バースデーブルー
この小説は完全なフィクションです。
丸一日半、ほぼ眠り続けて見た夢は、きちんと整頓された部屋に弟がいて、何やらお互いに毒づきながらも、深い安心感のあるものだった。
目もあてられぬほど散らかった部屋で目覚め、その夢の解析を携帯サイトで見てみる。
「消化できないほど辛い現実を緩和するための夢」という的確すぎる指摘にげんなりする。
一昨年の今頃は、始まらずに終わった恋にかまけて飲んだくれ、気がつくと三百七十円も先の駅まで歩いていた。疲れはてた私は、朝が来るまで交差点のベンチに座っていた。
去年の今頃は、彼氏に浮気の影を見つけ、喧嘩中だった。思い過ごしとおさまったが、わだかまりは三週間ほど引き摺った。
今年は彼氏と別れた。離婚して二年の彼はまだ傷が癒えておらず、酒の力を借りて、
「私は子供を引き取る覚悟はあるわよ、どうするの」と詰め寄ったが、答えは、
「お前を幸せにはできない」だった。彼はもうしばらく自由な時間を過ごしたら、家庭に帰っていくのだろう。
「結局、不倫だったんだな……」他人の不幸の上にまで、自分の幸せを築く気にはなれない。そこにだけは、気をつけていたのにまんまと愛人をやってしまっていた。
二週間後に迫った誕生日は、今年もシングル確定となった。
「誕生日まで待てば良かったのに」恋愛の達人たちは口を揃えてもったいないという。愛人モドキの関係でも、続けておけば変わるかも知れないのに、と。
確かにそうなのかも知れない。もしかしたら、近いうちにもったいないことをしたと思うかも知れない。
シングル確定でも、さみしい誕生日ではなかった。毎年誕生日会をやって騒いでいる。美味しいシャンパンを開けて、美味しいかどうかわからなくなる朝まで飲む。
「もうそろそろ嫁に来いよ」といってくれる人がいたり、
「一緒に老人ホームに入ろうね」といってくれる気の早い人もいる。一年に一度の私が主役のお祭りなのだ。
大体は、生まれてきたことに感謝する。時に、そうもいかないくらい落ち込んでいたこともあった気がするが、大方、感謝してくることができた。
正直な自分でその日を迎えたい。
誕生日が近づくたびに事件をおこす自分自身へのいいわけ。それが大半を占めるのは間違いない。だが――
美味しいものでも食べようと外へ出た。柔らかく金木犀のオレンジ色の匂いがする。
私がシングルになった日も世界はかわりなく動いている。四月になればいつも用意されていたステップアップも今はない。だからこそ、自分だけのこの時期に、正直な自分と、いや、正直に自分と向き合いたくなるのだ。
歩いて十分の駅前デパ地下で、蟹を一杯茹でて食べようか、鯛を一尾さばいてみようか迷った挙げ句、サムゲタンのレトルトと百グラム千円もするコーヒー豆を買っての帰り道、
「すみません」と声をかけられた。
その周辺の散歩マップを握った手には年を重ねた艶があった。華美ではなく、小綺麗なネルのシャツにも綿のパンツにも歩きやすそうなスニーカーにも年輪が見てとれた。帽子の下の無防備な笑顔が、
「この川沿いの道を歩きたいのですが」と、少ししゃがれた女性らしい声で言った。
私は道を指し示し、少し歩調を緩めて歩いた。彼女の行き先は、二十メートルほど私と同じだった。
しっかりとした足取りで先を行く彼女の小さな背中を眺めながら思った。なぜその道を、なぜ今日のこの日に、なぜ彼女は一人で歩くことにしたのだろう。
橋を渡った分岐点で、彼女は不安気に小さく振り向いた。私が笑って、
「そっちです」というと彼女は会釈して右の方へ歩いて行った。私は左の方へ曲がり、振り返ることもなく、家に入った。
使い込んだケトルを見ながら、私は両手で千円の香りがするコーヒーの入ったマグカップを抱えていた。この秋初めてのホットコーヒー。
私はあと何度、初めてのホットコーヒーを飲むことができるのだろうか。カップを覗いて見ると、表面の油が深いブルーに反射した。
バースデーブルー。
マリッジブルーにマタニティーブルー。ブルーは必ず、困難でいいことばかりではない幸せの前にやってくる。なんとなく淡い秋空のような青を想像していたのに、マグカップの中にその色を見つけた。
私ははっとして、レトルトの封を開けた。取り戻さなくては。彼にかまけておざなりにしてしまった自分を。そして彼から得たいいところだけ残して、この恋を昇華しなくては。
ふつふつと始める白濁した液体を見つめ、そういえば四年前は突然思い立って京都まで散歩しに行ったことを思い出した。
もう迷いなく、川沿いを行った背中を思った。
二週間後、私は三十九歳になります。




