第一話
男は遺跡にいた。暗い遺跡だった。松明の灯りなしでは歩くことすらままならず、おまけに腰を屈めていないと頭をぶつけてしまいそうなほど狭い。しかし床や壁は滑らかな石で出来ているので、歩きにくいということは感じられなかった。
響くのは男の息遣いと足音だけだ。
しばらく歩き続けると、今度はやたらと広い空間へ出た。全てを見ることはできないが、少なくともこの空間よりは広いだろう。
一歩その空間に足を踏み入れる。突然、ふぅっと松明の灯りが消えた。不思議には思ったものの、湿気の多い洞窟だ。むしろここまで灯りを保っただけいい方だろう。
気を取り直し、火の消えた松明から空間の方へと視線を移す。
「…………?」
暗がりでよく見えない。しかし、薄ら人の影が見えた気がした。
(いや、あれは…。)
近づいていくと、だんだんとそれの形がはっきりとしてきた。そして分かったのは、それが人ではない何かだということだ。
そいつには、頭があり、胴があり、四肢があった。だが頭には、目も鼻も、口も耳も、髪もない。その不気味な頭がついている胴からは、指がなく、丸みを帯びのっぺりとした四肢が生えている。まして、肌が紫色なのだ。人によく似てはいるものの、明らかに人ではない。
「汝――我を以って、自らの強さを此処に示せ」
人に似た何かが低い声で言った。
男は反射的に身を構える。
男には多少武術の心得があった。そのためだろうか。男の構えには、熟達した者特有の雰囲気がある。
少しの隙も見せないようないい構えだ。だが――
人に似た何かの拳を、男は避けることが出来なかった。
「――――!」
慌てて横に跳び、そいつとの距離を取る。そして次の行動により速く対応できるよう、荷物を投げるように下ろした。
奴の動きは、やはり人間のそれとは違う…凄まじく速く、凄まじく重い一撃だった。
姿形や、今のあのありえない速度。そして攻撃的な性格。人間離れしいるそいつの正体を、男は知っていた。
殴られた脇腹を辛そうに押えながら、男が言った。
「お前が…〈遺跡の悪魔〉か…」
人に似た何か――〈遺跡の悪魔〉と呼ばれたそいつは何も言わない。ただじっと、目の無い顔で男を見据えていた。
歯噛みして、男が言葉を続ける。
「強さ、とはなんだ…?」
小さいが、怒気の籠った声だ。
しかし遺跡の悪魔は何も言わずに、もう一度、男に向かい突進してきた。
また右の拳――
今度は、辛うじてと言った様子だが、避けることが出来た。
遺跡の悪魔は男の反撃する隙を与えずに、猛攻を繰り返す。どれだけ男に襲い掛かろうと、疲れた様子は見せなかった。それに対し、何もできず、避けるだけで体力を奪われていく男。
この何もできない状況に腹が立ち、男は舌打ちをした。
徐々に足が動かなくなり、少し転びそうになる。
その隙を突かれ、男は一撃を喰ってしまった。
下からの拳が顎へとまともに入り、宙を舞って床に叩きつけられる。
「…………」
男は何かを言おうとしたようだったが、言葉は出なかった。顎に重い一撃を喰ったせいで口がうまく動かないのだ。
だから、遺跡の悪魔が右手を上に伸ばすのを、男は黙って見ているしかなかった。遺跡の悪魔の腕はどんどん伸びていく。遂には、本来の長さの四、五倍になった。
その腕を――振り下ろす。
それは男の横に落ちてきて、石の床を抉った。男に喰わした拳より、遥かに重いだろう。
そしてもう一度、遺跡の悪魔は同じ行動を繰り返した。
「が…っ」
今度は、男の眉間を捉えた。
脳と共に視界が揺れるのを感じる。猛烈な吐き気も襲ってきた。
男の意識が朦朧とする中、遺跡の悪魔は言葉を発する。
「汝は…我の求める強さを持っていない」
「…………」
男は虚しく口を開閉させようとするだけだ。
「さらばだ」
短く言って、遺跡の悪魔がもう一度腕を高く上げた。
「や、やあぁぁぁぁああああ!」
腕が振り下ろされる――その直前で、叫び声が響いた。男のものでも遺跡の悪魔のものでもない。第三
者の、子供の声だ。男が横目で見ると、赤髪の少年が、細い木の棒を持って遺跡の悪魔に向かって駆けているところだった。
(君は…?)
やはり、声にはならなかった。遺跡の悪魔が少年に拳を喰わしたところで、男の意識は完全に暗転した。