015.大司教エヴァン
案内役の巨漢が重厚な両開きの扉に手をかけた。
金属が軋む音ひとつなく、滑らかに世界が開かれていく。
豪奢な装飾などない。
磨き上げられた床、壁一面に並ぶ古い書物、そして部屋の中央に置かれた使い込まれたテーブルセット。
ただ、静謐だけがそこにあった。
足を踏み入れた瞬間、声が耳をかすめる。
「随分とまあ、可愛らしいお嬢さんじゃないか」
部屋の奥。
窓際に置かれたロッキングチェアに、小さな影が沈んでいた。
逆光がその表情を塗りつぶしている。
挨拶をしようと息を吸った、その直前。
影はおかしそうに喉を鳴らした。
「一体どこの極悪人が来たのかと思ったんだがねえ」
射抜くような視線が、影の中から舐めるように這う。
「教会の全財産でも足りぬからと、神の家を差し押さえようとする娘には見えない」
その言葉が落ちた瞬間。
背中に、三者三様の視線が突き刺さった。
「それが嫌なら遺物を寄越せだなんて、悪魔でも言わないよまったく」
小さな溜息。
鎧が微かに擦れる音。
そして、楽しげに喉を鳴らす気配。
リリアーナは一度だけ泳ぎそうになった視線を強引に固定し、ふんと鼻を鳴らして顎を上げた。
「……なによ。正当な報酬を請求したまでじゃない」
「カカッ!」
枯れ木が擦れるような乾いた笑い声。
老婆はひとしきり笑うと、指先をくるりと空中で回した。
手のひらを天井に向ける。
虚空から光の粒子が滲み出し、一つの物体がふわりと浮かび上がる。
重力を忘れたシャボン玉のように音もなく掌の上で漂う。
二つの胡桃のような飾りがついた装身具――『イージス』だ。
老婆はそれを無造作に放り投げた。
「わわっ……!」
掌に落ちたそれは拍子抜けするほど軽い。
騎士の攻撃を無効化した神の盾だとは信じられないほどに。
「教会の子たちはそれを聖遺物と呼んで崇めているけどね。なあに、あの子たちが勝手に言っているだけさね」
興味なさげな声。
「あたしからすれば、そこらに転がっている遺物となんら変わらない。ただの道具さ」
「……遺物をただの道具扱いですか」
「ああ。借金のカタなんだろう? 完済するまで、好きに使いな」
あまりに軽い扱いに毒気を抜かれたように苦笑する。
だがこの老婆が言うと「聖遺物」という権威すら、子供の玩具のように思えてくるから不思議だ。
視線が、隣に立つフィオナへと移る。
「どうだい、探し物は見つかったのかい」
まるで久しぶりに会った孫にでも掛けるような、穏やかな声色。
フィオナは表情を引き締め、背筋を伸ばして一礼した。
「いえ。未だ、探しております」
リリアーナは思わず二度見した。
あの不遜でマイペースなフィオナが、直立不動で敬語を使っている。
「そうかい。……まあ、焦ることはないよ」
その双眸から底知れぬ圧がふっと消え、穏やかな凪のような色が宿った。
「時間は残酷だが、時には救いにもなる。お前さんの探し物が見つかるよう祈っているよ」
「もったいなきお言葉。感謝いたします」
フィオナが深く頭を下げる。
視線が戻り、全員を見渡す。
「お前たち、そもそも遺物とはなにか知っているのかい」
唐突な問いかけ。
手元のイージスを見つめ、首を横に振る。
「……いいえ。遺跡や魔大陸から発掘される古代の道具……という認識くらいしか」
「間違っちゃいない。だが、本質じゃないねえ」
面白くなさそうに鼻を鳴らすと、壁一面の本棚に人差し指を向けた。
指先でピンッ、と空気を弾くような仕草。
直後、重苦しい音が響き、本棚の一角から一冊の書物が引き抜かれた。
宙を滑るように飛んできたのは、背丈ほどもある巨大な古書だった。
目の前でピタリと静止すると、ひとりでに表紙を開き、風を巻き起こしながらページをめくり始めた。
そこに描かれていたのは、見たこともない挿絵の数々。
「この世界にはね、あたしたち人間以外にも多くの種族で溢れていたんだよ」
老婆の語りに合わせ、ページが止まる。
「森を愛した長耳の民。鋼を鍛えた小さき巨人たち」
描かれているのは物語の中でしか見たことのない亜人。
だがその筆致はあまりに写実的で、かつてそこに生きていた体温すら感じさせる。
「彼らはそれぞれ、人間にはない魔法や技術を持っていた。……だが、みんないなくなっちまった」
ページがめくられる。
次のページは白紙だった。
まるで、世界から彼らの存在だけがごっそりと抜け落ちたかのように。
「遺物ってのはね、きっと彼らが生きた証さ。彼らの技術、魔法、そして想いが結晶化したものなんだよ」
目尻に刻まれた深い皺がくしゃりと歪み、柔らかな笑みが浮かぶ。
「どんなに強力な兵器も、便利な道具も、最初はきっと……誰かの『小さな願い』だったのだろうね」
「誰かの願い……」
「ああ。空を飛びたい、もっと遠くを見たい、大切な人を守りたい……。そんな切実な祈りが形になったもの。それが遺物さ」
部屋に静寂が満ちる。
ただの古代の道具だと思っていたものが、急に重みを持って感じられた。
手の中にあるイージスも、かつて誰かが「絶対に守りたい」と願った結果なのかもしれない。
老婆の瞳が、リリアーナを真っ直ぐに見据える。
「あたしの言いたいことがわかるかい」
試すような光。
なぜ今、この話をしたのか。
フィオナへの労いの言葉。
遺物は、誰かの「願い」が形になったもの。
点と点が繋がり、一つの答えが導き出される。
息を呑み、隣に立つフィオナを見た。
彼女が探し求めている時間を巻き戻す遺物。
正面に向き直り、力強く答える。
「……かつて誰かがそれを強く願い、祈ったのなら。遺物としてこの世に存在する可能性がある、ということですか」
「カッカ! いいねえ。察しのいい子は嫌いじゃあないよ」
口元が三日月のように歪んだ。
場の空気が少し緩んだのを見計らい、表情を切り替える。
イージスを懐にしまいながら、世間話でもするかのような軽い調子で切り出す。
「遺物のお話、大変感銘を受けました。……一つ、人探しのご相談もよろしいですか」
「なんだい? 迷子かい?」
「ええ。ある商会の御者なのですが……死体ごと行方不明になってしまいまして」
困ったように眉を下げてみせる。
「この街には、死者すら呼び戻す奇跡の聖女様がいらっしゃると聞きました」
「へえ。そりゃすごい人もいたもんだねえ」
「もしかしてその御者も、聖女様の慈悲深い御手によって、既に『別のナニカ』として蘇っていらっしゃるのではと思いまして」
その言葉に、室内の空気が凍りついた。
アントンが眉を寄せ、グスタフが顔を青くする。
死体を持ち去った犯人だと、この街の支配者を面と向かって名指ししたに等しい。
瞳に宿すのは獲物を追い詰める冷徹な光。
「……例えば、言葉も通じない、心を持たない人形のような御者として」
ギィ、と音を立て、ロッキングチェアが揺れるのをやめた。
部屋の空気が、鉛のように重くなる。
「……鋭いねえ。子供の勘というのは、時に予言よりも恐ろしい」
ゆっくりと瞼が閉じられ、そして開かれる。
その瞳は濁った沼のように底が見えない。
「あれは単なる肉体の再利用さ。聖女の蘇生とは天と地ほど違う」
淡々と、まるで壊れた家具の修理の話でもするように語る。
「魂の抜けた肉体に、未練や呪いを詰めて動かす。……あたしから言わせれば、あんなものは継ぎ接ぎの泥人形だよ。美しくない」
肯定も、否定もしない。
ただ、そんな低俗な技術には興味がないと言い切る傲慢さ。
「じゃあ、貴女ではないと?」
「あたしはお人形遊びするような趣味はないよ。古いものには目が無いがね」
不愉快そうに鼻を鳴らす。
「だがこの街の下水道には、聖女の真似事をしているネズミがいるようだ」
「裏社会の顔役……シギントですか」
「ああ。身の程知らずの馬鹿さ。泥人形に魂を定着させるために、大量の糸を欲しがっている」
眉がピクリと動く。
糸。魂の定着。
そのキーワードが襲撃された積荷と繋がる。
「……月光絹のことを知っているんですね」
「おや、ほんとうに察しがいいね。あの絹はね、ただ美しいだけじゃない。蚕が魔力を吸って吐き出した、天然の神経回路なんだよ」
老婆はテーブルの上のティーポットへと手を伸ばした。
琥珀色の液体がカップに注がれ、湯気と共に甘やかな香りが立ち昇る。
「遺物が願いの形なら、月光絹は願いの器さ。強い想いや記憶を繊維の中に留め置く性質がある」
「枕にする方も多いと聞きます。都合のいい夢を見るために」
差し出されたカップを手に取り、口元へ運ぶ。
熱い液体が喉を通り、緊張で強張った胃をわずかに解した。
「その性質を利用して、泥人形に疑似的な神経を通し、命令を焼き付けようとしているのさ」
焼き菓子を摘み、サクリと音を立てて齧る。
「毎日死体が出るこの街の地下で、飽きもせずお人形遊び。……臭いったらないよ」
老婆は汚らわしいものでも見るように、窓の外へ視線を投げた。
「歪な魔力を死体にぶち込だんだけの……魂の抜け落ちた、ただの肉袋さ」
美学のかけらもありゃしない、と吐き捨てる。
その言葉には決定的な美意識の差による軽蔑が混じっている。
「彼らが絹を欲しがる理由はわかりました」
「ああ。わかったなら掃除しといてくれ」
ゆらりと椅子が揺れ、そして唐突に――話題のナイフが突き立てられた。
「――それで。お前さん、その月光絹を積んでいるのかい?」
あまりに自然な、世間話の続きのような問いかけ。
「まさか。先ほど申し上げた通り、私たちは商会から依頼を受けただけの――」
「――遅いねえ」
楽しげな笑い声。
言葉を遮り、枯れ木のような指先が突きつけられる。
「ほんの一瞬。思考のノイズが混じったよ」
「…………」
「カカッ、怖い顔をしなさんな。あたしじゃなきゃ気づいちゃいないさ」
背中を冷たい汗が伝う。
瞬き一つの遅れもない完璧な切り返しだったはずだ。
だが、この怪物はその極小の隙間に潜む隙を見抜いた。
「安心しな。無理やり奪いやしないよ。……今は、ね」
老婆は愛おしそうに目を細めた。
「食えない女を気取っちゃいるが、まだまだ可愛いところがあるじゃないか」
「……お褒めにあずかり、光栄です」
乾いた喉で、なんとか皮肉を返すのが精一杯だった。
老婆は「ふぅ」と紫煙を吐くような仕草をして、天井を見上げた。
「あたしもね、その絹が欲しいんだよ」
「……シギントと同じ理由で?」
「一緒にするんじゃあないよ」
不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「一度目の襲撃……ただの野盗崩れを使った脅しは、あたしの差し金さ」
あっさりと認めた。
「手荒な真似をしてすまなかったねえ。あの御者はちゃんと蘇生してやったから許しておくれ」
やはり、一度目の買い占め要求と脅しは教会。
死体を回収したのは蘇生するためだった。
「そこまでして、何に使おうと?」
問いかけると、老婆は少女のように目を輝かせた。
「観測さ。大量の絹を織り上げて巨大な天蓋を作り、全魔力を注ぎ込んで遺物に昇華させる」
椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
「……そうすれば、見えるかもしれないだろう?」
その視線は、眼下に広がる街ではなく、遥か彼方。
水平線の向こう側へと向けられている。
「この世界の限界。虚無の海の向こう側がね」
その言葉に、ポッケが反応した。
ここに来るまでのエレベーターで、彼が「夢がない」とこぼした海の話。
「……坊や。さっき、海の向こうは何もないと言っていたろ」
「うん。リリ姉が、神様も匙を投げた無の世界だって」
「ああ、みんなそう教えられている。……まったく、夢のない話だねえ」
老婆は振り返り、悪戯っぽく笑った。
「だがね。それをひっくり返すのが遺物……すなわち願いの力さ」
「どういうこと? 海の向こうは無いんじゃないの?」
「誰も見たことがないなら、無いとは言い切れないじゃないか。あたしは見たいんだよ。この閉ざされた箱庭の外に、何が広がっているのかを」
その立ち姿は、老いた肉体を感じさせないほどに凛としていた。
聖女でも、支配者でもない。
ただ純粋に未知を追い求める、一人の冒険者のような顔をしていた。
「夢のない現実に、夢を見せる。……それが遺物ってもんだ」
ポッケが目を輝かせ、大きく頷く。
リリアーナもまた、その途方もない願いのスケールに圧倒されていた。
ただ、見たいという根源的な欲求。
それこそが、彼女をこの街の頂点に立たせている原動力。
「……坊や。選定の剣は重くないかい?」
「すっげー重い!」
ポッケは背中の虚空を撫で、無邪気に笑った。
老婆は面白そうに目を細めた。
「あらそうかい。……あの剣には、歴代の勇者たちのドロドロとした願いも詰まっているはずなんだがねえ」
「声のことか? 死にたくない帰りたいって声なら、ずっと聞こえてるぞ」
「……え?」
リリアーナたちは息を呑んで少年を見る。
彼はいつものように笑っていた。
「俺だって死にたくないから同じ気持ちだ。みんなだってきっと怖かったんだよ」
「……それが聞こえてなお輝きに変えられるのなら、お前さんは本物かもしれないね」
満足そうな頷き。
ポッケは自分の掌を見つめ、そこにない柄の感触を確かめるように握りしめる。
リリアーナはそっとポッケの肩を引き寄せた。
「……ま、とにかくシギントを掃除しとくれ。そうしたら、その絹の使い道……あたしと商談しようじゃないか」
ニヤリと笑い、こちらを指差す。
「精々、安く買い叩いてやるから覚悟しとくんだね。可愛いお嬢さん」
一礼し、踵を返す。
重厚な扉が開かれ、部屋を出ようとしたその時。
背後から、静かな声が追いかけてきた。
「ああ、そうだ。……気をつけるんだよ」
振り返ると、逆光の中のエヴァンが、どこか哀れむような目でこちらを見ていた。
「願いというのはね……叶う時が、一番残酷なんだよ」




