フラワーガーデン(6)
ハロウィンテロ
「V I P対応よろしく」
お化け屋敷の暗がりの中、いのっちは土下座した。そんなもん、するもんじゃないと、青タイツ、ドラキュラやパンプキンが寄り添った。あの場に立ち会っていた黄色のタイツが笑いを堪えながら明かす。
「恋みくじでおなじ数字やった2年の女の子を追いかけて———こいつ泣かせた」
全員の目が、詫びろ詫びろと光った。『いつかやらかすと』と思ってた。本当にしでかすとは。ドンキホーテで済ませた異装の集団は口々にぼやいた。
「誰を泣かしたと?」
「雪原静香っていう2年。いま、並んどう」
遮光のため、窓一面に貼られたダンボールのすき間から廊下をうかがった。2年の静香と乃愛、佑太。3年のアキトがいる。トライアングルで生きていた僕にとって、それは外界に住む招かざる客だった。青のタイツ男が尋ねた。
「誰?」
「2年の軽音部」
「めっちゃ可愛いやん」
「こいつが泣かせた。もう、2年女子からストーカー禁止令が出とうけん」
「やば」
黄色タイツの男が、いのっちのでっぷり突き出た下腹部を小突いた。その時、廊下の行列から、静香とよくつるんでいる女の子の悲鳴が轟いた。
「やっぱ、こわーい」
「だいじょうぶって。どうせ衣装もダイソーとかやけん」
それと同時に、佑太の生意気な笑い声も聞こえる。
「誰?」青のタイツ男が、憎々しげに声を潜ませた。
「ラグビー部2年のフルバック。女子がいるからってカッコつけとう」
「衣装がダイソーってのは腹立つ。せめて、ドンキホーテにしろよな」いのっちは、相変わらず変なところに鼻息を荒くした。
「入店拒否しようぜ」
行列の影で、静香はうつむき、壁にもたれたアキトは透明なタバコをふかしているかのようにカッコつける。お化けたちは自分らとは無縁な、美男美女の憧憬のような恋愛話に夢中になった。
「アキトって、最近マリアと別れたっちゃろ? せっかく、美男美女カップル爆誕やったのに—————もしかして、のりかえ?」
「そのもしかしてな」
廊下から佑太の「まだすっか?俺ら、VIPなんですけど—————」という、鼻につくタメ口が響いた。その煽る感じが上級生のお化けたちのひんしゅくを買った。
「なんなん、あの2年? 野球部やったら、いまごろ先輩にしごかれとるけんな。あいつ、ラグビー部でもあんな感じなの?」野球部の青タイツが息巻いた。
「頼む—————俺に免じて」
いのっちは嘆願した。けれど、3年の逆鱗は収まらなかった。誰かが思い出したように言った。その口元は意地悪そうに口角を上げている。
「最終兵器がある」
「やめて————」いのっちは涙目だった。「俺が、それ全部、かぶるけん。あいつらには危害をくわえんで」
「だめ。おもんない」
「なんのこと?」僕が訊ねると、青タイツが教室のすみっこを指さした。青いバケツに、無色透明の液体が入っている。
「水?」
お化けたちの表情はどこか得意げで、さらに口角が上がっていた。青タイツはもったいぶるように言った。
「武道場でやる予定やったローション相撲が中止になったけん、ゆずってもらった。つぎ、あいつらが舐めた口きいたら、床に撒こうぜ」
********
「怖くないやん」
乃愛のせせら笑いが、お化けたちの反感をそそる。青タイツは頷いた。バケツの倒れる音がした。
「そこおるけん。ほら、いた。はい、おつかれー」
祐太は、闇から現れたパンプキンに手をふった。いのっちは、脚立にのぼって竿をあやつり、佑太の頬にあてる。そのたびに、佑太は「なんこれ」と笑い、くすぐったそうに肩をゆり動かす。つり竿の針からこんにゃくがずり落ち、こんにゃくは塵とホコリをまとってボロボロになっていた。
「ゴン。裏に新しいこんにゃくがあるけん。くくりつけろ」
巻きこまれたくない僕は、隅っこでじっと息を潜めていた。
「おい、ゴン」いのっちはいら立った。
足音を立てずに、裏にまわった。静香の声がした。それに、憎い男の声も。
「ラムネありがとうございます」
「こっちこそありがとな。少し喉が渇いとった」
「すいませんでした、炭酸が溢れちゃって」
「いいけん」
沈黙がはじまった。僕は、関わりたくなかった。プラスチックコップが散乱していた。そこに、いろんな色のスライムが入っていた。メイク道具や、抜け毛だらけのボロボロのかつら、養生テープが散乱していた。2、3袋のこんにゃくはそこにあった。袋を破って、そのうち1つを取りだした。しばらく、無音だった。ただ、乃愛と佑太の笑い声だけが聞こえる。静香とアキトがいなくなったとさえ思った。だけど、長い間のあと、再び静香の声がした。
「———— さっきはごめんなさい。部室の前で、待たせちゃって」
彼女の喉の奥が詰まっている。アキトは冷ややかだった。
「いいやん、幸せやけん」
「え?」静香は戸惑った。「何がですか?」
「恋みくじのことで、そうやって、喜んだり悲しんだりできるけん」
「そうですね。うちよりも大変な思いをしている人はいますし —————」
「しゃーない。おたがい、置かれとう状況がちがう」
「そんなことない」
鼻の奥がつんと痛くなったのだろうか。静香の呼吸が早く、浅くなっている。ふたりのあいだに波紋が起こった。それは暗闇の中でもわかった。静香の言葉の輪郭が崩れていく。アキトは、いつになく淡々としていた。
「抱えたくなかった。もっと気楽にラグビーしたかった。グランドを突っ走って、トライの快感を追いたかった。純粋な気持ちで花園めざしたかった。けど、当たり前って一瞬で崩れた。猛の使命を背負って、ラグビーせんといかん」
「うちも知っていますよ。猛さんのこと」
「リハビリうまく行っとらん」
貼りめぐらされた段ボールの継ぎ目から一本の光が差しこんだ。人間の悲しみに狙いを定めたように、静香の表情を照らす。瞳の充血が浮きあがる。涙のしずくは、闇を刺す一筋の光に照らされる。
「もしかして、お化け苦手?」
アキトは、闇の中を歩きだした。
「怖くなんかないです」
「そっか。じゃあ泣くな」
「わかってます」
「知ったような涙を流すなって」
鼻の啜る音。その音が濁ってくる。その濁音が、吐いたり吸ったりの静香の呼吸の境界をあいまいにさせる。
「泣きたいのは猛やろ。 あいつは俺たちの前では、一度も涙を出さん。俺たちを気遣っとうけん。これから猛が、何を宣告されるか知ってんの? 泣いとうけど、静香は一回でも見舞いに行ったことあんの?」
アキトは、激昂していた。
「あります」
静香は、まっすぐな眼差しをアキトに向けた。闇の中のカーテンの隙間から差し込む微かな明かりが、静香の瞳を照り返す。
「見舞いに行きました! 」
闇の奥から女の子の悲鳴がきこえた。男子の悲鳴がつづいた。お化けたちは決行したらしい。
「どうしたの?」
静香が駆けつけた。彼女も床に撒かれたローションに足を取られた。
「おい!」
アキトが、静香の手をとった。だけど、アキトの足元にもローションが及んでいた。バランスを失い、アキトと静香は転んだ。弾みで積みあげた椅子が崩落した。会話を盗み聞きしていた俺は、ギリギリで逃れた。水たまりのなかで倒れたアキトと静香は濡れた。二人の目はかち合った。アキトの瞳を見た。アキトも静香の瞳を見た。静香はアキトの手を離さなかった。
僕も認めた。瞬時にその決定的な光景はぐらついた。天地がひっくり返った。自分自身も滑った。鼻腔に激痛が走る。鼻の内側からえぐれる痛み。いのっちのつり針が、僕の鼻穴にひっかかり、鼻の皮をつらぬいた。とっさに、右手で鼻の穴にあてた。人肌ほどの温かいぬめりを感じた。
いのっちも、つり竿に引っかかった俺に耐えられず、梯子ごと倒れた。アキトの悲鳴のあと、金属の音がさく裂した。ドスンと縦ゆれがした。教室の明かりがついた。横になった静香の上に、濡れた朱の大きな肉の塊が覆いかぶさる。静香の鼻の先と、いのっちのまん丸い鼻の先がたったミリ単位で肉薄する。
「きゃあああ」
断絶魔が聞こえた。いのっちは、反射的に土下座した。その醜態は、まるく肥えた男の一生モノの不覚と羞恥を、色鮮やかに体現している。佑太と乃愛、ほかのお化けたちも転落現場に駆けつけた。いのっちは、正座のまま、こんにゃくを一袋手に取って、静香にさしだした。
「詫びのしるし。マックスバリューの板こんにゃく」
「いらん!」静香はふり払った。床にこんにゃくが落下した柔らかく湿った音がした。
網にかかったアザラシのように、俺はもがいた。鼻に刺さったつり針をひき抜こうとしたけど、つり針の先っぽが逆さにとがった『かえし』のせいで、なかなか外せない。だけど、痛みより、あの男の冷めた眼ざしのほうが気になった。
ラグビーをドロップアウトした人間の成れの果てに、アキトは鼻白ませている。王然としたアキトの狐のような目。吊り上がった目尻が鋭くなった。口もとは、まっすぐ結ばれている。目は細く、まぶたは薄かった。視線は笑っている。その目に射抜かれそうになる。自分という存在が、否定された気がしてならない。俺はラグビーを辞めた。もう赤の他人だ。俺がどういう格好していようが、何をしようが関係ないこと。その詭弁にも近い考えで、自分を取り戻す。なんとか、耐えて、立ち続けようと思う。
アキトは、僕を一瞥してから、いのっちの方を向いた。
「茶番は今日だけやけんな。俺たちの心にはつねに猛がおる。それを忘れて、ハメを外すようだったら、お前もラグビー辞めろ」
アキトはお化け屋敷を去った。彼の声に、感情の起伏はなかった。足取りはスパイクを履いて大地を踏みつけるように確かだった。いのっちは罪深そうに顔をしかめる。静香は僕のところに駆け寄った。
「血出てます。抜いちゃダメです。保健室行かなきゃ」
俺の血だらけの手に構わず、ティッシュの束を鼻に押しあてる。束になったティッシュはあっという間に赤く染まった。
「自爆しただけ」
僕は、自分の血を触れさせまいと、静香の手をふり払った。
「—————鼻ピアスみたい」
静香が笑った。明るくなった教室の中であらためて、静香を見た。泣いていたのが嘘のようだった。あらためて見ると。声の震えも、涙もすっかり乾いていた。何事もなかったかのように憮然としている。
「アキト先輩、怒ってた」
「どうでもいい」
「春日ヤングラーズの試合のときも、鼻血出てましたよね。覚えてます? 鼻血止めたのうちですよ」
ヤングラガーズ時代を思い出した。試合中、相手ボールをターンオーバーしたとき、相手のひじが、顔面に直撃した。血を止めたのは静香だった。テッシュを小さく千切って丸めて、鼻の穴に詰めてくれた。静香の手当てが優しくて、くすぐったくて、思わずくしゃみしてしまった。その拍子に、鼻穴に詰めたティッシュが吹き飛んだこともあった。
「なんだ、これは!」
その怒号で、俺はリトルラグビー時代の憧憬から醒めた。三好の前髪は、寸分たがわぬ長さで揃っていて、飾らない椿油の艶をまとい、均一にそり立っていた。生徒指導一筋。背筋の通った生き方をそのまま、頭に乗せたヘアスタイル。むきだしの額には、耕したての3つの畝のような深いシワと青すじが浮いていた。
「なんだ、このヌルヌルは!」
生徒指導主事は、肉体に裏切られた魂のうめきを上げながら転んだ。
「やべ」
祐太は、乃愛の手をひいて走り去った。三好から虎衛門監督の耳に入れば最悪だ。生徒指導の先生が、ローションの水たまりに沈んだ。ローションのくちゃくちゃな音が立った。ベテラン教師の威厳が転がる音だった。
「ここはクラス劇やなかったとや? なんでお化け屋敷になっとうとや! 壁にガムテープを直接貼るなって言っとうやろ! それになんなん、このヒダは! 本校にふさわしくない」
突貫のガムテープでしつらえた布にカラーセロハンののれん。三好はひき裂いた。
「静香も逃げろ」俺は言った。静香はのほほんとしている。
「俺は逃げる!」
いのっちは立ち上がって、また、転んだ。
「お化け屋敷でスライムを投げられて、大声で襲われて恐怖を感じたって、他校の生徒から相談を受けた! 赤タイツの男が追いかけてくるとか! 赤タイツはおまえだな! お前はラグビー部だな。この件は虎衛門先生に報告するけんな!」
「ごめんなさい」
濡れそぼった三好は、いのっちの腕を掴んだ。それでも、いのっちは逃げようとする。柔道部監督でもある三好は、剛強な腕っぷしでいのっちを抱いて離さない。丸っこい赤い肉体と、中年太り肉塊は、ローションの水たまりで足を滑らせ、熱い抱擁を交わし、ふたたび、心中するように転倒した。
「三好先生、あそこです! 」若い教師が呼んだ。
「そこで待っとけ」
ブルドックのように吠えてから、ずぶ濡れの三好は違法お化け屋敷を去った。僕らのとなりの隣にある企画展に、教員たちがざわついている。
「わが校を侮辱するのもたいがいにしろ!」三好は、眉間を怒張させる。
『刑務所学校 極東学院展 主催K K K』
そこは、無人営業だった。刑務所のような学校生活を訴える展覧会。ぺしゃんこになったダサい鞄、黄ばんだダサいポロシャツ、極東ヘアのポートレート。写真の題名は『青春を失った者たち』。
「囚人服だと!」
三好は、オーバーヒートしたボイラーのように展示品のマネキンをはり倒した。いきなりの柔道部監督の技に、野次馬たちはどっと湧きあがった。灰地に、銀ボタンの制服のつめ襟に、NとSの磁石がはめこまれ、ホックが自然にしまる。囚人服のようなデザイン。これが、極東学院の冬服だった。
『進取守成かつ隠忍自重』 三好はこの極東精神が、踏みにじられることが我慢ならないらしい。
「いまのうちに逃げろって」静香に言った。
「見舞いは行きました?」
静香はいまだに大きな瞳で僕を見ている。僕がどうでるかを試している。僕は沈黙を貫いた。
「聞いてますよね?」
静香は白くて細い首のまん中にある、まっさらな喉をこくんと鳴らす。「首から下が動けなくなったんです。寝たきりです—————、夏休みに3回手術しました。人工呼吸のせいで、会話できない時期もありましたが、今月入ってやっと、自発呼吸ができるようになりました。猛さんは、血のにじむような努力をしてるんです」
「早く行けって。三好が戻ってくる」俺は、取り合わなかった。
「会いたがってます。文化祭を楽しむのもいいですけど、ヤングラガーズからの絆じゃないですか?」
『春日ヤングラガーズ』と、何十年も擦られてきた『絆』っていう言葉
虫唾が走った。
「会ったところで何になる? なにを話す? 泣けばいいのか? どうせ言われる。『知ったような口をきくなって!』って」
頭に血がのぼってきた。鼻から血がしたたり落ちている。鼻の皮から流れた血なのか、鼻血なのかわからない。
「猛さんは、ベッドのうえで笑ってるんです。あの時、ただでさえ、呼吸器つながれて苦しそうなのに。うちのことを『気にするなって』って気遣って———でも、猛さんが一番辛いんです!」
静香が泣いてしまった。構造的に、俺が泣かせているみたいだ。この泣きたくなる重い話をはじめたのは静香だ。
「行くよ! もうライブやけん!」
萌映がお化け屋敷に駆け込んだ。彼女は、僕を一切見ることもなく、静香の手を引いた。足早に去ろうとする。ローションの水たまりを避けながら外へ出た。
「糸島のリハビリセンター。来てください」
去り際、静香はうしろ髪ひかれたようにふり返った。
静香と猛は、リトルラグビーからの付き合いだった。僕がバックス、猛がフォワード。コンビであり、バッテリーでもあり戦友だった。いまはそれも幻。僕が、ジュニアクラブチームのエースだった頃、僕の1つ先輩のキャプテンの妹が、雪原静香だった。遠征によく連れられては、走り幅跳びの砂場にしゃがんで、鼻の頭に砂をつけて、よく泥だんごを作っていた。
「お前ら!」
新校舎に雷鳴のような声が走った。それは教室の奥の、廊下のその先。生徒ホールからだった。いのっちも僕も、反射的に廊下に出て、吹き抜けホールを見下ろした。ハロウィンの仮装集団が、下の4階の生徒ホールを埋めつくした。ピエロが笑ってクラッカーを鳴らし、パンプキンが拳をふり上げ、校則反対のプラカードを掲げ、フランケンシュタインがメガホンを口にあて、「ハッピーハロウィン」を絶叫する。100人以上はいるだろうか。
「なんしとうとや!」
教師たちも殺到し、野次馬たちが群がる。
「暴動やん!」
50近くある教室は、大きな新校舎一棟にまとめられ、4階から屋上は、開放感ある吹きぬけ構造になっている。野次馬たちは、手すりにもたれて生徒ホールを見下ろす。
「やれ!」
野次馬は吹き抜けの5、6階から煽った。
「だまっときなさい!」
痩せぎすな教頭は叫んで、三好と対照的に青ざめる。
「解散しなさい!」
体育科教師たちは、集団の先頭に立つジョーカーのパープル色のワイシャツをひっつかんだ。ジョーカーはその手や腕を払って抵抗する。もみあいが起こった。
「解散しろ。指示に従わない者は退学にする」教頭はいきり立った。
「おお!」どこからともなく歓声が上がった。観衆は興奮し、拍手喝采がまき起こった。そこに、無数の足音が迫ってきた。ねずみ色の学ランや、ジャージ姿の鍛えあげられた男たち百人が、隊列を組んでやってきた。歩調もよく合わさっている。
まるで組織された突撃隊は、教師の前に陣どった。竹刀をかつぐ剣道部や、腕を組んだ柔道部、野球部、ラグビー部、バスケ部もいた。いずれも、全国レベルのスポーツマン。規律、筋肉、無言の圧。アキトと祐太もいた。背丈のぜいじゃくな仮装集団は一人、また一人、腰が引けていく。威勢のよかった「ハッピーハロウィン」のかけ声も下火になっていく。体育系部活はとめどもなく湧いてきた。バレー部、軟式野球部、テニス部、ちょっと頼りないマーチングバンド部も押しよせる。傍観者たちは口々に煽った。
「実力行使やん!」
「殺れ!」
ハロウィン集団の一人が、たまらず「逃げよう」と慄いた。水面に落ちた石のように、恐怖に耐えられない波紋が広がる。ドラキュラは、牙の入れ歯を落とし、魔法使いは杖を落とし、ゾンビは素足で逃げた。
「逃げるな」見下ろす者たちは、煽った舌の根も乾かぬうちに落胆した。
「そいつを止めろ!」群衆なだれの中で、教師たちは若手、中堅、壮年、老年という年功順で、群衆を追いかける。アキトも追って、ジョーカーのジャケットを掴んだ。強くしなやかな腕で抱き寄せ、生徒ホールの床に叩きつけた。ジョーカーのカツラはあっけなく取れた。
「さすがやけん」
いのっちは、アゴの肉をつまみながら称えた。ジョーカーは棒きれだった。アキトは、地を這う狼のように身構えて、あお向けに虚空を見上げるジョーカーを睨む。
「ゲンジを守れ!」
パンプキンがアキトに無策無謀で喰らいつく。また、野次馬たちから歓声が上がった。タックルという代物ではなかった。アキトは、勢いをそのまま逆手にとって右から左へ投げた。
「つまんねえ」
傍観者は、またしても落胆した。パンプキンはあっけなく飛ばされた。その一瞬をついて、首謀者のゲンジは、仮装集団たちに腕を引っぱられて、雑踏の混乱に溶けこむ。
「逃がすな!」
三好が叫んだ。だけど、手遅れだった。ゲンジたちは、影が人ごみの中を縫うように廊下を駆けぬけ、他の集団とともに消えた。身代わりになったパンプキンは連行された。
「消えてくんねえかな」
分厚いメガネで、屈折させられたみみっちい目に、憎悪を燃えたぎらせた男がいた。副会長だった。アゴを突き出し、薄っぺらい下唇を噛んで、聞こえるか聞こえないかの声で愚痴をこぼし、去っていく。
「かくまってくれ」
ハロウィンの残党3人が、僕たちの違法お化け屋敷に転がりこんだのは、それから間もない頃だ。ジェイソン、ブギーマン、それに、主犯格のジョーカーもいた。汗びっしょりで息が上がっていた。厚塗りのメイクは脂汗に溶けて、素肌が露わになっている。
「バカやん、マジで。こんなの無駄やろ」
いのっちが、ラムネを差しだした。ジョーカーは何もいわず、それを奪って一口飲んだ。ゴクリと男らしい喉越しの音が立てた。
「ぬるい」
ほかの残党に渡した。その言葉に、僕は嫌な記憶を思い出した。ジェイソンとブギーマンは有り難そうに、それを飲み干した。ジョーカーはカツラを外した。
「みんな、賛同してくれる」
生徒会長で3年のゲンジだった。あらゆる髪の毛が、均質に2センチ伸びたようなヘアスタイル。眉目秀麗というより、眉骨が突き出て、少しだけ陰がかった顔立ち。
「この学校は変わらない」僕の冷たい言葉に、ゲンジは冷静に言い切った。
「変わる」
「さっきの歓声聞いたろ。200人はいた。みんな、戦いたいけん。俺たちの側に立っとう。やけん、革命は起きている。絶対、成就する」
ゲンジは窓にかかった黒幕を片手で払った。お化け屋敷に、一条の光が差し込んだ。ゲンジの揺るぎない眼ざしがありありと浮かぶ。残党はその光に吸い取られるようにバルコニーから逃げていった。
「こっちです」
密告が聞こえた。廊下から副会長の声が聞こえた。ブルドックなみの嗅覚をたて、三好がこの隠れ場所を嗅ぎつけた。けれど、すでにもぬけの殻だった。教師たちは苛立ちをにじませ、怒鳴りつけた。黙こくってうっすら微笑む副会長は、みみっちく小さな目をさらに細める。
「表へ出ろ」
僕たちも、ゲンジたちの運動に参加していたと勘ちがいされた。その誤解を解いたのも束の間。矛先は、事前のクラス企画の申請とは違う『お化け屋敷』を違法でやっていたことや、その違法サービス。教室の床を、ローションで汚した行為に向けられた。となりの「刑務所学校展」では、刑事気取りの教師たちが、教室が犯行現場であるかのように実況見分をしていた。
教室には、遮光カーテンの隙間から、陽光が差していた。そこに、捨て置かれた空きのラムネ瓶があった。まばゆく斜光を照り返していた。




