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007.輸送と箔付け

 夢を、見ていた。


 幼き日の私が、書斎の机に向かっている。

 向かいに座るお父様の大きな手が、私の頭を撫でてくれている。


 温かい。

 けれど、どうしても顔を思い出せない。

 思い出そうとするそばから、輪郭は滲み、白い霧の中へと溶けていく。

 まるで水に落ちたインクのように。



「     」



 今の私には、声さえも遠い異国の言葉のように意味を掴めず、空虚に響いた。


 焦燥に駆られて手を伸ばす。

 その指先が触れることなく、世界が途切れた。



 ◇


 

 どこか心を落ち着かせる、上品で静かな香りが鼻をかすめた。

 伽羅に似た、沈むような良い香りだ。


 ……ゆっくりと、重い瞼を持ち上げる。


 視界に入ってきたのは、まだ見慣れたわけではないが知っている場所。

 装甲馬車の自室だった。

 

 まどろむ意識の底に、凛とした声が落ちてきた。


「起きたか、リリアーナ」


 平坦で、感情の起伏を感じさせない声。

 私は小さく息を吐き、声の主へと視線を巡らせた。


「……フィオナさん」


 椅子の背もたれに体を預け、ランプの灯りを頼りに古い書物を読んでいたフィオナが顔を上げる。

 その淡い光に照らされた紫色の髪は、城で見た時よりもずいぶんと伸びている。

 肩を通り越し、背中の中ほどまで流れていた。


 彼女は手元の書物から視線を外すことなく、指先だけの慣れた所作で、豪奢な香炉の火を鎮めた。


「私、どれだけ眠っていたのかしら……」

「ん? 一日半程度だと思うが……ああ、これのことか」


 私の視線に気づいたのか、フィオナは流れる髪を手の甲ですくい上げ、さらりと落とした。

 少しうんざりしたような溜息が漏れる。


「私は魔力の加減が効かなくてな。使いすぎた分を睡眠で取り返そうとしてしまう。そのときに髪がやたらと伸びる面倒な体質なんだ」

「……髪を切る手間が増えるのは、確かに大変ですね」

「全くだ。……そんなことより」


 フィオナは私の右腕へと視線を落とした。


「右腕の調子はどうだ」


 言われて、記憶が蘇る。


 黒い濁流。

 初めて聞いた自分の骨の折れる音。

 そして、激痛。


 私は恐る恐る、シーツの上で指先に力を込めてみた。


 ――ズキリ。


 芯に熱い杭を打ち込まれたような鈍痛が走った。

 けれど、動く。

 あの時、確かに砕けたはずの骨が繋がっている。


「……嘘。これ、治ってるの?」

「聖女じゃないんだぞ。そのような奇跡は期待しないでくれ」


 厚い包帯で固定され、微かに甘い香りのする軟膏が塗られている。

 あれほどの重傷が一日でここまで回復するなんて、通常の治療ではあり得ない。

 

「この香炉の効果だ。治癒効果のある希少な薬草を編み込んだ香を焚いている」

「なんだかずいぶんと高そうな香炉ね」

「特注品だからな。骨は繋いだが、神経と筋肉が馴染むまでは痛みは続くはずだ」


 一週間は重いものを持つなよ、とぶっきらぼうに言いながら、フィオナは私の顔を覗き込んだ。


「リリアーナ」

「なんです?」

「すまなかった」


 真剣な眼差しで謝られ、私はきょとんとした。


「……私が現場にいれば、君にそんな無茶はさせなかった」


 吐き捨てるような口調。

 けれど、それは誰かへの非難ではない。

 ただ、自分が何もできなかったことへの苛立ちと、純粋な後悔だった。

 彼女は自分の不在を悔いているのだ。


 私は痛む右腕をそっと撫で、小さく首を横に振った。


「……私でも、仲間を守れるとわかったのは大きいわ」


 あの夜のことを思い返す。

 敵を倒す力も、剣を振るう才能もない私が仲間を守りきれた。


「私の保護魔法は通用する。それがわかっただけで、この傷には十分な価値がある」

「…………」


 フィオナは瞳をわずかに見張り、やがて観念したように息を吐いた。


「……そうか。強いな、君は」


 短く、けれど心からの敬意が滲んでいた。

 張り詰めていた空気がふわりと緩む。


 ふと、フィオナの顔が近くに見えて、私はあることに気がついた。

 目の下にあった、あの濃い隈が消えている。

 きっとあの時は一日でも早く馬車を完成させるために、それこそ寝食を惜しんで作業をしてくれていたのだろう。

 限界まで魔力と体力を使い果たし、泥のように眠ったおかげで、今の彼女の肌は透き通るように白い。


 こうして改めて見ると、本当に綺麗な人だ。

 端正な顔立ちをより際立たせる泣きぼくろが、今は少しだけ優しく見えた。


「最初の目的地はリューンだと聞いた」

「ええ、まずはリューンね」

「私とアントンはあそこに知己が多い。君が求めている人物とも繋げるだろう」

「へえ。商人たちの街だとは聞いているけれど、一体どんなところなの?」


 フィオナは少し楽しそうに口元を緩めた。


「欲望と活気が渦巻く場所だ。金さえあれば何でも手に入る。闇市を含めれば、違法な魔物素材の一大流通拠点でもあるな」

「違法な魔物の素材……?」

「ああ。私の研究に必要な特殊な資材もあそこなら揃う。……もっとも、清濁併せ呑む少々厄介な街だがな」


 厄介な街。その響きに、私の心が少しだけ騒ぐのを感じた。


「なるほど。お金があれば何でもできる街か……なんだか私向きね」

「ああ。だが、その前に……モルガン商会の件を片付けないとだろう」


 モルガン商会の馬車襲撃の件はまだ終わっていない。

 私がベッドから身を起こそうとした、その時だった。


 ――ぎゅるるるる。


 静寂な部屋に、間の抜けた音が響き渡った。

 私は思わずお腹を押さえ、フィオナは目を丸くしたあと、くっくと喉を鳴らして笑った。


「とにかく、まずは食事だな」

「……ですね」


 顔が熱くなるのを感じながら、私は部屋を出た。

 扉を開けた瞬間、暴力的なまでに芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。


「おはようございます、リリアーナ様」


 そこには完璧な姿勢で控えるアントンの姿があった。

 まるで、私が扉を開けるその瞬間を、ただ静かに待っていた気配がある。


「お目覚めになる頃合いかと存じまして。……たった今、スープが最も香り立つ温度になったところでございます」


 テーブルには所狭しと料理が並べられていた。

 厚切りのロースト肉、彩り豊かな果物、湯気を立てる魚の香草焼き。

 私のために準備され、私が目覚めるその一瞬に合わせて仕上げられた、完璧なタイミングでの饗宴。


「すっご……」


 その温かな光景に、私は呆気にとられ、そして自然と頬が緩んだ。

 


 ◇


 

 豪勢な料理の余韻を静かに味わい、リリアーナは人心地つく。

 アントンが淹れてくれた紅茶の香りを楽しみつつ、手元のソーサーにゆっくりと戻した。


「ごちそうさまでした、アントンさん。私はこのあと、モルガンさんと少し話をしてきます」

「畏まりました。ご一緒いたしましょう」

「私も行こう」


 フィオナだった。

 無表情を装ってはいるが、彼女なりの責任感と申し訳なさが滲んでいる。

 リリアーナが「大丈夫」と言っても聞かないだろう。


 三人が装甲馬車を降りると、ちょうど森の方角からグスタフとポッケが戻ってくるところだった。

 二人とも汗だくで、服には土や草が付着している。


「リリ姉~!」

「おお、リリアーナ殿! もう起きても大丈夫なのですか!?」


 リリアーナの姿を認めるなり、ポッケとグスタフが顔を輝かせて駆け寄ってきた。


「はい、おかげさまで。……二人は鍛錬ですか?」

「へへっ、俺おっさんに剣の稽古つけてもらうことにしたんだ!」


 ポッケが泥にまみれて充実した顔で、歯を見せて笑う。

 

「自分から頼んだの?」

「そう! 守られてばっかの勇者じゃカッコつかねーからな」


 ポッケは胸を張る。

 その言葉にリリアーナは目を細めた。

 恐怖に震えていた小さな勇者はもういない。

 ここにあるのは、強くなろうと前を向く勇者の姿だった。


「そう……。自分からそう思えるようになったなんて偉いわね。私なんだか嬉しいわ」

「へへへ……」


 リリアーナが素直に褒めると、ポッケは照れくさそうに鼻の下を擦った。


「それで、リリアーナ殿。どちらへ?」

「これからモルガンさんのところへ。昨晩の話の続きを聞こうかと」

「ふむ……。まだ病み上がりですが、アントン殿がついているのなら安心でしょう」


 グスタフがアントンに信頼の眼差しを向ける。

 すると、横にいたフィオナが不満げに口を尖らせた。


「……おい、グスタフ。私もいるが」

「フィオナ殿はずっと寝ていただけではないですか!」

「なんだと……? これでも目覚めるまで看病していたんだぞ」


 バチバチと火花が散る。

 顔を真っ赤にして怒るグスタフと、納得のいかないフィオナ。

 その様子を見て、ポッケが「またやってら」とゲラゲラ笑った。


「……なんとなく相性が悪そうとは思ったけれど、ここまでとはね」


 リリアーナは苦笑するしかなかった。

 この二人が仲良くなる未来は当分訪れそうにない。


「お二人とも、それくらいに。中にリリアーナ様のために作った食事の残りがございます。よろしければ召し上がってください」

「マジ!? でもまずシャワー浴びたい!」

「なんと、ありがたい!」


 アントンの助け舟により、ようやく場が収まった。


 食事に向かう二人を見送り、リリアーナたちは里の道を進んでいく。

 復興作業に追われていた里人たちが、リリアーナの姿に気づくと、次々に手を止めて駆け寄ってきた。


「あ、リリアーナ様だ!」

「お怪我は大丈夫ですか……。あの夜は本当にありがとうございました」

「アンタ達のおかげで、家族が助かったよ……!」


 口々に感謝の言葉が浴びせられる。

 老婆が拝むように手を合わせ、子供たちがキラキラした目で服の裾を掴んでくる。


「あ、いえ……その、私は……ただ、自分の仲間を守ろうと……」


 どれほど相手が高位の者であっても、眉ひとつ動かさないリリアーナ。

 そんな彼女が、今は顔を真っ赤にしてしどろもどろになっていた。


 打算のない、純粋な感謝と称賛。

 英雄扱いされることに慣れていない彼女は、どう振る舞っていいのかわからず、視線を泳がせている。


 そんなリリアーナの様子を見て、一歩後ろを歩くアントンが微笑んだ。

 いつも気を張り、大人びている彼女だが、こうしていると年相応のただの少女と変わらない。

 その人間らしいリリアーナの珍しい姿が微笑ましかった。


 やがて、一行はモルガンの屋敷に到着した。

 案内された応接室に入ると、モルガンが深々と頭を下げて出迎えた。


「皆様……。この度は、本当にありがとうございました。なんと御礼を申し上げればよいか……」


 涙ぐまんばかりの感謝を述べるモルガンを宥め、リリアーナたちは席に着く。


「……お礼なら、ここに来るまでにもう十分いただきました。それより、」


 場の空気が、ふっと切り替わる。

 リリアーナは背筋を伸ばし、真剣な眼差しでモルガンを見据えた。


「途中で邪魔が入ってしまいましたが……。もう一度、続きを聞かせていただけますか」 

「はい……」


 モルガンは両手を包み込むようにしている。

 震えを抑えているようだった。


「もともと『月光絹(ムーンシルク)』には、かつて月の女神が纏ったという伝承があります。そしてそんなおとぎ話を、今も信じているリューンの好事家たちに好まれていました」

「それって、元々は子どもたちに読み聞かせる童話に出てくる話ですよね?」 

「はい。ですがここ最近、急激に月光絹(ムーンシルク)の名が広まり、好事家以外にも求められることが増えました。いつのまにか価値が跳ね上がっていたのです」

「心当たりは?」

「ありません。そして、ある日リューンで、やけに金回りの良さそうな身なりの男に声をかけられました。全ての絹を買い占めたい、と」


 だが、モルガンはその申し出を断ったという。

 目先の利益のために買い占めに応じれば、これまで贔屓にしてくれていた常連客を裏切ることになる。

 それに、手作業で作られる絹の生産量には限界があり、要求が増すのを危惧していた。


「断った直後です。納品に向かう途中で野盗に襲われたのは」

「……買い占めを断られた腹いせ、ということでしょうね」

「ええ、おそらく。彼らは私を脅し、金目の物を狙うゴロツキでした。そして私はその襲撃で、長年連れ添った御者を失いました。馬車を奪おうとする野盗に立ち向かい、殺されてしまったのです」


 モルガンは痛ましげに目を伏せる。

 御者の死体は持ち去られ、モルガンは弔うことすら許されなかったという。


「私は一度里へ戻り、体勢を立て直しました。そして一週間後、急ぎ納品をするために、新しい御者を雇ったのです」

「新しい、御者……」

「はい。……あの時、リリアーナ様たちの前で腰を抜かしていた、あの男です」


 モルガンの顔色が、さっと青ざめた。


「彼を雇ってから、ずっと奇妙な感覚がありました。……言葉は通じているんです。指示を出せば『わかった』と答える。ですが、対話が成り立っている気がしなかった」


 リリアーナは眉をひそめた。


「対話ができない?」

「ええ。まるで、壁に向かって独り言を話しているような……。あるいは、言葉を覚えたての子供と話しているような感覚でした」


 その者の瞳には、感情の色が一切なかったという。

 ただの無口や無愛想とは違う。おぞましい生理的な嫌悪感。


「私は自分の直感を頼りに、月光絹(ムーンシルク)を積み込んだフリをして、馬車を出発させました」


 その直感は正しかったのだろう。


「そして、あの森を抜けた時です。どこからともなくハウンドの群れが現れ、襲われました。一度目の者たちとグルだったのか、それとも偶然だったのかはわかりません。ただ……」


 モルガンは身震いした。


「……上手く言葉にできないのですが、一度目と二度目の襲撃は別の者だと感じるのです。どこか纏う空気が違うと。一度目の襲撃は、買い占めを断られた人間による嫌がらせでしょう。見せしめのような殺人行為がそれを裏付けています」


 だが、二度目の襲撃には、モルガンを脅したり、危害を加えることが目的ではないように見えたという。

 人はもちろん、馬にすら興味を示さない魔物を使った襲撃。


 リリアーナはフィオナとアントンに視線を向けた。


「リューンでこの絹を欲しがりそうな人物に、心当たりはあります?」


 その問いに、二人は顔を見合わせ、別々の名を口にした。


「リューンの実質的な支配者、シギントでしょうな」

「……大司教エヴァンだろう」


 アントンが挙げたのは裏社会の顔であるシギント。

 フィオナが挙げたのは、聖職者の頂点に立つ人物。

 まったく毛色の違う二つの名前が出てきたことに、リリアーナは怪訝な顔をした。


「……ずいぶんと両極端ね」

「シギントはリューンの実質的な支配者。裏通りを牛耳る組織のボスです。珍品や希少素材を独占しようとする傾向があります。一度目の野党を使ったのはこの手合いかもしれません」


 アントンが手際よく説明を加える。続いて、フィオナが補足する。


「一方、エヴァンは表の支配者で、一部ではリューンがまだ聖都だった頃の名残からか、聖女とも呼ばれている。シギントに負けず劣らずの度を越した収集家だ。絹に何か秘められたものがあるという噂を聞いて、独占しようとした可能性はあるな」


 どちらにせよ、厄介な相手だ。

 御者の正体は不明だが、少なくとも月光絹(ムーンシルク)を狙う人間の欲望が存在するのは確か。

 この里が『月光絹』を作り続ける限り、第二、第三の襲撃者が現れるだろう。


 不安げな顔をしているモルガンと、その背後で聞き耳を立てている里の人々。

 リリアーナは懐から取り出した首飾りを机に滑らせた。


 王家の紋章。

 それが示す意味を相手が理解するよりも早く、彼女は低く、厳かに告げた。


「……単刀直入に言います。この里を、王国の管理下に置きませんか」


 リリアーナの言葉に、その場にいた多くの者が顔をしかめる。

 自分たちの生活に土足で踏み込まれると思ったのだ。


「誤解しないでください。騎士団を常駐させたり、監視をつけたりするつもりはありません」


 リリアーナは諭すように言葉を続けた。


「ただ、この里を王家御用達の直轄領として登録するだけです。そうすれば、この里への攻撃は王国への反逆とみなされます」

「名前だけの盾、ということですか……」

「はい。ですが、手を出せば国を敵に回す。そのリスクだけで、有象無象は手出しできなくなります」


 静かな暮らしは守る。兵士という異物は入れない。

 ただ、看板だけを貸す。

 その代わり、絹は適正価格で国が優先的に買い上げる。


「貴方たちの平穏と、職人としての誇り。その両方を守るには、これ以上の手はないと思いますが……いかがでしょうか」


 彼女の提案に、モルガンと里の者たちは顔を見合わせた。

 やがて、里長が深く、ゆっくりと首を横に降った。


「ありがたいお話ですが……お断りします」

「……理由をお聞かせください」

「国に売るというのは、結局のところ、買い占めに応じるのと変わりません」


 モルガンはまっすぐにリリアーナを見つめた。

 そこに敵意はないが、職人達の譲れない想いを背負っていた。


「国が優先的に買い上げれば、これまで贔屓にしてくださったお客様の手にはなかなか渡らなくなります。特定の権力者に独占される……それは、我々が最も避けたいことなのです」


 権力の傘に入れば安全は買える。

 だが、それは顧客との信頼を売るに等しい。

 職人としての矜持が、それを許さなかったのだ。


 リリアーナは小さく息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。

 その頑固さが好ましかった。


「……なるほど。職人としての筋を通したい、と」

「申し訳ありません。命の恩人の提案を無下にするような真似を……」

「いえ。皆様のその誇り高い姿勢、敬服に値するものがございます」


 リリアーナは手元の紅茶を一口飲み、ソーサーに戻す。

 カチャリ、とわざとらしく澄んだ音を響かせ、彼女はいたずらっぽく微笑み小首を傾げた。


「でしたら、私に売るというのはどうでしょう?」


 一言。先ほどまでとは里の人々の表情が明らかに違う。

 フィオナまでもが「正気か?」といった形相でリリアーナを見ていた。


 王家の威光を捨て駒のように使い、本命を通すための布石とする。

 そんな不敬極まりない交渉を平然と行うリリアーナに、背後に控えるアントンは口元を緩めないよう必死だった。


「国に卸せば従属ですが、私に卸すなら対等な商取引です。……悪い話ではないでしょう」


 リリアーナの提案に、モルガンは迷いの色を見せた。

 だが、すぐに苦渋の表情で首を振る。


「……魅力的なお話ですが、それでは根本的な解決になりません」

「襲撃者のことですか?」

「はい。貴女に売ったとしても、我々が絹を作り続ける限り、奴らはまた里を狙うでしょう」


 当然の懸念だ。

 生産機能がここにある以上、脅威は去らない。

 だが、リリアーナは待っていましたとばかりに指を一本立てた。


「ですので、全ての在庫を私に売っていただくのです。一時的に里を空っぽにしましょう」

「全て……? いくらリリアーナ様であっても……」

「ええ。完成品はもちろん、出荷待ちの半製品に至るまで、今ある『月光絹(ムーンシルク)』と名のつくもの全てを私が買い取ります」


 モルガンが息を呑む。

 リリアーナは畳み掛けるように続けた。

 

「空っぽの宝箱を何度も開けに来るバカはいないでしょう? 私との取引成立後、皆様が納得のいく形で、里の守りを固める。そのための時間は稼げるはずです」

「……そ、そのとおりですが。しかし独占されたとあっては、これまで待ってくださっている贔屓のお客様に、我々は顔向けできません」


 モルガンは苦しげに眉を寄せた。

 やはり、最後の懸念が残っているのだ。


「いえ、モルガンさん。私が行うのは独占ではなく、輸送と箔付けなんです」

「箔付け、ですか?」

「ええ。絹をリューンまで運び、絹を狙う奴らを誘き寄せて撃退した後、贔屓のお客様に優先的に販売致します」


 リリアーナは歌うように語る。


「考えてもみてください。これまでの月光絹(ムーンシルク)と、悪の手から、勇者一行が命がけで守り抜いた奇跡の月光絹(ムーンシルク)。……好事家の方々が喜ぶのは、どちらでしょう?」


 モルガンがハッとして顔を上げた。

 隣に座るフィオナも思わず笑う。


「おとぎ話を信じる方は皆、物語に飢えています」

「ええ、そうでしょうな……」

「勇者一行の馬車で運ばれ、悪を退けた逸話を纏った絹。少しばかりお届けが遅れたとしても、その付加価値は彼らを熱狂させると思いませんか」


 詭弁に近い。だが、商売人であるモルガンには、それが痛いほど魅力的な提案に聞こえた。

 顧客を裏切るのではない。

 より極上の物語を届けるための戦略的提携。


「……はは。……完敗です」


 モルガンは深く息を吐き、そして清々しい顔で笑った。


「商売敵より鋭い眼をお持ちだ……」

「お褒めにあずかり光栄です」


 リリアーナは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 サラサラと、僅かな魔力を込めてペンを走らせ、契約書に数字を書き込む。


「では、買取価格はこちらでいかがでしょう」


 彼女が提示した羊皮紙を覗き込み――モルガンは目を剥いた。

 数度、瞬きをして、呼吸を止める。


「……リリアーナ様。桁を、間違えておられませんか?」

「いいえ」

「こ、これは……現在の相場の十倍ですよ!? いくらなんでも高すぎます!」


 慌てるモルガンに対し、リリアーナは涼しい顔で首を傾げた。


「モルガンさん」

「は、はい?」

「……この金額は、付加価値が乗ったあとの未来の適正価格」


 彼女は細い指先で、トンと数字を叩いた。


「私は未来の利益を、今、貴方に先払いするだけです。私が損をするつもりはありません」


 あくまで対等な商取引だと彼女は言い張る。

 だが、モルガンほどの商人なら、その数字の意味するところを計算できないはずがなかった。


 在庫が空になった里に、金庫番は莫大な現金を置いていく。

 その余剰資金が何を意味するか。


「……これだけの資金があれば……」


 モルガンの指先が震える。


「……次の生産時期までに、腕利きの傭兵団を長期契約で雇える。里の若衆に武装させ、自警団を組織しても、まだお釣りがくる……」


 彼女は、里を守るための軍資金までも忍ばせていたのだ。

 それも恵んでもらう形ではなく、正当な商売の対価として。


「職人の仕事は良い品を作ること。里を守るのは専門家の仕事です」


 リリアーナは少し声のトーンを落とし、顔を伏せた。


「それに、里が無くなるようなことがあれば、私が困りますからね」


 論理も、配慮も、提示された未来も。

 何一つ反論の余地がないほどに、彼女はこの場の全てを支配していた。


 モルガンは震える手でペンを取り、契約書にサインをした。

 そして、深々と、床に額がつくほどに頭を下げた。


「本当に、本当に……。この御恩、必ずお返しいたします」


 リリアーナは満足げに頷き、紅茶の最後のひとくちを飲み干した。


「いえ、モルガンさん。恩は返さなくて結構です。……次に繋いでください」

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