へと入る。そこには様々な色の宝石で作られたブレスレットやネックレス、指輪が売られていた。
「こっちもきれー、でもこれもいいなあ」
セレーネはとっかえひっかえ品物を見定めている、その様子からとても本で読んだ月の女神とは思えないほどである。むしろ過去に読んだ本が間違いで月の女神とは本来こういう者なのだろうか?
「ねね、セフィリアは何にするー?」
「わ、私も選ぶのですか……?」
セレーネが嬉しそうかつ楽しそうに品物を選んでいる姿だけでセフィリアは十分であった、故に自分が欲しい物は一切選んでいないし、そもそもこういったアクセサリ類には全く興味が無かった。
「大丈夫だよー、地上で使うお金はあるから!」
本で少しだけ読んだ事があった、人間社会では貨幣と言う硬貨と物品を交換しているという事を。しかし、セフィリアが心配していたのはその事よりも、何を選べばよいか皆目検討がつかなかった事であった。
セフィリアが何かいい物は無いかと店内を物色していた時、一つ目に留まる物があった。それは飾り気の無い真っ白なリボンであった。長さから察するに髪留め用なのだろう。
「私はこれにしますね」
リボンを手に取りセレーネに手渡すと、セレーネは手早く会計を済ませてセフィリアが選んだ品物を返そうとする。
セフィリアはリボンを受け取ると、そっとセレーネの髪を結い始める。
「わわっ、なになに?」
「そのままじっとしていて下さいませ……」
選んだリボンをつけられて驚くセレーネを優しい声でそっとなだめる。その声を聞き大人しくじっと待っていると、頭の後ろにちょこんとポニーテールが出来ていた。
「本で読んだのですが、好きな人に送るプレゼントだそうです。私にこんな素晴らしい体験をさせて下さってありがとうございます、私はあなたの事が大好きです」
深々と頭を下げてお礼を伝えた後、セレーネの顔を見てそっと微笑んだ。
今までこんな体験無かった、胸の中が踊るようなどきどきするような不思議と心地良い高揚感がある、これからもセレーネと一緒に居たい。そしてもっといろいろな体験をしていきたいと望んだ。
自分から何かをしたい、何かでありたいとここまで強く願ったのはこれが初めてである。
「嬉しい! 私もセフィリアの事だいすきー!」
セレーネは頬を赤らめながら感動し、勢いよくセフィリアの胸に飛び込んだ。セフィリアは多少よろけながらもセレーネを受け止めた後、セレーネの頭を優しくなでる。
日は沈み、街の中を一通り散策した二人。
「また機会があれば誘ってくださいね」
「もちろんだよー! またいこー」
二人は別れ際に再会の約束し、各々は本来あるべき場所へ戻っていく。二人にとってそれはかけがえの無い幸福な時間であった。そしてその約束は今後も確実に果たされるのである。




