フラワーガーデン(18)後半
その時、食堂入口にある券売機コーナーの前で数人の男たちとすれ違い、小さな静香の肩とぶつかった。静香は、よろめいた。彼らは見向きもせずに、早足で過ぎ去った。ゴンドーもいた。彼は叫んでいた。静香なんか目もくれず、「やめろ」と言って、先頭をゆく男の肩を、強く掴んだ。
「離せ!」
ゴンの手をふり払って、先頭を突っ走る男は吠えた。ゲンジだった。あまりの殺気に、静香も、乃愛も立ち止まって振り返り、すれ違った男たちを目で追った。ゲンジはどんどん前へ進み、無数のテーブルのあいだを、高速砕氷船のように突き歩く。椅子とテーブル、それに床。全部が白。陽光はその白を、真っ白な眩いものにさせる。マリアたちのテーブルを通り過ぎて、ゲンジは一点を見すえるその先の、とあるテーブルの前で立ち止まった。そこは、ラーメンを啜る副会長たちのテーブルだった。
「黒幕はてめーやろ」
カフェテリアの談笑はとうに止んでいた。凝固した空気の中で、ほかの生徒たちも身じろぎし、つぎなる修羅場をチラチラ見やった。副会長は、余白のある顎のラインを短くて太い指でなぞりながら、ふっと笑う。
「意味わからん? お前らが勝手に自爆しただけやろ」
「お前の手下がぜんぶ吐いた」腐ったものを見るようなゲンジの眼差しは、ますます鋭くなった。震える下唇を噛む。
「脅迫してありもしないことを自白させたっちゃろ。こうやって、冤罪は起こるんやろうな」副会長は少し溜めた。「革命したつもりかもしれんけど、三日天下。いや、半日か、一夜限りの夢やったな——————調子こいて、飲酒もしちゃって——————」
ゲンジは、テーブルに置かれていた水のカップを鷲掴んだ。
バシャッ
冷たい水が、余白のある油ぎった顔を叩き、副会長の胸元を濡らした。だらしなく膨らんだ胸の肉が透けて見えた。しばらく、沈黙がつづいてから、短い髪を濡らした副会長はわざとらしく、にやっと口角を持ち上げる。
「やめろ!」ゴンドーがゲンジの肩を掴んだ。抑えていたゲンジの声が、轟音になって爆ぜた。
「こいつだけは許せん!」
濡れた副会長は、勝者のような顔を咲き誇らせて立ち上がった。まわりにも聞こえるくらい芝居がかったように叫んだ。
「水をかけられた! こいつやべえ!」
軽く口笛を吹きたそうに目を細め、唇を尖らせ、のっぺりした顎を宙に突き上げた。ゲンジの唇も肩も、手のひらも痙攣していた。空になったコップをずっと持っていた。
「やめろ。こいつの思う壺やけん!」
権藤はゲンジの震える手からゆっくりコップを奪い取る。まるで、銃の引き金にかけた指を外すように。ゲンジの呼吸が浅く速くなる。ねちっこい嘲笑の余韻が、まだ学食に漂っている。
パン—————
私立高校の小洒落たカフェテリアは、修羅場になった。コップを離したゲンジの掌が、副会長のでっぷりした頬を打った。副会長はよろめいた。頬を押さえて、崩れ落ちて四つん這いになった。ほてった頬をそっと触れた太い指の隙間から、うっすらピンクに腫れた肌が覗かせる。副会長は、裏返った声で叫んだ。
「殴られた!」
美山とゴンドーが、火口のように荒れ狂ったゲンジの体をおえつけた。美山は、突き飛ばされ、尻餅をついて、粗暴にテーブルを押しだした。甲高い摩擦音が走る。テーブルのお冷のコップが、波を立てながら倒れた。お冷の水が滝のように床に流れ落ち、箸だのスプーンだのがすべり落ちる。
「はなせ!」怒りと悔しさがないまぜの呻き。副会長の取り巻きたちが叫ぶ。
「先生呼んで! 一一〇番!」
過剰なほど、わざとまわりに聞かせるような、あけすけな声量で、まるで、台本をなぞっているように整った口調で叫んだ。あたりの白けた沈黙の中でその声はよく通った。副会長は、頬をおえながら出口へ歩き出す。まだ半分、汁の残ったどんぶり、床に落ちた箸、水に濡れた床、コップをそのままにして。
叫ぶ副会長。凍りついたカフェテリア。声が、沈黙の修羅場に居座った。わざとらしい焦り。芝居がかった間の取り方。見え透いた正義感。副会長は、片頬を手に添えながら、おぞましそうな表情をするが、それは、やりきった目の形になった。
「俺の顔、赤くなってない? スマホ撮って」
取り巻きの一人がスマホを取り出し、指を震わせながら構えた。でっぷりした頬のほのかなピンクは引いて、元の色に戻っている。狙い通りなのか、ずぶ濡れの副会長の小さな目は、ほくそ笑んでいる。彼らは、偽りの恐怖の余波と勝ち誇った余韻たけをカフェテリアに残して、職員室へ騒々しく消えていく。慌ただしい足音まで芝居がかっていた。乃愛は、静香の手を引いた。
「行こ」
乃愛と静香は、ガラス張りの出口を抜けて、新校舎1階へ歩いた。鋭い陽の光が斜めから差しこみ、植え込みの木々の葉がそゆぎ、まだら模様の影を落としていた。白い壁、エレベーターホール、事務室、石の床、案内板、観葉植物。さっきの怒声や水の音や、イスが引き摺られる音はここまで届かない。やっと安全地帯に逃げ切った。
「—————静香」
やぶから棒にアキトの声がした。不意を突かれ、胸の中がどぎまぎした。一階の玄関にアキトがいた。強豪の部活が勝ち取ってきたトロフィーや賞状、記念品が並ぶ一角〈ビクトリーロード〉と名づけられた、校内の小さな博物館の前に、屹立していた。そこは、強豪の部活が勝ちとってきたトロフィーや賞状、記念品を展示された一角だった。
「アキト————」
視界がぼやけ、頭がまっ白になった。心が跳ねた。平凡の男子なら囚人服のみたいな極東の制服も、アキトは仕立てたスーツのように着こなす。
「アキト先輩、こんちわ」
乃愛は変にかしこまっていた。静香の耳もとに顔を寄せ、彼女は小さく笑った。
「ちょうどよかったやん。慰めてもらいい」鼻息が、静香の耳にかかって、こしょばかった。ふだんの乃愛に戻っていた。
「も—————」静香は、苛立った。
「あのさ」乃愛は小鳥のように囁いた。「いつから『さん』付けやめたん?」耳もとで、くすっと笑った。
「急におって、びっくりしただけ」
「邪魔せんほうがいいね————じゃね」
弁明を聞かず、乃愛はスキップしながら、自分の教室へと駆けのぼった。履きつぶした革靴の靴底と床が、中身もない同士のようにかすれる音は、だんだん小さくなっていく。さっきのカフェテリアの乃愛はなんだったんだろう? 覚醒していたんだろうか? いまの乃愛はいつもの乃愛。意地悪で無邪気で狡い。でも、あのとき、乃愛がいなかったら、あのカフェテリアできっとうちは壊れていた————そんな矛盾が、静香のキュッと心を締めあげた。
「今日さ、練習おわりに猛のとこに行くけど、どう?」
アキトが囁いた。1階玄関の自動ドアがなんの気なしに開いた。あたたかくて、くすぐったい風が吹きぬけ、静香のシャツに留められたリボンを揺らした。願ってもないこと。アキトからの誘いにときめく自分がいる。とたんに、金しばりのように、猛のことが思い浮かび、マリアの言葉が蘇る。ふたたび静香を締めつける。
————すべてはアキトに取り入るため
アキトに誘われたことが、うちの気持ちをすべて上書きしている。猛への気持ちも上書きしている。猛さんがないがしろになっている。見舞いは、猛のためじゃなくて、アキトと一緒にいるためになってんじゃないか? うちはどこか薄汚れている。
「今日はちょっと、ダメです」
自分の声に幻滅した。
「まじか————」アキトは凹んだ。
アキトはちょっとした博物館のショーウィンドウに視線を落とした。ガラスの中に写真が立てかけてあった。写っているのは、3年前の全国優勝のときの、知事杯や大臣杯、新聞杯といったトロフィーを抱えた当時の先輩たち。写真のトロフィーは年季をものがたる鈍さと、奥ゆかしい光沢を湛えていた。現物はいま、この場にはない。ショーウィンドウには、サッカー、剣道、柔道、バレー、野球、剣道————といった記念品が、ガラス越しに並べられている。ラグビー部はまん中のスペースを占めている。過去7度の全国優勝の賞状と集合写真、ラグビー日本代表の卒業生のサイン入りユニフォームが並んでいる。その歴史にアキトたちの名はまだ刻まれていない。アキトたちは、ことごとく花園の全国優勝を逃してきた。1年のとき、準々決勝敗退。2年のときは準決勝敗退。さらに、アキトは右足を故障した。一瞬の加速にすべてをかけたアキトの脚。動くものを潰すことがたった1つの理性のフィールドを駆ける。肉と骨、生身と生身の激突。脚は、連戦の負荷に耐えきれなくなって時限爆弾のように悲鳴をあげた。萌映から聞いた話。アキトは、半ば溶けかけた氷嚢を黙って右足にあてて、アキトは奥歯を噛んで慟哭を封じていた。そのときすら、アキトは泣いてなかった。今年こそは、と思っていた。そこから、3ヶ月あまりのリハビリでアキトの足は恢復した。あの夏まで、誰一人欠けていなかった。奇跡のように全員そろって花園を迎えられたはずだった。
————神様は、そうはさせなかった。
「練習でエラーが多い時とか、ミーティングでかける言葉を考えるにしたって、猛だったら、どうするんやろって考えてしまう」アキトは自嘲気味に笑った。
「案外、弱気ですね」静香も笑った。
「猛は、人格者やった。嫌なこともさらっと言えた。みんなをリスペクトして、ひき立てる感じ。ミスしてもいい。ブレイクダウンで取り戻せとか。なんつうか、前向きにさせるっつうか。俺は何言っても、どっかでトゲが出るし。人の気持ちを逆撫でするばっかやん。やけん、気づけば、あいつだったらどうするかばっか考えとう」
「アキトさんは、笑顔が足りないんじゃないですか?」
「こう?」
アキトはニカっと笑った。くっきりした顔立ちに、一瞬無邪気さがよぎる。アキトの身体は、他のラガーマンと比べて細身。それでも武骨でしなやかだ。顔は、整っていて、つぶらな唇から白い歯が見える。見惚れてつい笑ってしまう。
「みんなに何を話すか考えるんじゃなくて、みんなに、みんなの気持ちを言わせればいいんじゃない? 」
「簡単じゃない」
「マネをしなくてもいいんじゃないですか? アキトさんはアキトさんの味を出せばいいんですよ」
「そんな単純でもじゃねーし」
「でも、難しく考え過ぎてもダメです」
「そっか——————ありがとな」アキトは淀みなく、まっすぐな眼ざしで言った。
「とにかく、猛を花園に連れていく」
アキトのまつ毛は、不思議なくらい整ってながく、その下の瞳はカラコンもしてないのに、琥珀色に潤み、固い決意のもとにすわっていた。
「——————あと、静香も」
ぽつりと落とされた一言に、静香の心は、びくんと跳ねた。ほんの一瞬、時が止まった。アキトの瞳がまっすぐに自分を射抜いている。背筋に寒気がした。皮膚が泡だった。だけど、頬にほてりが灯った。
「え?」
声が漏れた。聞き返すつもりなどなかったのに、喉の奥から自然と声がこぼれた。言葉が意味するものを受け止めきれなかった。爆弾発言だと、気づくのにさえ、しばらく、時間がかかった。
「やっぱ、猛にとって静香の存在、大きいっちゃん。猛だって、静香に救われとうところもあるし——————静香はそう思っとらんかもしれんけど、猛はこの前言っとった。見舞いにたくさん来てくれる静香のためにも、リハビリ頑張らなくちゃって——————やけん、今週土曜の2回戦、来てよ」アキトは何の気なしに微笑んでいた。さっきの言葉が、まるで何事もなかったように。
「もちろんです」
「ありがとな」
「あの、アキトさん」静香は迷いなく言った。「やっぱ今日、行きます!」
気づけば声が弾んでいた。さっきのマリアの言われたことなんか、もうすでに、静香にとって取るに足りないものになっていた。しばらく、あたりは無音になった。
「ボイコットだあ!」
そのとき、無数の足音が轟いた。建物が低く唸った。地鳴りのような揺れが襲った。地震かと思った。集団が、洪水のように階段を駆けおりる。アキトは、片腕をさし出した。その手に、静香は無意識にすがってしまった。
「交渉決裂! 」
「ゲンジを退学させやがった!」
なりふり構わない怒号にさっきまでのムードはかき消された。バッファローの大群みたいに、生徒たちが階段から廊下へとなだれ込み、昇降口から外へ発っていく。学校そのものが崩れそうな音だった。一年も、二年も、そして三年も。体操服も、制服も、部活着も、見慣れた顔も、激流のように通り過ぎていった。
「静香! 帰ろ!」
人波の中に乃愛がいた。静香を見つけ、一瞬立ち止まった。派手なキーホルダーのカバンを背負っていた乃愛も帰る気満々だった。
「どうしたん!」
「早退する!」
「なんで!」
「ゲンジを退学処分にするんだって! やけん、ボイコットをしようって!」
静香は、アキトの腕に身を預けたままだった。群衆の波もしだいに萎んでいく。アキトは静香の腕をそっと離した。
「教室に戻る」
アキトは素気なく、両手をポッケに入れて、くるりと背を向けた。下火になった押し寄せる人の波にあらがい、階段をのぼっていく。
*********
十月に入ると、玄界灘は淡い秋色を帯びていた。波はおだやかできめ細い泡を立て、海岸線をやさしく撫でてはひき下がり、撫でては下がり、どっちつかずの満ちひきをくり返していた。
静香は、西鉄バスから無心でそれを眺めた。晴れの日のバスの車窓は、静香を恍惚とさせた。日向ごっこのような心地。その光は、生きる上で必要な充電と思ってしまうほど有意義だ。いつもの通り、リハビリセンターに着くと玄関ロビーから事務員に顔パスであいさつして、病室に行った。
「やめろ。恥ずいわ」
猛は、男梅みたいに酸っぱそうな表情になって、ベッドにあお向けになってわめいていた。かたわらに腕をまくった猛のママがいる。
「ケアは、毎日しっかりせんと」
「意味ないって、感覚もないのに」
「なに、今さら、恥ずかしがっての。あんた、この前まで筋肉痛のときは、ふんぞりかえって、でかい脚を投げ出したくせに。誰も見とらんけん。女の子が来とるわけでも、あるまいし」
「うしろ、おるやろ!」猛は、子供のように喚いた。半分、はずかしいような。それでいて、半分は嬉しいような。
「あら、ほんと!」猛ママもうわずった歓声を上げた。
親子のかけあいが、昼下がりのコメディーのようで小気味良かった。入室そうそう、静香は吹いた。今朝おこった鬱積が小石のようにかたく凝縮され、帰り道の石蹴りのように遠くへ飛ばされる。その石は、あたりのアスファルトや、ほかの小石とごっちゃになって、どうでも良くなった。この世で一番、この親子がいとおしいと思った。このかけあいが、これからも、末長く続いてほしいと思った。
「マジ言わんこっちゃねえ」
「なんで、そんな照れてるん。静香ちゃんやけん、そんな気にせんで、大丈夫やけん。この子優しいもん。人のことを悪く思ったりせん」
「静香だって年頃の女の子やろ」猛は、こそばゆそうに分厚い肩をすぼめ、顔をそむけた。
「学校終わったの?」
「はい、今日も波乱があって。みんな、早退しちゃったんですよ。『生徒会長が退学になった』ってみんな抗議しちゃって」
「そっちも、大変ね」
猛の母い腕をまくり、サイドテーブルに置かれた洗面器から、濡れたタオルを取り出した。白湯はママの腕に優しくまとい、ほどよく火照らせた。猛のママは、あったかく濡れたタオルをかたく搾って、そこから、湯気が立ちのぼった優しい雫が、ママの腕を伝い、洗面器のやわらかい水面にとろんと落ちていく。拭うまえに、猛の脚を叩いた。
「はやく車椅子乗れるようになって、学校を救わんと」
「わかっとう」
猛は、照れ隠しに言った。根っこはなんだかんだ嬉しそうだ。猛のママは、猛の白く細くなった太ももを、丁寧に拭いはじめた。太ももは、白いきめの細かい艶でてかる。動かない脚に、生気がみなぎったような気がした。
「猛、きのうの動画見せてあげんね」
「おう」猛はうなずき、ベッドのリクライニングの角度を上げて、上体を起こした。テレビの下の端末に向かって「アルバムを出して、昨日のお気に入りを再生して」とゆっくり口を開いた。
暗いテレビの画面に、スマホのアルバムがずらっと並んだ。記録された日々の断片の中でトレーニングルームの光景が映しだされた。はじめは、静止画のようだった。病室のベッドとは違う、寝返りも打てない幅のシングルベッドに猛が横たわっている。猛の首の根は、ギブスでしっかり固定され、膝と胸の下の2つの帯で100キロを超える猛の巨体をベッドに締めつける。装置は音も立てずに駆動し、角度を変えて、リクライニングは少しずつ起きあがる。ながい時間をかけて、リクライニングはついに垂直になった。猛はベッドごとまっすぐ立たされた。足は地を踏みしめ、頭は天井へ向けられた。
「立っとう!」
静香の声が思わず漏れた。まんまるになった瞳はときめきで濡れた。猛は照れくさそうに、唇の端っこを噛んだ。猛の体にめぐる血が逆流し、血が渦を巻いた昨日の感覚を思い出す。猛のママもにんまりして、洗面器を持ってすっと立ちあがり、病室の片隅にある洗面台に立って、ぬるくなった水を捨てた。
「耳鳴りがすごくてさ、30秒しかもたんかった」
「でも、すごいやん!」
動画のなかの猛は、じっと耐えていた。心拍数が上がっていくのが、映像越しにも分かる。猛の額に汗が滲んだ。それを拭うことなく、失われた日常の感覚を思い出す。当たり前だった起立感覚をカラダに言い聞かせ、取り戻そうと歯を食しばる。血の逆流。貧血によるめまい、くずれ落ちそうな平衡感覚。それに耐えるように、猛は歯ぎしりさせた。動画は、途中で終わった。
「身体は立っとうけど、感覚が追いついとらん。立つというより、立たされとう」猛の表情は悔しさに揺れていた。
「伸びしろありますよ」
「まあね」猛はにんまりした。相変わらず、どんな不吉な風も、不穏な影も吹き飛ばしそうなくらい眩かった。そのとき、なにかが崩れる大きな音がした。
「おかん!」
洗面台の下に、猛のママが崩れ落ちていた。洗面器は宙を舞って、床に転がっていた。ぬるま湯が床に広がり、倒れたママのかたわらに、レジ袋の口からピーマンと人参がこぼれ出て、白い病室にオレンジと緑の鮮やかな色彩を放った。
「え?」何がなんだか分からなかったこの光景が、刃物のように鋭い現実として、静香の喉もとに突き刺さった。
「大丈夫ですか!」静香は駆け寄った。けれど、ママは反応しない。目を閉じたまま、弛んだ胸もとはかすかに上下している。
「看護師呼んで!」猛はベッドにあお向けになったままだった。ベッドから絞り出すように呟いた。
「—————おかん」
猛の声は怒りと悲しみに震えていた。母が倒れてもこのベッドから動けない現実への怒り悲しみがないまぜになって、唇を噛みしめる。軽く握った右腕も慄いた。その腕が、病室の片隅へ微かに伸びた。けれど、冷たい床に頬を伏せ、目も開かないママを触れることができない。
「ナースコール!」
猛の声で、静香は我に返った。猛のベッドにくくりつけられたナースコールに飛びついた。機器のコードをたぐって、震える手で握りしめる。指に力が入らない。
「—————来てください」
カチ、というボタンのわずかな手応え。それが心許なかった。けれど、病室に電子音が鳴り響いてくれた。
*********
「やめてくれん」
猛は拒んだ。その脚は、所有者不明で投げ出された義足のように無防備だった。つい最近まで、あの夏休み前まで静香の力ではかなわなかったはずの、大樹の地に下ろした根のような脚を、簡単にもちあげることができた。猛はしょんぼりしていた。
「意味ないけん」
「よくなるかもしれないんで」
希望とほど遠い、祈りのような理由で静香は続けた。ママに代わって脚を揉んだ。脛の裏の肉をこねた。二人は黙った。マッサージをすることしか、このいたたまれない沈黙を埋める術はなかった。静香は、麻痺してしまいそうになるまで指の腹で揉んで、ほぐす。風に消えた名残をたどるように、伸びた爪を立てないように指のお腹で脚を揉んだ。運命をあらためて憎んだ。その気持ちが指先へ伝う。白くげっそりした猛の脚。かつて、猛々しくフィールドを踏みしめた大腿筋。いまはただ、静香に投げ出された骨とのっぺりした白い肉だけの記憶の欠片。静香の小さな指を、ぬかるんだ粘土のように脚の筋肉は微かに押しかえす。
さすが病院で、速やかに医療チームが、マジックテープを小気味よく鳴らし、腕に血圧計を巻きつけたり、指先に血中酸素濃度をはかる洗濯バサミのような機器を挟んだり、ペンライトで猛のママの瞼をおさえて、瞳孔を覗いたりなど、プロの手際だった。理由はすぐわかった。過労だ。いま、猛のママは処置室でビタミン剤の点滴を打っている。取り乱していた静香も、点滴をうたれて眠りにつく猛のママの安らかな寝顔を見て、安堵した。
「脚、なんも感じん」猛はポツリと天井のシミを見上げながら呟く。言い返せなかった。
「なあ———静香」
猛の声は掠れ、しみったれていた。
「なに?」
「俺って迷惑?」
「そんなことないけん」
静香はすぐ否定した。けれど、それから先は、紡ぐ言葉を捻り出すのに時間がかかった。言葉が追いつかなかった。
「倒れるのこれで2回目なんよ。ずっと、つきっきりやったけん。最初に倒れたとき、俺がマジギレした。もう休め、看護師さんにまかせとけって言ったけど、『看護師さんが大変になるけん』とか言って、聞かんもん。最近やっと、ここに通うのも週5日に減らしたけど、それでも、しんどそうやけん。排便とかさ。好きでこうなったわけやないのに、どうすることもできん。母ちゃんに尻拭いしてもらうしかない。そのたびに俺、死にたいって思う」
「—————」
「あと、アキトも来るやろ? ただでさえ、あいつら試合前で忙しいのにさ—————俺なんか、気にせんでもいいのに—————来たところで、さっきみたいに暗い気持ちをさせるもん」
「いい加減にして—————」静香は凄んだ。
「みんな、猛のことが大切やけん。猛の母さんだって、アキトたちだって、うちだって! 一緒にプレーしてきた仲やろ! お見舞いに行くのはあたり前やもん」
「そういう同情とかさ、気まずいし辛い」
「ちがうけん!」
静香は、強くかぶりをふった。「みんな、猛を待っとう。必要としとるっちゃん! アキトだって言っとった。『俺に、猛のかわりは無理。もし、猛だったら、どうするか。それをいっつも考えとる』って」
「アキトが?」
「それにね。学校、いま無茶苦茶やもん。今日もさ、ボイコットしようって言って、みんな、学校を飛びだしました。これから、どうなるか分からん。うちだって——————猛から元気もらっとうもん」
「ついさっき、母ちゃん倒れたやろ! どこに元気をもらう要素があるん?」
「それは—————」
静香は口をつぐんだ。そこから先の言葉は、どれも薄っぺらく思えて、口が動かなかった。二人をへだてる透明な大河のような、気の遠くなる沈黙が現れた。目を合わせることすら億劫だった。猛は話題を変えた。
「ゴンはどうしてる?」
「知らん。見とらん」
あまりに素っ気なかったことを後になって悔やんだ。でも、ほんとうに何も知らなかった。記憶の中でゴンの姿は霞がかかっていた。
「元気かな?」
また、沈黙がつづいた。その無風で空っぽの空気を埋めるように、静香は、猛の脛に手を置き、揉んだ。猛の脚について、思いを巡らしていたとき、ふと、さっきのママが倒れていたときのことを思い出した。猛の片腕が一瞬、動いた。それだけじゃなく、肩が一瞬ぴくりと震えていた。痙攣なのか、それとも—————。
「そういえば—————」話しかけたその刹那、お調子者の声が聞こえた。
「たったらあ!」佑太の声とともに、ドアが勢いよく開けられた。その先に、立派な黒の千羽鶴が誇らしげに掲げられていた。
「みんなで作った!」千羽鶴は色鮮やかだった。チームカラーの黒にしろよと猛はこそばゆい表情をする。それは縁起悪いからと佑太は笑い飛ばす。千羽鶴は一つ一つ祈りを込めて、丁寧に折られ、重ねられている。そして、完全無欠の甲羅の甲冑を着飾った、カラフルな不死鳥のように思えた。
「すげー 」猛の瞳は煌めいた。さっきまでの感傷の色はどこかへ吹っ飛んだ。
「すごい—————」折り鶴のあまりの出来栄えに静香も声が出た。
「とぼけんなって、」祐太が鋭いツッコミを入れた。「このまえ、静香も折ってたやろうが」静香はこすっからそうに、舌を尖らせる。ベッドに半分乗っかている静香を見て、佑太は興奮する。
「というか、なに、女子高生にマッサージしてもらってるんですか! 静香、俺にも!」佑太は、瞬発的にズボンの裾を捲り上げる仕草をした。
「セクハラやけん」静香は桃色の舌をべえっと出した。そんな彼女に、猛が優しく声をかける。
「もういいけん。さすがに指が疲れたやろ」
「まだいけます」静香は譲らない。考えるより手は動いてしまう。
「せっかくやけん、佑太、マッサージ代わってくれん? やめろって言ってんのに、辞めんちゃん」
「いやっすよ」佑太が、気だるそうに肩をすくめた。それは、素直にまっすぐ言えない男のカッコ付けだった。やれやれと呟きながら、身体だけは迷いなく、猛のベッドに飛び乗った。静香にどけと荒っぽく言い、襟をかたく捲って、肩を大きくまわし、指の骨をポキっと鳴らしてから、逞しくて安定した握力で脚を揉みほぐす。
「猛さん、あれ見せなきゃ」静香はふと思い立ち、猛は、ふふふと笑みをこぼして、請けあった。
「おう」
「なんなん?」猛の透き通った表情にアキトと佑太はそそられる。さっき観た装置にくくりつけられた猛の直立不動がもう一度再生された。
「立っとうやん!」アキトはかたく猛の手をにぎりしめ、目を潤ませた。
「ゆうて、機械に支えられて立っとうだけやけん。まだ30秒しかもたん。ばってん、立つ感覚を久々に思い出した。貧血との戦いになるっちゃけど」猛はさりげなく照れていた。
「でも、立つのはえぐいですって!」興奮する佑太から唾が飛んだ。
「あたり前やろ! ずっといじけて、寝たきりのキャプテンとか嫌やろ」
「もっと気合入れてマッサージします!」
佑太は、自らを『ゴッドハンド』と称した。冗談っぽいけど真剣に、佑太は一途に指を動かす。病室も自然と熱気を帯びはじめた。マッサージだけに留まらず、ストレッチまではじめた。猛の骨ばった足首を持ち上げ、くるぶしの関節をまわす。足ツボと称して足裏に一つ一つ入魂するように親指を押し出した。さすがに、猛も恥ずかしがって「やめろって」と根をあげた。それでも、佑太はお構いなしだ。佑太は、いつもこんな調子だ。さりげなく茶色に染めた髪に、ゆるいパーマ。開け放ったシャツの胸元には、銀のネックレスを忍ばせている。生徒指導の先生とは、日常的に火花を散らし、軽薄に映る。だけど、練習中や試合前、佑太のよく笑う表情は引き締まって、精悍になる。無駄な動きも言葉も消える。軽薄さと真剣さ。その落差に変に惹かれる。
「今週やろ、県予選」
大仏の佇まいの猛は、そう切りだした。「初戦シードは筑紫学園、準決勝は小倉北高校。ここまではワンサイドゲーム。ばってん、決勝の筑南高校のナンバーエイト」
佑太は、パンパンに中身が入ったエナメルバッグから、手慣れた手つきで学校支給タブレットを取り出した。
「監督的になんて?」猛は言った。
「俺たちは、選手としての層が厚いけん、ひとりでも十分、ナンバーエイトを倒せにいけるって」
「えぐ」佑太は、頭を抱えた。
「俺は県予選からフルで出るつもり。そこはゆずれん」アキトは窓ぎわの椅子に腰かけ、腕を組んだ。
「やかましいわ。みんなのためやろ。アキト、お前は適度に休め。やないと、また、脚痛めるけん」
「気合いがありあまっとっうけん」アキトは豪語する。
佑太は、タブレットから試合動画を映した。ニュージーランドの留学生ダニエル・レイオナが、ディフェンスをなぎ倒しながらの独走トライ。タックルは無意味。弾き飛ばされた選手たちが芝に転がる。そのタックラーの残骸の隙間を縫って、彼は一人、ゴールラインへ疾走した。
「俺のキックでレイオナを振りまわそうか。んで、キックしたら、オフサイドを全力で駆け抜けて、真っ先に俺が、あのレイオナをタックルする。エグいけど」佑太はマッサージに念力をかけながら言う。
「留学生は猛よりでかい。ボールを持った暴走機関車。でも、裏を返せば、そいつ以外手薄ってことやん。パスとキックを連発して、そんでナンバーエイトを走らせる。後半にはバテさせるけん」
「でも、あいつがボールを持った時は、—————下手に正面からタックルして、打ちどころ悪かったら死ぬ。えぐいって」
「まあ、俺も、2ヶ月前は生死さまよってたわ」猛は、豪胆に笑う。
「笑えないすっ」佑太がタメ口で、猛の太ももをパチンと叩いた。
「先輩を叩くなって」
猛の右足の親指がぴくりと—————わずかに動いた。皮膚の下で電流がほとばしったかのように。痙攣かわからない。けれど、かすかに反応した。静香が叫んだ。思わず、アキトの袖をつかむ。
「どしたん?」佑太は気づいてない。猛もキョトンとしている。静香は、はやる気持ちを抑える。
「先輩、もう一回。親指うごかして」
「なわけないやろ」猛はわるい冗談と言った。静香の声には願いが込められていた。その願いが夢ではなくなる「もしかして」がときめく。
「いいけん」
猛は真顔になって、右足の末端にすべての神経を注いだ。固唾を飲んで見守っていると、猛の親指は、瞬きのようにさりげなく二度三度、動いた。彼は、指の筋肉の動かし方、力の入れ方、念じ方、その加減。色々試した。親指は、20回念じて1回くらい、ごくまれに不規則に、前触れなくピクッと動いた。
「左も」身を乗りだしたアキトの拳は、血管が浮きでるほどかたく握りしめられた。
「おう」猛はながく踏ん張った。しばらく時間が経った。左足の親指をうごいた。右足ほどではないが、足が痺れながらも、微弱にほんの少し揺れた。猛も戸惑っていた。
「ガチえぐい」佑太は嬉しさのあまりシャツを脱いで、なにげにくっきり割れた6つの腹筋をひけらかし、ぴょんぴょん跳びはねた。勝利に酔ったサポーターのように脱いだシャツを頭上で、派手に振りまわした。
「もっとリハビリがんばろ! 」感極まったアキトは抱擁する勢いで、猛のぶあつい肩をつかんだ。
「あたぼう」にやっとする猛の表情が眩しかった。アキトが言った。
「先生呼んでくれん?」
「わかっとるけん」猛の笑顔に、目をチカチカさせた静香は答えた。
「お母ちゃんも」すかさず、猛はつけ足した。
「わかっとる」
喜色満面の静香はグッジョブの親指を立てた。
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「負けるわけにはいかんけん。あいつは戦っとうけん。俺も頑張らんと」
アキトは、興奮が冷めあがらなかった。静香はさりげなく、軽やかなスキップを踏んだ。天神駅でふたりは下車し、地下改札をすり抜け、人の行き来のある天神地下街を歩いていた。闇夜を基調とした地下街のレンガの壁と、影絵のような花模様を模った鉄の天井も石畳の通路。影がうごめき、等間隔に置かれた街灯がほのかに瞬く。まるで異国だ。たくさんの人が行き交い、アパレルショップやカフェ、土産物店は幻惑的に光っている。るんるん気分の静香にとって、今いる世界がすべて夢物語だった。
「佑太、ちょーし乗ってたな。さっきも地下鉄の中で『俺のゴッドハンド、ゴッドハンド』ってめっちゃうざかった。そんで、俺の肩とか腕さわってきて、バリきもかった」
「運が強いんじゃいですか」
「運がいいけん。猛の専属トレーナーになればいいっちゃん。てかもう、マッサージ師なれよ」
「猛さん良くなりますよ」
「うん。あいつ、リハビリがんばっとるけん。俺たちがプレイで応えんと」
「土曜試合やけん、来てね。福岡西のグランドで10時キックオフ。猛も来るけん」
「もちろんです」
「退屈させんけん。100対0でホールド勝ちにしてみせる」
「そんな約束していいんですか?」静香は笑った。
「バカにしとうと? 俺たち、花園の常連やけん」
「頼もしいやん」
西鉄(福岡)天神駅の案内が見えた。ふたりは地下街から逸れた。ソラリアプラザから地上へあがろうとしたとき、アキトは静香の右腕をもった。
「でさ。静香」地上にあがると都市の中で開けた大地が現れた。新鮮な空気に触れたとき、アキトは妙にかしこまった。
「今日言ったやん。猛を花園に連れていくって」
「うん」
彼の表情を確かめようとした。そしたら、二重の真っすぐなアキトの視線と間近でかち合った。内なる鼓動が際立って聞こえてきた。アキトは静香の手をとった。中身のない小さな着ぐるみのように、静香はなすがまま連れていかれた。警固公園へ出た。繁華街にある広場で、涼しい夜風にあたった学生グループが座り込んでいた。カップルがちぢこまって、身をよせあっている。
「俺さ、本気で思っとるちゃん」
深呼吸しようと静香は、夜の天神の、四角に区画された夜空を見あげた。ついでに、気をまぎらわそうと、点在する星くずでも見ようかと思った。だけど、ヴィトンやソラリア、三越やビッグカメラのネオンのせいで、闇の中の微かな星を見いだすことはできない。
「あのさ、土曜の筑紫学園戦、勝ったらさ—————」
少しずつ、まさかの領域へせまる。試合だって近い。猛のことを背負っている。アキトの手を引っぱる力は、十分あらがえられるくらいに遠慮がちだった。だけど、静香はアキトの手に身を委ねた。にぎやかな公園から離れた警固神社へゆく。地面は、石畳から神社の砂利路になった。一歩一歩、踏みしめるたびに砂利同士のこづく音がする。その砂利の音が、このアキトと一緒に歩く状況をあけすけに煽った。
「—————付き合って」
駐車場をへだてた本殿よりも過疎ってる小さな杜に行きついた。かたわらにある、誰もかまってくれない無名の石碑にふたりは腰を下ろした。静香は、しおらしく黙った。ネオンの木漏れた光をたよりに見ると、石碑には『針乃碑』と、彫られていた。意味はなんだろう。たわいもない、ちがうことを考えないと、目の前のアキトの瞳に吸いこまれそうになる。静香は、石碑にしがみつく心もちだった。かたわらに『和服裁縫組合』と刻まれていた。折れた、手芸で使う針でも供養しているのかな。
「好きっちゃん、静香のことが」
彼は、別のことを考える静香を引きもどす。右往左往、静香の泳ぐ目を、おえつけるようにアキトはまっすぐ見た。アキトの潤んだ虹色の虹彩に吸いこまれそうになる。瞳の中に惑溺してしまった静香はうつむいた。
「ちゃけどさ、筑紫学園に勝つとか。めっちゃ高確率やん」
「100パー」
「なんそれ。もう付き合うやん。せめて、全国制覇くらいしてくれんと」
静香は俯く。膝のうえにおいて、視線を落とした。拳を見た。小ぶりな白いクリームパンのような、か弱い拳。それから、革靴のつま先を見る。履きつぶれ、つま先の表面が剥げている。振り子のように足を動かした。すりへった靴底と、石段の掠れた音。肩すかしのようななんとも言えない虚しい音。
『全国制覇』
その言葉は、ちっともダサくない。痛くもない。アキトは、努力してきた。うちの何倍も、何十倍も。何万倍も。その言葉に芯がある。手に届く範囲にいる。だけど、猛のおもかげが「待った」をかける。そんなこと、あとで考えればいいやんという気持ちがないまぜになる。なんだかんだ激しい感情がぶつかる。猛のおもかげが、とろけてきた。自己矛盾に拍車をかける。
「花園優勝したら付き合ってくれるん?」
アキトはニカっと笑った。本気で約束を果たす気だ。と同時にこういうかけひき、慣れてるんだと思った。無言でいる自分が、むしろ、へたれだと思った。へたれな自分は、曖昧に頷くことしかできない。
「うん」
「花園って正月やけん。俺たち2ヶ月後、卒業ちゃけどさ」
そうだ。アキトはもうこの学校からいなくなる。
「推薦なん?」
「天理大学。卒業したら、ここから離れるけん」
「どこなん?」
「奈良」
がく然とした。福岡と奈良の距離感を頭の中で考えてみた。でも、うちが受験がんばればいい話。ママはどうしよう。兄ちゃんが上京して、うちが、関西の大学とか行ったら、ひとりになっちゃう。てか、経済的にできるのか。
「やけん、今しかないって思う」
「もし彼に付き合ってもさ。アキト、大阪いくっちゃろ?」
「そうっちゃけどさ」
「福岡離れるって、わかって言ってんの?」
「うん」
「なんそれ。遠距離とか、きびいやろ」
「さきのこととか、どうでもいいやん。いま、静香のことが好きになった。それに、嘘はないけん。いま、「好き」って気持ちだけじゃダメなん? 」
マリアのことを考えた。この気持ちを受けとめたら、どうなるんだろ。そのつぎに、猛のことが浮かんだ。愛染した気持ちで、こんなやりとり自体がすごく背徳な気がする。自分自身がキモいって。
「それどころやないやろ」
「しとうけん。こう見えて、俺、努力してる。ランニングをやってる。腹筋100回、腕立て50回を3セットした。体幹も。ダンベルだって今日は80キロ上げた。パス練もした。スクリューも、オフロードも、ハンドリングだってくどいほどやっとう。もし、猛から『本気でやっての?』って言われても、俺は正々堂々『うん』って言える」
「そんなふうに見えんちゃけど」
「頑張ってるとこ、見せんほうがカッコいいけん」
「なんそれ。ずる」
「ずるいけど、ださくないやろ」
アキトの瞳が大きくなっていく。彼は沈黙のまま、答えをせまった。瞳はあまりに透きとおっていて、左右に、静香がくっきり映えている。その瞳に囚われた自分が映っている。そう自分は囚われている。さきを読む理性さえ蒸発してしまった。静香は一息ついた。
「いいよ」
アキトの瞳に吸い込まれないよう、俯いてまた視線を革靴のつま先にもどした。
「いまでいい? 筑紫学園勝ってから? 」
「いまでいい」控えめな感じで言った。
「なんなん」アキトはクスッと笑った。笑い方がやっぱりイケメンだった。
「けど、ありがとな」
アキトのえくぼが、暗がりでも分かるくらい深かった。それから、静香の頭をなでた。アキトは頭を撫でて、静香のもっちりした頬に触れた。静香は、浮遊するハウスダストのように身も心も浮遊した。キスが必要になった。
「いい?」
まつ毛の長い瞳を前にして、何も言えなくなった。静香の小さな鼻の先っぽの感覚は、底冷えで失っていた。かたく冷えた鼻先が、アキトの高めでまっすぐな鼻先に触れた。アキトの鼻もしんと冷えて固かった。ふたりの間に濡れた音がした。目を開けると、アキトのえくぼ付きの微笑が、ぼやけた残像として映った。生まれて初めてのことだった。そのあとの目のやり場に困った。アキトはまた、目を閉じ、彼の精悍で、でもまつ毛が長くて、けれど、あどけない少年の顔をよせた。いつの間に片腕を、静香の首もとにまわし、もう片手で、静香の左手を包み込んだ。彼のペースにもっていかれている。猛の面影がまた浮かんだ。かすかに震えた足の親指。猛のお母さんの涙も心の中に浮かんだ。
「だめ—————」
手を離した。病室の光景は感涙で包まれていた。たった1時間後—————気持ちの切りかえができない感動と、突然の背徳が混ざりあった。猛のリハビリとキスが、頭の中でとなり合わせになった。時空は歪む。感動と背徳のはざまで身体が捩れそうになった。




