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フラワーガーデン(2)


通話



挿絵(By みてみん)




 極東学院高校第一グラウンド。その隅にあるプレハブ小屋は地獄絵図だった。窓を開けても、熱風とセミのうなりがやってくる。はしたなく崩れた前髪が、てかったオデコに貼りついている。新校舎は夏期講習中で、普通教室のアンプは禁止されている。だから、非人道的な環境でやるしかない。文化祭まで1ヶ月切った。けれど、初心者のためのレッスンは難航している。暑さで、乃愛の思考が薄くなる。


「退部届もらった。粘り勝ち!」


 クラスメイトの小西乃愛は、砂と埃をかぶったソファーに腰かけている。たくさん詰まって、膨らんだ通学鞄にゴソゴソ手を忍ばせ、指を動かし、教科書やくしゃくしゃになったプリントの狭間から1枚の紙を取りだした。


 退部届だった。保護者のサイン欄もある。乃愛はスマホでその紙を撮った。ピースサインを片あごに添え、セルフィーで写真を撮った。小顔で、可愛く映るように、角度を計算しながら、顎を引く。多動かよって思った。


「ビーリアルしよ! うちの奴隷解放日」


 乃愛は、カメラを広角モードにして、顔を背けている静香を、無理やりカメラレンズにねじ込んだ。セルフィー越しに彼女のまつ毛が優美に立っている。


 乃愛のスマホのストラップがジャラジャラ音を立てた。その紐の長さは、ちょうど首に掛けることができるくらいに紅いビーズが連なるっている。ビーズは真珠とおなじくらいの大きさでちょっと角張っている。艶のある細い光が1粒1粒に立っている。その下に木製のごく小さな十字架がある。


「3年までやればいいのに」

「みんな仲良くない」

「みんな、全国目指して真剣やけん。仲良いばっかじゃない」

「もう監督に言ったけん。そしたらさ、『そうか』って一言で終わった。めっちゃ棒読み。ワケすら聞いてくれん。どうでもいいんやろうね」


 乃愛は、背をそり返らせ、ソファーに沈んだ。もの憂げな顔をして、悲劇のヒロインを気取って、同情を乞う。艶やかにそり返ったまつ毛は精気を失い、しょんぼりしている。同情を買うのを諦めると、乃愛は、スマホのセルフィーで自分のデコを映し、自分の前髪を整えはじめた。


「だってメイク決めて、練習行くやろ。必死にサッカーしとう選手から見たら、イラっとするって。おとといとかビジュ悪いとかいってサボったやろ?」

「うちの命やもん」

「萌映を見習いい。たくましいやん。みんなと日焼けしてさ。日焼けしちゃうとか言って、夏でも長袖でアームカバーの乃愛とはちがう。覚悟が足らん」

「青春を感じる部活やったら続けとった————」


 萎えた乃愛は、シワができた退部届を、角と角を合わせるよう、ていねいに2つに折ってクリアファイルに入れた。サッカーをマジメにやっている人が求める青春と、乃愛の求めている青春は、たぶん別物。喉もとまで言葉がこみ上げた。だるくて、それを呑みくだした。


「でも、ラグビー部はいい人ばっかやん。筋肉あるし。静香、サッカー部の筋肉じゃ足りんやろ。ムキムキやないと安心できんって」

「意味わからん」

「図星やろ」静香はぷいと頬を膨らませた。そのくだりは何万回もくり返した。

「だるいけん」

「静香に悲報がある」妙に改まって、乃愛はため息をした。

「アキトさん、また彼女ができた」

「————————」


  乃愛の淡白な頬に、浅いエクボがかたどられた。そして、吹き出した。


「ずぼしやね」

「どうでもいい—————」


  乃愛はやらしそうに目を細め、前のめりになる。屈みこんで静香の表情をのぞき込もうとする。


「落ち込むよね、」

「いいけん、ギター持って——————」

「静香さっきから、瞬き多いよ」


 静香は目を閉じた。まぶたの裏に、鈍く光がにじんだ。苛立ったその気持ちをひとまず、無にした。


「どうした? 」

「ウザすぎて、」


 乃愛はソファーに身を投げた。埃が舞った。多動のマイペース。楽器演奏には不向き。ギターの弦をひもじく摘んだり、弾いたりする繰り返し。とうとう、「バンドって陰キャやね」と言いだして、静香の怒りを買った。


「うちもラグビー部のマネがよかったそしたら」

「ラグビー部はサッカー部以上にきついよ。土日もないし、ずっと遠征ばっかやし」

「静香のために、アキト先輩に代理告白しとった」乃愛は笑った。

「うざいって」

「静香、集中して。文化祭近いっちゃけん」


 殺意を感じた。それでも、目を瞑った。がまんがまんと深呼吸する。乃愛は「ため息せんでよ」と、その殺意を蒸し返した。


「人さし指のまん中じゃなくて側面で」


 静香が手本を見せた。ギターから澄んだ音が響いた。乃愛は、自分にはそんな音無理と、諦めだした。アコースティックギターを、乃愛はひもじそうに弾いた。薬指と小指は言うことを聞かない。人さし指は3本の弦を押さえきれない。力めば力むほど、逆に音が詰まり、糸が震えるだけの不揃いな音が出る。


「うち才能ない、指が腫れた」


 ドラムは助っ人。ギター兼ボーカルの静香は軽音部。キーボードは萌映。乃愛だけが初心者。時間がない。新校舎から吹奏楽部の音しらべが聞こえてくる。うちらにとって、エアコン付き音楽室を使うことは恐れ多いこと。私立高校の宣伝にならない部活で、教育的にもあまり意義のない部活は、このプレハブ小屋に押し込まれる。


「うちも、そうやった。それを何万回、何十時間もやる」

「指が痛い。先っぽの皮膚が抉れる」

「ギターをはじめる人はみんなそう。皮膚が剥がれ落ちて、そんで硬い皮膚が再生して、ギターを弾ける指になるっちゃん」

「えー、ぐろ」


 乃愛は深く息を吸い、慎重に指を置いた。右手で弦を弾いた。ほんの少しだけ、それらしい音が鳴った。


「やるやん」


 静香はおだてて、彼女の自己肯定感を上げた。けれど、30秒で彼女のネイルが飛んだ。


「爪が———————」


 乃愛は萎えた。文化祭まで、ネイルは諦めてって言ったけど、乃愛は聞かなかった。乃愛なりのギターを弾けるギリギリの長さでやってきた。だけど、それは普通のネイルの変わらない爪の長さだった。ジェルまで塗っている。ネイルが剥がれて、死にたいと言った。


「文化祭のタイムテーブル見た? あり得んくない? うちらが歌ってるとき、野外ステージでダンス部が踊るらしい。観客めっちゃ奪われるやん。ガン萎えなんやけど」


 一丁前な不満を嘆いた。そして、べつの話題に移った。そこから、彼女のマシンガントークは止まらなくなる。


「そういえば、萌映どうなったん? 共倒れは回避したと?」


 萌映の話をはじめた。ラグビー部マネージャーの萌映は、渦中の生徒会長と付き合っている。彼氏は、学校にいられるかのXデーが迫っている。


 乃愛はメイクがベトベトの汗で溶けないよう、モバイル扇風機の風をめいいっぱい顔面にあてる。微かな羽音を立てて、扇風機の風が、乃愛のながい髪を宙に泳がせ、優雅にたなびく。乃愛の髪は羨ましかった。


 乃愛は白い歯の先っぽをのぞかせ、生徒会長3年のゲンジの奇行をふりかえる。それでも、扇風機を顔にあてる彼女は認めたくはないけど、様になっている。白い首があらわになり、風にもて遊ばれる髪の黒を引き立たせる。ゴディバのロゴの女神に似ている。


 4月にあった新入生歓迎会。校長の話のとき、ゲンジはいきなり叫んだ。入学早々、新入生は戦慄する。


『校長は辞めろ!』


 彼は叫んだ。学校批判をSNSでつぶやく。フォロワーは300人。静香のインスタフォローの方が多い。


「一人一人の行動が学校を変える! フォローしてください!」


 ネットから『革命会長』と称賛され、笑われる。始業式や運動会のときに叫ぶゲンジの動画がちょっとバズった。


『みんな立ちあがれば、学校は変わる。運動会は楽しくなる! そうすれば、学校はもっと楽しくなる!』


 うちが彼の立場だったらたぶん、共感羞恥を超えて、愧死してしまう。それ以降、学校行事の『生徒会長の話』はなくなった。とうとう7月の終業式の朝、校門で「革命」を訴える手作りビラをばらまいて、ゲンジは教員たちと揉めた。カオス過ぎて、通行人が通報をして、警察が出動した。


「ほかの生徒が安心して学べる教育環境を脅かした」


 という罪でゲンジはこの夏、無期限停学になった。若気の至り。萌映は泣いている。メンタルを病んだ。心の病は、身近な人にも伝染する。


「共倒れカップル」


 乃愛は自作の言葉に、自分で爆笑した。


「でね。噂あるっちゃん。ゲンジが退学したら、萌映も退学って。ケンジはウーバー配達でふたりで生活するってさ。共倒れやん」

「乃愛がそうやって、デマを広めとうちゃない?」

「なわけ」


 乃愛は吹きだした。カルピスを吐いた彼女のスカートが濡れる。そして、ベトベトの指を舐める。品がない。やっぱ、ゴディバの女神は幻想だった。


「共倒れしちゃうのは分かる」

「それより自分のこと心配しい。文化祭までもう1ヶ月切るんよ!」

「教えてくれたら、30分はマジメにやる」

「だめ。うちは口かたいっちゃん。乃愛のことだって」

「あーね。でもさ、教えてよ。そしたら、1時間集中する。もう頭の中、萌映のことでいっぱいやけん」


 乃愛はギターを置いて、ソファーの上であぐらをかいた。石の上に3年って言うくらいの覚悟を見せた。乃愛は「1時間集中する」と宣言した。静香は折れた。萌映のことを話した。


「ラグビー部の合宿に出発する日、萌映からフった。『ゲンジのしたいこと理解しようとしたけどやっぱムリ』って。そしたら、『理解してって頼んだつもりはない』ってさ」


「やば」


 乃愛は、爆笑した。言わんどけばよかった。話して3秒で後悔した。

 

「そんな話、1ミリも聞いとらん。信頼されてないってことやん」乃愛はのびきった爪で、乃愛は桃色のひざを掻いた。

「口軽くない? 」

「共感してるっちゃん。そういう沼にハマる気持ちも危ない橋を渡っちゃう気持ちもさ。うちもさ、人のこと言えんけんね」


 乃愛は、先生とつき合っている。ミドコロは去年、女子校から赴任してきた吉沢亮似の音楽の先生。さらさらマッシュルームで、誰かさんを沼らせそうなヘアスタイルで、黒いマスクを堅持する25歳。つんと高い小鼻がアクセントの塩がきいた童顔。めったにピアノは弾かないけど、ある放課後、音楽室からピアノが聞こえた話を聞いたことがある。乃愛は、先生のことを『ピアノ少年』と呼んだ。国際なんとかコンクールで、予選突破したとか。すごいかどうか分からないけど、ラグビー部だって予選突破して、全国優勝を毎年のように競うから、それほどでもないんだろうけど。


『御所曹一郎』


 ググれば、ミドコロが出てくる。秘密の庭の世界に、乃愛は浮き足立っている。


「やばくない? てか、ミドコロがやばい」


 いくら言っても、乃愛は聞かない。それどころか「静香も、高校の半分過ぎたよ」と、恋愛先駆者的なマウントを返してくる。センセイとつき合えば、恋について全知全能になれるらしい。


 一まつの風がきた。窓から風上のほうを眺めた。第一グラウンド。いつもラグビー部がスクラムをくり返していた。アキトはラグビー部ではスリムで、フェイントをかけながら走りぬけていた。いま、グランドはサッカー部がひとり占めしている。


 眼球の底からまぶしかった。いきなり、目もとにヘアゴムが飛んできた。乃愛がうしろ髪をあけっぴろげにして微笑む。風がやってきて髪の匂いがあわっぽく溶ける。


 乃愛は、不満を言っていた。小学生はムカつく、アンパンマンのガキんちょの石鹸で、サラサラヘアなのが。うちは、リンスもシャンプーも総力戦なのに————それでもガシガシ。


 そんなことを言いながら、乃愛の髪は、今日も見事にサラサラで。うちから見れば、その不満すら、嫌味にしか聞こえなかった。彼女は容姿がいい。卵みたいにバランスのとれた小さな頭、くっきり整った目鼻立ち、長い手足。彼女はまた、スマホの奴隷のようにスマホに触れる。そのたびに、ストラップのビーズは、たがいに擦りあってガチャガチャ音を立てて、十字架が揺れる。宗教かよって思う。すべて整っているのにそれだけが妙にずれている。一度だけ聞いた。


「この十字架、おしゃれなの?」


 乃愛はふっと笑う————————いや、うちの信仰やけん


「やば」口から本音が出た。


 モバイル扇風機の風を、制汗剤の乳液の塗った首もとにあてた。こうしたらむっちゃ涼しいけんとイヤミったらしく言った。


 「そんでさ、萌映がアキトと仲よくなったらどうする? ふたりで抜けだして、夜の森で会うとかあるっちゃない?」

 「あり得ん。そんな切り替え早いわけないやろ」


 静香はむず痒そうにして、奪った乳液を手のひらに出した。


 「マリアさん」乃愛が言った。

「マリア?」

「知らんと? 3年の怖い先輩、アキトさん、やっぱそっちなんって思った」


 乃愛は、おもむろに、ストラップを鳴らしながらスマホを取りだし、マリアのショート動画を見せつけた。動画の中で、マリアの顔はしっかり補正されている。乳液を塗った首もとの肌を何度も撫でた。メントールの清涼感もなにも感じなかった。


「運動会で見た。その人、カラコンをしとった。生活指導は見て見ぬふりするけん。ガチずるい。ちゃっかし、体操服のズボンをちょっと下げとってさ、カルバンクラインの見せパンもしとったし。静香、アキトを略奪したらさ、めっちゃ怖いけん。静香がアキトを奪うなら、攫われかもよ」

「せんけん」

「泣いていいけん。大失恋やもんね」


 乃愛は、哀愁ある感じに背中をさすってきた。


「うっさい」


 上手く言語化できない気持ちが込みあげ、乃愛の背中をさする手をふり払った。さすがに、乃愛は空気を読んだ。


「ラグビー部、合宿何日目なん?」

「6日目。今日帰ってくる」

「やば。1週間、山にこもるとかすごくない? うちやったら発狂して脱走する」


 乃愛は、萌映のインスタを見せた。おとといは青い草原を背に、太陽に照らされた萌映の満面の笑み。その前は、大草原の夕陽。その前は、澄みきった星空。静香は、不本意だけど浮かない顔をした。


「引きずっとうちゃね?」

「うざい。なんでもかんでも、アキトさんに結びつけるのやめて」

「とにかくさ、バリ暑いけん、涼しいとこ行こう」

「だめ。萌映が帰ってきたら、すぐ通すけん」

「帰ってきたら、どんな感じで迎える? ゲンジのことで傷心しとうけんさ。背中をさする? それとも『やめとき言ったやん』って言う?」


 乃愛は、ピンクのうすっぺらい唇をとがらせ、夏一番の生き生きした笑顔を見せた。


「萌映は切りかえる。ピアノもプロやけん。それより、乃愛のベースがやばい」

「萌映ピアノうまいけんね。音大志望とかいいな。来年、実技対策でミドコロとマンツーマンできるやん」乃愛はソファーにもたれ、ながい背中をのけぞり、ローファーを脱ぎすて、ながい足を静香へ放りだした。


「なんだかんだ萌映がいちばん充実しとるっちゃない。別れてさ、すぐ合宿に飛んで、アキトと密会。ミドコロとマンツーマンで受験————」


 静香が小突いた。乃愛はお腹を抱え、狂ったように笑う。


「萌映は、ミドコロ好かんけん」

「言っとこうか? 相談乗ってやってくださいって」

「やめて。萌映、1年のとき、ミドコロから『いまの時代、音大で食っていくって厳しいよ』って鼻で笑われたっちゃん。そっから、口も聞いとらん。このパート。もう1回やって人さし指の側面を意識して」

「うちだけ、エアギターじゃダメ?」豊かな肩をそびやかして、乃愛は上目づかいでこっちを見た。静香の頬がふくらむ。

「ダメ」

 「じゃあ、解散しよ—————うちら、音楽性が合わんけん」


 いじけだした。バンドに憧憬を抱いたものの、みすぼらしく鉄の糸をはじく作業だと知ると、言いだしっぺの熱は冷めた。


「森シン先輩みたいなこと言わんと」

「森シン—————」


 乃愛は、バカみたいにお腹を抱えて笑った。軽音部を辞めた3年の先輩をバカにする。


「『ディステニーランド』やろ?」


 運命のデステニーに『ディズニーランド』をかけ合わせたバンド名。それが片腹いたいらしい。平常授業をサボって、部活だけこっそり顔を出すダメ先輩。もちろん、バレて担任や顧問と言い争った。


「この学校とは『音楽性』が合わない」

そう言いはなった3年の先輩。


「文化祭で卒業ライブやるらしい。それも無許可で。知っとうやろ? うちらのすぐ。どうせ、修羅場やん」

「うん、」静香は浮かない顔をした。


 乃愛は笑った。蒸し暑くてぐったりした身体を、ダニとカビだらけのソファーに沈める。背筋をゆっくりと伸ばし、ぴくりと動く指先からつま先まで、一本の神経を通すように身体を伸ばす。


「ことしの3年ヤバすぎやない? 生徒会長はビョーキ。森シンは無許可ライブ。先輩たち、学年集会で、『開校以来の問題世代』って言われとうけん。『今年の3年は、推薦出来ません』とかね」


 ハウスダストが舞って、鼻腔をつつく。ひき戸が開いた。白シャツのサッカー部1年だった。上級生からの使いらしい1年は言った。


「練習、来てください」

「うちね、辞めるんよ」


 ここぞとばかり、乃愛はギターを鳴らした。1年生はひょいと頭を下げ、足早に去っていく。それから間もなく、再びノックが聞こえた。三顧の礼かよって思った。だけど、現れたのは意外な人だった。


「完全下校の時間やぞ」


 短パンにスニーカー、黒いオールブラックスのポロシャツを羽織っている。髪は短く、腕やおでこがこんがり灼けていた。手首にはApple Watchをつけている。画面が光った。もう五時になっていた。ラグビー部副顧問の野咲だった。


「うわ、でた、野咲!」

「呼び捨てやめろ。てか、乃愛。今日、夏期講習やったやろが」

「あー」

「あーじゃない。どうしたとや?」

「その日が、そうって忘れとって—————」

「ちゃんと明日は来い。そうやって授業休んどうのに、部室におるのはおかしい」

「合宿じゃなかったんですか?」乃愛は、使い古されたギターの革製のストラップを肩から外した。

「途中で抜けて、きのう福岡に戻ってきた」

「とうとう、クビですか?」

「っるさい。学校の仕事が沢山あるったい。今日から講習やし」

「講師も大変ですね」乃愛は、相変わらず軽口を叩いた。

「いちいち、講師って言葉使わんでいい」


 静香はさっと身支度する。ポーチのチャックを開けて、ファンデとアイライナー、手持ち扇風機、シーブリーズと通学カバンに詰めこんだ。乃愛も、通学カバンを肩に背負った。乃愛のカバンにはピンク色のうさぎのマスコットがぶら下がっている。それが、小刻みで可憐に揺れた。乃愛は、そのマスコットと、その揺れに至るまでファッションを計算しているんだろうか。カバンは膨らんで丸く立体的になる。静香は、先生に尋ねた。


「先生、萌映どうですか?」

「元気にやっとうよ。毎日、スポドリも、プロテインも、計時も、日誌も、アイシングもテキパキしてくれてさ、みんな感心しとるっちゃん。なんなら向こうのテーピング講習も、他校のコーチに混じって受けとう」

「—————先生、萌映に負けてるじゃいですか」


 乃愛は肩をそびやかせ、ふっと鼻で笑った。指の関節を小気味よく鳴らす。


「たいがいにしろ」野咲は苛立った。先生は冷静だった。「てか、乃愛、Z会の英作文は? 終業式に持ってくるって言とったろ? いますぐ職員室に来て」

「チャットGPTでやります」

「翻訳機能を使わずに書きなさい」野咲の眉がピクリと動いた。「単語単位でしっかり辞書を引いて」

「えー」


 乃愛は、ソファーのうえで反発した。はずみでプラスチック製のピックが、乃愛の指先から転び落ちた。静香はそれを拾ってテーブルの上にそっと置いた。そのとき、放送が響いた。


「—————野咲先生、野咲先生、いましたら、至急、職員室にお戻りください」


 乃愛は、片方の口角だけを上げて笑い、ちゃかすように言った。


「また、何をやらかしたんですか?」

「うっさい。英作文の紙はあるやろうな?」

「あるかな?」乃愛は、寝返りを打つようにカバンをたぐり寄せ、中身を探る指先はガサツで、ガサゴソ硬いもの同士がうごめく音が立った。リップクリームが転がった。


「あった」


 乃愛はくしゃくしゃになった一枚の紙を引っこ抜いた。皺だらけの紙に、野咲は呆れた。


「とにかく、英作文出すまで、返えさんけんな。職員室にこい」


 野咲先生は、部室から出て行った。そのあとを追うように、静香と乃愛も部室に鍵をかけた。



********



 夕暮れどきだった。『下校時間が過ぎています。生徒は帰るよう』にと放送がまた聞こえた。部室の戸締りをしてから、麦畑のような、あるいは黄金色の海のような人工芝を横目にして歩いた。


 サッカー部1年がゴールポストをグランドの隅っこへ運ぶ。上級生は、欧州クラブのユニフォームを脱いでにぎりしめ、ミニサッカーに興じる。オレンジ、蛍光、金虫色の派手なスパイクシューズは、するどく傾いた西からの夕陽を浴びて、眩しい反射光をはなった。突きとばされた3年はスネを抱え、「痛い痛い」と喚いた。


 その時、怒気を孕んだ声が、穏やかな夕風を突き抜け、静香の耳に飛び込んだ。


「もう辞めてくんね」


 上級生が、ある1年生に丸こめられたシャツを投げつけた。汗を含んだシャツは足もとに落っこちた。1年生がそのシャツを受け止めきれず、地面に落ちたことに上級生はますます逆鱗にふれ、とうとう胸ぐらを掴んだ。掴まれたのはさっき部室に訪れていた1年だった。白シャツの糸の切れるプツリと音が立った。


「きのうの試合、貴様、メロンパンをモゴモゴしてさ。そのまんま、グラウンド入ってさ。監督ブチギレたの忘れた? お前のせいで、3年までランニング食らわせてさ? なに、あっさり帰ってきてんの? もういっぺん行ってこい。あいつが辞めたら、ほかのマネージャーまで動揺する。説得するまでボールに触んな! できんなら練習来んな!」


 上級生が、1年の肩をなぐった。彼はサンドバックのようによろめいた。1年は黙って、すぼめた肩をさすった。痛そうな顔をすれば、殴り手は上機嫌になって、さらにもう一発なぐる。媚びうる者も、つぎに目をつけられている1年も、その暴力を視認しないよう、修行僧のように、肩と肩を寄せあいゴールポストを運んでいる。


「乃愛やん」


 その上級生が、静香と乃愛に気づいた瞬間、こすっからいお茶目なクラスメイトに戻った。切り返しのあまりの速さに静香はゾッとした。乃愛はその光景を、冷めた眼差しで、じっと見つめていた。


「熱くなってた。試合近いけん」


 サッカー部の男子は、不揃いな前歯をちらつかせ、バツの悪そうにする。殴られた1年は萎縮し、ずっとうつむいている。


「決めたけん」


 沈みかけた太陽が、乃愛の横顔を染める。芝の上に長く伸びる影は、すでに夕闇へと溶けかかっている。


「月一でも試合のときだけでもさ」サッカー部は食い下がった。

「もう顧問に言ったけん。試合は応援する」クラスメイトからほどよい距離をつくった乃愛は言った。


「引きとめたいなら、自分らで行こうとか思わない? 後輩を使う時点でそんなもんかなって」


 乃愛は一度もふり返らず、斜陽の光の中を歩むように歩き出した。



******



「2年3組の小西乃愛です。野咲先生いますか!」


 新校舎の職員室に入った。夏休みなのか、職員室にいる先生は少なく、室内は静まり返り、乃愛の声がそのまま響く。数人の教師がこちらをちらと見たが、ふたたび視線をもどし、腕を組んでなにか話ごとをしていた。野咲先生は、リュックを背負って、机の引き出しを閉めた。職員室は、別世界のようにエアコンは効いていた。エアコンの風の音が規則正しく聞こえる。日々、省エネという名の下、集中管理された室内温度の暑さに、苦しめられてきた乃愛は、「ばり涼しい。ずるい」と怨嗟をこぼした。


 「乃愛、わるい」野咲先生は、職員室から現れた。


 額にうっすらと汗が滲んで、背負った野咲のリュックサックは、仰々しく膨らんでいた。


「Z会のやつ、終わったら、俺の机に置いといて」

「えー、なにそれ。先生が言ったんですよ、職員室来いって」

「長野に戻らんといかんくなった—————」

「忘れ物? 」

「まあね。英作文はあとで見るけん」

「あすの講習はどうなるんですか?」

「休講かも。そのときは、チームスで知らせる」

「えー」

「—————野咲先生」職員室前に立っていた教頭が、語気を強めて言った。教頭先生もバッグを持っている。


「タクシーが来ました。新幹線はもう無理です。飛行機で羽田、そこから北陸新幹線で長野に乗って、また、タクシーにしましょう。出張も旅費申請も、学校に帰ったあとで大丈夫です。校長も向かっています」


 何かあった。直感で思った。忘れ物ではない。静香に動悸が走った。


「何かあったんですか?」その声は、自分でも思ったより小さく聞こえた。

「先生たちもまだ詳しくは—————」


 野咲先生は、うちらのことを見てなかった。野咲の視線は低空飛行に、地面をさまよっている。うちらの存在さえ、彼らの意識から抜け落ちている。さっきの先生とはまるで別人のようだ。野咲先生と教頭は、慌ただしく階段を駆けおりた。


「意味わからん」


 乃愛は口をとんがらがせ、Z会のくしゃくしゃになった紙を広げた。そして、英作文のお題を見た。


Do you agree or disagree with listening to music while studying?


 職員室前の自習スペースの椅子にちょこんと腰かけ、スマホを取りだし、小さな画面を光らせ、チャットGPTを開いた。100語あまりの英作文が流れるように現れた。


 乃愛は、シャーペンを手に取る。感情を切り離したように、機械的な筆致で書き進めた。100語あまりの英作文が、印字されたような速度で、くしゃくしゃの紙の上で並んでいく。それから、完成したZ会の英作文を、担任のミゾヱに託した。今日の講習のことを、口酸っぱく言われるんだろうなと思った。だけど、ミゾヱも「以後気をつけて」であっさり終わった。



******



「雰囲気、わるいもん」


乃愛は自虐的だった。


「ああやって、恐怖で支配してさ。先輩も怖かった。でも、うちら、先輩になったら、そういうのやめようって話してたのに、あれやもん。うちもモチベ下がった。気に食わん後輩をああやってイジメとる。監督は知らん。いつも、どの高校と試合組んで、誰にどのポジションを置いて、どう使って強化するかで頭一杯やけん。でさ、部活辞めるかどうか、ミドコロと相談しているうちに————————」


 気の利いたことを言おうと思ったけど、何も思い浮かばなかった。


「ごめん」

「なんで?」

「さっき、部室で知ったような口きいて。乃愛のこともサッカー部のことも、分かってなかった———————」

「ううん、全然、気にしとらんけん。うちは解放されて、清々しとるけん。これから、一緒にいろんなとこ行こうね」

「もち」

「じゃね」


 乃愛と地下鉄の入り口で別れた。たちこぎで消えていく彼女の背中に、空漠とした風がそよぐ。乃愛の肩に背負った通学カバンのウサギは、空虚に揺れていた。笑っているというより、しくしく泣いているようだった。スカートのポッケにスマホを入れている。たぶん、十字架も入っている。そこから、長いストラップの紐が垂れている。


 静香は地下鉄のドアによりかかった。対向電車の走馬灯が、まっ直ぐすぎ去る車窓に静香の無表情な顔がモノクロで映った。そのとき、スマホが鳴った。なんの気なしにスマホをひらいた。メッセージは、萌映からだった。


『猛さんが大けがして、ドクターヘリに運ばれた』


 車内の扉が開いた。


「薬院」のアナウンスは、プラットフォームの雑踏にもみ消される。よりかかる壁を失い、降車客におしだされた。慌てふためき、出口を譲ろうとして、よろけた。プラットホームのOLとぶつかってスマホを落とした。あわてて拾おうと、前かがみになると、背負いこんだギターが、カブト虫のカブトの先っぽのようにサラリーマンを突いた。舌打ちも気づかないくらい、静香はスマホを舐めるように見た。文体に飾りはなかった。


『フォーワードの下敷きになった』


 静香はひらめいた言葉をあてこするようにメッセージを送った。市営地下鉄は、また動きだした。


『どういうこと?』

 『下敷きって何?』

 『猛さんなら耐えられる』

 

 地下鉄はトンネルを走っている。電波はとぎれがちで、受信しづらくもなる。エアコンがやけに強い。ソックスに包まれたくるぶしから底冷えする。




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