表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/23

(わー、すごい……)

 人混みでごったがえす駅のプラットフォームを見て、北原瑞希は驚いた。そして活気のあるその光景は、彼女の心をワクワクとさせた。

(とうとう始まる、私の新しいチャレンジ……)

 嬉しそうに微笑んだ。

 ここ数年、家から半径二キロ以内だけの生活だ。専業主婦であり、子供はいない。夫は大阪に単身赴任中である。

 現在、彼女は大きな家で、ぽつんと一人だけで住んでいた。

 夫の単身赴任期間は一年を過ぎていた。盆も正月も帰ってこない。

 彼女はずっと一人ぼっちで、いつも寂しい思いをしていた。

 しかし、寂しがってるばかりが能じゃない。この機会を利用して、社会に出てみることにした。

 お嬢様育ちの箱入り娘で、今まで一度も働いたことがない。女子大を出ると、すぐに結婚した。

 傍から見ると、悠々自適なセレブ生活である。しかし彼女は自分が幸福であるとは思っていない。その心は、ずっとくすぶり続けていた。

(広い世界に飛び出してみたい……)

 ずっと、そう願っていた。

 そしてその第一歩が、今日から始まる。

 期待と興奮のため、その頬は薔薇色に染まっていた。

 ぱっちりとした瞳の二十七歳──容姿端麗な北原瑞希の純白ミニスカートからは、健康的な太ももが伸びていた。その純白サマーニットの盛りあがりは、豊かな胸もとをアピールしていた。

 ハイヒールもトートバックも白。全身白に統一されたその姿は、清純な天使のようである。

 身長は百六十二。

 いつも笑顔を絶やさないその顔立ちは愛らしい。その姿は妖精のような清潔感に満ち溢れていた。

 お嬢様育ちだけあって、おっとりとした性格だ。世の中のすべての人間は善良だと思っている。

 そんな風に思えるのは、彼女の育ちが良すぎるせいだ。上品な人間だけに囲まれて、悪人と接する機会はない。

 大手不動産会社に勤めている七歳年上の夫──北原賢人は同居中、彼女の肉体を毎晩求めた。それが単身赴任で、ぱたりと途切れた。

 そして彼女はもう一年以上、ほったらかしになっている。だから寂しくて仕方がない。夫を想い、その健康的な肉体を持て余していた。

 そんな彼女が今、駅のホームに立っていた。社会の一員になるために、ずっとしたいと思っていたボランティアを、とうとうしようと決意していた。

 満員電車がやってきた。

 北原瑞希は、その中に乗りこんだ。

 車内のほとんどは、背広の男性たちである。その中はギュウギュウ詰めで、立錐の余地もない。

 見知らぬ他人と、ぴったりと体をくっつけ合う。そんな車内の状況に、瑞希は早くもカルチャーショックを受けていた。

(やだ、近い……)

 これほどの満員電車に乗ったのは、人生で初めてである。

 彼女の心は、早くもめげそうになっていた。

(こんなの、我慢できないかも……。もしかしたら、今日一日でやめちゃうかも……)

 つい、そう思ってしまう。

 しかし今回は、なんとしても頑張りぬこうと決意していた。どんなことがあろうとも、そう簡単には諦めない。

 北原瑞希は二十七歳だが、今まで一度も働いたことがない。自分の手で、一円も稼いだことがない。

 それが彼女の大きなコンプレックスになっていた。誰もが経験している当たり前の苦労を、自分一人だけが免除されている。その思いが、彼女の大きな引け目になっていた。

(だめだわ、私、がんばらないと……。今回は、なにがなんでも……)

 早くもめげそうになっている自分の弱い心を、なんとか励ます。

 立派な社会人になりたい。人から必要とされる人間になりたい。

 彼女は熱烈に、そう願っていた。

 今までずっと、親や周囲から守られ続けてきた人生である。自分が歳のわりには幼すぎて、世間知らずだという自覚もある。

 彼女はそんな自分のことが、大嫌いであった。そして、頑張って逞しい人間になって、少しでも自分のことを好きになりたかった。

(ちょっと、なに?……)

 電車が動き出して数分後、彼女のお尻になにか固いものが当たった。最初は気にしていなかったが、それが何度も当たるため、とうとう気になった。

 カバンの端が当たっているのか、あるいは……

(もしかして……)

 ウワサに聞く、痴漢?

 瑞希はぎくりとし、身を固くした。

 まわりはみな、背広の男性の後ろ姿である。それはまるで、肉の壁のようだ。

 少し離れた場所に、女性の立っている姿が見えた。

(きっと気のせいよね……。だって、他の女性たちは平気そうだもの……)

 しかし、痴漢に狙われやすい女性と、そうでない女性がいる。そして自分は狙われやすいタイプの女性だということに、瑞希はまったく気づいていない。

 ノースリーブニットとミニスカートの清楚な女性が、お色気をむんむんと漂わせ、満員電車に乗り込んできたのである。痴漢に目をつけられてしまうのは当然だ。

 しかし世の中の人間は善人ばかりだと思っている彼女は、痴漢という人種がいるという現実を、なかなか信じることができない。しかし、お尻に当たっている固いものは、明らかにカバンではない。自由自在に動きまわるそれは、どうしても人の手の甲のように思える。

(やっぱり、痴漢だわ……)

 人生で初めて性犯罪者に遭遇した瑞希は、恐ろしげに身を震わせた。

 こういう場合、どうすればいいのか?

 知識としては、わかっていた。

 大声をあげて、周囲に助けを求める。

(でも、本当に痴漢なのかしら? たまたま手が当たっただけかも……)

 彼女は混乱していた。こういうことに、まるっきり免疫がない。

 自意識過剰……被害妄想……

 そのようなワードが、頭の中でグルグルと駆けまわる。

 彼女は身を固くして、じっと俯いていた。

 なんの断りもなく勝手に身体を触られてしまうなんて、そんなこと、到底信じられない。そこまで露骨な迷惑行為をするような悪質な人間が、この世界に存在しているなんて、信じることができない。

 そんな悪質な人間がこの世界に存在しているなんて、そんな嫌なこと、絶対に信じたくない──

(きっと誤解よね……。お願い、このまま何事もなく過ぎて……)

 しかし無情にも、その願いは届かない。

 お尻に当たる固いものは、ふっくらとした感触に変化した。そこからは、五本の細長い物体の蠢きが感じられた。

(て、掌だわ……)

 それはもう、疑いようもなかった。

 掌で、お尻を触られている‼︎

 それは、明らかな痴漢行為である。

 彼女は鯉のように、口をパクパクと動かす。

 マニュアル通り、周囲に助けを求めようとした。

 しかし、声が出てこない。

(なんで?……)

 あまりの恐怖と、羞恥心のためである。

 こんな満員電車の状況で、触ってくる男性が怖い。

 きっとまともな人間ではないのだろう。宇宙人のように理解不能で、悪魔のように極悪非道。そんな人間なのだろう。

 そう思うと、怖くてたまらない。

 そして、恥ずかしくもある。

 男性から、猥褻なことをされている。どす黒い欲望をぶつけられている。

 それをこんなにたくさんの人に知られてしまうことが、猛烈に恥ずかしい。

 だから、声が出ない。

 体がブルブルと震え、頭はクラクラする。今にも失神してしまいそうだ。

 そんな彼女の反応を見て、痴漢は、騒がれないと判断したらしい。その手を、ゆるゆると動かし始めた。

(ヒイイッ!)

 瑞希は、あやうく悲鳴をあげてしまいそうになった。

(嘘でしょ……)

 お尻を、掌で撫でられていた。

 信じられない。

 逃げたいが、逃げられない。肉の壁に囲まれている。

 大声で叫びたいが、声が出ない。体も完全に硬直してしまっていた。

(イヤアッ!)

 心中だけで、悲鳴をあげることしかできない。

 自分は、こういう陰湿な悪事に対して、絶望的に無力である。彼女はそれを嫌というほど思い知らされた。

 そんな地獄のような時間を、彼女はなんとか耐え抜いた。

 逃げようがない、声も出ない、体も動かない。だから耐えるしかなかった。

 地獄のような時間であった。

 電車は、ようやく終着駅に到着した。

 ホームに押し出された瑞希は、ふらふらとした足取りで、ベンチに座り込んだ。

(あー、私にはこんなの、絶対にムリ……)

 早くも彼女は、完全にめげそうになっていた。

 このままでは、ボランティア団体の事務所までも、辿り着けそうにない。

「大丈夫ですか?」

 そこに、見知らぬ女性が話しかけてきた。

「え? あ、はい、大丈夫です……ありがとうございます……」

「もしかして、痴漢されたんですか?」

「……はい……」

「そう……」

 親切そうな女性が、心配そうな顔をして、瑞希を眺めていた。

(そんな格好してるから……)

 女性は、苦笑いを浮かべた。

 ベンチに座り込んだ瑞希のミニスカートから、白い太腿が、根元ちかくまで見えていた。Hカップに押され、膨らんだサマーニットの形も、扇情的である。

 それはセクシーな服装であるというよりも、ただ男性を興奮させるためだけの服装であるように見えた。

「とにかく、お大事に……。痴漢にあったら、すぐに周りに助けを求めたほうがいいですよ……」

 女性はそう助言し、去って行く。

 その女性のキビキビとした凜々しい姿をみると、瑞希は、猛烈な劣等感を感じてしまう。

 その女性は、自分と同じくらいの年齢のように見えた。しかし強く逞しく、厳しい社会の中で、立派に生きている。一人前の、強い女性のように思えた。

(それに比べて……)

 自分が情けなくて、泣きそうになる。

(もっと頑張らないと……)

 瑞希はそう思い、頭をあげた。

 すると、一人の太った中年男が、自分を遠巻きに見ていることに気づいた。

(なにかしら……?)

 ふいに、その中年男の熱視線が、自分の股間に向いていることに気づいた。

(ちょっと、どこ見てんのよ!)

 慌ててスカートを手で押さえる。

 おそらく下着が見えてしまっていたのだろう。

 男を睨みつける。

 男は何食わぬ顔で、そっぽを向いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ