妻に愛してるって言ってみた: 逢瀬(おうせ)
「愛してる」
その言葉は、あまりに切なく、堪えきれない嗚咽と共に、夫——慧の口から零れた。
線香の煙がゆらぎ、淡い灰色の筋を描きながら天へと昇る。
夏の終わりの夕暮れ、部屋の中には、もう戻らない彼女の遺影が、ひっそりと飾られていた。
妻――沙耶が逝ったのは、娘の産声が上がったその数十分後だった。
出産は順調なはずだった。陣痛も安定し、医師の表情も明るかった。彼女は汗に濡れた額のまま笑い、「もうすぐだね」と言った。その声は震えていたが、確かに希望で満ちていた。
突然だった。
彼女の呼吸が浅くなり、意識が遠のき、心電図の音が鋭い警告を打ち鳴らした。心肺虚脱型羊水塞栓症――医療スタッフの叫び声と、走る足音、機器の電子音。
誰かが夫である彼を、廊下に押し出し、「ここでお待ちください!」と命じた。
それから、慧は何もできなかった。
扉の向こうで、医師たちが必死に彼女を繋ぎ止めている。
だが、祈りは届かなかった。
赤ん坊の産声が聞こえたのは、ほとんど同時だった。
娘は元気だった。泣き、暴れ、生きようとしていた。
しかし、沙耶の胸はもう上下しなかった。
慧は、その事実を受け止められなかった。
娘を抱きしめた腕は震え、目の前の命の輝きが、逆に妻の不在を突きつけてくる。
医師と看護師に何を言われても、彼は返事ができなかった。
そのまま、初七日までの日々は、ただ流された。
葬儀の挨拶も、親族の対応も、娘の世話も、すべて夢の中の出来事のようだった。
沙耶の母が彼女の遺品を整理しながら泣き崩れる姿も、義父が無言で孫をあやす姿も、遠くに霞んでいた。
けれど、沙耶の写真だけは違った。
遺影の中の彼女は、控えめな笑顔でこちらを見ていた。
妊娠八ヶ月の頃、家の庭で撮った写真だ。陽光が柔らかく、その笑みには、未来を信じる光が確かにあった。
初七日の夜、慧は一人で部屋に座り、遺影に向かって語りかけた。
娘は隣の部屋で、沙耶の母が見てくれている。
蝋燭の火が小さく揺れ、彼はやっと息をついた。
「……沙耶」
呼びかけるだけで胸が裂ける。
抱きしめたかった。
娘を見せたかった。
ありがとうと言いたかった。
ごめんね、と謝りたかった。
何より――愛していると、伝えたかった。
声が震え、喉が詰まる。
それでも、ようやく絞り出した言葉が、「愛してる」だった。
「愛してる。……ずっと、一緒に生きたかった」
遺影は微笑んだまま動かない。
彼は膝に顔を伏せ、静かに泣いた。
そのとき、隣の部屋からかすかな泣き声が聞こえた。
娘がぐずっている。
沙耶が守り抜いてくれた命だ。
慧は涙を乱暴に拭い、立ち上がった。
ふらつきながら隣部屋へ向かい、義母にお願いしていた娘を抱き上げる。
温かい。
確かに生きている。
「……大丈夫。お父さんが、守るから」
震えた声でそう言ったとき、娘は少しだけ泣き止んだ。
失ったものは戻らない。
それでも、この小さな命と共に、彼は歩き続けるしかない。
遺影に向けた「愛してる」は、彼が妻に告げた最後の言葉ではなく――
これから生きるための、最初の言葉になった。
*
沙耶を喪ってから、慧の時間は止まったままだった。
三十一歳にして、突然のワンオペ育児。両親も義両親も遠方だった。
生まれたばかりの娘・灯莉は、夜泣きも多く、授乳の間隔も短い。
慧は、眠りは細切れで、食事は適当。気を抜けば、涙が勝手に溢れそうになった。
ある夜だった。灯莉が激しく泣き、慧がよろけるようにベビーベッドへ向かったとき――ふと、部屋の空気がふわりと動いた。
「慧……」
聞き慣れた声。体が反射的に振り向く。そこに立っていたのは、沙耶と同じ顔をした、しかしどこか“違う”気配をまとった女――沙那だった。
「沙耶……なのか?」
問いかけると彼女は静かに頷く。
「どうしても…あなたと灯莉に会いたくて……」
沙那は灯莉を抱き上げ、柔らかく揺らし始めた。泣き声はみるみる弱まり、灯莉は沙那の胸の中で眠りについた。慧はその光景にただ立ち尽くすしかなかった。
それから、沙那は毎夜のように現れるようになった。
ミルクを飲まない灯莉に、沙那が乳を含ませる光景は、この世のものとは思えないほど静かで美しかった。母が娘に命を分け与えるような、そんな幻想的な温かさが部屋を満たした。
慧が洗濯物を放置し、台所に立つ気力も尽きた日には、沙那が黙々と家事を片付けた。皿が重なる音も、洗濯物が揺れる音も、小さく、小さく、まるで夢の底で聞いているようだった。
さらに、深夜。灯莉が寝静まったころ、沙那は慧の隣に座る。
「疲れたでしょう……慧」
その声に、慧は張り詰めたものがほどけていくのを感じた。沙那の手が頬に触れ、抱きしめられ、唇が重なる――。それは、沙耶の温もりだった。
いや、それ以上に強く、切実で、慧を生の世界から引き離すほど甘美だった。
夜が明けるたび、沙那の姿は朝靄のように溶けて消えた。
「また夜に来るね、慧」
その声に縋るようになっていた。
だが、慧のやつれ具合は、周囲にも隠しようがなくなった。頬はこけ、目の下には濃い影。実家に灯莉を見せに行った日、慧の母は顔色を変えた。
「慧……仕事どころじゃないわね。大丈夫なの?」
問い詰める両親を前に、慧はうまく言葉を紡げなかった。
沙那の存在を説明しようとすると、まるで指の隙間から零れ落ちてしまう幻を掴もうとしているみたいで、何一つ形にできない。
けれど、両親の追及は容赦なかった。
逃げ場を奪われた慧は、やがて観念したように、沙那のことをぽつり、ぽつりと語りはじめる。
驚いたことに――両親は、その話を否定しなかった。
むしろ、静かに耳を傾け、深刻な表情でうなずいていた。
それも当然だった。
沙那のことを口にする慧の顔は、血の気が引き、影だけが濃く落ちて……まるで本物の幽霊のようだったのだから。
父は深く息を吐き、言った。
「慧……その“沙那”とやらに、会うのはやめなさい。お前まで後を追う気か」
「違うんだ。沙那は、俺を助けてくれてる。灯莉の世話も、全部……」
「それがいけないと言っている!」
父の叫びが家の空気を震わせた。
「慧、あんた、死んだ人に縋って生きちゃいけないよ。灯莉を育てるのは“生きているあんた”なんだから」
母の忠告に、慧は言葉を失った。だが内心では分かっていた。沙那と過ごす夜は、甘やかすように心を麻痺させている。沙那に寄りかかるほど、慧は現実から遠ざかっていた。
その夜も――沙那は訪れた。
「慧、会いたかった」
だが、両親の言葉が胸に刺さり、慧は初めて、沙那から目を逸らした。
*
慧は、その夜、沙那が去ろうとした瞬間に呼び止めた。
「沙那……話したいことがあるんだ」
振り返った沙那の姿は、生前と同じ、ふわりと優しい微笑みだった。ただ、その輪郭にはどこか薄い霧のような揺らぎがあり、灯りに透ける影はどこか心許なかった。
「慧……あなた、最近体調が優れないんでしょう?」
「いいんだ。沙那が来てくれるだけで……」
「違うの」沙那はかぶりを振った。
「私が来るたびに、あなたの魂が少しずつ削れていくの。私は……から来てるのよ」
慧は一瞬、息を飲んだ。しかし、胸にあるのはただ一つの想いだった。
「それでもいい。沙那が来てくれるなら……死んだって構わない」
「だめ!」
沙那の声が強く響いた。生前では聞いたことのない、必死の声音だった。
「慧、あなたまで来たら……灯莉はどうするの……
私だって、あなたを抱きしめたい。
ずっと触れていたい。
でも、あなたは生きて、娘を育てて……幸せにならなくちゃいけないの」
慧は言葉を失い、ただ沙那の姿を見つめた。
沙那の瞳に、涙のような光が揺れている。
「ごめんね…未練だった…….
もう、来ない。
あなたと灯莉のために。それが、私の最後の……妻としての務め」
その言葉に胸が裂けそうだった。
慧は沙那の手をとり、必死に言葉を紡いだ。
「やだ……やだよ。沙那。
俺は……沙那も一緒じゃなきゃ嫌だ。
色々と調べてみたんだ。
俺が強くなる。
精進して……魂が削られないようにすればいい。耐性って……ありそうじゃない?」
沙那は驚いた表情を浮かべ、しばらく黙った。
「慧……あなた、それ……本気で言ってるの?」
「本気だ。それに…毎晩じゃなくていい。
頻度を減らそう。月に一度……月命日だけ。――それなら、負担も減ると思う。どうかな?」
沈黙が落ちた。遠くで赤ん坊の寝息が聞こえる。家の柱が、夜気に冷えて小さく音を立てた。
沙那は静かに瞼を伏せた。
「……月に一度なら、あなたの身体も……魂も、耐えられるかもしれない。でも……わからないわ」
沙那は顔を上げ、ポロポロと涙を溢した。
「ごめんね。本当は諦めなきゃいけないのに…そんな事言われたら…私は……。
慧を苦しめてるのに、傍に居たい…酷いよね、私」
その声は震えていた。
「娘にも……お乳をあげたい。抱きしめたい。
…….もう、どうすればいいか、わからない…」
慧の手が沙奈那の頬に触れた。生者にはない、ひんやりとした手触り。
「ごめんよ、沙那。
迷わせて、ごめん。
本当は、沙那に心配しないでって、送り出すのが正しいんだと思う。
でも、沙那にもまだ未練があるなら、一度だけ試させてくれないか」
「…わかったわ。月に一度だけ。だから……お願い、生きてね、慧。身勝手な私を許して…」
慧は深く頷いた。
「こちらこそ、ごめんよ。ありがとう」
沙那は安心したように微笑み、夜気の中に溶けるように姿を薄めていった。
「来月……また会いに来るわ。私のあなた」
その声だけを残して、沙那は消えた。
慧はその場に膝をつき、静かに息を震わせた。沙那との月命日の再会――やってやる。
それが、今、唯一の灯だった。
*
沙那と約束を交わした日から、慧の暮らしは大きく変わった。
朝は夜明け前に目を覚まし、白湯を飲み、仏壇に向かって読経する。食事は精進料理に切り替え、塩分と油を控え、腹八分に抑える。酒も断った。
夜は娘が眠ったあと、深夜まで本を読むこともやめ、蝋燭の灯を落とし、静かに床へ就いた。
「これくらいで、本当に耐えられるようになるのかな……」
独りごちながらも、続けた。
月命日の夜。
ひと月ぶりに沙那が帰ってきた。障子越しに淡い光がさし、そこへ白い足が影を落とす。生者とは違う、けれども懐かしい、柔らかな気配。
慧の心臓は高鳴ったが、以前のような息苦しさはなかった。
「……慧」
沙那はそっと微笑んだ。
「大丈夫……そうだね」
慧は頷いた。
「多分….これは、効果を感じるな。このまま上手くいくと嬉しいな」
沙那は少し涙ぐみ、慧を抱きしめた。
その夜、沙那は娘を優しく抱き寄せ、ほんのわずかに乳を含ませ、柔らかく寝かしつけた。
そして、夫婦としての夜を静かに過ごした。
その後も、慧は精進を怠らなかった。
月に一度だけ訪れる沙那は、生前よりも柔らかく、影よりも儚く、娘の成長を見守り、少しずつ言葉を残しては夜明けとともに消えていった。
——年月は静かに積み重なった。
娘は成長し、巣立ち、自分の家庭を持った。
家の中に残るのは、白髪が目立ち始めた慧と、月に一度だけ訪れる沙那の気配だけとなった。
やがて。
慧は床に伏すようになった。
医師は静かに首を振ったが、慧は穏やかな顔だった。
最後の月命日の夜。
障子が、ひとりでにスッと開いた。
「慧……」
沙那がいた。若いままの姿で、ひどく悲しそうに。
慧は弱々しく微笑んだ。
「……沙那。来てくれたんだね」
「もう……もう無理しなくていいの。あなた、生ききったのよ」
沙那は膝をつき、慧の手を握った。その手は変わらずひんやりしていた。
しかし、慧には何より温かった。
慧は安堵の息を漏らす。
「君のおかげで……あの子は立派に育ったよ。僕は幸せだった。ずっと、ずっと……ありがとう」
沙那の涙が、一滴だけ慧の手の甲に落ちた。
慧はその手をゆっくりと伸ばし、沙那の頬に触れた。
「沙那……愛してる」
沙那は静かに慧を抱きしめた。
「……さあ、一緒にいきましょう」
慧の胸の鼓動は、穏やかに、そして静かに止まった。
その表情は、生涯でいちばん安らいでいた。




