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フラワーガーデン(20)後半


 顔パスでリハビリセンター2階へ上がった。長い廊下の奥で、人だかりができていた。看護師やドクター、理学療法士が部屋の中を覗いている。病室から人間とも動物ともつかない絶叫が聞こえた。病室を疑った。だけど、紛れもなく猛の病室だった。


 「タケちゃんもういいから!」


 修羅場になっている。佑太と静香は立ち止まった。アキトは駆け寄って、看護師に尋ねた。


 「どうしたんですか? 」看護師たちも説明がつかないのか、表情を曇らせていた。また絶叫が轟いた。


 「リハビリさせてください! 車いすに乗せてください! 2ヶ月しかないんです! せめて花園に行けるようにしたいんです! いつらの試合をこの目で観たいんです! 応援したいんです。ラグビーができないどころか、この目であいつらの試合を観れんとか! 地獄やん! なんで俺ばっか——————」


 取り乱した猛を見たことがなかった。仲間を鼓舞し、自分自身を律してきた険しさも、仲間にも後輩にもマネージャーにも、まわりを気遣うたびに見せてきたささやかな微笑みもなかった。


「落ち着いて。とりあえず、リクライニングを倒そう。車いすに乗るリハビリはもっと後やけん。他にやらんといかんことがたくさんある。もっと長く座りつづけられるリハビリとか、寝返りとか痰を吐きだすリハビリとかから、少しずつ少しずつ段階を踏まんと。首に負担がかかって良くないけん」


 理学療法士のお兄さんたちが数人がかりで、猛の震えた肩をさすって、猛に抑えた声で言い聞かせた。「焦って無理しちゃダメって。首に良くないけん。せっかく、右腕も肘が曲げられるようになったのに!」

「それでも、足りないんです。俺にとって、まだまだなんです! カラダはとっくに壊れてます。こんな役立たずな足! いっそ切断しろやろ!」


 顔は赤くなって、鼻水が垂れていた。憎い足のつけ根を叩こうとした。だけど、前のめりになるしかなかった。腕力はなかった。拳さえ、まともにつくれなかった。


「リハビリが進まん。車いすも乗れん!」

「十分やろ! 右腕動くようになったやん! 当分、リフトでもいいやん。タケちゃん、お願い。体がびっくりするけん。肩も脱臼しちゃう!」猛のママは嘆願した。それを猛は突っぱねる。

「いかん! 俺はこの目で花園観るけん、リモートとか絶対嫌やけん!」


 猛のひたいが汗ばんでいく。次第に怒気は退いていった。上体を起こせば、血液は下腹のほうにたまって、貧血との闘いになる。意識が遠のき、叫びに覇気がなくなる。腫れた瞳がかすんでいく。ドクターがリクライニングを倒した。脳裏の血のめぐりがよくなったのか、猛の意識がもどってくる。


「すまん、アキト。来てくれたのに」


 猛の涙は滝のように滴り落ちる。痛切な嗚咽のたびに肩が上下し、血の気を失った唇は震え、言葉をもつれさせた。なす術もなく泣くだけの幼さと、取り返しのつかない現実を前にした大人の苦悩が、彼の表情の上でせめぎ合っている。


「無理すんな」アキトの声が震える。

「アキトくんも静香ちゃんも、せっかく、来てくれてのにごめんね。でも、こんな風やけん。見ての通り——————」


猛ママは憔悴しきっている。白髪が目立ったなと思った。それだけ、白髪が伸びてきたのか、白髪染めをしなくなったのか。どちらにしても、静香の小さな胸がずんと痛む。母は猛のベッドの枕もとにくずれ落ちた。


「帰ってくれん? こんなの見せられん 」


悲しい修羅場にアキトは挫けなかった。


「話をさせてください」

「今日はダメみたい。いまはどんな言葉も悪いように捉えちゃう」温和だった猛ママの声にとげとげしさがあった。億劫になった静香は、屹立するアキトの手をひこうとする。

「アキト。今日は気乗りせんっちゃん」猛は泣いていた。


度胸もない静香は、頭をひょいと下げてずらかろうとする。いつも楽天的な祐太もすっかり居たたまれなくなって、静香の退出にあやかる。


「猛」アキトは閃いた。「せっかくやけん、気が向くまでリハビリせん? 」


「リハビリ?」静香も、祐太もおうむ返しに言った。

「なに言ってんの」母は呆れ返っていた。

「猛の母さん。せっかくやけん。俺たちが責任もって見ます。リハビリやらせてください」

「もう帰って! お願いやけん」


 疲弊した女性が放つ強烈なヒステリック。硝子が割れたような耳奥をひりつかせる女の叫び。畏怖というより人間の哀しみ。強さではなく追い込まれた人間の脆さ。絶望の吐露。アキトは気圧され、胸の中にも小さなひびが入った。だけど、猛も言った。


「やらせて」水を求めるように渇いた喉もとから、ひび割れた声をひねりだした。

「友だちが見舞いに来てくれたあとがいつもツラい。みんなが帰ったあと、病室でひとりぼっちになるのもさ。いきなり、部屋が静かになってさ、何もすることがないと、ますます余計なことばっか考えて————暗い気持ちに押しつぶされるもん——————リハビリやらせて。キツイけど、何もやらんよりマシ」


「勝手にし」


 猛ママはそっぽを向いて出ていった。ハンカチでとめどもない涙をおさえ、号泣する。その号泣は無音だった。ただ、猛のママの憤りと、やるせなさの感情を乗せた音にならないうめきを感じる。


「やろ」


 アキトの心は決まった。看護師たちは根負けして、2つの約束事を決めた。練習用電動車いすを病室に持ってきた。無理しないこと。5分ごとリクライニングを倒して、休憩すること。


「やってやろ。超えてやれ」


 祐太は足をジタバタさせる。ワイシャツを脱ぎ捨てて、『猛』と印字されたラグビー部のTシャツになって全力応援をする。熱血ぶりにみんな「松岡修造やん」って笑う。ベッドのヘッドボートの陰で、理学療法士や看護師たち3人が不測のときには、猛の腰を抱え、首の骨を支えられるように身構えている。


 「やるけん」


 リクライニングを起こす。自律神経が壊れた体の中で、血はお腹へ下りていき、脳の血が乏しくなる。その時は、リクライニングをまた倒した。寄りかかるものや、もたれるものもない状態で、猛は、苦悶の表情で歯を食いしばり、上体を起こす。猛は、よろめいた。その背中にみんなが手を差し伸べて、支えた。


 「いこ」


 かろうじて動く右腕で自分の体を支え、車いすの背もたれへ、猛の大仏のような背中を向けようとする。左腕は動かない。左手はかるく握りしめたまま、麻痺でかじかんでいる。腕の力は弱く、巨大な上半身に耐えることができない。腰から下。両足はうんともすんとも言わない。猛は2分で力尽き、ダルマのように前のめりになって倒れそうになる。祐太とアキト、理学療法士たちがかろうじて支える。チャレンジは無謀。祐太もアキトも、静香も痛感する。


 「ベットを倒そう」手をこまねながら祐太は、リクライニングのボタンに手をかけた。

 「大丈夫」猛は断った。


 意識が遠のきはじめ、肩で呼吸する。額に、汗がにじむ。前かがみになって、カラダの向きを変えることができない。バランスを崩し、ベッドのうえでまた倒れかかり、祐太とアキトが支える。二人の腕のなかで猛は、悔しさのあまり、また涙目になった。

 

 「休も」アキトがやさしく諭した。

 「まだ」


 猛はかぶりをふった。腹に力のこもっていない、猛の声の響きは空虚だった。猛の頭の中がふたたび、まっ白になり、眩暈に呑まれていく。アキトはベッドに身を乗りだし、猛の首を抱え、立ちくらむ猛の上半身をおさえた。猛の頭を抱きかかえ、起こしたリクライニングに寄りかからせる。佑太が、息を合わせたようにリクライニングを倒す。


 「まだ、まだ」


 脳の血のめぐりを良くし、気を取り戻すと、猛は、悲壮感を漂わせながら、まっすぐな視線をアキトにやった。


 「助けはいらん」青筋を立てた顔でアキトや祐太の手をふりはらった。


 ベッドと車椅子の間に置かれた、移乗をサポートするためのスライディングボード。そこに、身をねじこもうと、猛は身体を必死でよじらせる。けれど、左腕は意に反して永遠に硬直し、痙攣をきたし、永久に半ば握りしめられたままだった。ほんの少し動かせる右腕だけで踏ん張ろうとするが、右手を完全に開き、腕を完全に伸長させることもできず、猛の上半身の支えにならなかった。たちまち、猛はバランスを崩し、ベッドの縁から大きく崩れかける。ガシャリ、と音を立てながら、点滴の吊るし台は倒れた。アキトと祐太が、とっさに猛を抱きしめた。また、眩暈に呑まれていく。


「離せ」


 猛は、みんなの腕の中でもがく。猛の咽び声がせり上がる。冷たく、硬質で、ひと欠片の温もりもない首のギブス。装甲のようなギブスの奥の喉もとから、人間的な声が込みあげる。物体と肉体の境界で、猛の魂が泣いていた。


「少し休もうよ」


 静香の小さな鼻の奥がつまる。鼻のつけ根が赤くなる。その赤みは目頭に及んだ。涙が溢れ、おさえるのに意固地になり、たちまち息苦しくなる。


「がんばっても—————立てないと意味ない」


 猛の意識が、混濁しはじめた。それからは、うわ言だ。祐太とアキトで猛の身体をかかえて、ベッドに寝かしつける。猛の脳みそに血がめぐってきて、意識をとりもどしたけど、猛は、精魂つきはてた。あおむけのまま、病室につるされた千羽鶴を、恍惚とした眼ざしで見上げる。千羽鶴はかすかに揺れる。猛は、千羽鶴を手にとろうとするけど、右腕の重さすら、猛の力ではどうにもならない。アキトが手を添えて、その右腕を支えてあげた。


 「みんな、待っとうけん。俺も、がんばらんといけんのに」


 真心こめて折られた千羽鶴に指先で触れた。ついでに、その右手首にくくられたミサンガを見た。アキトは、にかっと白い歯を見せて笑う。猛の腕を掴んでいるアキトの手。その手首にある同じ柄のミサンガをひけらかす。静香も、袖を巻いて、自分のミサンガを見せつけた。祐太もしめし合わせたように見せつけた。4人お揃いのオレンジと緑のミサンガ。みんな笑った。


 隙間風が通れる空白を抱えた猛のミサンガはずり下がっていて、彼の豪傑な笑いに揺れた。猛のミサンガの輪は大きくなっていた。いや、このひと月だけで、彼の手首は痩せ細くなった。バリバリのフォワードとときは、静香の一まわりどころか、二まわりも、三つまわりも太かった。それが今では、アキトの手首より細くなっていた。猛は、穏やかな顔つきになった。


「焦らんでいいけん。俺らは卒業しても、待つけん。間に合わんでも、俺らの中には、俺たちのキャプテンがおるけん。観戦席でもリモートでも変わらん」


 アキトは、整ったまつ毛の下から慈しみを宿らせた眼差しを向けた。あったい麦茶のような、茶色い暖色の瞳だった。こんな瞳もするんだと思った。


「信じていいんやな」アキトは猛の悴んだ手をにぎった。にぎり返して、その力に応じようとしたけど、依然、猛の手指は硬直したままだった。


 「けど、照れるわ」


 猛は、気恥ずかしくなったらしい。「最後、もう1回、チャレンジさせてくれん。この気まずい空気、なんとかケリをつけたい」


 猛は、祐太に目くばせした。祐太はしり込みしたけど、「これで、最後やけん」と言われ、ボタンを押した。


 上半身を起こして、猛は勝負前のキリッとした眼差しをした。そのまま、伐採された大木のように倒れそうになる。


 倒れる。アキトと祐太たちが手をかけようとしたとき、猛のにぎったままの右腕が、見たことのない動きをした。


「え」


 右腕が出た。手は悴んで、肘はやや屈曲したまま。だけど、たしかに手をついて猛の体重を支えている。その所作さえも、新体操のあん馬のような、身体のぐらつきと際どさがあった。理学療法士が3人がかりで猛の首とアゴ、腰をしっかり押さえてつける。移乗という行為そのものには、誰も手を貸していない。


 1センチに1分。気が遠くなるような長い時間をかけ、肩と右腕の力だけで身体を支え、引きずる。首から下は、彼の意志を拒絶する。意識が遠のく。肩はぎこちなく波を打つように上げ下げする。喘ぐような呼吸。額に、汗がにじむ。けれど、首から下は、汗がまったく出ない。ゆえに、体温が釜揚げされたように高くなり、地面に押しつけられるような倦怠感が彼を襲う。1センチ進むのに、猛は身体を捻り、歯を食いしばって、傾く重心、揺れる視界、白く霞みがかる意識と死闘する。倒れそうになるたびに猛は右手をついて、我が身を保つ。それで、前よりも少しだけ車いすに接近する。危ない! 何度も思った。そのたびに、アキトも佑太も、猛の肩を持とうとする。そのたびに、猛は「いいけん!」と一喝する。悔しさに潤んだ目がかすかに震えた。その顔は、痛みに歪んでいるのではない。寝たきりの自分に対する屈辱に必死に抗おうとしている顔だった。


 何もしないでいられないアキトはベッドにつけたハイバック車椅子をおさえ、佑太はスライディングボードをおさえる。静香は「フレ、フレ、たけしさん!」と子ども応援団のように音頭をとる。


「しずか! 猛の母さん呼んで!」


 アキトは叫んだ。静香も一瞬記憶がすっ飛んだ。気がつけば、静香は、廊下を駆けていた。待合室のソファーで、猛のママは無音でうなだれていた表情は、ながく伸びた白髪におおわれている。静香は呼んだ。


「猛の母さん! 来てください!」としか、浮かぶ言葉がなかった。猛ママは狼狽していた。けれど、静香の唇の端っこのわずかに上がった口角から、何らかの良い兆しを読みとったのか、ママは無我夢中で病室へかけこんだ。夕暮れどきだった。暖色をおびた陽が海に沈み、眩しくなる。光の中で雲も、海と空、地平線の境目も曖昧にふやけていく。完熟オレンジのような斜陽の横溢を静香の瞳は、真横から受けとめる。目を瞑れば、まばゆい光が、残像として瞼の裏でちらつく。目を瞑っても目を開けても、静香は光で眩しかった。恍惚とした光の中で猛はブルブル震えた右腕を軸に、身体をくねらせる。


「がんばれ! もうちょい! 」


 佑太は熱狂した。アキトも、人目もはばからず、手汗を握って応援する。ひと想いに残存する体力、気力すべてをふり絞って、車椅子の背もたれに、自分の背中をぴたりと合わせた。寝たきりだったころが嘘のようだ。ヘッドレストまである高い車椅子の背もたれに、猛の大きな背中をもたれて、斜陽の光の中で一息ついた。


 みんな叫んだ。


「やったやん!」


 母は言葉をつまらせ、骨ばった両手を、青白く色褪せた口もとに当てた。


「夢かしら」


 ありえないことだ。一瞬、ぐらつくも、猛はドンと車椅子に腰を据え、左の肘かけにある、U字型の操作レバーに右手を置いた。車いすはゆっくり後退し、静香の足もとに車輪を踏みそうになったかと思うと、猛はブレーキを踏み、ぎこちなく、ペーパードライバーの車の運転のようにゆっくり進路変更して、満を持したかのように発進した。のびのびとカーブをきって、病室の出口へアクセルを切った。


「鬼ごっこしようぜ!」アキトと祐太が追いかける。猛の笑顔は、オレンジ色の夕日を照り返し、燦然ときらめく。


「今日はそこまでやけん! 」


 看護師や理学療法士があとから追いかける。彼らも驚きを隠せず、けれど、この職に就く者としてこの上もない喜びをにじませる。猛ママは、猛の父に電話した。理学療法士たちに捕まった猛は、部屋に戻らされ、ベッドに寝かされた。悪びれることなく、猛ははじけそうなエクボをにじませた。見上げる目なざしは病室の飾り気のない天井ではなく、それを超越した、はるか彼方を仰いでいるようだった。猛ママの号泣と歓喜をいさめ、いつまでもママの歓喜が終わらないとなると、とうとう湿っぽく怒った。


 ドクターは言った。人によって障害は、特徴も、程度もちがう。回復も、三者三様だと。そして、呟いた。彼の残存機能は、C5レベルかもしれない。



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