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フラワーガーデン(8)


傷痍兵

 



 猛は高3になって主将になり、俺はレギュラーになれなかった。猛は、愚直に積みかさね、成果を残してきた。俺はドロップアウトした。


 『俺のこと忘れた?』

 『お前と話がしたい』


 僕は白旗をあげた。会いたくい訳ではない。彼を直視できないと思った。どうふるまえばいい。僕は、その時の僕のアドリブから滲みでる人間性を試されているのか。


 白い病室の天井を見あげる猛を思い描く。だけど、頭の中で思い描く猛に、なんて声をかければいい。毎日、首の皮がすりむけるほどのスクラムに筋トレ、肉体強化のトレーニングを怠らなかった。ミルクに溶かしたプレテインを飲み干して、毎食一合半の白米を平らげる。そんな極限にまで身体を鍛え抜いていた人間に強いられた突然の寝たきり生活。あまりに残酷な運命。



『どこなん?』


 ラインで、僕は端的な言葉を打った。言葉選びすら、まどろっこしく感じた。天神から地下鉄を乗りつぎ、玄界灘に面する糸島のリハビリセンター。移動中、第一声の言葉を用意しようとした。だけど一生かけても、らちがあかない。心の整理ができないまま、リハビリセンターに近づく。もうアドリブで行くしかないと思った。西鉄バスは、鉛色の空と白濁した海のかすんだ海岸線をひた走る。風景はどこまでも遠ざかるばかりだ。




 挿絵(By みてみん)





 リハビリセンターは、病棟だけではなく、グランド、体育館、テニスコート、研究所、理学療法士や装具士の養成所まであった。先進的であるが、どこまでも潔癖で閉鎖的で、潮騒のきこえる孤島の光景は、訪れる者に遠くへ来たことを思い起こさせる。


「面会なんですけど」


 事務室の人に話しかけた。手なれた事務員は『ソファーにおかけください』と言った。


「友だち?」


 禍福のいい看護師は、バインダーに挟んだ名簿をさしだした。


「そんなもんです」僕は名前を書きなぐった。名簿の過去の日付に知った名前があった。アキト、佑太、それに静香。


「あなたもラグビーやってるの?」

「やってませんけど、小学校からの仲です」

「猛くん、人望あるよね。お見舞いにくる子があとを絶たんとよ」


 車いすや杖をついたり、歩行器にはいつくばって歩く患者は、腰を痛めた年寄りばかりだった。終末の老人たちと同列に、猛は飼われている。心が締めつけられた。


 3階の病室への道のりで、看護師はひらけた部屋を見せてくれた。両脇の手すりにすがって歩く青年を見て、リハビリ部屋であることに気づいた。若い女性はすみっこでエアバイクを漕ぐ。僕と同じくらいの男は、天井から吊るした補助ロープを腰のギブスで留め、低速のランシングマシンを歩行ロボットのように危うげに歩く。


「終わったら、そのまま帰っていいから」


 看護師は立ち去った。『一緒にいてください』とは言えなかった。口のなかは干あがって唾をのんでも、舌は渇いたまま口の中にへばりつく。僕は腹をくくった。息を止めて、猛の部屋の扉を開いた。


 窓から重いくもり空に濾された透明な日ざしが差していた。奥に大きなベッドがある。彼はベッドのリクライニングで、巨躯が上体をおこし、僕を待ちかまえていた。カンタベリーの青いウィンドブレーカーは白い光沢をたたえる。言葉を交わさずとも、僕に対し『ラグビー』を遠まわしに主張する。




挿絵(By みてみん)





「ゴン」


 猛の髪は刈られて、白いネットかぶって、右側面にガーゼがおさえつけられている。猛の首は、プラスチックと金属が入り組んだ小さな要塞のようなギブスで厳重に固定されていた。猛の呼吸ひとつ、眼球の動きひとつさえ、かすかに金具が軋んだ音を立てた。ベッドの脇に、透明の袋がつるされ、黄色い緑茶みたいな液がたまっていた。だけど、それ以上に、猛が見違えるほど痩せこけていたことが戦慄だった。


「流動食ダイエットの成果やね。これはオシッコ」


 猛がそっけなく明かす。言葉を失った僕を気遣うようにして、猛は笑ってみせた。笑顔であると同時に、切腹をむかえるかのような潔い顔つきだった。


 「バリ、大変やけん。小便出せんからナースにお願いして、チューブを突っこんでさ、めちゃくちゃ痛いと思うけど、感覚なくて、そこが救いっちゃん」


 猛の身体は仏像のように動じなかった。首から下は、猛という存在から切り離された別物のようだった。脚は、残酷なほど細くなっていた。たった一ヶ月ちょっと。僕は、目を伏せた。


「お前さ、女装してこいよ。めっちゃ楽しみにしとったのに」

「女装?」

「忘れた? 中1の約束」

「覚えてない」

「ヤングラガーズの合宿で、安全なラグビーの教育ビデオ観たやん。危険なプレーをアニメーションで紹介するやつ」


「あったな」僕はうなずいた。

「大学ラグビーの例とか解説しとった。逆ヘッドで、相手の膝うちをモロにくらって、それから、後遺症で、下半身が動かなくなったってナレーターが言とったけどさ——————ゴンと『えげつな』って話した。俺にも、災難が降りかかるわけっちゃけど」


 僕は一ミリも笑えず、唇を横に、物理的に引きのばすだけで、いっぱいいっぱいだった。


 「覚えてる? そのときの約束」


 猛は笑顔だった。僕の心は答えが出る前に、後退していた。


 「もし、どっちかケガして、入院することになったら、どっちかがセーラームーンの格好して、お見舞いをするって」

 「よく覚えてるな——————」


 僕は言った。渇いた喉から、なけなしの何かを絞りだすように。


「僕なんか、もう眼中にないと思っていた。猛にとって、ラグビーをやめた僕に価値なんてないだろから、ただ遠くからお前を見てた。これからも、お前はずっとプロを目指して、突っ走ってほしいって思ってた」

 「俺の記憶、舐めんな」猛の声はブレなかった。

 「僕は逃げた」僕はそっと、窓際の椅子に座った。金属の脚が床をこすって、小さな音を立てた。肩に太陽の光が当たった。曇りのせいか、光に温度はなかった。


「ゴンは戦友やけん」

「戦友じゃない。戦友はアキト。僕はいまさら、のこのこ、お前に会いに来た」

「ラインの返信、バリ遅いやん」

「お前のことを何も思っていたわけじゃない。夢にまでお前が出てきた」


 猛は豪傑に笑った。僕は、熱くなった。


「夢の中で、俺たち小学生にタイムスリップしとった。小6の新人大会のダメ試合のあと。覚えとう? 猛が駐車場で『俺も殴ってください』ってアイツにせまった。あいつは、相変わらず毒親。ラグビーを辞めた僕に、無関心になったしな」


「ゴン ——————」猛はいさめた。

「俺はラグビーが好きだ。ラグビーをはじめたことに後悔はない」


 まっすぐ響いた。僕の心がざわついた。しだいにそれが、負い目だと気づいたとき、心は締めつけられるように感じた。僕はラグビーを捨てた。「誇り」を喪失した。猛はラグビーによって、再起不能の障害を負った。でも、「誇り」を失っていない。


 僕のセーラー服姿を、想像してしまったのか、猛はどっしり笑った。色黒だった猛は、寝たきりの生活のせいで脚も細まり、お腹はだらしなく丸くなっていて、素肌は白く、病室の白い空間の中で、同化するかのように、顔の輪郭もぼやけていた。つねに、右手は軽くにぎりしめ、うっすら拳を作って、胸もとに添えられている。残された微細な力が、最後の灯のようにそこに宿っている。その手首はどうしようもないほど、貧弱で細く、震えていた。左腕は、微動だにせず、指先まで力がそげ落ち、意志も感覚も通じない、遠い場所にあるマネキンの腕の片割れのように、膝の上に投げ出されている。両足を失った傷痍軍人とまみえるような、不条理なもどかしさを感じる。でも、その壊れた兵士は、愛国心を失っていない。僕は、やるせなさを覚えた。



「一生のお願いある。もう一度、ラグビーやってくれ——————」


 こう言われることはわかっていた。覚悟していたはずの言葉。ずっと、いままで身構えていたはずの言葉。だけど、いざ、目の前にするとどこまでも響き、僕の心の内側をえぐる。自分という存在が、バラバラに離散する。


 僕がラグビーを辞めてからたがいが口を利かなくなって、ずいぶん長い。ながい沈黙が、彼と自分を、まったくの他人にさせたはずだった。一年の夏、猛はレギュラーを掴んだ。まだ、掴めなかった僕は、『追いついてやる』って大見得をきった。健全な心があった。そう挑んでから1年経ち、いつしか挑戦状は虚言となって意識の隅においやり、僕は音を立てず、去っていた。


「ラグビー部に戻れと?」

「そう」

「お前のために?」

「ゴンのためでもある」


 イエスかノー。膝においた拳を、爪がくいこむほど、グッと握りしめた。

 

「なんで、お前なんだよって思う。猛がバチあたりなことをしたのかって。ラグビーを愛してたはずなのに、ラグビーからは愛されなかったのかって」


 僕の握りしめる拳に、太い血管のすじが浮かぶ。大仏のようにかまえる猛は、僕の身の上にいばらの道を課してくる。


「かわいそうは要らん。俺が欲しいのは友情たい」


 僕は裁かれている。禁じえない気持ちが、喉まで込みあがって、僕はぐっと唾をのみこむ。覚悟を決めた。いつの間にか、舌の上に唾がよみがえっている。


「僕は、虎衛門のお眼鏡にかなわなかった」

「あの人はバリやさしいけん。俺が『一生車いす』って宣告されたとき、あの鬼が涙を流しているのをしっとう? 俺の父親が、虎衛門の背中をさすってさ、『あんたは悪くない』って言われたとき、涙をながした。『すまない。本当にすまない』って。信じれる? あの人は鬼かもしれん。ちゃけど、男泣きをしとった」


 猛は、すべてを許そうとしている。仏のようだ。瞼はわずかに腫れぼったく、一重の眼差しは、いつもどこか眠たげだった。眉毛は薄く、表情の起伏は乏しい。けれど、猛の人柄なのか、顔つきはいつも、不思議とやさしく映っている。それで、100人超の部員を引っ張ってきた。圧倒的な体格で、セットプレーの最前線に立ち、日々のフィジカルトレーニングを一日たりとも怠らなかった。自然と、部員は猛の背中についていった。首は柱のように太く、肩は壁のように張っていた。いまは、変わり果ててしまったけど、その精神的な器はなに一つ変わっていない。病室は和やかで、僕は、それに包まれつつある。猛は、僕を見ている。


 僕は腹が立った。


 この期に及んで、なぜ、そんな顔ができるのか。

 なぜ、そこまで許せるのか。


「中年の男が泣いて、状況が変わるか」


 僕は突き放すように言った。解析出来ない感情がせり上がり、とにかく喉が熱くなった。


「あの事故、防げたんじゃないのか?」

「どういう意味?」

「夏合宿でずっと走らされ、いっぱい試合を組まされて、お前は疲弊してた。逆ヘッドになったのも、無茶なハードスケジュールを組まされて、疲労がたまって、うまくタックルできなかったんじゃ」


 自分の声が、少しだけ高くなっている。病室の静けさに合わせるつもりはなかった。


「そういうもんやろ。とことん、走りこんで限界突破して、帰りのバスで『家に帰ったら、一日寝る』って笑うときには、タフに生まれ変わっとう」


 猛の右手が揺れた。だけど、かたく握られることはない。うっすら拳が作られるだけ。猛の握力は失われていた。彼は右腕を上げられない。自分で自分の涙を拭うこともできない。膝に添えられた左手は全く動かない。おたがい黙った。やさしい沈黙ではなかった。病室は、密閉された水槽だった。逃げ場も、よりどころもない沈黙の中で、猛の言葉が浸水してくる。僕の身体の内部でじわじわと満たされていく。僕は静かに溺れていく。


「思い出せ。小学校のとき、ゴンが日本代表になって、俺がニュージーランド代表になってワールドカップで会おうって」

「すまん。もう俺は、ラグビーをやらん。決別した」


 持っていかれそうな気持ちを理性でぐっと封じこめて、かろうじて言った。二人のあいだを、対岸がかすむ大河がへだてる。


「ゴンは、神を信じる?」

「お前は、そんなキャラやない。ラグビーを愛し、自分で努力して、自分でレギュラーを勝ち取って、結果を残してきた。神とか不要だろ」

「ラグビーを愛してるのは、ゴンやん」

「ちがう。俺は奴隷やった! あのラグビーしか脳みそがねえ、脳筋毒親の自己満足のためだけのオモチャだった。俺は、自力でラグビーの呪縛から解き放たれた! やけん、ラグビー抜きで生きていく。そう決めた!」

「ちがう! ゴンが一番愛しとった! 俺よりも! 」


「だまれ! 貴様は、自分の事故を『名誉の負傷』としか思ってない。キレイな言葉で丸めこんで、美談みたいに塗り替えとう! 自分がどんな目にあっとうのか直視しようとしてない」

「知ったような口をきくな! 俺はこの1ヶ月間、どれだけ地獄を味わっとうかしっとうとや! いい歳して、ひとりでトイレもできん。赤ちゃんみたいに、母さんとか、看護師さんにお尻を拭いてもらって、毎日毎日、辱めを受けている。人工呼吸器つながれて、毎日、喉は腫れたように痛い。いつも、毎日、3人がかりで看護師に体位変換してもらっとうのに、それでも床ずれを起こして、腰の付け根がただれとう! それで、皮膚移植の手術もせんといかん。俺は毎日、ずっとこのベッドから天井を見とった。いま、ここで紙をくれれば、この天井の染みとか黒い点も、影もカタチも目をつぶっても描ける!」


 猛は決壊したように号泣した。くもり空にこされた白い日光に照らされた猛の肌は、洗いざらしのシーツのように白かった。日焼けで黒かった猛の肌は、グラウンドから隔離されたせいで、無残に真っ白になっていた。俺とおなじ色。かつて、まっ黒に日焼けして、小学のラグビークラブのキャプテン、バイスキャプテンであり、フォワードとバックスのバッテリーは5年後、たがいに白くなって再会する。悪夢だ。最大の皮肉だ。ラグビーは呪われたスポーツだ。


「あのとき、あの試合にでなければ——————」


 猛は泣きながら震えた。


「あのペナルティのとき、あとずさりしてたら。いっそのこと、合宿をサボっとけば、こうはならんかった。でもさ、そればかりひきずって、気持ちまでそうなったら、俺は、本当に障がい者になってしまうけん」


 日に焼かれず、俺も猛も、脱色された。灼けた黒い肌も、夢も希望も、晴れの日のグラウンドを駆けた色鮮やかなヤングラガーズの思い出も、この無機質な白い病棟の壁のように、かたっぱしから脱色した。神とか運命とやらは、存在しないのか。目と鼻の奥が痛くなった。


「お前は、強いと思う」

「ゴンも強くなれって」


 ひっしゃげた心の悲鳴が伝わる。病室にしばらく沈黙がつづいた。さっきから、この部屋でいろんな沈黙がめまぐるしくやってくる。優しい沈黙、のしかかってくる沈黙、溺れそうな沈黙。そして、空虚な沈黙。今、俺と猛を隔てるながい沈黙。放っておくとまたラグビーをやる雰囲気に持っていかれる。無言の空気で、俺はラグビーを強要される。俺は話題を変えることにした。沈黙を破って、自分の息を整えるために。


「文化祭は?」

「行きたかったけど、リハビリが間にあわなかった」

「アキトとかに、車いす押してもらえ」

「そうすればよかった。でも、車いすも厳しいっちゃん。母さん、倒れたし」

「なんで?」

「過労やね」


 燦然としていた猛の表情に影がかかった。「毎晩、ずっと思いつめるたびに泣いとった。やっと落ち着いたのはここ最近かな。ここ1か月、病院に寝泊まりして、俺の看病してたからさ。今日は、息ぬきに教習うけている」

「教習?」

「車の免許取るんよ。俺が車いす生活はじめるから、俺をどこでも連れていけるために。パートばっかやってて、車の運転とかそういうの疎かったのにな」


 ジュニアクラブ時代、猛の母は、母親たちの輪のなかの片隅に、ちょこんと立っているだけの静かな人だった。よく、熱中症対策で、レモンの輪切りの砂糖漬けを、タッパーに入れて持ってきてくれた。それが、好きだった。スター選手だと言うのにずっと、陰ながらプレーを見守るような慎ましい人。猛の父は、トラック運転手で怪物のように大きかった。いまの猛くらいの背丈。月に一度だけ、着古したジャージ姿で練習に顔をだして、いつもタックルバッグをもって、小さなラガーマンのタックル台になった。天才だった俺を鼻にかけて、親カーストのてっぺんでいばり散らす、わが家の毒親とはちがう。猛の父母は、ラグビーが弱い子やその親にもわけへだてなく接していた。



「この動画見てみ。文化祭のときの」

 

 ひきずる音を立てて、俺は椅子をベッドに引き寄せた。俺はポケットから手あかだらけのスマホをとりだした。光の乏しい暗い室内の動画。スマホの明るさを最大にしても、病室の白い明かりが、俺のスマホの曇った画面を照りかえし、いっそう映像の闇を濃くした。


 体育館のステージの舞台袖。ホコリの漂う闇の中で、男たちの背中が不規則にうごめいている。スマホ撮影している人の潜めた呼吸の音。唾を呑み下す音。カメラのブレ。フォーカスは定まらず、覗き見のような低い画角のフレームはぐらつく。むしろ、それが真実味を持っていた。隠し撮りされた動画だとすぐわかる。


 男たちが、金髪の男の子を押さえつけている。男たちの複数の足影の隙間で、金髪の光が微妙にきらめく。金髪男は、白髪染めの黒いヘアスプレーをかけられている。スプレーの音はほんの微かなのに、化学的なスプレーのにおいを錯覚してしまう。金は、黒に染まっていく。金髪の光が、黒く塗りつぶされ、闇色に溶け、一緒くたになって消える。生乾きのしめった塗料がほのかに照りかえす。


「自分のやっとることが、わかっとうとや? 極東の教育を乱しとうんやぞ」


 三好の声がした。動画は、はじめて人の声、叫びを拾った。 


 そして——————暴発が起きた。


 「やめろ!」


 押さえつけられた森シンが、強く身をねじって暴れだした。反射的な動き。その一瞬で、スプレーが弾き飛ばされた。黒い飛沫が、三好の突きでた腹にかかった。白地のポロシャツが黒い塗料で汚れた。数秒、空気が止まった。異様に長かった。


 カメラは、顔を映していない。鮮明に、人相を捉えるには暗すぎて、カメラの性能が追いつかない。だけど、闇の密度を歪める怒気と殺気は手にとるように分かる。


 三好は近くにいた若い教師の手から、バリカンを乱暴につかみ取った。刃は、すでに回っていた。そのまま、森シンのこめかみに当てる。黒く染まったばかりの髪に、バリカンの歯が、髪の毛に食いこんだ。ガリ、という不快な振動。髪も、染料も根こそぎ呑み込むバリカンの音が、スマホのスピーカーを震わせる。スマホそのものがバリカンであるかのように。刈られた髪は、スプレーの湿り気を帯びていたせいで、漂うこともなく、ただ、重力にひかれてポツポツと床に落ちた。


 その瞬間だった。森シンが教員の腕をふり払った。ためらいはなかった。振りかぶった拳は、余白のある三好の顔に沈んだ。音は聞こえない。巨漢が崩れ落ちる音が響く。森シンの頭は、インクの黒と染め残しの金色、青い地肌の三つどもえに入りくむ。すぐに、数人の教師たちが取り押さえた。三好はうずくまっていた。


「やめろ!」

「何しとうとや!」


 映像が乱れる。渾身の一打で燃えつきたのか、自分の行為に狼狽えたのか、そのあとの森シンは従順だった。動画は最後、舞台袖の奥へ連行されていく森シンの背中をとらえる。ステージには、髪が残っていた。黒く湿って、くっついた髪の毛の小さな塊が散乱する。


 動画は、それで終わった。バリカンの残響が、無色無音の病室に漂う。猛はいささかも笑わなかった。


「俺が撮った。ステージの幕と幕のあいだに、ずっと潜んだ」


 明るい話のつもりだった。自慢するつもりだった。


「なにが言いたい?」猛の薄い眉がわずかに震えていた。表情の奥で、いろんな感情が、いろんな振れ幅で揺れる。


「この学校は腐ってる」


 俺は、こそばゆい笑いをかぶせるのをやめた。


「この学校の教師も生徒も、お前のことをどうも思ってない。始業式の日、校長がおまえの話をしても、1時間足らずで、教師は、校則違反の生徒にわめき散らす」


「そんなのどうでもいい」猛の叫びは、命令というより祈りに近くなった。

「大切なのは、ゴンがラグビーをするかしないかやけん!」

「ラグビーで酷い事故に遭った奴に言われても、やろうと思わん」

「俺はラグビーを愛してる。お前だって!」

「お前には仲間がたくさんおるやろ。俺なんかよりお前のためにラグビーをしてくれる仲間が」


 男泣き———などという言葉では括れない、むきだしの咆哮。獣のうめき。肩が上下し、鼻水がかぶさった猛の泣き顔。


 猛の涙は何年ぶりだろう。なぜ、泣く。俺はラグビーをやめた。猛にとって、とるに足りない存在。小6の県大会で負けたとき以来、猛はタフだ。ミスした仲間を責めたり、めそめそ泣いたりしたい。ただただ、自分のなにが足りなかったのかを、かえりみてすぐ立ちあがる。だが、もう立ちあがれない。


「すまん」


 あくまでも事実を並べているだけなのに、いろんな感情が込みあげてくる。


「俺は、もうラグビーをやりたくない」

「謝るくらいなら、その五体満足のカラダ、俺にくれ! いますぐ、グラウンドにかけて、思いっきり青空にめがけてボールを蹴るけん!」


 何も言えなかった。背をまるめてうつむいた俺の視線は、猛の下半身をおおった白いかけ布団の上であてもなく漂う。猛は吠えた。


「お前にはいくらでも立てる足があるやろうが!」


 とたんに、言葉にならない怒りがこみあげた。なぜ、絶望のなすりつけ合いを車いすの男としているのか。

 

 「この世に神なんかいない。いたとしても、そいつは最低な奴だ。ラグビーだって最低なスポーツやろうが! 」


 俺は罵った。拷問部屋から出て行った。病室は、総合的な人間力が試され、自分の不甲斐なさを、胃が空っぽになるまで吐きだす部屋だった。どうせ、何をいたって、どう弁明したって、俺は最低の人間なんだ。



「ゴン」


 名前を呼ばれた。誰か、すぐわかった。静香だった。彼女の眼が赤くはれている。白く濁った病棟の廊下の光のなかで、彼女の赤くはれた目が際立っている。すべて聞いていたようだ。


「なに」


 俺の左手を、静香は無言でつかんだ。親指の爪をたてて、俺の親指のつけ根に、深く、鋭く食いこませる。


「なんてこと言うとよ」


 囁くような声だった。けど、刃物のように鋭く、丸ごと俺に突き刺さる。その意味を、俺は理解しているからこそ、致命的に突き刺さった。


「いてーじゃん。なに盗み聞きしてんの」


 俺はふり払った。親指のつけ根に、三日月の鋭い爪痕ができた。その手を無意識に撫でていると、右頬にビンタを受けた。


 鋭く乾いた音が、病棟の廊下に響く。


 右手で撫でると、頬に熱がじわりと広がっていくのを感じた。左手に違和感を感じた。手を広げると、手のひらの生命線をなぞるように柔らかい糸があった。白、赤、オレンジ、緑の4色のミサンガだった。気づかぬうちに忍ばされていた。爪を立てて、俺に1本のミサンガを食い込ませていた。まるで、消せない刺青のように。宿命を刻もうとしているかのように。


「サイテー」


 整った眉を吊り上げ、静香はまっすぐ立っている。文化祭のときとは別人だった。その下の眼ざしは、俺の両目をしっかり捉えた。熱った頬を濡らして泣いている。目の色は、悲しみに満ちていた。口もとは怒りに震え、唇を前歯できゅっと噛んでいた。言葉は、ほんの少し揺れていた。


「冷たいことしか言えないんだ」


 静香は、俺を軽蔑していた。俺の方こそ、ここぞとばかりに、しゃしゃり出てきて、勝手にヒステリックになって感情をかきむしる女を軽蔑した。


「何ていえばいい?『諦めるな』って、何をどう頑張ればいい?『あきらめるな』っていうの? どのみち」


 怒鳴っているわけじゃない。俺は、ただ真実を叫んだ。


「あいつは一生ラグビーが出来ない!」



 真実を冷たく投げ捨て、閉鎖的な村からぬけだした。西鉄バスがタイミングよくすべり込んできた。乗りこむなり、斜めうしろの糸島の女子高生2人が、こちらをちらっと見ていた。さっきまで小さな会話がぴたりと止んだ。西鉄バスは海沿いを走る。海とくもり空の境界線。どちらも白くぼやけ、同化する。糸島の海岸線から市内へ、それから西区の住宅街にさしかかる。手の中に違和感があった。なぜか、手のひらの中で残されたミサンガは、まるで身体の一部のように、手の中で脈打っていた。




 挿絵(By みてみん)




 バス停に止まるたびに、年寄りが乗ってくる。車内はたちまち、混雑した。誰もが、近寄りがたそうにした。姪浜駅まで我慢しようとしたけど、感情が女のように昂ってきた。けれど、喉の奥が急に狭くなった。呼吸の仕方がわからなくなった。ギブアップしてしまい、降車ボタンを押していた。どうにもできなかった。誰からも見られたくない。ズタボロの俺は、街の輪郭が崩れた、色も形もないぐしょぬれの視界におぼれ、必死にあがいた。人気のないところまで駆けた。目からも鼻からも熱いものがとめどもなく流れた。情けなくて、どうしようもなくて。おしっこ臭い公衆トイレに行きついた。小汚い壁にもたれ、俺は信じられないくらい泣いた。手のひらの中の、人肌の温かさのミサンガは柔らかかった。とるに足らない糸切くずのはずだった。だけど、ずっと握っていた。



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