思い出すのが遅すぎる
ある朝、目が覚めたら、クリスティーヌは前世の記憶を思い出した。
と言っても、細かく全てではなく、ぼんやりとなんとなくだ。
けれど、なんでいま? とクリスティーヌは思った。
こういうのって、幼女の頃とか、ぴちぴちの少女の頃じゃないの?
なぜ、三十九歳の今なの?
別に頭打ったり、高熱を出したわけじゃない。
一人で寝ていた大きなベッドから出て、鏡の前に立ち、自分の姿を見るとなおのこと思う。
何故、若い頃じゃないのよ〜!
金髪碧眼だけどさ、ふくよかな体、シミもシワもある顔で、なんか泣けるじゃないか!
もうすぐ、孫も生まれるような年齢になってからじゃなくても良いじゃないか!
「奥さま、どうなさいました?」
鏡の前で呆然としていたら、侍女のエレンがきていた。
「エレン……私、私、おばあちゃんになっちゃう」
泣きながら訴えると、彼女は目を丸くした。
「マリーアンヌ様が昨日、ご報告に来られましたわね。おめでとうございます、奥さま」
エレンがめでたいことなのに、なんで? と言う顔になっている。
『四十手前でおばあちゃんよ?!』と前世の記憶を考えると絶望感があるけれど、確かに今世のクリスティーヌの感覚だと当たり前のことだ。
クリスティーヌはなんだかびっくりして、エレンをまじまじと見つめてしまった。
前世と今世では人生の時間感覚に違いがありすぎる。
今世で、クリスティーヌは十六才で成人して、十七才で結婚した。
十八才で長男のレオンハルトを産んで、二十才で長女のマリーアンヌを産んだのだ。
もう、レオンハルトもマリーアンヌもとっくに成人して、結婚している。
自分のことを鑑みても、もうとっくに孫ができて、おばあちゃんで不思議はないのだ。
今世では六十まで生きていれば長生きなのだ。
そう人生の2/3はもう過ぎたのだ。
四十手前でおばあちゃんもショックだが、人生六十年もとてもショックで、あと十年か二十年かくらいの人生! 早すぎないかっ?! と、たぶんそう考えてその衝撃で、前世の記憶を思い出したのだ。
クリスティーヌは呆然とした。
「さあさ、奥さま、起きて、朝食になさって、マリーアンヌ様にお祝いの品でも考えましょう?」
だが、無常にもエレンはクリスティーヌに日常をもたらしてくる。
長らくクリスティーヌに仕えているエレンは、彼女の扱いに慣れているのだ。
エレンは手早く、奥さまに有無を言わさず、朝の支度を整えていった。
クリスティーヌは落ち着くと、とりあえず、自分のこれからの人生の為に、体作りから始めなくては! と決意をした。
あらためてふくよかな自分の体を確認して、まずは体重を落として、筋トレよね、と。
明らかに文明の度合い、健康に対する考え方とかは、今世は前世よりも劣っているが、人間の体と考えた時には大きな差異はないと判断した。
となれば、健やかな体作りから始めなくてはいけない。
エレンを通じて料理長に、いろんな食材を入れたバランスの良い、適量な食事を頼んだ。
クリスティーヌが嫁いだのは国に五家ある侯爵家の一つソワント侯爵家だ。
彼女が住んでいるのは王都にある侯爵家の本邸ではあるけれど、ここにいる使用人の年齢層は高い。
先代から勤めている者も何人か残っている。
長男のレオンハルトは成人とともに侯爵家の嫡男が代々受け継ぐ伯爵位を継ぎ、結婚と同時に伯爵家に転居した。
クリスティーヌ自身、新婚の頃に住んだ王都のこじんまりとした瀟洒な屋敷である。
嫡男夫妻が新婚時に住む屋敷なので、可愛らしさのある場所だ。
アンヌマリーが結婚して、家を出ると、夫のジークフリードも自身の拠点を愛人を住まわせている別邸に移した。
なので、本邸とは名ばかりで、ソワント侯爵家が構える王都での屋敷の中で一番寂れているのはクリスティーヌが住んでいるここだろう。
年々、本邸にさかれる維持費が少なくなっているのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが。
クリスティーヌはそれを寂しく、哀しい思いで過ごしていたが、前世の記憶を取り戻してからは考えをあらためた。
『働かずに暮らせるって、楽ちん!』と。
あとは、自分好みにしよう!とも。
重厚な家具やファブリック類は、屋敷を重苦しく、窮屈にしているわよね、と考えたのだ。
使用人も年齢層が高く、少なくなっているのだから、もっと軽やかに手入れも楽になるようにしたほうが断然いいと。
もちろん、物は上等なものだ。
けれど、古くからある侯爵家にはいろんな種類の家具やファブリックが揃っているのだ。
現在使用している部屋を選定し、軽やかな明るい色彩の家具やファブリックを設置して自室とし、よく使うサロンや応接室を残して、使わない部屋の家具類は覆いをかけ、施錠して、たまに掃除をするだけにした。
「奥さま、なんだかすっきり明るくなりましたわね?」
「でしょう? やっぱり今の使用人の人数で屋敷全体を面倒見ることは難しかったのよ。限定したら、皆も楽になるし、掃除も行き届くというものよ」
廊下にあった先祖代々の肖像画なんかも、丁寧に片付けた。
庭師のトム爺に頼んで、廊下や部屋に飾る花を選んで貰った。
季節の花々は清々しくて、柔らかな印象をもたらしてくれている。
料理長がカロリー控えめな美味しい料理を出してくれるようになり、屋敷内でマナーの勉強をやり直し始めた。
筋トレ代わりのマナーだ。
だって、カーテシーって、体幹の筋力がすごく必要なのだ。
それ以外も、ドレス姿で真っ直ぐに歩くことも、姿勢良く座ることも、優雅に階段の上り下りなんて、むっちゃ筋トレ…。
クリスティーヌも前世のトレーニングを考えないわけではなかったけれど、アレをやっているところを見られたら、『奥さまがおかしくなった!』と騒がれかねないと思い直したのだ。
この数年というもの、夫であるソワント侯爵が彼女を社交に連れ出すのは、年始にある王宮での正式な舞踏会だけになってしまった。
お茶会等もあまり誘いが来なくなってしまったので、クリスティーヌはマナーよりも楽な方に流れていたので、屋敷内にいる時は楽なドレス、楽な靴、楽な姿勢で過ごすようになっていた。
食べる物も甘いものや口当たりの良いものを遠慮なく食べ、結果、ふくよかになっていたわけだが。
クリスティーヌはエレンに相談し、朝起きるとちゃんとしたドレスを着て、規則正しく食事を取り、家政やマナーの復習をしたり、縫い物をしたり、庭の散歩をはじめた。
エレンをはじめとした屋敷の者たちは、彼らの敬愛する奥さまが元気に活動することを微笑ましく見守った。
いろいろ家具やファブリックを整理した時に、屋敷内で着る、型こそ古いが上質のドレスを出してきて、今の自分でも着れるように作り直した。
「く〜っ、やっぱり若い頃と肉がつく場所が違うわ〜」
と泣きが入るクリスティーヌに、エレンは容赦なく応える。
「それは、奥さまどうしようもないことですわ」
ばっさりと切り捨てられ、エレンと今も着れるようにドレスを手直しした。
何枚か思い入れのあるドレスを見て、ため息をついて、そのまま取っておいて、と頼んだドレスもありはしたけれど。
古いドレスとともに、子どもたちの小さい頃の服を見つけて、懐かしくなってしまった。
「ねぇ、エレン。アンヌマリーへのベビードレスは無理でも、普段使い出来るベビー服を作れないかしら?」
「奥さまがお作りになるのですか?」
「そう、この古いベビー服をほどいて型紙代わりにして、新しいベビー服を作るの。赤ちゃんの時なんか、何枚あっても良いでしょう? この服なんか着せやすかったし、どうかしら?」
今世ではミシンなどないので、洋服は全て手仕事だ。
クリスティーヌも家政教育の一環で裁縫や刺繍、編み物は習っていたが所詮素人だ。
自邸で自分だけの時に着るドレスの手直しぐらいならともかく、娘の産む初孫にはちゃんとしたメゾンのベビードレスを贈るつもりだったが、一枚くらい素人の手縫いがあったって良いじゃないかと考えたのだ。
「そうですね。メゾンに手配ももう済ませていますし、とりあえず一枚くらい作ってみられても良いかもしれませんね」
「エレン、ひど〜い」
エレンはほほほと上品に笑うばかりだったが、ちゃんとクリスティーヌの要望を聞き、白い柔らかな布地を用意してくれた。
こうして、クリスティーヌの生活は怠惰な有閑マダムから、ちょっとだけ有意義で楽しいものに変わっていった。
「ええっ?! このベビー服はお母さまが作られたの!」
「そうよ、お披露目とかには無理だけど、普段使いになら悪くないでしょう?」
アンヌマリーのお腹が大きくなって、外出が難しくなってきたので、身内だけのささやかなお茶会がしたいとクリスティーヌに誘いがきたのだ。
それまでに侯爵家から祝いの品はいろいろ届けていたけれど、手縫いのベビー服は今日持参したのだ。
「すごいわ、お母さま! ありがとうございます」
アンヌマリーが素直にベビー服を抱きしめてお礼を言ってくれたので、クリスティーヌとしてもほっとした。
結構時間もかけて、苦労もしたのだ。
赤子の肌を傷つけてはいけないと、柔らかい生地を使ったので、思った以上に縫うのが大変だったし、歪んだら縫い直したり。
飾りは邪魔かもしれないと思い、それでも装飾なしは寂しいからと小さな刺繍を入れたり。
アンヌマリーがベビー服を広げて確認しているのを、照れくさく、でも誇らしく見ていた。
「お母さまがこんなにお裁縫や刺繍がお得意とは知りませんでしたわ」
クリスティーヌは娘の言葉にふふっと笑うと、優雅に紅茶のカップを手に取った。
「頑張ったのよ」
正直なところ、エレンや他のお裁縫が得意な侍女とかにも助言や手伝いを頼みはしたのだ。
でも、縫うのはほぼクリスティーヌが頑張ったのだ。
縫うことよりも、型紙つくりや布地を洗って火熨斗をあてたり、カットする方が大変だったのだ。
前世の毎月届く、お裁縫セットやアクセサリー作りのセットが切実に欲しかったほどだ。
布や糸、ボタンなんかも付いているアレはいいわよね、場合によっては道具も付いているものね、とクリスティーヌは考えていた。
「ありがとうございます、お母さま」
アンヌマリーは母が作ってくれたと言うベビー服をぎゅっと抱きしめて、改めてお礼を言った後、まじまじと母親を見つめた。
「お母さま、痩せた? でも、顔色も良いし、肌艶もよろしいわよね?」
さすが、娘である。
めざといなぁとクリスティーヌは思った。
「ええ、少し絞ったの。これから孫も産まれるし、元気で長生きして孫の結婚式とかも見たいじゃない?」
「元気なら良いけど、結婚式は先走り過ぎない?」
アンヌマリーは目を丸くした後、くすくすと笑った。
そう、クリスティーヌは孫の結婚式もひ孫の顔も見ようと決めたのだ。
その為の健康な体を維持するための生活と美容だ。
まぁ、美容はクリスティーヌの願望だが、美容も健康な体あってのことだし、問題はない。
背筋を伸ばして優雅にソファに座るのは、意外と体幹の筋力が必要なのだ。
クリスティーヌのその姿にアンヌマリーも姿勢をただす。
それを見て、クリスティーヌは優しく娘に微笑んだ。
「貴女は無理することはなくてよ。今はお腹に新しい生命を宿しているのだから、安らかな心持ちで体を厭ってね」
「ありがとう、お母さま。ちゃんと無事にこの家の後継を産んでみせるわ」
アンヌマリーの言葉にクリスティーヌは立ち上がって、娘の横に座り直して、彼女をそっと抱きしめた。
「アンヌマリー、お母さまはね、貴女が大事なのよ。アンヌマリーが健やかで元気でいてくれることが一番の願いよ」
クリスティーヌは、本当にアンヌマリーがとても大切で愛おしかった。
クリスティーヌはこの世界の医療の発達が、うっすらとある前世のものよりもずっと劣っていて、お産がいかに危険が伴うものなのか、身をもって知っている。
母親としては、産まれてくる孫も大事だけれど、娘のアンヌマリーのことがとても心配だった。
「母子ともに、無事にお産が出来ますように」
そっと祈りを込めて、クリスティーヌは娘を抱きしめた。




