フラワーガーデン(9)
集会
「来てたんだ」
こじつけた笑くぼを浮かべ、静香は椅子にそっと腰かけた。静香の腰と椅子の尻もちの間に小さな手を挟んだ。背筋は伸ばすことも、もたれることもなかった。宙に浮いた静香のローファーが左右交互に小さなブランコのように揺れる。
「いじけてたけん」
「そやね」
泣き止んだばかりの二人は笑った。病室は少しだけ晴れの日になった。おたがいの会話で吐かれる息に湿度が残っている。慎重に言葉を選ぶ2人のあいだに、よそよそしい静けさが現れた。
「中間考査の勉強しろよ。文化祭終わってすぐやろ?」
「英語は大丈夫です」
「数学はボロボロやろ? お前のことだから不安やけん。他人のことばっか心配して———————」
「でも」
「推薦も大丈夫やった。昨日、帝京大の監督から連絡があって、推薦のことは心配せんでいい。とにかく、いまはリハビリをのびのびとやってほしい。来年が厳しかったら、再来年でもいい。入学はいくらでも待つって」
「ホント!」
この夏、猛には帝京大学から声がかかっていた。事故でラグビーができない体になってしまい、スポーツ推薦もなくなると思っていた。静香の顔に光が差した。冷たく閉じたつぼみが、ほんの少しほころんだ。
「じゃあ、入学祝い」
静香はポケットから4色のミサンガをそっと取り出した。細い指で、そっと猛の手の甲にそれを乗せた。猛のにぎったままの震える右手は、硬直したままだった。猛は、手の甲に置かれたミサンガをじっと見つめていた。一縷の糸すら猛の手は持つことができない。
「白は健康、赤は勝利」
静香はミサンガの色の意味を、1つ1つ紡ぎはじめた。それを読み解くように、猛はミサンガの縫い目1つ1つ、色の1つ1つを追いかける。
「オレンジは希望、緑は癒し————————」
「俺が欲しいの全部やん。こうなるまえは全部あった」
切ない空気を祓うように猛は、相好を崩して腹の底から笑った。
「つけてあげる」
猛は虚弱なゲンコツをさしだした。それは微々たる動きだった。肘は曲がったままで腕をまっすぐ伸ばすこともできない。猛の手首は見るからに細くなっていた。結び目をつけて、余った糸はハサミで切った。思ったよりずいぶんな長く切り落とした。
「願いが叶うのって、ミサンガがほつれるまで?」
「そう。すぐ切れるように、できるだけ細くしたっちゃん」
「ほつれたときには歩けるようになっとるかも」
布団、壁、天井、猛の肌の白い世界は、一本の糸の赤とオレンジ、緑によって、世界が少しだけ色鮮やかに息を吹き返した。
「おじゃましまーす。キャプテン、来ました!」
にぎやかな声が病室を賑やかにした。アキトと佑太がやってきた。静香はこわばった。アキトとはお化け屋敷以来だった。また、安易な気持ちで来たことを責められるんじゃないかってさえ思った。
「静香いんじゃん! 乃愛も呼べばよかった。でも、あいつ空気読めんけん」佑太は健気に笑う。
「それくらい読めますよ。乃愛、手ぶらじゃいけないとか言ってかしこまってスイカとか買ってきますよ、きっと」
「俺、スイカ好きやけん。まだ、飲み込めんけん、ちゃんとミキサーでスムージーにしてくれんとな」
猛も笑った。首から下はびくともしない。
まだ、猛は嚥下のリハビリもできてない。鼻に、栄養をチューブで流しこむ。事故から1ヶ月あまり。猛は、3回手術を受けていた。事故直後の緊急手術、人工呼吸の気管切開、脊髄の一部を除去し、圧迫を和らげて、損傷進行を防ぐ手術。床ずれで壊死してしまった仙骨部に、健康的なお尻の皮膚を移植する手術。それに、高血圧による頭痛、尿路感染による高熱とめまい。猛は体力も食欲を失い、ずいぶん痩せこけていた。
「筑南高校のビデオ見た? ナンバーエイトの留学生」アキトがラグビーの話を切り出した。
「見たよ。えげつねえ」
「どう止める?」
トーナメントはすでに発表されている。今年も、県立筑南高校と決勝でぶつかる。筑南はダブルスコアで圧倒できる相手だったけど、今年はちがった。筑南高校にニュ―ジーランドの留学生がやって来た。身長一九〇センチのマオリ人。去年、国際交流プログラムの夏限定の留学生だった。だけど、福岡の暮らしが気に入ったとか、そこのホストファミリーの人情に触れたとか、チームメイトと絆が深まって忘れられないとかで、ふたたび、福岡にやって来た。それも、1年間の長期留学で、筑南高校ラグビー部として花園の県予選に挑むことになった。民族由来の褐色の脚は、大樹の根のようにたくましく、そのうえ、五十メートル六秒の瞬足だった。
「低いタックルやろ。スネを狙うしかない。どんなラガーマンでも、どんなスポーツをやって身体が鍛えられても、人間はスネを鍛えることはできん。スネに肩をあてて、肩と首、腕、3つの筋肉を使って倒さんと止まらん。あとは体幹。自分の軸をしっかり持って、敵の軸を捉えんと、倒れん。やっぱ、首トレと1対1のタックル練をくり返すしかない」
猛は言った。笑顔はスッと消えていた。あの夏の、筑南と福岡西高校の練習試合。県予選前のゲームビデオ。留学生は規格外だった。何度もあっさりトライを決めた。スクラムに首をうずめるたびに、塊になった人々はぐらつき、相手側の福岡西高校のフォワードたちは心を乱された。相手校のスクラムへの不安は、モールにも、ラックにも、試合のすべての接点に及んだ。福岡西は、マオリ人留学生に2人がかりでようやく互角。留学生の脚は、速すぎて輪郭すら見えない。タックルの間合いを誤れば、輪郭のない透明なキャタピラーに踏みにじられる。当たりどころが悪ければ、吹き飛ばされる。
「面白いと思う」アキトは言った。強がりなのか、本気でそう思っているのか。
「あんなのにタックルせんといかんとか、しんどいな」佑太が弱音をこぼした。
「はやく、グランドに行かないとな。みんなも頑張っとうけん、俺も頑張らんと」猛は言った。
まだ負けたくない。
声なき声が、猛の背中ににじむ。猛は、時計を見上げた。覚悟を決めたように白い唇をきっと結んだ。猛の笑っていた瞳の奥が少し力んだ。気がつくと、猛は顔をゆがめていた。赤く熱っていた顔が青ざめていく。顔に汗が滴った。首ギブスから下は、まったく汗がない。脊髄損傷で、猛の自律神経の機能も失われた。首から下は汗をかけなくなった。そのせいで体温を溜めこみやすくなり、熱が40度あっても、彼は体感できない。知らず知らすに、熱中症になる。
「25分 ———————」
「25分?」アキトはおうむ返しに訊いた。
「カラダを起こしてから、ちょうど20分経った」
「自己ベストは?」
「25分」
「そっか」アキトは固唾を呑んだ。改めて猛に尋ねた。
「何分、目指す?」
「1時間。残り35分、ふんばってみせる」
「まじ」
みんな、舌を巻いた。
———————起立性低血圧を克服する。寝たきり生活のせいで血液は、お腹と脚に溜まった。猛の血が巡らない体は、上体を起こしただけで眩暈をきたす。これまでの上体を起こして、猛の耐えた最長記録はたった25分だった。
「よし」
猛は言った。誰も言葉にしないけど、正直、不安があった。猛の体がふわりと揺れ、猛は奥歯を食いしばる。つぎのひと踏ん張りがあるかないかの世界。一瞬の緩みで転落する、きり立った連峰のてっぺんを歩いているような感覚。静香は、残り1本のミサンガを握りしめて祈った。30分経過。猛のこめかみには、汗がにじみはじめている。息が荒くなる。アキトは小さな声で言った。
「呼吸を整えろ」
30分。猛は未踏の地にいる。大きな体が傾きかけた。佑太が肩に手を添え、支える。
「離せ」猛はうめくように言った。佑太は恐る恐る、手を離した。自己ベストを更新している。けれど、上体は、客船のように転覆しそうになり、そのたびになんとか堪える。
「いける!」アキトの声にも熱がこもった。
35分。過呼吸気味になり、表情はいよいよ死人のように青ざめる。額の大粒の汗が、首ギブスをつたって、ウィンドブレーカーの首元を濡らしていく。
「先輩!」佑太も叫んだ。
猛は崩れた表情になった。静香の視界がじんわり滲む。とうとう、猛は重力に呑まれて、こときれてしまった。
「猛!」
あやういところでアキトと佑太が、猛の上半身を受け止め、首に衝撃がかからないようにゆっくり丁重に寝かしつけた。首ギブスのプラスチックが鈍く光った。金属は冷たく光った。そこに、猛の顔の汗が流れる。顔中、汗にまみれていた。
ちくしょう
その声すらはっきり言えないくらい、猛は弱りきっていた。
「すげえよ。5分更新したけん」
アキトは、猛のこわばった右手を握りしめた。猛はうわごとのように言った。
「話にならん——————————立ちたい、歩きたい、走りたい、ラグビーがしたい。みんなと、花園に行きたい」
悲痛なうめきだった。静香は、泣きそうだった。静香も、アキトも、佑太も何もできないもどかしさを、手の中に握りしめる。手のひらは湿っていた。
待って——————————
静香は、グッと堪えた。あることを心に決めた。そして、ベッドのかけ布団をはいだ。肉がそげ落ち、骨ばった猛の白い脚があらわになる。静香はローファーを脱ぎ捨て、猛のベッドに乗りこんだ。片方の猛のくるぶしを掴んで、げっそりした脚をゆっくり曲げたり、ゆっくり伸ばしたりした。1ヶ月前までは、屈強だった猛の肉体。その片脚ですら、太く、堅く、重かった。いまでは、静香の小さな手でもたやすく持ちあがるほどひ弱になっていた。
「なんしとうと?」アキトが静香の肩を掴んだ。静香は、毅然と言った。
「身体を動かせば、血流が良くなります。もしかして———————」
静香は一片の迷いもなく、ストレッチをくり返した。脚を立てて、伸ばす。曲げては伸ばし、曲げては伸ばす。何度も、静かにゆっくりと、カテーテールのチューブを乱さないように慎重に。着実で必死に。静香の額に、汗が滲む。死んだように澱んでいた病室に、活気が返ってくる。
猛の瞳に、かすかな光が差しはじめた。蒼白だった顔に、ほんのわずかな血の気が戻りはじめた。呼吸が、浅く、絶え間ないものから、深く、落ち着いたものになっていく。精彩がゆっくりと、猛の目に宿りはじめた。
「———————もう一度」
佑太がリモコンを握った。ベッドの電動リクライニングが、ゆっくりと唸り声をあげる。ベッドが持ち上がり、猛の上半身がゆっくり起き上がる。首のギブスが、静かに軋んだ。猛は、呼吸を整え、心を研ぎ澄ます。
チャレンジから、35分が経っていた。それを、再開した。
40分、45分、50分。秒針を刻む音がやけに大きく聞こえ、みんなの心臓の鼓動を刻む。静香は、祈るようにミサンガを握った。おしゃべりな佑太はじっと猛の表情を注意深く見守め、少しでも異変があれば、すぐに寄り添えるように身構え、それでいて言葉少なに声援を送った。
いけいけ、頑張れ、先輩、猛さん、ファイト、いける、いけます
残り10分。血圧が落ちはじめ、呼吸が荒くなる。目の焦点が、合わなくなっていく。顔色は蒼白だった。体温を感じることさえできない身体。ただ、意志だけで、歯を食いしばる。猛は、白く渇いた唇を震わせながら、うめいた。
「もう一度、花園に———————ボールよこせ」
1秒、1秒が、死ぬほど長かった。猛が求めた通り、アキトは病室の隅っこにあったラグビーボールを持って曲がったままの猛の右腕と、肋骨のあいだに挟んだ。麻痺に冒された拳は、依然握られたまま、ボールを掴むことすらできない。1ヶ月前までは片手で難なく、それを持つことができた。
「あと3分!」
アキトが叫んだ。猛の大きな身体が、貨物船のように横転しはじめた。こわばった右手が、異様なほど震えはじめた。もう、限界にまで行き着いた。限界の中で、ラグビーをしてきたときの感覚がよみがえってきたのか、猛の崩れた表情の目が大きく開いた。
「残り30秒!」
ラグビーボールはこぼれ落ちた。猛から、じょうろのような、細い水の流れる音がした。よく見たら、猛の腰まわりが濡れて、ズボンからベッドのシーツへ染みわたる。猛は虚な表情で、目はすわったままだった。猛の局部につなげていたカテーテルが外れていた。
「5、4、3、2、1」
ゼロを叫ぶ直前で、猛はくずれ落ちた。ラグビーボールが床の上を転がる。
「猛! 」
みんな駆けよって、崩れかけた猛を支えた。病室の入り口から、怒号のような悲鳴とも、悲鳴のような怒号ともとれない、叫びが聞こえた。猛の母だった。
「何してるの!」
********
天神で、地下鉄から西鉄電車に乗り換えた。アキトと同じ電車だった。地下鉄西新駅で佑太が降りたあと、車内に残された2人の会話は、浮かんでは消え、現れてはたち消えた。
静香が「二日市」と告げたとき、アキトも「特急で久留米」と言った。静香が「遠いですね。通うの辛くないですか?」と言うと、アキトは相槌を打つ。それで、この会話は終わる。
けれど、もどかしく思ったり、必死に会話の種を見つけ、漂う沈黙に埋めようとするような無理な気遣いはなかった。憧れていた人と一緒にいてときめく心もなかった。それに、緊張もない。それより、さっきの猛のママの叫びが、脳裏に残って心が軋む。
「いけないことしましたか?」
静香はしょんぼりして呟いた。
———————なんでそんなことしたの。無理して、猛の首がもっと痛んだらどするの? なんでベッドを汚すような無茶をしたの? このあとの掃除とか、着替えとか、お風呂とか、誰がすると思ってるの?
病床から猛が、か弱い声で訴えた。意識混濁のなか、必死に言葉を紡ぐ。
そんな責めんで———————みんなのおかげで、さっき1時間耐えたっちゃん。シャワーとか、オムツ交換が嫌なら、看護師さんに頼むけん。なんなら、もう交換なんてしなくていい。一生、取り替えんでいい。どうせ、下半身の感覚ないけん。どっちみち、おしっこ漏らしたオムツなんて、どうでもいい!
「仕方ない。俺たちだって悪い。それに、猛の母ちゃん、すごく疲れとうけん。ただでさえ、事故に遭って、子供が歩けんくなって辛いのに」
「——————ですよね」
その時、ドアがしまった。特急はのっそりプラットフォームをすべり出した。プラットフォームから、走り出してターミナルの線路の分岐にさしかかり、電車が揺れた。静香は立ちくらみ、アキトの胸もとによりかかった。静香の頬が熱を帯び、一瞬、どぎまぎした。だけど、いまだ、心にわだかまっている猛ママの叫びの残響が、いま、アキトと一緒にいる感動をプラマイゼロにした。
「俺は、静香のこと優しいなって思ってる。それは、猛だって一緒やけん。1時間、身体を起こしてられるって快挙やん。猛、めっちゃうれしがっとったよ。やけん、また来てくれん? 不安なら、一緒に行こ。あの夏までチームを引っぱっていかんかったのに、いまじゃ、ひとり闘っとるけん。猛の母さんだって、毎日闘ってる。やけん、今日言われたこと、引きずらんどき」
ヤングラガーズのときから、猛ママは知っている。物静かで優しい人だった。暑い季節になると、レモンの砂糖漬けを振る舞ってくれた。そのレモンが好きだった。だからこそ、悲しみと怒りがないまぜになった叫びは、静香の心を締めつけた。
「大丈夫です。ああいうの、慣れてて免疫あるんで」静香は少し嘘をついた。嘘というよりこじつけかもしれない。
「そーなん?」
「うちのママも、パパの世話をしてました。うちのお父さん、末期の白血病だったんで。最後らへんは、トイレ行けないくらい弱ってしまって———————ママ、すごいやつれちゃって、ときどき、うちに当たることもありましたからこういうの慣れてます」
「そうなん——————— やけん、脚のストレッチ知とったと?」
「寝たきりになると、血が、脚とお腹に溜まるんです。手脚を大きく動かすと血流がよくなります。猛さんももしかしたら、身体を大きく動かせば、血圧をコントロールできるかも」
「父ちゃんいないの?」
「はい———————」
「仲間やん」アキトは笑った。意外だった。
「そうなんですか」
もっと知りたかったけど、ちょうど、「二日市」と車内アナウンスは呼びかけた。天神から二日市まで、あっという間だった。仕方なく、ごくんと呑み下した。
「猛、さびしいけん、たくさん人と会って話さんといかん。なのにさ—————文化祭のときはマジすまん。静香の涙をずっと、うわっつらとしか思っとらんかった。渋い。マジで」
「大丈夫です」
「猛も強い。やけん、俺たちも命がけで頑張らんとな。俺たちのまえで、決して涙を見せん。弱音も吐かん」
「———————ですね」
猛さんの涙を知っている。今日、たまたま見かけた。アキトたちが来る前に、猛は泣いていた。ミサンガのことを思い出した。ポッケのなかで糸くず同然に、スカートの裏生地と同化していた。さっきの猛のリハビリを、このミサンガを握って応援していた。それをアキトに手渡した。
「アキトさん、これ」
「猛と、おなじやつやん」彼は、ミサンガの色合いをじっと見ていた。
「たくさん、作ったんで」
「お守りやん」純粋にうれしそうにアキトは、左手首にそれを結んだ。
「猛と一つになったみたい。どんな奴にもタックルできそう」
「バシバシ、タックルしてください」
いつの間にか、西鉄二日市駅にすべりこんでいて、列車にブレーキがかかった。扉がおもいっきり開いた。静香は、会話に夢中だったせいで、ふっと浮いたような慣性の法則さえも感じなかった。アキトは確かな口調で言った。それが、頼もしかった。
「猛を花園に連れていく」
「がんばってください」
そう言って、静香は降りた。その背中に、アキトの声が飛んできた。
「静香もしねえの?」
静香はふりかえって、改札階へ降りる階段へ向かう雑踏のなか、ガッツをみせた。その手首には、ちゃっかし同じ柄のミサンガがくくられていた。アキトは微笑んだ。あんな表情もするんだと思った。
「あと」車内からアキトが、もう一度叫んだ。「静香も、連れて行く」
「?」
「花園」
発車メロディーが響いた。ドアは閉まって、電車は滑りだした。お世辞なのか、うちの空耳なのか。アキトは、車窓から左こぶしを示した。ミサンガがくくられていた。そのまま、南へ向かって小さくなっていく。
たまたま、できたミサンガが4つ。だけど、誰に渡すのか考えているうちに、1つの同盟ができた。ゴンに託すなんて、思いきったキャスティングだ。ひょっとすると、ただの自己満足かもしれない。でも、あのとき、猛はゴンに涙を流していた。二人のあいだには絆がある。それがゴンを呼び戻す。いま、私たちが立っているのは、壊れてしまった世界。でも、きっと修復できる。それは、希望と呼ぶには脆く、不確かな観測。それでも、一段でもいい。たった、一歩でもいい。立ち尽くすだけでは、この世界は壊れたまま、朽ちてゆく。そして、喪失は永遠に確定してしまうだろう。だから、歩き出さないと。
改札を出た。昼間の名残があるアスファルトには、熱がじんわり残っていた。その上を、ひとすじの柔らかくて涼しい風が吹く。秋涼の風はしっとりして、肌にあたるたびに、夏が遠のいたように感じる。どこかの草木の葉っぱのそよぎと虫の声が、夜風に乗ってやってくる。さっきまで、肩に力を入れることなく、アキトと自然体でしゃべれた。
今日の出来事、猛の表情、突き刺さった猛の母さんの言葉。白髪まじりの女性の落ちくぼんだ眼差し。それぞれ、1つ1つ、アキトと確かめ合って、それにどんな感情が湧いたのか、教え合い、ぽつりぽつりと、交互に言葉を重ね、たがいの心に落とし込む。それで、気持ちが少し楽になった。その時のときめきが時間差でやってきた。時間差で、心臓が高鳴った。夜風っていいな。
そう思えたとき、ムードをぶち壊すようにスマホが鳴った。乃愛からの通話だ。スマホをポッケから取りだしたとき、闇の中の懐中電灯のように眩しかった。これから、YOASOBIかKing Gnuを聴きながら、夜風を背に受け、スキップしたいと思っていた。
「ティックトック見て」乃愛は、興奮気味だった。
「いま、サイコーな気持ちやけん、一人で夜道を歩きたい」
「いいけん」
いつもなら、サイコーの言葉にくいつき、なにがあったの?って、最後まで食いつき、問いつめるはずなのに。
「駅で叫ぶ人とか、へんな動画やないよね」
乃愛はやたらとシュールで、変な動画が好きで、それをうちに送りつける、変な動画送りつけハラスメントの常習だ。
「うちの推理あたっとった」
「どゆこと?」
「極東の動画がバズっとう」
#格式高い極東の教育
40秒動画。見おぼえのあった光景。照明のない陰影、ステージの幕のたゆみ、磨かれたステージの床。極東高校体育館のステージ。金髪男のうめき声、怒鳴りつける男の声。森シン先輩のライブが中止された時の、断片的な記憶と重なって、鼓動は、あのときの心臓のテンポに引き戻される。
『やば——————————』
低く押し殺された声は、聞き慣れていた。たぶん3年のいのっち先輩だ。森シンさんの顔は、モザイクで伏せられていた。
*********
日曜はそうでもなかった。だけど、翌日、文化祭の振替休日の月曜のあいだに、一気にS N Sで拡散した。ヤフーニュースにも上がった。週明け、火曜の朝は、誰がやったのかでもちきりだった。午前の文化祭の後片付けのときも、その話題でひっきりなしだった。1年生のあの人とか、バスケ部とか、文化祭に遊びに来ていた在校生の弟とか、どれも噂の域を出なかった。その日の夜、全国放送であの暴力を報じられた。
文化祭事件から4日後。火曜朝の正門には、登下校で校門に、大人たちが詰めかけていた。1限から3限は文化祭の片付け。4限に、緊急の全校集会があった。固唾を飲んだコクリという乾いた音さえ、こっちまで響いた。
「まず、はじめに、いま、世間で本校のことが騒動になっています。この件について、生徒のみなさんに、不安な思いをさせてしまいました。教職員を代表して、皆さんにお詫びしたいと思います」
長い。要点のない謝罪と、概念を並べた改善案。
「この1年、生徒と教師のあいだにすれ違いがあったことは否めません。その溝を埋め、生徒たちが、安心して勉強できる環境を取り戻していくことが、我々の責務だと考えています。先生たちは、生徒との相互理解をとり戻し、生徒が自分たちの考えや、気持ちを先生たちに言える環境を作っていきます。頭髪指導については、理髪店と連携していくつもりです」
教頭が集会を終わりにしようとしたとき、ひとりの男子生徒が立ち上がった。
「どうして、こんなことが起こったんですか!」体育館じゅうが凍りつく。校長はマイク越しに口ごもった。
「さっきも説明しました。生徒の校則違反。その指導、流出。不慮なことが、偶然にも重なったことが———————」
「違います! 」
男子生徒の地声の方が、校長のそれよりくっきりしていた。「すれ違いは、今年だけの話じゃありません! 自分が入学したときから、教師は生徒のことを分かろうとしなかった。生徒は、教師に不信感を持っていた! まるで、この学校は、刑務所のように、生徒を校則で縛りつけてきた!」
講堂がざわいた。生徒会長のゲンジだった。腹の底から声を出した。
「ながい間、積み重なった相互不信が、あの傷害事件を起こした!」
拍手がまばらに起こった。それは、ささやかな程度だったが、この場にいる大多数の賛同の空気のようなものがゲンジの声に宿され、だんだん芯の通ったものになっていく。
「———————いいこと言うやん」
乃愛が、静香に耳打ちしてきた。拍手がパンデミックのように駆けめぐった。校長の顔が、みるみる青ざめていく。
「生徒のことを理解してなかった。あの動画が出まわるまで、私を退学に追いこもうとしてた! その事実を「理解」とか「信頼」とか、御託を並べて誤魔化している!」
「そうだ!」どこからか、野次が飛んだ。
「1年からすみやかに退場してください」教頭たちは、慌てて幕引きをはかった。
「俺たちのことを『憎悪をあおっている』と言った。俺らは、この現状に声をあげているだけです!」
数人の教員が駆け寄って、ゲンジを押さえつけられた。それでも、ゲンジは声を上げつづけた。それを横目に、1年生が困惑した様子で通り過ぎていく。




