013.悪いこと思いついちゃった
スラム街を抜け、賑やかな大通りへと戻る。
日の光を浴びて、リリアーナはようやく大きく息を吐いた。
「……はあ。心臓に悪かったぁ。でも、フィオナがいれば、この先何があっても大丈夫そうね」
あれほどの力があれば、どんな敵が来ようとも蹂躙できる。
そう確信して言ったリリアーナに対し、フィオナは意外にも首を横に振った。
「買いかぶりすぎだぞ。私はそんなに無敵なわけじゃない」
「ご謙遜を。あの戦いっぷりを見せられて信じる人はいないわよ」
「事実だ。……前に少し話したと思うが、あれは私の加減の効かない魔力で行使するものだ」
フィオナは自分のこめかみをトントンと指で叩いた。
「そして私は、その限界を見極めるのが下手ときた。過去に何度かあったんだよ。戦闘が終わった直後に意識が飛んで倒れたことが」
「えっ……? 倒れたって、気絶したってこと?」
「そうだ。予兆もなく強制的にシャットダウンした。そうなれば、私はただの無防備な肉塊になる」
淡々とした口調で語られる事実に、リリアーナは背筋が寒くなるのを感じた。
あの圧倒的な蹂躙劇の裏には、そんな危険な綱渡りがあったのか。
「……そ、その時はどうしたの?」
「運良く味方がいれば助かることもあるだろうな。……以前、アントンと二人で任務に就いた時がそうだった」
フィオナは懐かしむように目を細める。
「敵を全滅させた直後に倒れたんだ。……まだ敵が残っている状況で、アントンだけを残して倒れなくて本当によかったと思うよ。彼は私やグスタフのように正面から戦えるわけではないからな」
フィオナが倒れた後、アントンが彼女を抱えて安全圏まで撤退してくれたのだという。
「目が覚めた時、私は安全な隠れ家のベッドの上だった。アントンは涼しい顔で『おかげで良い運動になりました』と言っていたが、死んでいてもおかしくなかったな」
「アントンさんらしいわね……」
「今なら安心して最期まで戦えるよ。リリアーナとグスタフもいるからな」
切り札と呼ばれるフィオナからの、これ以上ない信頼の証。
リリアーナは改めて、このパーティのバランスの良さを実感し、心を震わせた。
ポッケの名前が出なかったのは気にしないでおこう。
――ここまでは、リリアーナも素直に感動していたのだ。ここまでは。
◇
錬金術ギルドの購買部。
店内には薬草や鉱物の独特な匂いが漂っていた。
フィオナはカウンターへ直行すると、店主にメモを渡した。
「このリストの素材を頼む。すべて最高純度のものだ」
「はいよ。……ほう、こいつは珍しい。えーと、これと、あとは深淵水晶の欠片か。いい腕の錬金術師がついているようだな」
店主は感心したように頷き、奥の棚から恭しく小箱を取り出してきた。
フィオナが顎でリリアーナを指し、店主がリリアーナに伝票を差し出す。
「お連れ様。こちらのお会計になりますぜ」
彼女は「はいはい」と金貨袋を取り出しながら、軽い気持ちでその数字を見た。
「えーっと、弾薬の材料費ね。いくらかしら」
そして。
リリアーナの動きが完全に停止した。
「…………はい?」
彼女は瞬きをして、もう一度数字を見る。
変わらない。
そこには、馬車の燃料である魔石を一ヶ月分は買えるような、とんでもない桁の数字が並んでいた。
「あ、あの、店主さん? これ、桁を間違えてません? ゼロが二つくらい多くないですか?」
「はあ? 何言ってんだ嬢ちゃん。これでも市場価格より勉強してやってるんだぜ? 嫌なら他を当たりな」
店主は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
リリアーナは震える手で伝票を持ち、恐る恐るフィオナを振り返った。
彼女はそっぽを向いて、棚に並んだポーションの瓶を興味深そうに眺めている。
「……ちょっと、フィオナ」
「なんだ」
「『なんだ』じゃないわよ。この値段……もしかして私を誘ったのって……」
「……私の給料じゃ、数発分の材料費で破産するからな」
フィオナが悪びれもせずに言った。
開き直ったわね、この女。
「待って。ほんとに待って。高すぎる。こんなの戦うたびに家が一軒建つようなものじゃない」
「君が力を見せろと言ったんだ。必要な経費だろう。安物の触媒を使えば、暴発して私の腕が吹き飛ぶかもしれんがそれでもいいのか」
「うぐっ……! そ、それは困るけど……!」
ずるい。
命を盾にされたら断れない。
リリアーナは額から嫌な汗が噴き出すのを感じた。
時間停止や空間操作。
あれは確かに強力だ。けれど、その代償は魔力だけじゃなかった。
一発撃つごとに、リリアーナの胃に穴が空きそうなほどの請求書が飛んでくる「金食い虫」の能力だったのだ。
「……払います。払いますよ……!」
リリアーナは涙目で金貨袋を置いた。
ジャラジャラと悲しい音が響く。
「まいどあり! って、おい。嬢ちゃん。さっさと手を離してくれ……」
「ぐっ……うぐぐ」
ほくほく顔の店主とは対照的に、名残惜しそうに袋から手を離すリリアーナ。
フィオナが満足げに素材を受け取り、彼女の肩をポンと叩く。
「助かった。これでいつでも本気で戦える」
「……ねえ、お願いだからよっぽどの時以外は撃たないでね……。私の寿命が縮むから……」
リリアーナはげっそりとした顔で店を出た。
外の空気さえ、今は高くついている気がして胸が苦しい。
「そんな顔をするなリリアーナ」
フィオナがどこか諭すような、澄ました顔でリリアーナを見た。
「里で君がモルガンに言っていた通りだ。敵を倒すのは私やグスタフの仕事。だが、資金を管理するのは君の仕事だ。君は君にできることを精一杯やればいい」
「…………」
リリアーナはジト目で、綺麗にまとめようとしているフィオナを睨みつけた。
「……とんでもない散財をした直後に、いい話っぽく締めないでくれる?」
「ん?」
「とぼけないで。この金食い虫」
とぼとぼ歩きながら、リリアーナはふと、屋敷に残してきた騎士団長の顔を思い浮かべた。
「もしもグスタフさんが教会の反則司祭に勝てるなら、大金が手に入るわよね」
「ああ。そうなれば、必要なときに出し惜しみなしで戦えるな」
強力無慈悲なフィオナの能力をいつ使うか。
リリアーナの腕が試されている。
「あっ」
リリアーナはあることを思いついて突然笑い出した。
「なんだ急に」
「ねえ、フィオナ。……私、悪いこと思いついちゃった」
何を思いついたのかと身を乗り出して聞くフィオナに、リリアーナは作戦について話す。
「リリアーナ、教会相手にそんなことすれば地獄に落ちるぞ……」
「ええ。向こうでもよろしくね、フィオナ」
リリアーナは悪魔のような不敵な笑みを浮かべていた。
◇
翌日。
「……開催は一日二回、午前と午後のみ。これが一番気になったのよね」
リリアーナは観客席の最前列で小さく呟いた。
「なぜもっと回数を増やして稼がないのかなって」
「答えは単純。あの遺物の使用回数が一日二回までだからだろうな」
「それをまずは彼がひとつ削ってくれるはずだから、残りはひとつ」
午前の部にエントリーしていたポッケが手を上げ、合図をする。
ザイードはただ静かに頷いた。
「うおおおおお! だりゃぁああ!!」
ポッケは迷いなく突っ込む。
女神の加護を持つ幸運体質の彼なら、もしかしたら「たまたま遺物が不発」なんて奇跡が起きるかもしれない――リリアーナには、そんな期待も少しだけあった。
現実は非情。
ポッケ用にあてがわれた奉納試合用の片手斧は、ザイードの鼻先数センチで見えない壁に阻まれた。
ザイードの腰にある胡桃の一つが音もなく色を失い、透明なガラス玉のように変化した。
「……元気がいいな」
「うるせえ! 俺の師匠がお前を倒すからまってろ」
攻撃が弾かれたポッケが悔しそうに退場する。
リリアーナはポッケに「持ってた?」と聞くと、ポッケは小さく頷いた。
短剣確認よし。これで残る絶対防御はあと一回。
リリアーナは観客席から立ち上がった。
「もおおおおおおおおおおおっ!!」
これ以上ないほど髪をぐしゃぐしゃにかきむしって叫ぶ。
周囲の観客が「うわっ、なんだあの女」と引くのがわかる。
「なんで! なんで当たらないのよ! あの子には才能があるって言ったじゃない!」
リリアーナはヒステリックに叫びながら、アントンの襟を掴み、前後に揺らす。
そして受付へとドタドタ走り寄る。
そこには、昨日と同じ受付係の老人が座っていた。
「もう一度よ。次の試合にも賭けさせなさい」
「まさかお嬢さん、あんな子供に賭けていたのかい? 可哀想に……」
「うるさいわね。今から取り返すのよ。倍……いいえ、負けた分を全部取り返すには、もっと大きく賭けないと……」
リリアーナは血走った目で受付の机をバンッ! と叩いた。
「ねえ、この契約魔術、賭け金に上限はあるの?」
「一応あるが、……ふむ。教会の慈悲は無限だからねぇ」
受付係はニヤニヤと笑う。
「だったら私の有り金、全部よ。全部賭けさせなさい!」
パチンと指を鳴らすと、背後からアントンが現れた。
その手には、両手で抱えるほどの巨大な麻袋。
昨夜かき集めた正真正銘、現在の彼女たちの全財産だ。
ドサッ……。
重々しい音が受付の机を軋ませる。
袋の口が少し開き、中から眩いばかりの金貨の山が覗いた。
「なっ……!?」
受付の爺さんの目が飛び出そうになる。
周りの野次馬たちも息を呑んだ。
「こ、これを全部……!? 正気かね!?」
「ええ。だから契約書に明記なさい。『上限なし』と。勝てば倍額、きっちり払ってもらうわよ」
鼻息荒く迫るリリアーナを見て、爺さんは呆れたようにため息をついた。
(……やれやれ。世間知らずの金持ち令嬢か。ギャンブルで熱くなって破産する典型だな)
そんな心の声が聞こえてくるようだ。
「……わかったわかった。許可を取ってくるから待ってなさい。ただ、後で泣いてもしらんぞ」
受付係の爺さんは面倒くさそうに教会の中へ入っていった。
しばらくして、ゆったりとした祭服を纏った上位司祭を連れて戻ってきた。
上位司祭は憐れような目でリリアーナを見たあと、「次はあの騎士で間違いないのか?」と受付係に確認し、ペンにわずかな魔力を込めた。
内心では「教会の丸儲けだ」とほくそ笑んでいるのだろう。
焼き付けられたのは、『賭け金の上限を撤廃する』という、彼らにとっての破滅の呪文だった。
――――かかった。
リリアーナは表面上はまだ怒りの収まらない馬鹿な令嬢を演じ続け、契約書にサインをした。
ざわめきが広がる。
「おい見ろよ、あの女。城でも買えるくらいの金を積んだぞ」
「馬鹿だなぁ。次は例の王国騎士がまた出るらしいぜ?」
「あんな騎士に賭けるなんて、頭のネジが飛んでるんじゃないか」
「かっかっか! いい見世物だ!」
嘲笑。侮蔑。
会場中が彼女を、そしてこれから出てくる挑戦者をあざ笑っていた。
「……よし、出る」
控室から重い足音が響いた。
巨大な戦斧を担ぎ、グスタフが姿を現す。
だが、観客の反応は冷酷だ。
「引っ込め雑魚騎士! 教会の回し者が!」
「また八百長を見せに来たのか!」
「テメェのせいで大損したんだよ! 失せろ!」
罵声の雨あられ。
ありとあらゆるものが投げ込まれる。
王国の騎士団長が受けるには、あまりに惨めな光景だった。
グスタフは投げ込まれるゴミを避けることすらせず、ただ真っ直ぐにザイードを見据えていた。
「……笑うがいい、リューンの民よ」
彼は低く、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「罵声も、汚名も、甘んじて受けよう。それが敗者の味だというのなら、骨の髄まで味わってやる」
グスタフは戦斧の柄を握りしめる。
その拳が、ギリギリと音を立てた。
「この戦いは金のためではない」
彼は顔を上げた。
その瞳には、侮蔑の嵐を焼き尽くすほどの、静かで熱い炎が宿っていた。
「これは、私自身が失った『騎士の誇り』を取り戻すための……私による、私のための戦いだ!」
戦斧の石突が地面に叩きつけられる。
観客の罵声をかき消すほどの気迫。
「司祭よ。無粋な遺物など無しで手合わせ願いたい」
絶対防御を持つ司祭ザイードが、初めて興味深そうに眉をピクリと動かした。
「それは無理な相談だ。こんな場所じゃあなく戦場で会いたかったな」
受付係の老人は小脇に抱えた箒でゴミを掃き寄せると、観客席に向かって厳格な声で告げた。
「これより物を投げ込んだ者は、司祭への攻撃とみなし、即刻罰金刑に処す! 心して観戦せよ!」
罰金という言葉に、ヒートアップしていた観衆が水を打ったように静まり返る。
グスタフは深く息を吸い込み、構えた戦斧に全身の力を込めた。
「……参る!」
裂帛の気合と共に、グスタフが地を蹴る。
前回と同じ、工夫も奇策もない正面からの突撃。
ただ愚直なまでに練り上げられた、渾身の一撃が振り下ろされる。
対するザイードは、フードの下でわずかに落胆の色を浮かべた。
前回と同じ呼吸、そして変わらぬ動作だった。その速度と威力には一点の曇りもない。
彼はその気迫に敬意を表し、先日と寸分違わぬ見事なタイミングで、腰の遺物に魔力を通した。
絶対防御『イージス』が発動する。
あらゆるものを拒絶する神の盾が、ザイードの前面に展開され、
大砲のような銃声が会場に轟いた。
リリアーナは静かに笑う。
彼女の立てた作戦は単純なものだった。
フィオナが動きを止めてグスタフが攻撃を当てる、ただそれだけの作戦である。
しかし、契約魔術には『術者への妨害行為は失格、および莫大な違反金』という条項がある。
だから、リリアーナは、
――――グスタフを撃たせた。
イージスの結界が攻撃を受けることなく虚しく明滅し、そして消滅する。
ほんの一瞬の効果時間が過ぎ去ったのだ。
だが目の前の脅威は去っていない。
ただ時を止めてそこに在る。
「…………なッ!」
ザイードが初めて驚愕に目を見開く。
なぜ、仲間を撃つなどという作戦を実行するに至ったのか。
それは昨晩行われた、狂気的な作戦会議にまで遡る。
◇
『……私を、撃つのですか?』
昨晩。
ウェンディ伯爵邸の客室にて。
リリアーナの提案を聞いたグスタフは、素っ頓狂な声を上げた。
『ええ。契約違反にならない唯一の方法』
リリアーナはテーブルの上に広げた契約書の写しを指でトンと叩く。
『術者への妨害は禁止。でも、味方への攻撃については何も書かれていない』
『た、たしかに挑戦者への支援や、強化付与術は許可されていますが……』
『フィオナ、時間停止の効果時間は?』
水を向けられたフィオナが、弾薬の調合をしながら淡々と答える。
『グスタフなら十秒以上は止まるだろう。私やリリアーナのように高い魔力量なら、着弾してからおよそ五秒だ』
『何かしらで任意解除は?』
『できない。私の魔力で無理やり物理法則をねじ曲げているからな。一度固定されたら、魔力が霧散するまでは、誰にも干渉できない時間となる』
フィオナは完成した銀色の弾丸を光にかざした。
リリアーナは改めて問いかける。
『ねえ……。正直なところ、どう思う?』
彼女は契約書の裏に箇条書きにされたメモを指しながら聞いた。
『いくらザイードが遺物なしの状態になるとはいえ、彼はパリィの達人なんでしょ。昔みたいに短剣で受け流したりする可能性はないのかしら』
『短剣を持っている可能性は高い。もとより私とアントンが止めたのはそれが理由だ』
フィオナは心底認めたくないといった顔で言った。
『……ただ、正直、グスタフの怪力があそこまでとは思わなかった。あれは人の腕が振るった威力じゃない。攻城兵器が突っ込んでくるようなものだ』
『攻城兵器って……すごすぎない?』
アントンもまた、静かに頷いて補足する。
『パリィとは相手の力を利用し、軌道をずらす技術。しかし、それには『武器が衝撃に耐えうること』が大前提でございます』
『つまりどういうことなんです?』
『先日のグスタフ様の一撃は見事でした。頑丈なだけの短剣であれば、破壊を狙えるやもしれません』
『仮に耐えられる限界強度に達しなかったとしても、身体ごと衝撃を逃さない限りは腕ごと持っていかれるだろう』
『いくらザイードでも、その場で受け切ることはできないでしょうな』
二人の太鼓判。
それを聞いたリリアーナは、安心してソファに背を預けた。
『なるほどね。……王国最強の騎士は伊達じゃない、か』
『やっぱおっさんの怪力は最強だな!』
珍しくみんなに褒められたグスタフは照れていた。
◇
ザイードは観客席にいる二人を認識した。
一人は大口径の銃を構え、銃口からは煙。
隣にいる女はヘラヘラと笑っている。
広げた両の手の指を一つ折り、カウントダウンをしていた。
「そういうことかよ……」
ザイードは状況を瞬時に理解した。
「ひっ……! や、やめさせろぉおお!」
受付係の老人は転がるようにフィオナの足元へ這い寄った。
プライドもかなぐり捨て、震える手でフィオナのコートの裾を掴む。
教会の稼ぎ頭を失うわけにはいかないのか、涙目で懇願する老人。
フィオナは足元にすがりつく老人を見下ろし、無言のまま手元の銃を操作する。
「死んでしまう! ザイードが死んでしまう! 頼む、あの騎士を止めてくれぇ!」
「あいにくだが、弾切れだ」
チャキリ、と乾いた金属音と共にシリンダーが振り出される。
フィオナは口の端をわずかに歪め、わざとらしいほど大げさに肩をすくめてみせた。
残り五秒。
『無粋な遺物など無しで手合わせ願いたい』
ザイードは騎士の発言を思い出していた。
「ハッ! 上等だ、王国最強の騎士」
懐から長年の相棒を取り出し、構える。
残り三秒。
「……来い。願いを叶えてやるよ」
残り、一秒。
リリアーナが最後の指を折り、拳を握り込んだ。
――ゼロ。
落雷が直撃したかのような轟音。
観客たちは思わず耳を塞ぎ、巻き起こった爆風に目を細めた。
何が起きたのか、誰にも見えなかった。
ただ、凄まじい衝撃がステージの上で弾けたことだけがわかった。
もうもうと立ち込める砂煙。
「……お、おい。どうなった?」
「あの司祭、死んだんじゃ……」
風が煙をさらう。
現れたのは、斧を振り抜いた体勢のまま固まったグスタフ。
そして、その目の前に立つザイードの姿だった。
ザイードは生きていた。
構えた短剣には、赤熱するほどの摩擦熱が生じ、微かに煙を上げている。
観客が落胆のため息を漏らそうとした、その時。
「…………見ろ」
誰かが震える声で指差した。
ザイードの足元。
試合開始前に引かれた白い石灰のライン。
ザイードの右足は、そのラインの向こう側――くっきりと地面を削り、一歩分、後退していた。
ザイードはゆっくりと自身の足元を確認する。
そして、短剣を懐にしまうと、目の前の騎士に向かって短く告げた。
「……完敗だ」
一瞬の静寂。
そして――。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」」」
会場が揺れた。
先ほどまで罵声を浴びせていた観衆が総立ちになり、割れんばかりの歓声を上げている。
彼らは見た。小細工なしの正面衝突で、あの無敵の司祭が押し負ける瞬間を。
「いぃやったぁ! やったあぁ!」
「さすが」
リリアーナは理性をかなぐり捨て、フィオナに抱きついてぴょんぴょんと飛び跳ねた。
ポッケも「すっげえ! すっげえよおっさん!」と、アントンの袖を掴んで大騒ぎしている。
アントンもまた、いつもの澄ました表情を崩し、腹を抱えて笑っていた。
歓声のシャワーを浴びるグスタフは、天を仰ぎ、深く息を吐いた。
その目尻には、光るものが浮かんでいる。
失われた誇りが、今、確かな重みを持って彼の胸に帰ってきたのだ。
そこへ、ザイードが歩み寄る。
彼は右手を差し出した。
「見事だ。これほどの衝撃を受けたのは、生まれて初めてだった」
「……感謝する。貴殿の防御もまた、鉄壁であった」
彼は遺物無しで防いだのだ。
人生をかけて磨き上げた完璧な技術で。
しかし、それを上回る王国最強の騎士団長。
ガシッ、と無骨な手同士が握り合う。
そこには勝者と敗者を超えた、戦士だけの言葉なき共感があった。




