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フラワーガーデン(19)前半


 俺は、部屋にこもっていた。注射針片手に、YouTubeにアップされた静脈内注射の動画を観ていた。ナレーションとテロップが、注射の穿刺から抜去までの手際を説明する。看護学生が使う教材と遜色なかった。僕は、注射の流れを確かめた。それから、自分の白くなった腕を見た。脇寄りの上腕筋をゴムバンドで結びつけ、腕の血管を締めつける。すべて、Amazonで買った。もちろん、コンビニ受け取り。血に堰き止められた静脈が膨らむ。そのふっくらした輪郭が浮かび上がった。肘の内側のやや上。皮膚の白く柔らかく薄い部分に、もう片手の指で触れ、押してみたり、擦ったりする。すると、ほんのわずかに青い血管が浮かんだ。その中で、より弾力のある血管の部位を探す。


 アマゾンで買った注射器を15度傾け、自分の肉体に、するどい銀色の針を突き刺した。ひんやりした鉄の触感が皮膚を通り、血の温度に触れる。針の冷たさは失われたかと思うと、突然鋭い痛みが走った。恐怖心で喉の奥が泡立ち、オエっとした感覚が込み上げる。俺は、目を閉じ、肺に空気を集めて、ゆっくり吐き出す。呼吸が規則正しく収まるころには、痛みは丸みをおびて、引っ込んだ。針は、想像の中で恐怖が増幅されたものに過ぎないことを悟り、いくぶんか楽になった。血が注射針へ流れ込む。針の先から、滲んだ逆血の赤が、シリンダーへ昇っていく。深い赤。それは、注射針が静脈に正しく刺さった証。俺は、腕にくくられたゴムバンドを外して、用心深く慎重に、注射針を寝かせて、さらに数ミリ押し込んだ。針が血管を貫通しないようにゆっくり慎重に注射針を固定する。最近の注射器は、針と本体のシリンダーが分離できる。注射針から本体を離す。そのまま、つぎの薬液を入った別のシリンダーを連結させれば、穿刺は一度で済む。


 来るべき日。本番では、猛に3つの薬を投与する。立て続けにピストンの押し出す感覚を、俺は目を瞑って想望した。3つの劇薬はいずれも、病院から略奪する必要がある。静脈注射は、即効性がある。網のように身体中に張り巡らせた毛細血管。そこを流れる血に乗って、どの臓器にも肉体にも等しく瞬時に体内を駆けめぐる。筋肉注射より毒薬にとってはるかに意義がある。


 初めの麻酔薬で、猛に深い眠りに鎮める。

 2番目の筋弛緩剤で、脳からあらゆる筋肉への信号を止め、自発呼吸を止める。

 3番目の塩化カリウムで、心臓そのものを止める。


 手が震えた。それは、紛れもなく詩だった。旋律のある順序を、頭の中で何度もなぞった。俺だけがこの楽譜知っている。その事実に俺は酔いしれる。それから醒めると、俺は注射針を抜いて、消毒した。針の跡が沁みた。俺は脱脂綿で注射痕をおさえる。痛みも違和感も何もなかったように収まった。予行は済んだ。あとは、薬だけになる。


 ボイコット中、俺は1日看護体験にも参加した。看護師になりたいわけではない。別の目的があった。あわよくば、隙があればと思った。保護者の同意書も、母親の筆跡を真似て、ねつ造した。1日体験の参加者は、他校女子が5人で、男は俺だけ。研修場所は、警固中央病院。学校から国体道路を歩いて10分の総合病院。俺たちは白衣を着せられ、看護師に付き添われ、ナースステーションや処置室、診察室、手術室を見学する。ごくありふれた職場体験。その流れで俺は、病院の調剤室も見たいとせがんだ。看護師は一瞬、戸惑った笑みを浮かべた。けれど、やんわり線を引くようにきっぱりと言った。


「少しだけね」


 棚に、薬がびっしりと並んだ調剤室。処方箋を片手に薬剤師が、早歩きに行き交い、静かだけど、淀みない手つきで棚を引き出し、錠剤や薬液を取り出す。病院というシステムのなかで絶え間なく薬の情報、投与量、相互作用、禁忌の情報が交わされ、照合され、そして、患者ごとのステンレスパッドに乗せられる。ガラス越しの製剤室。無菌空間の中、薬剤師の男がビニール手袋をはめ、シリンダーの目盛りに目を細くし、調製した薬液を注射器で吸いあげる。シリンダーの中の透明な液体が揺れている。薬剤師が付け足す。


「処方箋を見ながら、外来と入院患者さんに薬を出しています。奥は製剤室です。患者さんに合わせて、抗がん剤とかを用意します」


 視線は、調剤室の一角に止まった。奥の隅っこに大きな保管庫が、無音に鎮座されてあった。不自然にならないよう、僕は少し言葉を選んだ。あくまで小学生並みの興味を装って尋ねた。


「危ない薬とか、毒薬ってあるんですか?」


「もちろん」付き添いの薬剤師の男は、得意げに口角を上げた。

「どうやって保管してるんですか?」

「鍵のある薬品庫に保管してます。あれが金庫です」


 薬剤師は、その保管庫に指さした。見た目は、ステンレス製の冷蔵庫。けれど、ドアにある鍵穴と大きな取っ手。冷蔵庫というより金庫の堅牢さの異質さを呈していた。指紋や垢ひとつなく磨かれた扉の向こうには、温度や湿度が管理された別世界が広がっている。薬品の入ったガラス瓶やバイアル、アンプルが保管されている。ほとん色は無色透明。けれど、一滴で人間の心機能を停止させる力を秘めている。冷たく、整然とした沈黙の中。ステンレスの扉を隔てて、死を呼ぶ薬が横たわっている。


「ここだけの話だけど」薬剤師は、声を落とした。


「あの薬品庫を開け閉めするたびに、薬剤師の二人で確認します。手術に使うものは、あらかじめここから手術室の薬品庫に移します。その薬を移したり、使うたびに、薬剤師はその残数をチェックします。一つでも無くなれば、大騒動ですから。もし、そうなったらスタッフ総出で、見つかるまで探します。中には、小さな親指くらいの大きさの瓶1つで、大人2人を死なせる薬もありますから。一つでも失くすとニュースになってしまうので————」


 当然だけど、その管理は徹底されていた。俺は幻滅した。あまりに完璧すぎて、入りこむ隙がなかった。俺は口元に作り笑いを浮かべて、素朴な疑問を抱いた小学生のように、終始無垢を装った。


「毒薬は何のために使うんですか?」

「いい質問だね」薬剤師は微笑む。「たとえば、あの金庫にあるもので、代表的なものは筋弛緩剤です。手術するときに、体が突然、痙攣とか発作を起こすのを防いでくれるんです。あと、喉の筋肉をほぐして人工呼吸のチューブを入れやすくします。でも、使い方を誤ると大変危険な薬なので、麻酔科医だけが使用します」


「そうなんですね」


 俺は、生死と掌る世界の外側にいる。肩を落としながら、病院の会議室に戻った。そのあとは、血圧や体温、脈拍、呼吸の測定。車椅子に座ってストレッチャーに横たわり、仰向けのまま、数人の女子に抱えられ、ベッドに移される体験や、聴診器を使って、心音や呼吸音を確かめる体験をした。おままごとではじまり、おままごとに終わる。収穫はなかった。ビニール手袋の密封された指の感覚、血圧測定のマジックテープで締めあげられた腕の感覚、車椅子の座面の深々とした感触、ストレッチャーの軋み、お腹にあてた聴診器の冷たさだけを持ち帰る。


 座談会で、看護師一人に高校生が囲む。看護師は「なんでも聞いていいよ」と、優しさと気まずさを一緒に呑んだ声で言った。余計にプレッシャーになって、より質問は滞った。俺は、これ以上何も聞く気にはならなかった。


 注射器にも、あの金庫にも触れられなかった。颯爽と忍び込んで、盗めるような錯覚を抱いていた。俺の計画は、病院の「厳密な管理」によって、たやすく砕けた。



 あの注射跡は、ほんの小さな赤い斑点になった。シャーペンの芯くらいの幅。俺は、絆創膏を貼った。何事もなかったように注射痕は隠れ、何事もなかったように平凡な生傷になった。使い終えた注射針をティッシュで拭きとり、ひき出しに忍ばせた。俺は、スマホを取り出した。


 猛からメッセージが届いていた。たった10秒の動画に、ちょっとだけ、微妙に揺れる右足の親指が映っていた。誰の右足なのかはトークルームの文脈、まわりのアキト、それに静香の感激の声で分かった。動画は少しブレていた。


「動いた」


 静香の声だ。おそらく彼女がスマホを持って、この瞬間をとらえている。猛の足の親指が、ウサギの耳のようにピックっと動く。2度、3度動いた。俺は、乾いた喉を唸らせ、固唾を呑んだ。俺のスマホを持つ手まで震えてしまった。


これなに?

どういうこと?

治ったの?


 嬉しさ、安堵、そして、衝動。恐怖の渦——————猛が少しずつ恢復し、俺のもとを離れ、アキトや静香たちのもとへ帰っていく。俺はどうなる。自分が、自分でなくなるかもしれない錯覚。一瞬で湧いた恐怖。それに打ちのめされそうになった。数秒後、猛からの返信は短かった。


「不随意はんしゃって奴」

「は?」俺は首を傾げた。

「筋肉が勝手に動くこと。筋肉のけいれん。脊髄患者にはよくある」


 心の中で、その言葉を反芻した。しばらく、それに対する受け答えを探した。だけど、足の指が動いたというニュースのわりに、何となくメッセージの行間は淡白な気がした。


「歩けるようになると?」


 根本的な問いを投げた。トーク画面は沈黙したままだ。静かだ。僕の呼吸音だけが聞こえる。喉が渇き、また、固唾を呑み下す。潤わない固唾で、渇いた喉はすり減った。希望と絶望が、交互に影を落として俺の心を弄ぶ。


「ただの痙攣。寝たきりであることに変わりない」

「そんなんで、いちいち送ってくんな」

「たまたま、静香もアキトもおってさ。自分のことのように喜んどった」

「いいやん。お前のことを思ってくれる仲間がおって」

「なんか複雑やん。俺のために全力で応援して、自分のことのように喜んでいる仲間がおるのに」

「死ぬのが怖くなったのか?」


 俺は、恐る恐る核心を投げかけた。


「いや、違う。これでいいのかと。あいつらがめっちゃ喜んどったけん、現実を言えんかった。あいつらを落ち込ませたくないけん」

「いまさら、辞めるとか言うん?」

「いや やっぱ背負って欲しくない。俺が寝たきりである限り、あいつらは背負うことになる。あいつらにもあいつらの人生がある」


「意志は変わらんのやな」


 沈黙が現れたトーク画面。俺と猛のメッセージの行間。送信と既読。そのあいだに、ぽっかり現れた空白。猛の覚悟が、見えない形を帯びている。やがて、言葉がなかった余白に、たった二文字の、端的な決意が現れた。


 「うん」

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