scene 23 奴隷の記憶
セレーネが監禁されてからおおよそ八年の歳月が流れた。
成長したセレーネは無言で格子窓から見える景色を見つめていた。
天使の力を持つ彼女の心には深い闇があった……。
セラフィムの力を受け継いだセレーネだが、かつての元気は無い。
セレーネは表情を少しも変えず、この八年間のことを思い出す。どんな酷い事をされただろうか……。
'天使の仲間'という理由だけでされてきた理不尽な暴力。
'天界の住人'という理由だけでされてきた無意味な拷問。
もちろん食事も満足に与えられてなどいない。しかし天使の力のせいだろうか、生きていく上で問題は無かった。髪の毛はぼさぼさで伸び放題、服はぼろぼろでやがて着れなくなり、今は裸のままである。拷問用の呪いであろう紋章を体に刻み付けられ、常に襲いかかる苦痛をただじっと耐える日々、それは一瞬の休息も許されない生き地獄である。
セレーネは絶望の淵に立たされていた。
無表情でほとんど変わる事のない魔界の空を、格子窓から見るくらいしかできなかった。
下手なことをすれば酷い目に会う。失われた自由、絶望と恐怖と苦痛が常にある状態が毎日続いている。
しかし、それでも彼女は生き伸びようとした。セラフィム様が力をくれたから、そしてセラフィム様を殺害し、私をこんな目にあわせた者達へしかるべき報いを受けさせる為に……。
ある日。
普段は無音の牢獄から、こちらへ近づく誰かの足音が聞こえた。
セレーネはいつものように体を丸めて苦痛に耐えていた。意識は朦朧としていたが、その足音に気づき意識を取り戻し警戒する。
「生きているか?」
牢獄へやってきたのはセレーネの仇であるルシフェルだった。
ここに来たのは私が牢獄へ入れられたあの時以来だろうか、あの時と何も変わらない冷たい眼差しと表情の無い顔である。
セレーネはルシフェルを、少し怯えた表情で何も言わずに見つめる。その眼差しは、今更何しにここに来たのかと問いかける様であった。
そんな様子を見たルシフェルは、鉄格子についている扉を開けてセレーネに近寄った。セレーネと憎き仇しかいない今こそ、無念を晴らす絶好の機会ではあったが、呪いのせいで体が言う事をきかない。
無言で見つめるセレーネを無視しつつ、同じ様に無言でルシフェルは体勢を低くしてセレーネの体に片手をかざし、ゆっくりと力を送り始める。
じわりと暖かいぬくもりが体中に広がると、たちまちにセレーネを苦しめていた苦痛と呪いの紋章が消えていく。
「……行け」
一言抑揚の無い声でそう告げると、手に持っていた布製の何かが入った袋を放り投げ、ルシフェルは立ち上がり、セレーネから離れていった。
その様子にセレーネは呆然とした。
呪いは消えた。大きく疲労はしているが今までとは比べ物に無いほど軽く、動いた時の苦痛もない。
セレーネは無言でルシフェルを見つめる。何故、私を助けたのだろうか。
「その中に服が入っているからさっさと着替えろ。その格好ではみっともないだろう。」
袋を逆さにすると、中の物が落下し全て出てきた。
中身は新しい服と、短剣と数日分の食料、後は何か地図のような一枚の紙がはいっていた。
「その紙には、ここから地上までの道が書いてある。それを見れば迷う事はないだろう。早急にここから去るのだ。そして、セラフィムは生きている。取り返しに来い。」
用件が済んだルシフェルは必要最低限の言葉だけを残し、すぐに居なくなってしまった。
セレーネは服を着替え、脱獄した。魔界を抜け出す絶好のチャンスをみすみす無駄にはしない。もうあんな酷い事はされたくない。そして彼の去り際の一言、セラフィム様が生きている。私の希望はまだ潰えていなかったんだ。その思いを胸に、紙に書いてある通路を走る。
待ち望んでいた自由と、失ったと思われた彼女の希望の光は、無気力だったセレーネに再び活力を与えた。
誰も脱獄の事を知らないのだろうか、ルシフェルが教えてくれた通路は警備の悪魔の姿はなく、簡単に城の外へ出ることが出来た。ふらふらになりながらもなんとか走り、魔界と地上をつなぐ門まで来た。
門も同様に見張りをする悪魔はいない。
「ルシフェル、どうして私を脱獄させたのだろう?」
疑問に思いつつ、魔界を去るセレーネであった。
魔界の門をくぐると、そこは地上のどこかの森の中の湖畔に続いていた。
「ここは……」
湖へとゆっくり近づく。奇しくもそこは昔、セラフィムや他の仲間達と水浴びをした場所だった。
湖の水は透明度が高く、まるで鏡の様に周囲の景色をうつしている。時折響く鳥のさえずりと、穏やかな風、今も昔も何も変わらない風景。変わったのは自分と自分を取り巻く人間模様だけ。
セレーネは服を脱ぎ、拷問や虐待で受けた傷あとだらけの裸体をさらし、湖の中へ静かに入って行く。水に浸かり、体を洗いながらのびきった髪の毛を短剣で可能な限り整える。
ふと、セレーネは湖面に反射した自分の姿を見る。かつて小さい時に見た、夢に出てきた未来の私と同じ顔がそこにあった。
水浴びも終わり、服を着て髪の毛をリボンで結う。
セレーネは無言で湖畔の様子を見つめる。 ところどころから漏れる日の光が常闇の世界に監禁されていたセレーネの体に降り注ぐ。
「さてと……」
一息つき、ゆっくりと立ち上がり歩き出した。
長い歳月で恐らく変わったであろう地上の様子を、多少なりとも知りたかった為、人気のある場所を探す事にした。
少し歩くと街道に出た。
するとその時、一人の大人が青ざめながらセレーネにすがって来た。
「助けてくれぇ!」
「どうしたの?」
「俺の村が、俺の故郷が……」
その村人はとても動揺しており、伝えたい言葉が出ず上手くセレーネに事情を喋ることが出来ない。
とりあえず落ち着かせる事が先決であると思い、セレーネは優しく問いかけみた。
「落ち着いて、なにがあったの?」
「いきなり天使と悪魔が戦い始めて、村人が巻き込まれているんだ! このままじゃ、俺の村が……」
私が地上にいない間に再び天使と悪魔の戦いが再燃したのだろうかと考えていたその時、遠方が一瞬光ると光で出来た矢が飛来し、村人の背中に突き刺さり胸を貫いた。
「ぐおっ……」
うめき声を一つあげ、その村人はセレーネにもたれかかるように意識を失ってしまった。矢は急所を確実に捉えており、一瞬で命を奪ったのである。
セレーネはその村人を木の根元に寝かせ、矢が飛んできた方へと向かった。
セレーネがその村に着くと、あの村人が言っていた通り、村は天使と悪魔の戦いに巻き込まれていた。
民家はばらばらに崩れてしまい、畑は争いの影響か所々陥没していた。
凄惨な状況を確認しつつ生存者を探していると、一人の天使がセレーネの目の前に降り立ち、命令口調で言い放つ。
「人間よ! ここは危ない。命が惜しいのなら早々に立ち去れ!」
「なにがおきているの?」
「貴様のような下賤な生き物が知る必要はない! 立ち去らないのなら好きにしろ」
天使はセレーネの事に気づいていないのだろうか、確かに成長して多少見た目は変わっているかもしれないが。
セレーネは天使の忠告を無視して村の奥へと入っていった。
「もらった!」
その言葉と同時にセレーネに攻撃を仕掛けてくる天使がいた。
剣を突き立て、猛烈な勢いで迫ってきた。しかし、セレーネは避ける事をせず、目を閉じ天空術を詠唱をはじめる。
「鉄壁の聖光、ホーリーウォール……」
詠唱が終わるとセレーネの周囲に眩い光の壁が生成されていき、やがて壁はセレーネを覆っていった。天使の攻撃は光の壁に阻まれ、反動により大きく弾き飛ばされてしまった。
「何だと……、誰だお前は?」
人間が何故天空術、それも中級クラスの術が使えるのか、吹き飛ばされた天使は立ち上がりセレーネを恐る恐る見ながら言い放った。
「……セレーネ」
「セレーネ!? セラフィム様の後を追うように魔界に行った人間か!」
セレーネは質問に対してこくりと、軽くうなずき返答する。
「それでだ、セラフィム様はどうした?」
どうやらセラフィム様の事は知らないらしい。それはセラフィム様を死地へと送りこんだ高位天使による陰謀か……。より一層の確信を得つつ、今は村の状況を聞くべく天使に尋ねる。
セレーネは話題を変え、人間を巻き込んで悪魔と戦っている理由をその天使に聞いた。
「それより、この状態は?」
「魔界の悪魔共がついに地上の侵略に乗り出して来た。その一部がこの村を拠点にして活動していた。だから俺達はこうやって戦っているわけだ。」
「村の住人はどうするの?」
「人間などどうでもいい。悪魔を倒すことが先決だ。セレーネよ、この村から離れたほうがいい。天界はさらに戦力を投じて戦うつもりだ。 戦いは激しくなるだろう。」
そう言い残し、天使は村の奥へと消えて行った。
天使の警告を無視し、そのままセレーネは村の奥へ進んだ。天空術を使用する姿を目撃されていた為、敵と認識した悪魔達が次々と襲い掛かってきた。しかし、今のセレーネにとって低級使い魔は敵ではなかった。顔色一つ変えることなく、無表情のままあっという間に退ける。
セレーネの圧倒的な力を見た悪魔達は次々に撤退していく。この場は天使達が勝利したのである。
勝利を確信した天使達は、セレーネに笑顔で近寄り感謝の意を示した。
「……悪魔はもういないね」
「ありがとうセレーネ。あなたがいなければ今回の戦いで多くの天使が犠牲になっていたでしょう。」
「天使はどれだけ生き残ったの?」
「全体の六割ほどです。元々劣勢でしたので、これだけ生き残ったのはあなたのおかげです。」
出征してきた部隊の長らしき天使は喜びながらセレーネに報告した。天使側としては満足の行く結果であったが、セレーネには一つ懸念点があった。
「村人は……全滅?」
「ええ。ですが人間の命など安いもの。これくらいの犠牲で悪魔の活動拠点の一つを潰したのですから十分でしょう。」
セレーネの予想していた通り、戦場となった村に住んでいた人々は全員最悪の結末を迎えていた。そして天使達は人間を殺した事をまるで当たり前にように平気な顔で言い放ったのである。
「……おかしいよ」
悪魔と交戦した時と同様に、セレーネは無表情で部隊長めがけて天空術を放つ。かろうじて避けたが、予想しない突然の攻撃に天使達は驚きを隠せない。
続けてセレーネは手のひらから光の矢を放つ、その時セレーネの表情はとても悲しく、物憂いそうであった。部隊長はその攻撃もなんとかぎりぎり回避した。
「あなた達は間違っているよ。人間だからどうでもいいなんて……」
「何を……、乱心したのですか?私を攻撃すると言うことはどういうことか解っているのですか?」
「あなた達みたいな天使がいるから……、セラフィム様は……」
セラフィム様を死地に追いやった天使達に、しかるべき報いを。天使達が持っている考え方、神格と神性が酷く許せなかった。そんな言動や仕草はもう一切見たくない。何もかも、許せない。
セレーネは隠していた自身の白い翼を広げ、手に平に力を精神を集中させる。すると、光の粒が手のひらへと集まっていき、やがて巨大な球体の光の玉になる。
「滅亡の破光、カタストロフィ……」
セラフィムが使用する切り札、昔は出来なかったが今のセレーネが使用する事は可能であった。回避不能な圧倒的な力の前にセレーネを説得しようとする天使であったが、無情なる一撃はその場にいる天使を全て飲み込み消滅しようとする。
「あなたこそ間違っている! これは主の意思なのだ。悪魔達を倒す事は結果的には地上も守っていると言う事なのです。我々の意思に反する事は、すなわち主を……ぐわあああ!」
光の玉が炸裂し、膨張、爆発し天使の命をいとも容易く奪っていく。セレーネはその様子を何も言わずに見つめていた。
次回予告
地上のおおよそを理解したセレーネは、セラフィム奪還の為に全ての天空術が記された禁書を奪い天界へ行く事を決意する。はたしてセレーネは禁書を得る事が出来るだろうか?
次回、scene 24 傲慢の記憶
「もう私には何もない、だから誰よりも強いし、誰にも負けない」




