010.商業都市リューン
「……リリアーナ殿。見えてきました。まもなく商業都市リューンです」
リリアーナの懺悔から二日。
空は分厚い鉛色の雲に覆われ、記録的な豪雨が続いていた。
太陽光の恩恵は途絶えたままで、走らせるだけで高価な魔石が消費されていく。
今のリリアーナは、チャリンチャリンという幻聴に怯える亡霊のようだった。
「……リリアーナ様。お顔をお上げください」
アントンに促され、リリアーナはよろよろと窓の外を覗き込んだ。
そして、その虚ろな瞳が見開かれる。
雨のカーテンの向こう。
荒れ狂う海の上に、その怪物は鎮座していた。
「あれが……リューン……」
それは、巨大な海上都市だった。
海面から突き出た無数の古代遺跡を土台に、鉄と石で強引に増築を繰り返した、歪で巨大な摩天楼。
雨空の下だというのに、街全体が魔導灯の光でギラギラと輝き、闇を拒絶している。
かつては聖都と呼ばれ、大陸最大の聖教会を擁した祈りの街。
だが今、その呼び名でこの街を呼ぶ者はいない。
「……あそこの教会には、奇跡の聖女がいるらしいですね」
リリアーナが遠くに霞む尖塔を見上げて言った。
「大金を積めば、首から下が消し飛んでも再生させるとか。もはや治療なんてものじゃない、神の御業よね」
「はい。ここは金さえあれば、生も死も買える街でございますから」
珍しくアントンが皮肉げに笑う。
この街にあるのは、聖女の奇跡だけではない。
王国に認可されていない遺物や、禁忌とされている呪術が並ぶ闇市場がある。
一攫千金を夢見るカジノが一日中稼働し、巨大な闘技場ではお忍びの騎士たちが素性を隠し、賞金首の傭兵と殺し合いを演じている。
光が強ければ、影も濃い。
裏通りから地下にかけて広がる歓楽街では、老若男女が理性を売り払い、誰もが夜を堪能する。
だが、危険な魔物素材を精製した違法薬物も蔓延しており、謎の昏睡事件が日々増加しているという噂もある。
あらゆる欲望が肯定され、あらゆる技術が集結し、あらゆるものが値札付きで並べられる場所。
――商業都市リューン。
「地獄の沙汰も金次第とは言うけれど……」
リリアーナは、雨に煙るその煌びやかな欲望の要塞を見つめ、乾いた笑いを漏らした。
「今の私たちにはうってつけの街じゃないの……。たっぷりと稼がせてもらわないとね」
馬車は水しぶきを上げ、海上に架かる巨大な連絡橋へと進んでいく。
魔石の残量は、あと僅か。
この街で稼がなければ、陽の光に縋る旅となる。
「……ところで。本当に表から入る、でよろしいのでしょうか」
グスタフがリリアーナに確認する。
視線の先には、雨の中にぼんやりと浮かぶ巨大な関所が見えていた。
リューンに入るには、海に繋がる大きな二本の橋を通る必要がある。
そのどちらにも厳重な検問所が設けられていた。
「商業都市リューンでは、入口で門番による徹底的な荷物検査が行われます。ありとあらゆる場所をチェックされ、持ち込み禁止物や課税対象品がないか調べ上げられます」
「隠し通せるようなものではないんですよね?」
「はい。特殊な遺物を使っておりますから、たとえ身体の中に隠していたとしても、中身が透けて見えるように発見されるようです」
アントンは古傷のある指で、自分の腹をさすった。
「……過去に、大量の魔石を飲み込んで検問を逃れようとした命知らずがいたようですな。……が、腹の中の石の数まで数えられ、しっかりと捕まって処罰されておりました」
「とんだ命知らずですね。とはいえ、海側の裏口から入るほどの余裕は今の私たちにはありません。事前に話し合ったとおり、このまま正面から行きます」
リリアーナは動力残量を見つめ、苦々しく言った。
正規ルートを避けて裏から入る場合には、海路から行く必要があり、賄賂として積荷の半分を差し出す必要がある。
もっとも、今の残量では最短距離であるこの橋を渡るしかなかった。
「……しかし、大量の月光絹を積んでいることを知られるのは、まずいといったところですな」
アントンが懸念を示す。
「はい。月光絹を狙うものを一網打尽にしたいですし、なぜ狙うのかを明らかにしたい。敵を完全に欺くまでは、絹を持っていることは伏せておきたいのです」
「……お任せください、リリアーナ様。これでも、この街には多少顔が利きます」
ここで門番に騒がれ情報が漏れれば、リリアーナの描いた作戦と戦略の前提が崩れてしまう。
そんな心配をよそに、ポッケが部屋を見回して呑気に言う。
「アントンさん。ダイヤルを変えなければ倉庫には繋がんないし、なんとかなんないの?」
この馬車の扉は、ダイヤル操作によって繋がる部屋を変えることができる。
倉庫に合わせなければ、ポッケの言うように月光絹が見つかることはないはずだ。
「ええ、大丈夫だとは思いますが……。そもそもこの馬車の中に、質の悪い門番を入れたくないというところもありましてな」
アントンは目を細めた。
この街の門番は、賄賂を要求するだけならまだ可愛いものだ。
難癖をつけて馬車を没収しようとしたり、珍しい設備を見れば勝手に触り、情報を売り払うような輩もいる。
「念には念を入れておきましょう、という話です」
「……アントンさん、これを持って門番と話をつけていただけますか」
リリアーナは王家の紋章と重みのある革袋を手渡した。
中からはジャラリと、心地よい金貨の音がする。
「馬車の中を確認しないで済むように交渉してください。……最悪、こっちは必要経費です」
アントンは恭しく一礼し、リリアーナから紋章と革袋を受け取る。
「かしこまりました。……少々、挨拶をしてまいります。どうやら本日の門番は、昔の知人のようですから」
アントンが雨の中に降り立つと、即座に武装した二名の門番が駆け寄ってきた。
操舵席からグスタフとリリアーナとポッケの三名が、恐る恐る、その様子を見守っている。
「そこで止まってくれ! 入国審査だ、中を改めさせて……って、おい」
ランタンを掲げた門番が、アントンの顔を見て目を丸くした。
「なんだ、なんだ……。まさか、やっぱり! アントンじゃねえか!」
「おや。ずいぶんと懐かしいですね。お元気でしたか」
アントンが穏やかに微笑むと、門番たちの警戒心が霧散し、代わりに畏敬と親しみの色が浮かんだ。
「旦那! まだまだ元気そうじゃあないですか! 今回はどこに? また昔みたいに教会ですか?」
「はっはっは。しかし教会には、もう二度とお世話になりたくありませんな」
「カジノか、闇市、それとも……まだ現役なんだろ?」
ニヤニヤと笑い肘でアントンを小突く門番。
どちらとも親しげな口ぶりだ。
かつてこの街で、彼がどのような「客」だったのかが窺える。
アントンは再会を祝うように、リリアーナから預かった革袋を、握手と共に自然な動作で門番の手に滑り込ませた。
「ええ、少しばかり野暮用で。……ところで、今日も今日とて、少々『やんごとない御方』が乗っておられましてな」
アントンは声を潜め、懐から王家の紋章をチラリと覗かせた。
雨に濡れた銀の輝き。
それを見た瞬間、門番たちの顔つきが切り替わった。
「また、か……。アントン、お前が羽根を伸ばせる日はいつなんだ?」
「あくまでお忍びですゆえ、騒ぎ立てず、中も改めずに通していただきたいのですが」
アントンは人差し指を一本、スッと口の前に立てた。
シーッ、という静寂の合図。
門番は握らされた革袋の重みと、紋章の威光、そして目の前の老紳士への信頼を天秤にかけ――即座に頷いた。
「――アントン殿。我々は何も見ておりませんし、何も知りたくありません」
「賢明なご判断に感謝します」
「アントン、これはお前に返しておく。酒場で会ったときにでも、一杯奢ってくれたらそれでいい」
「ええ。その場にいる全員にご馳走いたしましょう」
門番がくるりと踵を返し、奥の監視塔に向かってバッと旗を振り上げた。
合図を確認した監視塔から、重苦しい金属音が響き渡る。
ズズズズ……と地響きを立てて、巨大な鉄の門が開き始めた。
顔パス、かつノーチェック。リリアーナの心配を他所に、アントンは涼しい顔で一礼し、馬車へと戻ってきた。
グスタフが快哉を叫ぶ。
「あの強欲なリューンの門番を、言葉一つで退けるとは! いやはや、アントン殿の顔の広さには恐れ入る!」
リリアーナはぽかんと口を開け、手元に返ってきた革袋を見つめていた。
ずしりとした重み。中身は、一枚たりとも減っていない。
「……う、嘘……。タダで通れたの……?」
「ええ。昔のよしみというやつですよ」
「アントンさん、すっげー! 何者なんだよ!?」
ポッケが興奮して飛び跳ねる。
リリアーナも信じられないといった顔で詰め寄った。
「ちょっとアントンさん! 一体どんな手を使ったんです?」
「おや。リリアーナ様」
アントンは困ったように笑い、人差し指を一本、スッと口の前に立てた。
「……知らないほうがよいことも、世の中にはございます」
その微笑みは、穏やかな執事のもののようでいて、どこか底知れない夜の匂いがした。
リリアーナはゴクリと喉を鳴らし、それ以上聞くのをやめた。
とにかく、金貨が浮いたのだ。今はそれでいい。
「……さて、ここまでは順調ですな」
アントンが表情を引き締め、前方に見えてきた街の灯りを見据える。
「ええ……そうですね。この街の大物――シギントか、大司教エヴァンか。どっちかが月光絹を求めているはず」
「リリアーナ殿、まずは情報収集ですね」
「そう! それと、資金稼ぎよ!」
リリアーナは拳を握りしめ、宣言した。
「背に腹は変えられないわ。賞金首だろうがお使いだろうが、金になるならなんでもやるわよ! みんな!」
雨音を切り裂き、装甲馬車が雨の向こうへと消える。
欲望と陰謀、そして金貨の匂いが渦巻く巨大な迷宮に。




