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えっと、あなたは一体どなたですか? 〜結婚式当日、わたくしは記憶喪失のフリをして婚約者を断罪する〜

作者: つきなみ。
掲載日:2026/01/20


 鐘の音が、やけに澄んで聞こえた。

 光を浴びたステンドグラスが、赤や青の欠片を床に落とす。白いヴェールの向こうで、人々が「おめでとう」と微笑んでいるのがわかる。


 ――幸せな結婚式になるはず。


 誰もがそう信じていた。少なくとも、そう“見せる”ことはできていた。


 祭壇の前。神父の声。誓いの言葉。

 わたくし、侯爵家令嬢リュシア・アーデンは、隣に立つ新郎へ顔を向けた。


 お相手は王都で名の知れた公爵家の嫡男。

 眉目秀麗、温厚、将来有望。

 それが“表の彼”――ディオン・ルフェーヴル。


 ……そして、“裏の彼”は。


 「はぁ」


 胸の奥に沈めてきた息をゆっくり吐いた。

 わたくしの口から漏れ出たその不安と不満を込めた小さな音は、神父の声に掻き消される。


「――あなたは、この方を生涯の伴侶とし、いかなる時も支え、愛し、敬うことを誓いますか」


 わたくしは微笑んだまま、首を傾げた。


「……えっと」


 会場が、ふっと静まる。

 この沈黙を合図にするように、わたくしは澄んだ声で言った。


「あなたは、一体、どなたですか?」


 ざわり、と空気が揺れる。

 ディオンの笑顔が凍りついた。神父の口が半開きのまま止まる。貴婦人たちの扇が、ぱたりと落ちた。


 まるでみんな、時間が止まったかのように思考を停止している。


「リュシア、君は何を――」

「すみません。失礼を承知で、もう一度問いますね。あなたは……誰ですか?」


 わたくしは本気で困った顔をして見せた。


 相変わらず、わたくしのディオン様も心配する”演技”はお得意のようです。

 ディオンはわざとみんなに見えるように、不安そうな顔でわたくしの顔を下から覗き込んでくる。


 ほんと、忌々しい顔ですわね。


 わたくしは怒りの感情でわなわなと揺れる拳を抑えながら、視線を左右に彷徨わせて客席へ助けを求めた。


「ここは、どこ……? 皆さまは……どうしてこんなに綺麗な格好を……?」


 声が震える。目尻を濡らす。

 練習通り。鏡の前で、何度も確かめた通り。


 わたくしの母は、すでに亡い。

 父も、昨冬に倒れて戻らなかった。

 だから、わたくしの泣き顔を咎める者は、もう誰もいない。


 「わたくしの……」


 最後のセリフを言って、わたくしの演技は始まりの鐘を鳴らす。


 「わたくしの名前は一体……?」


 これでもか、というほどにわざとらしく。

 わたくしは困り顔を披露してみせた。


 その様子に苛立ちを見せるディオンが、焦ったようにわたくしの手首を掴んだ。

 痛い。けれど、痛みさえ今日は“材料”だ。


「冗談はよせ。今日は……」

「冗談……? あの、手が痛いです。離してください」


 その一言で、周囲の視線が彼の腕に集中する。

 ディオン様はそれに遅れて気付くと慌てて手を放し、作り笑いを貼り付けた。


「……彼女は緊張しているようです」

「緊張……? いえ、違いますわ。わたくし、本当に覚えていないのです。ここ数年のことを」


 わたくしは、胸元に手を当て、震える息を整えるふりをする。


「突然ですわ、今突然記憶をなくしたのです」


 神父が狼狽し、医師を呼ぶ声が飛ぶ。

 司祭席の側に控えていた宮廷医が駆け寄り、わたくしの瞳孔を覗く。


「……衝撃や転倒の痕は」

「ありません。でも……不安で」


 ディオン様は、歯を食いしばっていた。

 “想定外”なのだろう。そう――わたくしが黙って祭壇で頷き、檻に入るはずだった結婚式が。


 医師が小声で言う。


「精神的負荷による一時的な記憶障害の可能性も……」

「では、式は中断――」

「いいえ」


 わたくしは微笑んで首を振った。


「わたくしのことは気にせず続けてください。わたくしは――確認したいだけです。皆さまが『真実』を教えてくださるかどうかを」


 その言葉に、会場が再びざわめく。

 真実という単語の棘が空気に刺さる。わたくしが何を言ってるのか、周囲が分かる様子はありません。


 でも、その中でディオン様は理解しておられました。

 だからこそ、誰にも気付かれないように私の耳元で低い声で囁いた。


「リュシア、後で話そう」


 彼は怒る時低い声で話します。

 わたくしを罵倒する時も、いつも低い声を出してくるのです。


 みんなが知らない、彼の裏側。



「後で……? いいえ、今日は皆さまの前でお話しましょう。だって、今日はわたくしの幸せでいっぱいの結婚式ですもの」


 わたくしは、無垢を装って言う。


「結婚式って……祝福を受ける日でしょう? なら、皆さまの前で隠すことは何もないはず」


 ディオン様の額に、汗が滲んだ。

 わたくしは、その汗を“初めて見るもの”のように眺め、少し声量をあげて言葉を落とした。


「あなたは、わたくしを……嫌いだったのですか?」


「……は?」


「わたくし、昨日夢を見たのです。誰かに『役立たず』『黙って笑っていろ』って言われる夢。とても、ディオン様によく似た声でした」


 客席の空気が、固まる。

 ディオンの母が咳払いをし、先に笑い声を作る。


「まあ、夢ですわ。彼女は何を言っているのかしらね。花嫁はすごく緊張して……」

「夢……そう、夢。だから、確かめたいのです」


 わたくしは小首を傾げ、さらに無邪気に言う。


「……父が死んだ時、わたくしはあなたに『お前の居場所はもうなくなった』と言われましたか?」


 息を呑む音が、あちこちで重なる。

 ディオン様の目が、鋭く細くなる。――殺気ではない。追い詰められた獣の苛立ち。


「リュシア、そんなことは――」

「言っていない、ですか?」


 わたくしは、祭壇の脇――参列者の中の一人へ視線を向けた。


 「そうですか。では」


 淡い藤色のドレスを着た、わたくしの“親友”。

 ミレーヌ・アスター。貞淑で優しいと評判のアスター伯爵家のご令嬢。


「確か、あなたの名前はミレーヌ、でしたよね?あなたは覚えていますか? あの日、わたくしの部屋で。ディオン様と……二人で」


 ミレーヌの頬が、みるみる白くなる。


「……リュ、シア。なにを言って――」

「夢の中でね、見たの。あなたがわたくしの手を握りながら言ったの。『大丈夫、私が味方よ』って。とても優しかったわ」


 ――そして、現実には。

 わたくしの親友は、わたくしの婚約者の寝室にいた。


 言葉を続ける。


「あなたは……味方でしたか?」

「……ち、違うの。私は……」

「違う。そう、違うのね」


 わたくしは微笑んで頷く。


「なら、あなたが昨夜、控室の奥で『今日は“最後の夜”ね』と囁いていたのも、夢?」


 会場が、どよめきに変わる。

 それは、噂話に飢えた興奮ではない。貴族社会の“致命傷”の匂いを嗅いだ、警戒に近い空気感。


 ディオンが叫ぶ。


「でたらめだ! 証拠もない!」

「証拠……?」


 わたくしは首を傾げる。


「では、これも夢かしら」


 わたくしは、ヴェールの内側に隠していた小さな封筒を取り出した。

 封蝋の印。ディオン家の紋章。


 客席から、誰かが息を呑む。


「これ、あなたの筆跡ですよね? ディオン様。――『結婚したらリュシアは家に閉じ込める。金は俺が管理する。外で遊ぶのに都合がいい』」


 凍りつく。

 ディオンの母が立ち上がり、椅子が鋭く鳴った。


「そんなもの、偽造!」

「偽造?」

 「おかしいだろ、お前がそれを持っているはずが――」

 「それ、ですか?」


 わたくしは穏やかに続ける。


「そうですわね、手紙がわたくしの手にあるなんておかしいもの。

 「ち、違う……」

 「ここには、ないだけですものね? 今、ディオン様のお口でそう仰ったのでは?」


 そう言って、ふっと笑った。


「……わたくしは記憶を失くしているのですもの、この手紙のこともわかりませんわ。だから、ディオン様、真実をお教えください」


 もう終わりは近かった。

 わたくしの心は気付けばすっきりとしていた。


 ディオン様の怒りに満ちた顔を見れたからだろうか。

 あるいは、今まで感情を押し潰すように暮らしていた自分を、自由にしてあげたからだろうか?


 ふふ、理由は分からないけど、今はここ数年に感じたことのない、とても愉快な気持ちだわ。


 綻ぶ口元を取り繕って、顔をあげると怒りの表情を隠さなくなったディオン様がいた。


「――演技だ」

「……何の演技ですの?」


 ディオン様が、低く呻く。

 次の瞬間、ディオン様がわたくしの両肩を強く握ってきた。


 「いたっ……」


 「記憶を失くしたなんて嘘だろうが! そんな都合よく思い出すなんてことあるわけねぇ!」


 ざわっ、と空気が爆ぜる。

 わたくしは、まっすぐにディオン様に哀れなまものを見る目を向けた。


 この人は、最後の最後まで……。



 「周りを、見てください」


 「あ? ――っ!」


「あなたが四年かけて壊したものを、わたくしは今日この瞬間で壊すわ」


 ディオンの顔が歪む。

 ミレーヌが泣き声を上げる。その隣にいる母は激昂し、父は青ざめた表情で座り込んでいた。


 わたくしは静かに告げた。


「婚約は破棄いたします。結婚式は中止。――皆さまの前で、正式に宣言いたしますわ」


 神父が震える声で言う。


「……では、儀式は中止――」

「ええ、これはもう、祝福の場ではありませんものね」


 わたくしは客席へ向き直る。


「本日お集まりくださった皆さまにはご迷惑をおかけします。けれど――この場で終わらせなければ、わたくしは一生、籠の中の鳥でしたわ」


 言い終えた瞬間。

 背後で、ディオンが荒い息を吐いた。


「……リュシア。こんなことをして、君はどうなる。アーデン家は……」

「父はもういません」

「……っ」

「わたくしの背を押す人は、いなくなった。だから、わたくしが押します。わたくし自身を」


 気付けば、身体の震えは消えていた。

 涙も枯れている。

 泣くのは、もう疲れたし、飽きたわ。



 これからどうしよう、そんな考えが浮かんだ時だった。

 ひとりの男性が進み出た。


「アーデン嬢」


 落ち着いた声。濃紺の礼服。

 王都の社交界で“冷静な実務家”として知られる侯爵家の次男、カイル・ヴァレン。


 彼は、わたくしへ一礼した。


「あなたの勇気に、敬意を。――そして、必要ならば、法務と証拠整理の手伝いをさせてください」


 その申し出が、どれほどの意味を持つか。

 この場の誰もが理解している。彼が手を貸せば、ディオン家は逃げられない。


 ディオンが叫んだ。


「なんだ、貴様……! リュシアと最初から――!」

「最初から、何です?」


 カイルは涼しい顔で返す。


「あなたが婚約者を軽んじた“結果”が、今日ここに現れただけでしょう」


 わたくしは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 ――救われる、というより。

 “ひとりで立っていい”と許された気がした。


 その後は、とてもとても早かった。


 式は中止。

 参列者たちは噂を持ち帰り、社交界は一夜で形を変えた。

 ディオン様は釈明に走り、ミレーヌは泣いて許しを乞うた。


 そのあとも、ディオン家は必死に火消しを試みた。

 けれど、火は消えない。

 火種が“結婚式場”で燃え上がったのだから。


 数日後には、ディオン様の浮気とわたくしに対する暴言の数々が顕になった。

 それ以外にもディオン家に関わる悪事なども、掘れば掘るだけたくさん出てきた、という。


 ――仕方がありませんね。わたくしが“記憶喪失のふり”で暴露したのは、ほんの入口にすぎないのだから。


 わたくしは家に戻り、父の遺した書類を開いた。

 そして知った。ディオン家は、わたくしの持参金を当てにして、借金の穴を埋めるつもりだったことを。


 ……最初から、“人”としてではなく、“財布”として見ていたのだ。


 笑えるほど、わかりやすい。


 その頃、ディオン様はさらに泥沼へ落ちる。

 わたくしに許されなかったミレーヌは開き直ると、「私こそがディオン様にふさわしい」と騒ぎ立てているらしい。




 そして、冬の夜会。


 わたくしは、淡い銀色のドレスを纏い、静かに広間へ立っていた。

 以前のように周囲の視線が怖い、とは思わない。怖いのは自由がない“鳥籠”だ。


「……アーデン嬢」


 カイルが、わたくしへ手を差し出した。

 同情ではない。施しでもない。

 ただ、ひとりの女性として、対等に。


 わたくしは、その手を取った。



「……そろそろ、その呼び方をやめてほしいですわね」

「ふふ、すみません。では、改めて――リュシア」


 彼の呼び方は、丁寧で、距離があって、優しかった。


 わたくしは思う。


 結婚式の日に記憶をなくした“ふり”をしたのは、過去を捨てたかったからではない。


 過去を“真実として”世界に暴いて。

 そこから、わたくしが前へ進みたかったのだ。


 「リュシア、僕はあなたを愛しています」


 「ふふ、それは真実ですか?」


 「えぇ、本当の本当に愛していますよ、リュシア」


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