二
(わー、すごい……)
人混みでごったがえす駅のプラットフォームを見て、北原瑞希は驚いた。そして活気のあるその光景は、彼女の心をワクワクとさせた。
(とうとう始まる、私の新しいチャレンジ……)
嬉しそうに微笑んだ。
ここ数年、家から半径二キロ以内だけの生活だ。専業主婦であり、子供はいない。夫は大阪に単身赴任中である。
現在、彼女は大きな家で、ぽつんと一人だけで住んでいた。
夫の単身赴任期間は一年を過ぎていた。盆も正月も帰ってこない。
彼女はずっと一人ぼっちで、いつも寂しい思いをしていた。
しかし、寂しがってるばかりが能じゃない。この機会を利用して、社会に出てみることにした。
お嬢様育ちの箱入り娘で、今まで一度も働いたことがない。女子大を出ると、すぐに結婚した。
傍から見ると、悠々自適なセレブ生活である。しかし彼女は自分が幸福であるとは思っていない。その心は、ずっとくすぶり続けていた。
(広い世界に飛び出してみたい……)
ずっと、そう願っていた。
そしてその第一歩が、今日から始まる。
期待と興奮のため、その頬は薔薇色に染まっていた。
ぱっちりとした瞳の二十七歳──容姿端麗な北原瑞希の純白ミニスカートからは、健康的な太ももが伸びていた。その純白サマーニットの盛りあがりは、豊かな胸もとをアピールしていた。
ハイヒールもトートバックも白。全身白に統一されたその姿は、清純な天使のようである。
身長は百六十二。
いつも笑顔を絶やさないその顔立ちは愛らしい。その姿は妖精のような清潔感に満ち溢れていた。
お嬢様育ちだけあって、おっとりとした性格だ。世の中のすべての人間は善良だと思っている。
そんな風に思えるのは、彼女の育ちが良すぎるせいだ。上品な人間だけに囲まれて、悪人と接する機会はない。
大手不動産会社に勤めている七歳年上の夫──北原賢人は同居中、彼女の肉体を毎晩求めた。それが単身赴任で、ぱたりと途切れた。
そして彼女はもう一年以上、ほったらかしになっている。だから寂しくて仕方がない。夫を想い、その健康的な肉体を持て余していた。
そんな彼女が今、駅のホームに立っていた。社会の一員になるために、ずっとしたいと思っていたボランティアを、とうとうしようと決意していた。
満員電車がやってきた。
北原瑞希は、その中に乗りこんだ。
車内のほとんどは、背広の男性たちである。その中はギュウギュウ詰めで、立錐の余地もない。
見知らぬ他人と、ぴったりと体をくっつけ合う。そんな車内の状況に、瑞希は早くもカルチャーショックを受けていた。
(やだ、近い……)
これほどの満員電車に乗ったのは、人生で初めてである。
彼女の心は、早くもめげそうになっていた。
(こんなの、我慢できないかも……。もしかしたら、今日一日でやめちゃうかも……)
つい、そう思ってしまう。
しかし今回は、なんとしても頑張りぬこうと決意していた。どんなことがあろうとも、そう簡単には諦めない。
北原瑞希は二十七歳だが、今まで一度も働いたことがない。自分の手で、一円も稼いだことがない。
それが彼女の大きなコンプレックスになっていた。誰もが経験している当たり前の苦労を、自分一人だけが免除されている。その思いが、彼女の大きな引け目になっていた。
(だめだわ、私、がんばらないと……。今回は、なにがなんでも……)
早くもめげそうになっている自分の弱い心を、なんとか励ます。
立派な社会人になりたい。人から必要とされる人間になりたい。
彼女は熱烈に、そう願っていた。
今までずっと、親や周囲から守られ続けてきた人生である。自分が歳のわりには幼すぎて、世間知らずだという自覚もある。
彼女はそんな自分のことが、大嫌いであった。そして、頑張って逞しい人間になって、少しでも自分のことを好きになりたかった。
(ちょっと、なに?……)
電車が動き出して数分後、彼女のお尻になにか固いものが当たった。最初は気にしていなかったが、それが何度も当たるため、とうとう気になった。
カバンの端が当たっているのか、あるいは……
(もしかして……)
ウワサに聞く、痴漢?
瑞希はぎくりとし、身を固くした。
まわりはみな、背広の男性の後ろ姿である。それはまるで、肉の壁のようだ。
少し離れた場所に、女性の立っている姿が見えた。
(きっと気のせいよね……。だって、他の女性たちは平気そうだもの……)
しかし、痴漢に狙われやすい女性と、そうでない女性がいる。そして自分は狙われやすいタイプの女性だということに、瑞希はまったく気づいていない。
ノースリーブニットとミニスカートの清楚な女性が、お色気をむんむんと漂わせ、満員電車に乗り込んできたのである。痴漢に目をつけられてしまうのは当然だ。
しかし世の中の人間は善人ばかりだと思っている彼女は、痴漢という人種がいるという現実を、なかなか信じることができない。しかし、お尻に当たっている固いものは、明らかにカバンではない。自由自在に動きまわるそれは、どうしても人の手の甲のように思える。
(やっぱり、痴漢だわ……)
人生で初めて性犯罪者に遭遇した瑞希は、恐ろしげに身を震わせた。
こういう場合、どうすればいいのか?
知識としては、わかっていた。
大声をあげて、周囲に助けを求める。
(でも、本当に痴漢なのかしら? たまたま手が当たっただけかも……)
彼女は混乱していた。こういうことに、まるっきり免疫がない。
自意識過剰……被害妄想……
そのようなワードが、頭の中でグルグルと駆けまわる。
彼女は身を固くして、じっと俯いていた。
なんの断りもなく勝手に身体を触られてしまうなんて、そんなこと、到底信じられない。そこまで露骨な迷惑行為をするような悪質な人間が、この世界に存在しているなんて、信じることができない。
そんな悪質な人間がこの世界に存在しているなんて、そんな嫌なこと、絶対に信じたくない──
(きっと誤解よね……。お願い、このまま何事もなく過ぎて……)
しかし無情にも、その願いは届かない。
お尻に当たる固いものは、ふっくらとした感触に変化した。そこからは、五本の細長い物体の蠢きが感じられた。
(て、掌だわ……)
それはもう、疑いようもなかった。
掌で、お尻を触られている‼︎
それは、明らかな痴漢行為である。
彼女は鯉のように、口をパクパクと動かす。
マニュアル通り、周囲に助けを求めようとした。
しかし、声が出てこない。
(なんで?……)
あまりの恐怖と、羞恥心のためである。
こんな満員電車の状況で、触ってくる男性が怖い。
きっとまともな人間ではないのだろう。宇宙人のように理解不能で、悪魔のように極悪非道。そんな人間なのだろう。
そう思うと、怖くてたまらない。
そして、恥ずかしくもある。
男性から、猥褻なことをされている。どす黒い欲望をぶつけられている。
それをこんなにたくさんの人に知られてしまうことが、猛烈に恥ずかしい。
だから、声が出ない。
体がブルブルと震え、頭はクラクラする。今にも失神してしまいそうだ。
そんな彼女の反応を見て、痴漢は、騒がれないと判断したらしい。その手を、ゆるゆると動かし始めた。
(ヒイイッ!)
瑞希は、あやうく悲鳴をあげてしまいそうになった。
(嘘でしょ……)
お尻を、掌で撫でられていた。
信じられない。
逃げたいが、逃げられない。肉の壁に囲まれている。
大声で叫びたいが、声が出ない。体も完全に硬直してしまっていた。
(イヤアッ!)
心中だけで、悲鳴をあげることしかできない。
自分は、こういう陰湿な悪事に対して、絶望的に無力である。彼女はそれを嫌というほど思い知らされた。
そんな地獄のような時間を、彼女はなんとか耐え抜いた。
逃げようがない、声も出ない、体も動かない。だから耐えるしかなかった。
地獄のような時間であった。
電車は、ようやく終着駅に到着した。
ホームに押し出された瑞希は、ふらふらとした足取りで、ベンチに座り込んだ。
(あー、私にはこんなの、絶対にムリ……)
早くも彼女は、完全にめげそうになっていた。
このままでは、ボランティア団体の事務所までも、辿り着けそうにない。
「大丈夫ですか?」
そこに、見知らぬ女性が話しかけてきた。
「え? あ、はい、大丈夫です……ありがとうございます……」
「もしかして、痴漢されたんですか?」
「……はい……」
「そう……」
親切そうな女性が、心配そうな顔をして、瑞希を眺めていた。
(そんな格好してるから……)
女性は、苦笑いを浮かべた。
ベンチに座り込んだ瑞希のミニスカートから、白い太腿が、根元ちかくまで見えていた。Hカップに押され、膨らんだサマーニットの形も、扇情的である。
それはセクシーな服装であるというよりも、ただ男性を興奮させるためだけの服装であるように見えた。
「とにかく、お大事に……。痴漢にあったら、すぐに周りに助けを求めたほうがいいですよ……」
女性はそう助言し、去って行く。
その女性のキビキビとした凜々しい姿をみると、瑞希は、猛烈な劣等感を感じてしまう。
その女性は、自分と同じくらいの年齢のように見えた。しかし強く逞しく、厳しい社会の中で、立派に生きている。一人前の、強い女性のように思えた。
(それに比べて……)
自分が情けなくて、泣きそうになる。
(もっと頑張らないと……)
瑞希はそう思い、頭をあげた。
すると、一人の太った中年男が、自分を遠巻きに見ていることに気づいた。
(なにかしら……?)
ふいに、その中年男の熱視線が、自分の股間に向いていることに気づいた。
(ちょっと、どこ見てんのよ!)
慌ててスカートを手で押さえる。
おそらく下着が見えてしまっていたのだろう。
男を睨みつける。
男は何食わぬ顔で、そっぽを向いた。




