006.最悪の呪い
深夜。
リリアーナが工場の視察を行っていたのと同時刻。
月明かりさえ届かぬ森の奥深くで二つの影が対峙していた。
一人は昼間に荷馬車で腰を抜かしていた御者の男。
もう一人は、ハウンドを使役していた犬使いの少年。
どちらも能面のような無表情と、感情の灯っていない硝子玉のような瞳。
「工場の月光絹の確保は」
御者の男が平坦な声で問う。
足元にハウンドを侍らせた少年は無造作に首を横に振った。
「不可能だ。あの保護魔法を使う女がいる」
「殺して奪えばいい」
「騎士が来るまでに殺すことは不可能だ」
両者の声に感情の色はない。
ただの事実確認だった。
「あの女はこちらの想定の外にいる」
「捕縛されれば調べられるな」
「ああ。我々が人ではないということが露呈する」
それこそが、彼らにとって最大の禁忌だった。
魔人が人の皮を被って溶け込んでいる。
その事実を知られることだけは避けなければならない。
口を割る、割らないの問題ではない。その肉体そのものが証拠なのだから。
少年は自らの腕を見た。
皮膚の一部が爛れ、黒い体液が滲んでいる。
「それに、この体も、もう持たない」
魔人は人間の地で生きられない。
活動限界が近づけば崩れていく。
「絹を奪えず、正体も晒せない。ならば、最後にやることは一つ」
「ああ。肉体を溶かし、この地を祝福する」
二人は躊躇なく懐から黒い小瓶を取り出し、飲み干した。
直後、彼らの肉体がボコボコと不気味に脈打ち始める。
周囲にいたハウンドたちが一斉に立ち上がり、涎を垂らして二人を取り囲んだ。
「喰え」
少年の短く、冷たい命令。
――ガブッ!!
一匹のハウンドが御者の男の喉元に食らいついた。
少年もまた、群がる獣たちにその身を委ね、四肢を食い千切られていく。
彼らは悲鳴ひとつ上げなかった。
眉ひとつ動かさず、自分たちが咀嚼され、ミンチになっていく様をただ見つめていた。
(……世に平穏のあらんことを)
バキバキ、グチャリ。
森の闇に咀嚼音だけが響く。
魔人の肉と、体内の毒を取り込んだハウンドの体が溶解し始める。
肉体という枠組みが崩れ、個が消え、混ざり合い――
巨大な黒い沼が生まれた。
それは意志を持った汚泥。
自らの存在を消し去り、ただ勇者を殺すという命令だけを遂行する、最悪の呪い。
――バサバサバサッ!
異変を察知した鳥たちが、恐怖に駆られて一斉に空へと飛び立つ。
世界を拒絶する「黒い濁流」が里へと動き出した。
* * *
宿への帰り道。
リリアーナが夜風に当たりながら歩いていると、宿の前でモルガンが待っていた。
どうやら、恩人が夜更けに出歩いているのを心配していたらしい。
「これはこれは、リリアーナさん。工場はいかがでしたか」
「ええ、もう素晴らしいとしか言いようがありませんでした」
リリアーナの言葉に、モルガンは安堵したようににっこりと微笑む。
「そうでしょう。村の自慢ですから」
「私達は王都から派遣された遠征隊みたいなものですから。お困りごとがあればご相談くださいね」
「ええ。ありがとうございます」
リリアーナは足を止め、月を見上げたまま、独り言のように続けた。
「月光絹専用の桐箱の滑らかな手触り。工場に微かに漂う、防虫香の上品な香り。……どれも、初めての体験でした」
「そこまでお褒めいただくとはお恥ずかしい限りです。皆喜びますよ」
モルガンは機嫌よく相槌を打った。
だが、その直後、彼の額をツー、と冷たい汗が伝った。
――『どれも、初めて』?
リリアーナは昼間に襲撃された馬車の積荷を見ている。
もしあれが本物の月光絹だったなら、「初めて」という感想は出てこない。
彼女は今、何と言った?
桐箱の手触り? 防虫香の香り?
そんなものは、あの破壊された積荷の残骸には無かったはずだ。
数秒の沈黙の後、リリアーナはゆっくりと視線を下ろし、凍りついた商人を射抜いた。
「……荷馬車に積まれていたものとは別物だった、と申し上げているんです」
モルガンの顔から仮面のような笑顔が崩れ落ちた。
「……皆様には感謝しています。ですので、明日の朝は早めにご出立ください。我々を本当に苦しめているのは……」
モルガンが真実を話そうとしたその時だった。
――バサバサバサッ!
突如として、何千羽という鳥たちが一斉に森から飛び立った。
空を覆い尽くすほどの黒い影。
続いて、森の奥から大小様々な動物たちが、転がるように逃げ出してくる。
鋭い声と共に宿からグスタフが飛び出してきた。
槍だけを握りしめ、鎧もつけていない。
「リリアーナ殿、これは瘴気です!」
「ええ……悪寒なんてものじゃない……」
騒音に目を覚ました里の人々も何事かと窓を開けるが、異様な光景に言葉を失っている。
モルガンは状況が飲み込めず呆然と立ち尽くしているが、リリアーナは森から目を離さなかった。
森から溢れ出してくるのは、ねっとりとした黒い霧。
物理的な煙ではない。あれは世界そのものが拒絶反応を起こしている。
「な、なあ。これ……いったい何が起きてんだよ」
宿から出てきたポッケの顔が一瞬で凍りついた。
視線の先。森を侵食しつつある「それ」を見た瞬間、彼の顔から血の気が引いていく。
ポッケは無言のまま、無意識にリリアーナとグスタフの服の袖を掴んだ。
ギュッ、と。指先が白くなるほど強く。
普段はおちゃらけていても、彼はまだ十代前半の子供だ。
「大丈夫だ、ポッケ。私がついている」
グスタフは震える少年の手を、自らの大きな手で包み込むように握り返した。
その温もりに、ポッケが掠れた声を絞り出す。
「リリ姉」
「なに? 怖いの?」
「……うん」
それは、生物としての本能的な拒絶だった。
あの黒い霧に近づけば死ぬ。あるいは死ぬよりも恐ろしいことになる。
全身の細胞が「逃げろ」と警鐘を鳴らしている。
「でも……皆、これに立ち向かったんだよな」
「ええ、そうよ」
ポッケは選定の剣を見つめる。
「これまで繋いでくれた人がいるから、今の俺達が……」
唇を噛み締め、初めて勇者としての願いを口にする。
「こんな怖い思いをするのは、俺で終わりがいい。勇者は俺で最後に……」
理不尽な恐怖の連鎖をここで断ち切りたいという祈り。
勇者のいらない世界にするために一歩、前に出る。
ガクガクと震えている足をさらに前に。
顎が鳴る音が静まり返った夜に響く。
先ほどまで逃げ惑っていた森の動物たちが足を止め、ポッケを見た。
一匹の獣が恐る恐る近づき、ポッケの震える腕の下に頭を擦り寄せる。
まるで「お願い」と縋るように。
「……この剣のことを一番信じてなかったのは俺だ」
これまで選定の剣をただの鉄の棒として扱ってきた。
だが、今は違う。
この剣には数多の英雄たちの心が宿っている。
「俺はまだ弱いけど……」
静かな決意と共に、ポッケは剣を両手で持ち、夜に掲げる。
「選定の剣に選ばれた自分のことを信じたい……」
恐怖で足がすくむ。剣先が上がらない。
その時。
ポッケの持つ剣の柄に、幻影のような青白い光が重なった。
一つではない。二つ、三つ……いくつもの手が、ポッケの手を支えるようにそっと重なる。
かつてこの剣を握り、散っていった「過去の英雄たち」の手だ。
そして――幻影ではない、大きく、温かい手が力強く包み込んだ。
「え……?」
王国が誇る騎士団長。
彼は何も言わず、ただポッケの目を真っ直ぐに前を見据え、共に剣を握りしめていた。
過去の英雄たちの幻影と、現世の英雄であるグスタフの手。
時代を超えたすべての手が重なり合い、震える小さな勇者を支えていた。
光の粒子が彼らを包み込み、剣へと溶け込んでいく。
――ドクン。
錆びついていた刀身が脈動した。
ポッケとグスタフは、呼吸を合わせて剣を空へと掲げる。
「……頼む」
消え入るような小さな少年の祈りの声。
空へと掲げた剣が鈍い鉛色のまま淡く輝く。
優しく、どこまでも透き通った浄化の光。
ゴォオッ!
黒い霧が一箇所に凝縮し、まるで巨大な濁流となって真正面からポッケに襲いかかった。
光を消そうとする、明確な殺意と悪意。
「……ッ!」
ポッケが恐怖に身をすくませる。
逃げ場はない。
「信じて前を向け! ポッケ!」
全てを飲み込む黒い奔流が、少年の目の前に迫った――その刹那。
ガキィンッ!
ポッケの視界に小さな背中が割り込んだ。
リリアーナだ。彼女は迫りくる濁流に対し、無言で両手を突き出した。
甲高い音が夜の森に響き渡る。
見えない壁が黒い奔流を受け止めていた。
ズザザッ!
「ぐ……ッ、ッ!!」
凄まじい圧力に、リリアーナの革靴が地面を削り、後退する。
防ぎきれない衝撃の余波が、彼女の体を内側から破壊していく。
――バキィッ
鈍く、嫌な音が響いた。
右腕がだらりと力なく垂れ下がる。
限界を超えた負荷に耐えきれず、右腕の骨が砕けたのだ。
リリアーナの口から鮮血が噴き出した。
防御壁の輝きが一瞬、揺らぐ。
「……リリアーナ殿!」
保護魔法が消える――グスタフがそう思った瞬間。
リリアーナは即座に左手を強く突き出し、弱まりかけた保護魔法を無理やりこじ開けるように維持した。
「……ナメんじゃないわよ」
口から溢れる血反吐を吐き捨て、ほんの一瞬だけ使い物にならなくなった右腕に視線を滑らせる。
すぐに興味なさげに前を向き、獰猛に笑った。
頬は切れ、内部が裂け、右腕は無残に折れ曲がっている。
立っていることすら奇跡のような満身創痍。
だが、その瞳だけは爛々と輝き、迫りくる巨大な闇を睨みつけていた。
彼女には、魔を払う剣の才はない。敵を穿つ力もない。
だが、たった一つだけ、この理不尽な世界に抗うための魔法を与えられた。
魂を削り、我が身を犠牲にして、大切な者を守り抜く力。
それだけが、彼女に唯一許された英雄としての資質。
「安心しなさい。……貴方達には、指一本触れさせない」
ボロボロになりながらも一歩も退かないその背中に、ポッケの迷いが消し飛んだ。
守られているだけじゃ駄目だと。剣をさらに高く掲げる。
光は音もなく広がり、黒い霧を包み込み、瞬く間に中和していく。
舞い上がった無数の光の粒子が、空へと昇っていく。
その場にいた誰もが息を呑んだ。
剣の光と、夜空の星々が混じり合い、まるで満天の星空が地上に降り注いでいるかのような光景。
枯れかけていた木々は光を吸って息を吹き返し、森の動物たちが安堵してポッケに寄り添っていく。
幻想的な光景の中、ポッケはその場に崩れ落ちるように膝をついた。
彼は涙を流しながら、いつまでもその空を見上げていた。
「……見事な星空でございますな」
ふわり、と。
満身創痍のリリアーナの背中を温かい毛布が包み込んだ。
いつの間にか背後に控えていたアントンだった。
「アントンさん……よかった。無事でしたか」
「はい。里の方々を連れて風上の丘まで避難しておりました」
アントンは乱れた服のまま、どこか満足げに村の方角を振り返った。
「あそこなら瘴気も届かず安全です。……そして何より」
アントンは恭しく一礼をした。
「皆様が起こした奇跡を、里の方々に特等席で見ていただけましたから」
「ふふ……。さすが、抜け目がありませんね」
「素晴らしい勇姿でしたよ。……あの光は、遠く離れた丘にいた私たちの目にも、確かに焼き付きました」
アントンは穏やかに目を細めて微笑む。
そして、へたり込んでいる小さな勇者の肩を安心させるようにポンポンと叩いた。
その優しい手つきは、あの一部始終を固唾を呑んで見守っていたことを物語っていた。
リリアーナは小さな勇者に顔を向ける。
そこには、グスタフに抱きしめられ、動物たちに囲まれ、泣きじゃくる少年がいた。
その光景のなんと美しいことか。
彼女は血のついた唇の端を吊り上げ、独り言のように呟いた。
「幸運に包まれた勇者、か……。……むしろ、幸運なのは私達の方じゃない」
これほどの原石に出会えたのだから。
深く息を吐き、夜空を見上げる。
その瞳に映る星々は、優しく瞬いていた。
右腕は感覚がないほどに腫れ、熱を持っている。
リリアーナは左手で、折れた右腕を愛おしむようにそっと撫でた。
この痛みは、仲間に傷一つ付けさせなかった証。
未来を繋ぎ止めた、リリアーナだけの勲章だった。
「……悪くないわね」
夜風が頬の熱を冷ましていく。
満天の星空の下。
彼女は痛みさえも心地よく感じながら、静かに瞳を閉じた。




