014.教会の全財産
受付係の老人は人混みをかき分け、真っ先にステージ上のザイードの元へ駆け寄った。
彼は震える手でザイードの体をペタペタと触り、その無事を確かめる。
「ザイード! おい、無事か!? 怪我はないか!?」
「……爺さん。俺は大丈夫だ。まだ腕は痺れたままだがな」
「おお……よかった。本当によかった……! あんな一撃を受けて、生きてるなんて……!」
老人は安堵のあまり、その場にへたり込んだ。
その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
教会の稼ぎ頭としての道具を心配しているのではない。
孫の無事を喜ぶ祖父のような、純粋な情愛がそこにはあった。
「……へえ」
その様子を見ていたリリアーナは少しだけ目を丸くした。
「案外、人情に厚いようですな」
「そうみたいですね。あんなの見せられたら悪いようにはできないなぁ」
「でもリリ姉なんか悪い顔してねえか?」
「ずっとこういう顔よ」
てっきり金に汚い教会の老人と、金で雇われた傭兵というドライな関係だと思っていた。
だが、それ以上の言い表せない深い絆を感じさせる。
リリアーナの中で、彼らに対する認識が切り替わった。
◇
熱狂が引いた後。
リリアーナは教会の奥にある応接室へ通されていた。
重厚な椅子に座るのは、この教会を管理する上位司祭。
その顔色は紙のように白く、脂汗が額を伝っていたが、取り乱したり喚き散らしたりするような無様な真似はしていなかった。
テーブルの上には、契約魔術が刻まれた羊皮紙。
そして、運び込まれた金貨の山。
しかし、リリアーナが獲得した配当額には、教会の全財産を以てしても届いていない。
「……見事です。完敗、と言わざるを得ません」
上位司祭は呻くように言い、深々と頭を下げた。
「しかし……申し訳ない。現在、当教会が用意できる現金はこれで全てです。貴女様への配当には、到底届きません」
「ええ、わかっています。払えないのなら教会は差し押さえになりますね」
リリアーナは静かに頷いた。
通常なら「無い袖は振れない」と踏み倒す輩もいるだろう。
だが、この世界において『契約魔術』は絶対だ。
契約魔術を管理、施行しているのはゴブリン族である。
彼らは信義と契約を何よりも重んじる種族だ。
もし契約不履行があれば、即座に大陸中の信用情報に傷がつき、ブラックリスト入りする。
そうなれば、二度と契約魔術が使えないどころか、商業ギルドや銀行との取引も停止され、組織としての死を意味する。
歴史ある教会にとって、それは破滅よりも恐ろしい制裁だった。
「……我々も聖職者です。掟を破るつもりはありません。ですが教会を差し出すわけには……」
契約は絶対。
払わなければならない。足りない分は現物――つまり教会の差し押さえ。
進退窮まった司祭の苦悩を察し、リリアーナはパン、と手を叩いて場の空気を変えた。
「司祭様。そこでご提案があります」
「……提案、ですか?」
リリアーナは控えていたザイードと老人を指差した。
「今回の敗北は、逆に大きなチャンスです。考えてもみてください」
彼女は指を一本立て、理知的な瞳で語りかける。
「これまでの売りは絶対防御の遺物でした。だからこそ、一日二回という回数制限があった。ですが、これからは違います」
「……と言うと?」
「彼は今や、王国最強の攻撃を短剣一本で弾いた男です。遺物がなくても、その実力は本物だと証明されました」
司祭がハッとして顔を上げる。
「遺物の制限がなくなれば、一日に何度でも奉納試合を組めます。時間内に彼に一撃を入れれば賞金、という形式にでもすれば回転率は今の何倍にもなる」
「な、なるほど……」
「……初めての勝利者がでたことで、『自分もいけるかも』と夢見る挑戦者が殺到するでしょう」
「負けたことを逆手に取って、新たな興行を……」
司祭の目に光が戻る。
リリアーナの提案は単なる救済ではなく、教会の未来を見据えた建設的なものだった。
「彼にはまだまだ利用価値があります。手放すなんてもったいない」
リリアーナはニッコリと笑い、新しい羊皮紙を取り出した。
「そこで、新しい契約への書き換えを提案します」
彼女はスラスラと条件を書き込んでいく。
「私たちへの未払い分は今後のザイードさんの興行収益から、一割ずつ返済していただく形で構いません。これなら教会も破産せずに済みますし、彼らの雇用も守られます」
「おお……! なんと……感謝いたします」
司祭が感動に打ち震え、深々と頭を下げる。
リリアーナはそれを穏やかに受け止めつつ、最後の条件を提示した。
「ただし――完済までの間、確かな担保を頂戴いたします」
リリアーナは視線を、ザイードの腰に向けた。
「その遺物『イージス』。借金が完済されるまで、私が責任を持ってお預かりいたします」
「なっ……!? 聖遺物を渡すわけには!」
司祭が息を呑む。
「では教会の差し押さえとなります。どうされますか、司祭様。この条件で手を打っていただけますか?」
リリアーナの問いかけに、司祭は長い沈黙の後、重々しく頷いた。
「……わかりました。貴女の寛大な提案を飲みましょう。……ですが」
司祭は申し訳無さそうに、しかし断固とした口調で告げた。
「聖遺物を渡すとなると私の一存では決められません。その契約書には、教会の最高権力者の署名が必要になります」
「あら、どなたの?」
「……大司教、エヴァン様です」
その名が出た瞬間。
リリアーナの背筋を、氷柱を突き刺されたような悪寒が駆け抜けた。
『――――いいでしょう』
それは、音ではなかった。
耳から入った空気の振動ではない。
脳の皺の奥深くに冷たい水を一滴垂らされたかのような、異質で逃げ場のない浸食。
ガタリ、と椅子が倒れる音が響く。
誰よりも早く床に額を擦り付けたのは、目の前の上位司祭だった。
受付の老人も、弾かれたようにその場に平伏する。
そしてザイードまでもが、何かに抗うように肩を震わせた。
野生動物が天敵を前にした時のような、本能的な萎縮だったのだろう。
司祭たちよりわずかに遅れて、しかし逆らうすべを持たない機械のように、その膝を床についた。
シン、と静まり返った空間に底知れない響きを含んだ「老婆の声」だけが満ちる。
『教会の危機を救うだけでなく、未来の利益まで約束する。……実に、魅力的な提案だねえ』
その言葉と共に、テーブルの上の羽ペンがふわりと浮き上がった。
誰かが持っているわけではない。魔力の光すら帯びていない。
ただそこにある物理法則が無視されているという事実だけが、奇妙な不気味さを醸し出している。
カリ……カリ、カリ……。
静寂の中、乾いたペン先が羊皮紙を引っ掻く音だけが響く。
見えない手が署名を刻んでいく。
流れるような筆跡でエヴァンと記された契約書は、完成すると同時にゆっくりと回転し――リリアーナの正面へと滑ってきた。
そして、羽ペンが切っ先をこちらに向けて、空中でピタリと止まる。
(……サインしろ、ってことね)
リリアーナはごくりと喉を鳴らした。
ペンを握る指先が微かに震えていた。
言葉にできない根源的な恐怖。
全身を押し潰されているような息苦しさの中で、リリアーナは必死に表情を取り繕い、自身の名をサインした。
ペンを置く。
どっと、身体の芯から嫌な汗が吹き出すのを感じた。
『リリアーナ、というのかい』
再び脳髄を撫でるような声が響く。
慈悲深く、優しげな老婆の声。
だというのにリリアーナの直感は警鐘を鳴らし続けている。
この声の主は、人であって人ではない何かだ、と。
『せっかくだ。直接会って話をしようじゃないか』
「……え?」
『裏手にある別塔の、一番上の部屋に皆でおいで。温かいお茶を用意して待っているよ』
それは招待などではない。
拒否権など最初から存在しない、絶対強者からの召喚命令だった。
◇
応接室の扉が閉まる。
リリアーナは一度深く深呼吸をして、冷や汗を拭ってから仲間たちの元へ戻った。
「……話はついたわ。それと、これから別塔へ行くことになったの」
「別塔? まだ何か手続きがあるのですか?」
「いいえ。大司教エヴァン様が、直接会いたいんですって」
リリアーナの報告に、聞き耳を立てていた若い神官が「ひぃッ!?」と悲鳴を上げた。
その拍子に手が滑り、飾られていた高価そうな壺が床に落ちて粉砕する。
ガシャアアアンッ!!
廊下の隅で様子を伺っていた若い神官が、抱えていた大きな花瓶を取り落とした。
破片が飛び散り水が広がる。
しかし彼はそれを気にする様子もなく、幽霊でも見たような顔でリリアーナを凝視していた。
「あ、あの聖女様が……人を招くだと……!?」
若い神官の狼狽ぶりに、事の重大さを察する一行。
アントンが疑わしげな視線をリリアーナに向けた。
「リリアーナ様。……一体、どんな脅しを使われたのです?」
「教会の今後についていくつか助言したら、向こうから『おいで』って言われたんですよ」
「なんかリリ姉、顔色悪くね? 汗もすっげーかいてるぞ」
真っ先に異変に気づいたのはポッケだった。
彼は心配そうにリリアーナの顔を覗き込み、その冷たい手を握る。
フィオナもまた、目を細めてリリアーナの周囲を観察した。
「……精神感応か。何かされたな?」
「ただ頭の中に直接話しかけられただけよ」
リリアーナは気丈に振る舞い、ハンカチで汗を拭った。
得体の知れない恐怖を感じたなどと、口が裂けても言えない。
仲間を不安にさせるだけだ。
「さあ、行きましょ。聖女様を待たせるわけには――」
言いかけた時、廊下の奥から重たい足音が響いた。
現れたのは一人の神官だった。
だが、その威圧感は只事ではない。
身長は二メートルを優に超え、筋骨隆々のグスタフよりもさらに一回り大きい。
鍛え上げられた筋肉というよりは、巨大な岩石が修道服を着て歩いているような、圧倒的な巨躯。
「……大司教エヴァン様がお待ちだ。案内しよう」
巨岩のような男は低く腹に響く声で告げた。
グスタフが警戒して前に出ようとするが、男は戦意を見せることもなく、ただ淡々と踵を返した。
◇
案内されたのは教会の敷地の最奥。
雲の上までそびえ立つ、古びた石造りの塔だった。
入り口には厳重な結界が張られており、案内人の男が立ち止まって振り返る。
「ここから先は聖域。武器の持ち込みは許されない」
「……丸腰になれと言うのか」
「争うつもりはない。だが、万が一の粗相があっては困るゆえな」
グスタフは警戒を緩めることなく、ポッケと共に手持ちの武器を男に預ける。
フィオナも懐の銃と予備弾薬を渡し、いくつかの遺物をベルトごと預けた。
リリアーナたちは身につけていた装飾品などを含めて、すべて外された。
完全に無防備な状態となった一行は、塔の外壁に設置された特殊な昇降機――魔力を動力とする鉄柵のエレベーターへと乗せられた。
鈍く、重い音を立てて籠が上昇を始める。
高度が上がるにつれ、リューンの街並みがミニチュアのように小さくなっていく。
「うっひょー! たけー!」
ポッケは鉄柵にへばりつき、眼下に広がる景色に大はしゃぎだ。
「すっげえ! 人が豆粒みたいだ! ……おおぉ、海だ! どこまでも続いてるぞー!」
街の向こう側には、キラキラと輝く広大な海原が広がっていた。
水平線が緩やかな弧を描いているのが見える。
「なあリリ姉。海の向こうって何があるんだ? すっげえ強い魔物とか、お宝がある島とかねえのかな?」
ポッケの無邪気な問いかけ。
リリアーナは風で乱れる髪を押さえながら、つまらなそうに海を一瞥した。
「あるわけないでしょ。この大陸の外は虚無の海よ。行けども行けども、ただ水があるだけ」
「えー、つまんねーの」
「魔大陸にならあなたが望むものがあるかもね。水平線の向こうは、神様ですら匙を投げた世界よ」
それは、教養ある大人なら誰でも知っている常識だ。
過去、何百隻もの探検船が水平線の向こうを目指したが、一隻たりとも帰ってきたことはない。
この世界にはこの大陸しか存在しないのだ。
「夢がない話だなぁ」
ポッケが景色を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「それが現実。私たちは巨大な水たまりに浮かぶ、唯一の孤島に住んでいるようなものなの」
ガタン、と軽い衝撃と共にエレベーターが停止した。
塔の最上階。
風の音だけが響く静寂の中、唯一つの扉がリリアーナたちを待っていた。
今回は5,000文字程度に収めてみました。
1,000~1,500文字で細切れ投稿するよりも、話が一段落するまで書いたほうが読みやすいかな?と思っていますが、更新頻度が遅くなるのが困りもの。
ちなみにいつもは一週間ほどかけて話が綺麗にまとまるところまで書いて
1万字超えたりするものを、ググっとと圧縮して8,000文字程度に収めて投稿しています。




