えっと、あなたは一体どなたですか? 〜結婚式当日、わたくしは記憶喪失のフリをして婚約者を断罪する〜
鐘の音が、やけに澄んで聞こえた。
光を浴びたステンドグラスが、赤や青の欠片を床に落とす。白いヴェールの向こうで、人々が「おめでとう」と微笑んでいるのがわかる。
――幸せな結婚式になるはず。
誰もがそう信じていた。少なくとも、そう“見せる”ことはできていた。
祭壇の前。神父の声。誓いの言葉。
わたくし、侯爵家令嬢リュシア・アーデンは、隣に立つ新郎へ顔を向けた。
お相手は王都で名の知れた公爵家の嫡男。
眉目秀麗、温厚、将来有望。
それが“表の彼”――ディオン・ルフェーヴル。
……そして、“裏の彼”は。
「はぁ」
胸の奥に沈めてきた息をゆっくり吐いた。
わたくしの口から漏れ出たその不安と不満を込めた小さな音は、神父の声に掻き消される。
「――あなたは、この方を生涯の伴侶とし、いかなる時も支え、愛し、敬うことを誓いますか」
わたくしは微笑んだまま、首を傾げた。
「……えっと」
会場が、ふっと静まる。
この沈黙を合図にするように、わたくしは澄んだ声で言った。
「あなたは、一体、どなたですか?」
ざわり、と空気が揺れる。
ディオンの笑顔が凍りついた。神父の口が半開きのまま止まる。貴婦人たちの扇が、ぱたりと落ちた。
まるでみんな、時間が止まったかのように思考を停止している。
「リュシア、君は何を――」
「すみません。失礼を承知で、もう一度問いますね。あなたは……誰ですか?」
わたくしは本気で困った顔をして見せた。
相変わらず、わたくしのディオン様も心配する”演技”はお得意のようです。
ディオンはわざとみんなに見えるように、不安そうな顔でわたくしの顔を下から覗き込んでくる。
ほんと、忌々しい顔ですわね。
わたくしは怒りの感情でわなわなと揺れる拳を抑えながら、視線を左右に彷徨わせて客席へ助けを求めた。
「ここは、どこ……? 皆さまは……どうしてこんなに綺麗な格好を……?」
声が震える。目尻を濡らす。
練習通り。鏡の前で、何度も確かめた通り。
わたくしの母は、すでに亡い。
父も、昨冬に倒れて戻らなかった。
だから、わたくしの泣き顔を咎める者は、もう誰もいない。
「わたくしの……」
最後のセリフを言って、わたくしの演技は始まりの鐘を鳴らす。
「わたくしの名前は一体……?」
これでもか、というほどにわざとらしく。
わたくしは困り顔を披露してみせた。
その様子に苛立ちを見せるディオンが、焦ったようにわたくしの手首を掴んだ。
痛い。けれど、痛みさえ今日は“材料”だ。
「冗談はよせ。今日は……」
「冗談……? あの、手が痛いです。離してください」
その一言で、周囲の視線が彼の腕に集中する。
ディオン様はそれに遅れて気付くと慌てて手を放し、作り笑いを貼り付けた。
「……彼女は緊張しているようです」
「緊張……? いえ、違いますわ。わたくし、本当に覚えていないのです。ここ数年のことを」
わたくしは、胸元に手を当て、震える息を整えるふりをする。
「突然ですわ、今突然記憶をなくしたのです」
神父が狼狽し、医師を呼ぶ声が飛ぶ。
司祭席の側に控えていた宮廷医が駆け寄り、わたくしの瞳孔を覗く。
「……衝撃や転倒の痕は」
「ありません。でも……不安で」
ディオン様は、歯を食いしばっていた。
“想定外”なのだろう。そう――わたくしが黙って祭壇で頷き、檻に入るはずだった結婚式が。
医師が小声で言う。
「精神的負荷による一時的な記憶障害の可能性も……」
「では、式は中断――」
「いいえ」
わたくしは微笑んで首を振った。
「わたくしのことは気にせず続けてください。わたくしは――確認したいだけです。皆さまが『真実』を教えてくださるかどうかを」
その言葉に、会場が再びざわめく。
真実という単語の棘が空気に刺さる。わたくしが何を言ってるのか、周囲が分かる様子はありません。
でも、その中でディオン様は理解しておられました。
だからこそ、誰にも気付かれないように私の耳元で低い声で囁いた。
「リュシア、後で話そう」
彼は怒る時低い声で話します。
わたくしを罵倒する時も、いつも低い声を出してくるのです。
みんなが知らない、彼の裏側。
「後で……? いいえ、今日は皆さまの前でお話しましょう。だって、今日はわたくしの幸せでいっぱいの結婚式ですもの」
わたくしは、無垢を装って言う。
「結婚式って……祝福を受ける日でしょう? なら、皆さまの前で隠すことは何もないはず」
ディオン様の額に、汗が滲んだ。
わたくしは、その汗を“初めて見るもの”のように眺め、少し声量をあげて言葉を落とした。
「あなたは、わたくしを……嫌いだったのですか?」
「……は?」
「わたくし、昨日夢を見たのです。誰かに『役立たず』『黙って笑っていろ』って言われる夢。とても、ディオン様によく似た声でした」
客席の空気が、固まる。
ディオンの母が咳払いをし、先に笑い声を作る。
「まあ、夢ですわ。彼女は何を言っているのかしらね。花嫁はすごく緊張して……」
「夢……そう、夢。だから、確かめたいのです」
わたくしは小首を傾げ、さらに無邪気に言う。
「……父が死んだ時、わたくしはあなたに『お前の居場所はもうなくなった』と言われましたか?」
息を呑む音が、あちこちで重なる。
ディオン様の目が、鋭く細くなる。――殺気ではない。追い詰められた獣の苛立ち。
「リュシア、そんなことは――」
「言っていない、ですか?」
わたくしは、祭壇の脇――参列者の中の一人へ視線を向けた。
「そうですか。では」
淡い藤色のドレスを着た、わたくしの“親友”。
ミレーヌ・アスター。貞淑で優しいと評判のアスター伯爵家のご令嬢。
「確か、あなたの名前はミレーヌ、でしたよね?あなたは覚えていますか? あの日、わたくしの部屋で。ディオン様と……二人で」
ミレーヌの頬が、みるみる白くなる。
「……リュ、シア。なにを言って――」
「夢の中でね、見たの。あなたがわたくしの手を握りながら言ったの。『大丈夫、私が味方よ』って。とても優しかったわ」
――そして、現実には。
わたくしの親友は、わたくしの婚約者の寝室にいた。
言葉を続ける。
「あなたは……味方でしたか?」
「……ち、違うの。私は……」
「違う。そう、違うのね」
わたくしは微笑んで頷く。
「なら、あなたが昨夜、控室の奥で『今日は“最後の夜”ね』と囁いていたのも、夢?」
会場が、どよめきに変わる。
それは、噂話に飢えた興奮ではない。貴族社会の“致命傷”の匂いを嗅いだ、警戒に近い空気感。
ディオンが叫ぶ。
「でたらめだ! 証拠もない!」
「証拠……?」
わたくしは首を傾げる。
「では、これも夢かしら」
わたくしは、ヴェールの内側に隠していた小さな封筒を取り出した。
封蝋の印。ディオン家の紋章。
客席から、誰かが息を呑む。
「これ、あなたの筆跡ですよね? ディオン様。――『結婚したらリュシアは家に閉じ込める。金は俺が管理する。外で遊ぶのに都合がいい』」
凍りつく。
ディオンの母が立ち上がり、椅子が鋭く鳴った。
「そんなもの、偽造!」
「偽造?」
「おかしいだろ、お前がそれを持っているはずが――」
「それ、ですか?」
わたくしは穏やかに続ける。
「そうですわね、手紙がわたくしの手にあるなんておかしいもの。
「ち、違う……」
「ここには、ないだけですものね? 今、ディオン様のお口でそう仰ったのでは?」
そう言って、ふっと笑った。
「……わたくしは記憶を失くしているのですもの、この手紙のこともわかりませんわ。だから、ディオン様、真実をお教えください」
もう終わりは近かった。
わたくしの心は気付けばすっきりとしていた。
ディオン様の怒りに満ちた顔を見れたからだろうか。
あるいは、今まで感情を押し潰すように暮らしていた自分を、自由にしてあげたからだろうか?
ふふ、理由は分からないけど、今はここ数年に感じたことのない、とても愉快な気持ちだわ。
綻ぶ口元を取り繕って、顔をあげると怒りの表情を隠さなくなったディオン様がいた。
「――演技だ」
「……何の演技ですの?」
ディオン様が、低く呻く。
次の瞬間、ディオン様がわたくしの両肩を強く握ってきた。
「いたっ……」
「記憶を失くしたなんて嘘だろうが! そんな都合よく思い出すなんてことあるわけねぇ!」
ざわっ、と空気が爆ぜる。
わたくしは、まっすぐにディオン様に哀れなまものを見る目を向けた。
この人は、最後の最後まで……。
「周りを、見てください」
「あ? ――っ!」
「あなたが四年かけて壊したものを、わたくしは今日この瞬間で壊すわ」
ディオンの顔が歪む。
ミレーヌが泣き声を上げる。その隣にいる母は激昂し、父は青ざめた表情で座り込んでいた。
わたくしは静かに告げた。
「婚約は破棄いたします。結婚式は中止。――皆さまの前で、正式に宣言いたしますわ」
神父が震える声で言う。
「……では、儀式は中止――」
「ええ、これはもう、祝福の場ではありませんものね」
わたくしは客席へ向き直る。
「本日お集まりくださった皆さまにはご迷惑をおかけします。けれど――この場で終わらせなければ、わたくしは一生、籠の中の鳥でしたわ」
言い終えた瞬間。
背後で、ディオンが荒い息を吐いた。
「……リュシア。こんなことをして、君はどうなる。アーデン家は……」
「父はもういません」
「……っ」
「わたくしの背を押す人は、いなくなった。だから、わたくしが押します。わたくし自身を」
気付けば、身体の震えは消えていた。
涙も枯れている。
泣くのは、もう疲れたし、飽きたわ。
これからどうしよう、そんな考えが浮かんだ時だった。
ひとりの男性が進み出た。
「アーデン嬢」
落ち着いた声。濃紺の礼服。
王都の社交界で“冷静な実務家”として知られる侯爵家の次男、カイル・ヴァレン。
彼は、わたくしへ一礼した。
「あなたの勇気に、敬意を。――そして、必要ならば、法務と証拠整理の手伝いをさせてください」
その申し出が、どれほどの意味を持つか。
この場の誰もが理解している。彼が手を貸せば、ディオン家は逃げられない。
ディオンが叫んだ。
「なんだ、貴様……! リュシアと最初から――!」
「最初から、何です?」
カイルは涼しい顔で返す。
「あなたが婚約者を軽んじた“結果”が、今日ここに現れただけでしょう」
わたくしは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
――救われる、というより。
“ひとりで立っていい”と許された気がした。
その後は、とてもとても早かった。
式は中止。
参列者たちは噂を持ち帰り、社交界は一夜で形を変えた。
ディオン様は釈明に走り、ミレーヌは泣いて許しを乞うた。
そのあとも、ディオン家は必死に火消しを試みた。
けれど、火は消えない。
火種が“結婚式場”で燃え上がったのだから。
数日後には、ディオン様の浮気とわたくしに対する暴言の数々が顕になった。
それ以外にもディオン家に関わる悪事なども、掘れば掘るだけたくさん出てきた、という。
――仕方がありませんね。わたくしが“記憶喪失のふり”で暴露したのは、ほんの入口にすぎないのだから。
わたくしは家に戻り、父の遺した書類を開いた。
そして知った。ディオン家は、わたくしの持参金を当てにして、借金の穴を埋めるつもりだったことを。
……最初から、“人”としてではなく、“財布”として見ていたのだ。
笑えるほど、わかりやすい。
その頃、ディオン様はさらに泥沼へ落ちる。
わたくしに許されなかったミレーヌは開き直ると、「私こそがディオン様にふさわしい」と騒ぎ立てているらしい。
そして、冬の夜会。
わたくしは、淡い銀色のドレスを纏い、静かに広間へ立っていた。
以前のように周囲の視線が怖い、とは思わない。怖いのは自由がない“鳥籠”だ。
「……アーデン嬢」
カイルが、わたくしへ手を差し出した。
同情ではない。施しでもない。
ただ、ひとりの女性として、対等に。
わたくしは、その手を取った。
「……そろそろ、その呼び方をやめてほしいですわね」
「ふふ、すみません。では、改めて――リュシア」
彼の呼び方は、丁寧で、距離があって、優しかった。
わたくしは思う。
結婚式の日に記憶をなくした“ふり”をしたのは、過去を捨てたかったからではない。
過去を“真実として”世界に暴いて。
そこから、わたくしが前へ進みたかったのだ。
「リュシア、僕はあなたを愛しています」
「ふふ、それは真実ですか?」
「えぇ、本当の本当に愛していますよ、リュシア」




