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009.女神に祈ってもお腹は満たされない

 アントンの朝は早い。


 目覚めると、彼は音もなく身を起こした。

 最初に行うのは、自身が眠っていたベッドの整頓だ。


 シーツの皺を掌で丁寧に伸ばし、枕の形を整え、掛け布団の端を綺麗に合わせる。


 誰も見ていない。夜になればまた乱れる場所だ。

 だが、これは彼の中での譲れない儀式だった。

 一日の終わり、疲れ果てた体を横たえるとき、すべてを受け入れる場所であってほしい。

 これは、未来の自分へと贈る、ささやかな敬意と報酬なのだ。


 身支度を整え、扉を開ける。

 薄暗い操舵席に、人影があった。


「おはようございます、フィオナ様」

「……ん。おはよう、アントン」


 短い挨拶。操舵席から立ち上がって、アントンに顔を見せる。

 その瞳には微かに疲労の色が滲んでいた。


 月光絹の里をあとにし、四日が過ぎた頃。

 空はまだ薄墨色。夜明け前の静寂が、車内を支配している。


 本来、馬車の操縦はグスタフの役割だが、この数日は夜間のみフィオナが担っている。

 里での一件で、リリアーナが丸一日眠ってしまった遅れを、彼女なりに取り戻そうとしているのだろう。

 彼女は「研究の合間の気分転換だ」と嘯いていたが、その不器用さの奥に隠したものをアントンは理解していた。


 アントンは慣れた手つきでケトルに水を注ぎ、コンロに火を入れる。

 カチリ、という小気味よい音と共に炎が灯る。


 この快適な文明生活を支えているのもまた、操舵席に座る天才がもたらした遺物のおかげだ。

 屋根に設置された太陽光魔力変換触媒によって、太陽の光を魔力へと変換し、車体底部の貯蔵庫へと蓄積する。


 そのエネルギーは、今のアントンのように早朝のコーヒーを淹れる熱源となり、皆が汗を流すシャワーの湯となり、空間を拡張した各部屋を繋ぐ扉の維持に使われる。

 そして余剰分は、こうして太陽が眠っている間の道を駆ける動力にもなる。


(……それにしても)


 アントンはコーヒーの香りを立てながら、ぼんやりと外を眺めるフィオナの背中を見つめた。

 無防備で、華奢な背中。

 しかし、その華奢な肩が背負ってきたものの重さを、アントンは知っている。


 表向きは、遺物研究の専門家。

 だがその実態は、国王陛下の影の側近。

 公にはできない王の憂い事を、誰にも知られず闇に葬り去ってきた掃除屋でもある。


 陛下の命を狙う暗殺者の排除、呪術的謀略の阻止。

 彼女が片手では数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けてきたことを、アントンは知っている。

 なぜならそのうちのいくつかは、アントン自身も共に手を汚し、解決した案件だからだ。


 湯が沸く音が、静寂を破る。

 アントンは二つのカップに漆黒の液体を注ぎ、湯気を立てるそれをフィオナの元へと運んだ。


 「どうぞ。深煎りです」

 

 深く皺の刻まれたアントンの手から、古傷の走る白磁のようなフィオナの手に渡る。


「……助かる」


 表と裏から王を支え続けてきた二人に、多くの言葉は不要だった。


 

 ◇


 

 静かなコーヒータイムを切り上げるように、居住区の扉がゆっくりと開いた。


「……おはようございますぅ……」


 亡霊のような足取りで現れたのはリリアーナだった。

 普段の完璧にセットされた姿からは想像もつかない。

 美しい髪は乱れ、瞳は半分も開いていない。典型的な低血圧の朝だ。


「おはようございます、リリアーナ様」

「んっぁ……アントンさん、おはよう……」


 アントンは手際よく彼女を椅子に座らせ、櫛を通してボサボサの髪を整え始める。

 されるがままのリリアーナは、コクリコクリと船を漕ぎながら、操舵席の背中へと声をかけた。


「……フィオナさん、おはようございます。夜通し運転してくれたんですね……ありがとう……」

「気にするな。私の好きでやったことだ」


 フィオナは振り返らず、ひらひらと手を振った。


「だが、そうだな。礼を言うなら……奥の、ゴブリン商会の扉、使わせてくれないか」

「…………」


 リリアーナの動きがピタリと止まった。

 眠気で溶けていた脳みそが、その単語を聞いた瞬間だけ急速冷却される。


「……だめ」

「チッ。やはり寝起きでもダメか」

「馬車内から繋ぐと……手数料が高すぎるの……。買い物なら……リューンに着くまで我慢して……もったいないから……」


 うわ言のように、けれどきっぱりと拒否するリリアーナ。

 フィオナはわざとらしく大きな溜息をつき、肩を竦めた。


「リューンに着くまでに弾薬を用意したいんだが……。まあ、どちらかといえば、伸びすぎて鬱陶しい髪を切りたかったんだがな」


 確かに、彼女の紫の髪はさらに伸びている。

 結った髪をほどくと、腰のあたりまで達しているのだろう。

 櫛を動かしていたアントンが、ふと申し出た。


「それでしたら、私が切りましょうか? 昔取った杵柄で、多少の心得はございますが」

「……いや、気持ちはありがたいが、やめておこう」


 フィオナは自身の長い髪を指先で摘み上げた。


「私のこの髪は、触媒としても極めて純度が高いんだ。いつも私が好んで使う二種類の弾丸も、この髪の魔力を元に錬成してもらっている」

「そうでしたか……」

「だが、切り離したそばから魔力は霧散してしまう。ゴブリン族の目の前で切って売りつけないと、価値が暴落するんだ」


 フィオナは、未だ半分夢の中にいるリリアーナを顎でしゃくった。


「せっかく高く売れる素材をドブに捨てたと知ったら……そこのお嬢様が泣いて嫌がるだろう」


 その言葉に、アントンは思わず笑った。

 リリアーナは「うぅ……それなら……」と何か言いだそうとしたが、睡魔に負け、再び瞼を落とした。


「……確かに、その通りですな」


 アントンは苦笑しながら、淹れたてのコーヒーをリリアーナの前に置いた。

 香ばしい湯気が顔にかかり、彼女の意識が少しずつ浮上してくるのを見届け、アントンは一礼してその場を離れた。


 次は、もっと手のかかる子供を起こさねばならない。



 ◇


 

 ポッケに割り当てられた部屋の扉を開ける。


「ポッケ様、朝ですよ」


 返事はない。ベッドの上にも姿はない。

 アントンは迷わず視線を床へと落とした。


「……おや、今日もですか」


 そこには、シーツをぐるぐる巻きにして、芋虫のように床で眠る勇者の姿があった。

 寝相が悪いというレベルではない。毎朝必ずベッドから落ちているのは、ある種の才能かもしれない。


「起きなさいませ、ポッケ様。朝食の準備ができておりますよ」


 芋虫がビクリと跳ねた。


「……っ! あさ! 飯!」


 食欲という最強の目覚まし時計により、ポッケが跳ね起きた。


「おっはよーアントンさん! おっさん起こしてくる!」


 元気な挨拶もそこそこに、ポッケは部屋を飛び出していく。

 ドタドタと廊下を駆ける足音が、隣の部屋の前で止み、扉が勢いよく開く音がした。


「おっさーーん! あーさーだぞー! とうっ!」


 ポッケのかけ声のあと、一拍置いて。


「ぐふぅっ!!??」


 野太い悲鳴が、壁越しに響き渡った。

 鳩尾に綺麗に入ったのだろう。


「……さて」


 アントンは微笑ましげに目を細め、乱れたシーツを拾い上げた。

 今日もまた、騒がしくも愛おしい一日が始まる。

 


 ◇

 

  

 グスタフは空を仰ぎ、眩しそうに目を細めたあと、祈りを捧げていた。


「おっさん、まだ痛むのか?」

「……い、いや、朝のはもう大丈夫だ。起きるのが遅いのは済まないと思っているが、できれば普通に起こしてほしい」

「わかった!」

「ありがとう。では、見るんだポッケ、この素晴らしい快晴を」


 ポッケが純粋な瞳で空を見上げる。


「この馬車が走れるのも、作物が育つのも、女神様が太陽の恵みを与えてくださっているからだ」

「おー、やっぱ女神様ってすげーなあ」

「一緒に祈りを捧げてみるか?」

「やる!」


 グスタフの隣で両の手を組みあわせて祈りを捧げた。

 そんな二人を優しく見守るアントン。

 信仰と希望に満ちた温かな空気に包まれた朝。


 ――ただ一人、帳簿と睨めっこをしていたリリアーナを除いて。


「その、リリアーナ殿。たまには一緒に祈るのはどうでしょうか」

「……はいはい。また今度ね」


 リリアーナは視線も上げずに言った。


「女神様に祈ったからって、お腹が満たされるわけじゃないでしょ」

「リリアーナ殿……。まーたそのような罰当たりなことを……」

「事実よ。現にこれから貴方たちのお腹を満たすのは、女神様への祈りのおかげじゃない。アントンさんが作ってくれた美味しい朝ごはんでしょ? だいたい、女神様は気が利かないのよね。そりゃ私だって小さい頃は信じていたわよ? なのに――」


 ――――ドォォォン!!


 リリアーナの言葉を遮るような、一瞬の光と轟音。

 世界が震え、馬車が跳ねた。


「な、なにが起きたのよ……!?」


 リリアーナの悲鳴にアントンが素早く窓の外を確認し、眉をひそめる。


「恐ろしいまでの暗さですな……」


 つい先程まであんなに輝いていた太陽が、消えている。

 まるで墨をぶちまけたようなドス黒い雨雲が、空を支配していた。


 ポツ、ポツ。


 屋根を叩く音が、瞬く間に豪雨の轟音へと変わる。


 ザアアアアアアア。


 「リリアーナ、君の小言が届いたおかげで予備動力に繋がってるぞ」

 

 太陽光の供給が断たれた。

 これから寝ようとしていたフィオナの冷静な報告。

 リリアーナにはそれが死刑宣告のように響いた。


「う、嘘……よね」

「本当だ。あまり余裕もない。夜間も走り続けていたからな」


 この装甲馬車は、太陽光がない時は予備動力で動く。

 そして、予備動力がなくなれば、燃料が必要となる。

 燃料は主に、ゴブリン族から入手できる非常に高価な魔石のことだ。


 チャリン、チャリン、チャリン。


 リリアーナの耳には、雨音ではなく、魔石が消費されていく金貨の音が聞こえた。


「リリ姉が女神様の悪口言うからだぞー!」


 ポッケが煽りながら「やーい!」とリリアーナの前で踊る。


「ぐぬぬ……! 覚えてなさいポッケ……!」

「ほれ見たことか! 日頃の行いですぞ、リリアーナ殿!」


 グスタフここぞとばかりに勝ち誇り、意地悪くニヤついた。


「さあ、これまでの行いを懺悔して、許しを請うのです! 謝るなら今ですぞ! さもないと……燃料代で破産します!」

「うっ……! 聞きたくない聞きたくない!」


 痛いところを突かれたと耳を塞ぐリリアーナ。

 里への支払いで大金を失った直後だ。

 これ以上の出費は、精神的にも予算的にも致命傷になる。


「リリアーナ様。きっと誠心誠意、心から謝れば女神様も許してくれるでしょう。……さあ、お立ちになって」

「ア、アントンさん……っ! ぐすん……」


 アントンの優しい慰めが、逆に惨めさを引き立てた。

 リリアーナはプライドをかなぐり捨て、グスタフが嬉しそうに手招きする外に出る。

 そして雨に打たれながら、両手を組んで空に向かって叫んだ。


「ごめんなさいいい! 私が悪かったですぅぅ!」


 必死の謝罪。

 なりふり構わぬ祈り。


「反省します! 今日から毎日祈りも捧げます! 何でもしますから! お願いだから晴れて! 魔石を買いたくないの!」

「リリ姉がこんなに謝るなんて……。信じられねえ……」


 魂の絶叫が木霊する。

 力強く頷くグスタフ。

 

 しかし。


 ザーーーーーーーー……。


 雨脚は弱まるどころか、より一層激しさを増した。

 無慈悲な雨音が、リリアーナに響く。


 許されなかった。


「……こんっの、クソ女神……!」


 リリアーナは両の手を握り、右足で地面踏みつけ、濡れた顔を拭いもせずに叫んだ。


「金輪際、何があっても祈ってなんかやるものですか! 一生、雨でも槍でも降らせてなさい!」


 リリアーナが振り返り、肩で息をしながら馬車の中に入る。

 そこにはすでに、ふかふかのタオルを広げたアントンが控えていた。


「お風邪を召されますよ、リリアーナ様」


 アントンは優しく彼女の髪を拭き、肩にショールをかけた。

 リリアーナはその温もりに包まれながら、鼻をすすり、赤い目でアントンを見上げた。


「ありがとう、アントンさん……」

「ご立派でした。しかしこの雨は、まだしばらく続きそうですな」

「はい……。ゴブリン商会で魔石を購入してください……。近くの村か街までの距離分だけでお願いします……。あとフィオナさんの髪も切ってあげてください……。私、寝ます……」


 矢継ぎ早に伝えたあと、リリアーナは「ううっ、私のせいでお金が……」と再び泣き出し、よろよろと自室へ向かった。


  

「女神様って、本当にすっげえんだな……」


 

 ポッケが呆然と空を見上げ、畏敬の念を深めているその隣。

 どこか諦めきった哀しい瞳で、フィオナが暗い空を見つめていた。

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