フラワーガーデン(18)前半
我々は勝利しました。
本日でボイコットを解除します。
勝利宣言がグループラインに投げられた。クラスメイトのみんなはちらほら、喜びのスタンプを押した。生徒会選挙の波乱。ゲンジのボイコット宣言から翌々日のことだった。
「あーあ」
朝のホームルーム前の教室で、乃愛があくび混じりに身体をぐいっと伸ばした。
「校則廃止やろ? もっと挑戦しよかな」
乃愛は、髪やメイクのアレンジに思いをめぐらせていた。夏が過ぎた朝。教室は真新しい空気をはらんでいた。長い年月を経て再会したように少しぎこちなく、男子はたがいの肩を軽く叩いたり、腕を触れ合ったり、女子は手と手を合わせて笑っていた。何も変わっていない。ただ、ボイコット以来、言語化できないしこりがある。
「昼まで寝よと思っとたのにさ————もっと粘って泥沼にせんと」
乃愛は、半目の眠たそうな顔をして手のひらサイズの鏡と睨めっこし、前髪を整えていた。
「ボイコット雑魚やけん。3ヶ月くらいはつづけてくれんと」
「そんな続いたら、修学旅行もつぶれるやろ」
「どうせ、京都と金沢やろ? ユニバじゃない時点でゴミ。キャンセルしよ。いまなら、間に合うけん。そしたら、積立金返されるらしいよ。5万やけん。それで、東京ディズニー行こ。めっちゃ贅沢できる」
「そんなの卒業旅行でいいやん」
「お金がね——————あ、そういえば」乃愛は小さな鏡をパチンと畳んだ。そして、から、何かを思い出したのか、目の色を変えた。肩をそびやかし、声を落とした。「おととい、警察騒ぎがあったらしいよ」
「なにそれ?」
「マリアがストーリーズあげとった。静香の仇」
「煽らんでよ」
「ゲンジたちが打ち上げとか言って、200人くらい集まってさ、パーティーしとったらしんよ。そしたら、警察が来てさ、そもそも、そこが私有地の廃墟でさ。それにさ、ちょっとかして」乃愛は、静香に小さな耳を求めた。乃愛は息を吹きかける。
「飲酒しとったらしいんよ。タバコも」
チャイムがなった。廊下で騒いでいたクラスメイトはそれでも座らない。ミゾヱは、出席簿を脇に抱えて教室に入って、座りなさいと何度か叫んだ。ギリギリにやってきたサッカー部が、間一髪で教室に駆けこむ。
いつもなら、ミゾヱは『余裕をもってきなさい。急いでいる朝が一番、事故に遭うんだから』と諭す。けれど、今日は違う。ミゾヱは微笑ましくなっている。和やかな教室。静香はこのときを尊く思った。
「やっと、会えた」
ミゾヱの目尻が震える。その細やかな揺れに気づいたのは、静香だけだった。
「センセイ———」サッカー部がこすっからい笑みを浮かべ、うやうやしく手をあげた。「いつ、校則無くなるんですか? 」
静かな緊張が走った。ミゾヱから笑みがすっと、なくなった。
「これから、みんなのまえで校長がお話しします。それじゃあ、体育館シューズ準備して」
遠足気分で廊下を歩く。巾着袋に入った体育館シューズを手にぶら下げていた。サッカー部は、紐を握って、体育館シューズが入った袋を蹴りながら歩く。
「インスタにゲンジが映とった。ゴンドーも」
「警察の話、ホント?」
「うちも、行けばよかった————でも、マリアがおるけんさ。静香の恋がたき」
乃愛は、のほほんとしていた。まえのサッカー部を真似て、巾着袋を蹴った。体育館シューズは景気よくクルクル回転する。
「乃愛まで嫌いなる必要ないけん」静香の声は細くなった。
「大丈夫。うちも、嫌いやけん。静香に言いがかりつけとってさ」
「乃愛、声大きいって」
「はっきり、聞かせんと。キモイって」
********
「はじめにこの一連の出来事により、『極東』に通う生徒たちの信頼と誇りを揺るがしてしまったこと。いま、ここで教職員を代表して、謝罪しなければなりません」
痩せぎすになった校長は、頭を深く下げた。校長はどく痩せこけ、白髪も増えていた。
「先生たちは連日、夜おそくまで話し合いました。君たちの要求を一部認めます。これからは、生徒たちと共に再スタートをしていくつもりです」
体育館はざわついた。歓喜する者、『一部認める』という言葉に眉をひそめる者も。
「しかし、残念ながら—————」
校長は、乾いた咳を一つした。喉からうめくような声がする。しぼり出すように言葉をつなげた。「おととい、学校近くの私有地で本校生徒が無断で侵入し、学校備品を複数持ち出し、大音量で音楽を流し、近隣住民から110番通報される事件がありました。少なくとも200人以上の生徒が関わったものと思われます。パトカーが複数出動する騒ぎです。一部は、そこで飲酒や喫煙行為をしていました。警官が立ち入ったとき、ほとんどの生徒が、警官の制止を無視して、逃走しました。そのとき、一人の警官、押し倒されて負傷しました、警察は、この件について捜査をはじめるとのことです」
どよめきがうず巻いた。
「自由には、責任がともなう」
校長は震えながらも鬼気迫った。「責任がともなわない自由など存在しません。他人を思いやり、自ら律する。やるべきこと、課せられたことをやって初めて、自由が認められます。それもせず、あれこれ要求するのは、わがままでしかありません。人様に迷惑をかけてまで、自分勝手に過ごすのであれば、校則の見直しなど、できっこありません」
ささやきが集まって、群衆のざわめきになった。そして、野次が飛んだ。
「ふざけんな!」ブーイングが巻き起こった。
「自分らのことを棚上げするな!」
「そもそも、ボイコットを招いたのはどっちや!」心の弱い静香は無意識に、耳を両手でふさぎ、目を閉じた。
「静かにしろ!」
舞台袖から虎衛門をどなりつけた。「先生たちが言いなりになったとでも思っているのか!なにもかも変わったと思うんじゃない! 勘違いするな! あくまでも君たちは生徒で、我々は生徒でここは学校だ! 」
反駁の声がうっすらとなくなり、わずかな静けさがかえってきた。虎衛門の気迫がおさえつけた。だけど、その無音も一瞬のことだった。
「謝罪はそっちだろ!」罵倒と怨嗟がさく裂した。
「でかい面しやがって!」誰かの怒号で無音はかき消された。教頭は事務的に告げた。
「現場に多くの生徒がいました。200人くらい。その場に、誰がいて、何が行われていたのか、しっかり突きとめて、しかるべき指導をしなければなりません。これから、教室に帰ったら、まず、2限のはじめにアンケート調査を行います」
「お前らこそ処分されるべきだ!」
「以上です。まず、1年生から退場してください」教頭はさえぎった。
「まだボイコットは終わってない! 」声の主はゲンジだった。
「そうだ」の大号令がとめどもなく沸きおこる。乃愛はその修羅場を笑い、ひたむきに「そうだ、」と、喉をはち切らさんばかりに加勢した。
不意に、権藤の姿が目についた。そらそうとした矢先、彼と目が合った。彼は笑っていた。権藤だけではなかった。ほかにも笑う人がいた。怖気づいた静香は、すがるように、アキトの姿を求めた。
「おい」虎衛門の一喝で、静香は弾かれるようにステージを向いた。虎衛門は眼光を鋭くさせた。
「いま、そこで叫んだ者。先生たちは見てるからな。それに、身のこなしが、だいぶ乱れている。とくに女子。染めている者、メイク、ピアスをしている者、スカート丈が短い者もいる。勘ちがいするな。自由には責任がともなう。自由とやりたい放題は、まったくの別物だ。履きちがえるな! これから、担任がそれぞれのクラスをまわる。声をかけられたものは体育館に残ること!」
「ちょ、やば————」
乃愛はピアスを外して、ポッケに押しこめた。折り曲げて短くしたスカートの丈を下げた。そのまま、ポッケの中をガサゴソして、ヨレヨレになった薄い使い捨ておしぼりをとり出し、ほんのちょっとだけ、撫でて、ファンデーションをぼかした。
「うちの防衛本能ヤバくない? たまたま、あった」
彼女は、薄い小さなおしぼりで、たまご顔を拭いた。メイク落としではないけど、おしぼりのシートはしっかり、赤い口紅を受けとめ、拭き去った。体育館天井の光を、顔の皮脂で受けとめ、乃愛の笑みがよりいっそう磨かれる。その健康的なテカリを、ミゾヱに見せびらかせ、ミゾヱの合格を貰うなり、渾身のセーフのポージングをする。メイクを拭き取っても、乃愛はやっぱり美顔だった。
「ねえ、あっち」
優越感にひたった乃愛は、肩をそびやかし、3年の方を見やった。視線の先に、マリアが騒いでいた。
「なんでうちだけなん!」手を焼いた教師たちはマリアを囲んでいた。彼女の担任は、メイク落としのシートを握っていた。あからさまなキャラメル色に染めて、体育館に降りそそぐ光をそのまま、明るい色で照りかえす。
マリアと目がかち合ってしまった。静香は、固まってしまった。聖母像とは程遠い形相で、静香を睨みつけているような気がした。
*********
「まったくのゴミ高校やん」
教室に帰るとクラスメイトが、しめっぽい寸評をこぼし合っていた。
「虎衛門って監督つづけんの?」抜き打ち検査を切りぬけた乃愛は、スカートを折り返し、もとの短さに戻して、隅で、ちょこんと座っていた萌映に尋ねた。教室がしんと静かになった。あからさまなくらいだった。
「うん————」萌映らしくなかった。視線を落とし、垂れた前髪の隙間から机の木目をじっと見つめていた。視線の先には何もなかった。みんな、驚嘆した。嫌なくらい露骨だった。
「え—————部員とかって、どう思ってんの? 文化祭のとき、部員たちを使ってさ」
乃愛は無神経だった。不満も半分、散らしている。萌映の声が細かった。
「あれは、生徒たちが話し合って、自分たちでしたこと。それに、花園直前やし、もとから、モチベーション高いけん」
「そうなんや」みんな、遠まわしになじっている。ある女子が、決定的なことを言った。
「それだけやないやん。夏の事故だって————」
悪気はないけど、萌映の表情が少しブレた。3限のチャイムが鳴った。「古典探究」の時間。まだ、教科書を準備していなかった。まもなく、古典の年配教師が教室に入ってきた。号令してから、着席する。授業の始まり。静香は、恐る恐る、教壇に立つ先生に「ロッカーに、教科書取りに行っていいですか?」と小声で尋ねた。すると、仁王のように、あからんだ顔を見せて、一喝した。
休み時間に、準備しとけ!
静香は、しぶしぶ唇をとんがらがせ、自分のロッカーを開けて、教科書を手に取って、席についた。そこからが、長かった。この教師は、板書をしなかった。教科書の一行一行、念仏のように読みあげる。黒板は手付かずの、いつもの通りの授業のはずだった。男子生徒が、大胆に机に突っ伏して寝ていた。元サッカー部。堂々と眠っている。信じがたい光景だった。老人教師の顔が、みるみる紅潮していく。
「なんしよっとや!」声が裂けた。それでも、男子はびくともしなかった。むしろ、気持ちよさそうな眠りを貫いていた。
「おい!」声が、鋭く轟いた。眠りから引きはがされたように、男子生徒はゆっくり起きた。髪はぼさぼさで、目は半分も開いていない。苛立ちだけが顔に残っていた。
「———うっせえ」
しばらく間があった。教師の声がわずかに裏返る。教室全体がざらついた。
「もういっぺん言ってみろ!」
「板書しねえくせに偉そうにすんな!」机を叩いた。刺々しくなった。
「なんだと!」教師と生徒。たがいが逆上しあって、擦りむけるほどたがいに火花を散らす。まわりの男子たちが、こっすからそうに手を叩いて、囃したてる。
「授業中やろうが!」
「手抜き授業なんて、聞く価値ねえ!」
「いま、なんつったや! 教員に対する暴言やけんな! 」怒りを超えて、警告になる。
「朝、どんな話があったか忘れたとや! 先生たちが言いなりになったと思ったら、大間違いやぞ!」
「まだ、ボイコットは終わっとらん! 」
「もういい! この件、問題行動として、生徒指導部と学年にあげさせてもらうけんな!」
言い終わらないうちに、チャイムが鳴った。
「号令はいらん!」
教師は、怒りに背中を震わせながら、教室のドアを乱暴に閉めた。その瞬間、歓声が上がった。
「お前、やばすぎ」
男子たちが、反旗の狼煙をあげた男子に群がり、肩を叩いて称えた。ヒーローインタビューが始まった。休み時間、そして、4限が終わって、ようやく昼時になった。嫌なものを見せられた静香は、弁当を提げて教室から出た。乃愛がすぐあとを追ってきた。
「どうしたと?」静香は前を歩く。昼のラッシュ。学食や購買部めがけて、男子が一目散に猛ダッシュし、風のように過ぎ去る。
「別に」
その一言が、静香の背中からこぼれた。体育館棟1階。静香は、学食に降りたった。400人収容のカフェテリア。丼物、麺類、カレーライス、定食。それぞれ、仕切られた食堂の提供口に、長蛇の列ができはじめている。ラーメンの列が目立った。喧騒から外れた隅っこのテーブルに、静香はそっと腰を下ろした。弁当を包んだナプキンを解いて、蓋を開けた。オージービーフの焼肉、ピーマンとエリンギの炒め物が、隙間なく詰んであった。カルビにかけられたニンニク醤油が、弁当箱じゅうに染み渡って、スライスにんにくが、まばらに点在している。昨日のごはんの残り。ママは、うちのことのなんか全く考えてない、ザ男の弁当って感じ。でも、それさえもどうでもいい。乃愛は、購買部にパンを買いに行ってしまった。静香は、ひとり黙々と箸を動かした。食べるというより、作業のように口に運んだ。味も温度も感じてない。ただ、反復する。菓子パンの入った紙袋を2つ下げ、乃愛が戻ってきた。静香の表情の機微に気づいたらしい。
「どうしたと? スカッとしたやん。古典探究よく言ってくれたって感じ。あれ、マジで静香悪くないけん。野咲とか、フツーにチャイムのあとでも、ロッカー許してくれるやん」
「なんか、うち苦手」
「雰囲気悪くしとうのは、向こうやろ。うちらはうちらの権利を言っとうだけ」乃愛は、小さな紙袋をガサゴソ言わせて、メロンパンを覗かせた。それを、パクリとかじる。
「そうかな——————」
「なに、静香、学校に肩もっとうと? 学校派?」
「なんそれ?」
「最近、流行っとうけん。学校派とゲンジ派。うちもゲンジ派。もちろん、みんなもね」
「馬鹿らし」
「学校派リーダーは副会長。うしろ振り返ってみ」
口いっぱいに頬張った乃愛が、齧りかけのメロンパンを口元に押さえて、うしろへ目配せする。静香は、視線をそっと背後へ流した。
「うしろの男子グループのまん中におるメガネ」
3年の男たちが背中を寄せ合って麺を啜った。音が、くちゃくちゃ粘着質にあてもなく、カフェテリアに滞留する。彼らは、顔を寄せあって、どこか陰険に勝ち誇ったようにヒソヒソ話していた。
「ぜんぶ、奢り」銀縁のメガネの男は、余白のある顎を撫でながら言った。レンズを白く曇らせて、ただニンマリ笑う。肌は白く、高校生というにはどこか老けて、おっさんというにはどこか垢抜けてない容貌だった。その男は笑った。
「癌どもの退学記念日」
「マジ?」
麺をすする音が、ねちっこい笑い声と合わさり、耳にまとわりつく。なんの話か、分からなかったけど、なんとなく、よくない話をしているのはわかる。静香は、箸が進まなくなってしまった。弁当のオージービーフは冷めてて、スジも噛みきれない。お供のスライスにんにくは、口臭がすごいことになる。静香の弁当箱の端っこで、それは横たわる。
「副会長の進路知っとう?」乃愛が言った。
「いや」
「内部推薦もさ、噂やけど。副会長として、学校に都合いいピエロやってきたご褒美やって噂」
「————————」
「まあ、ラグビー部も、学校派やろ。静香、複雑よね」
「そういうのいいけん」
「静香も学校派なん?」
「そうじゃない」
「噂やけん。そういえば、萌映は?」
「視聴覚室で、ラグビー部のミーティング」
「そういや、萌映も元気なさそうやったね」
「萌映はいろいろ背負って、板挟みになっとうと。花園も、ボイコットも、猛先輩のことも。なのに、乃愛は、根掘り葉掘り聞くけん」
静香は畳みかけるように、弁当に蓋をした。オージービーフの一切れは、横たわったままだった。静香は、弁当箱にナプキンを包み、布の端っこと端っこを結びつけた。乃愛はニコッと笑った。
「それは誤解やけん」
その時、女の声がした。
うざ ————————
声にならないほどの息に近い声。けれど、意図的に、うちにくっきり聞こえるように発された声だった。静香の横を、長い女の影がすらりと通り過ぎた。3年のマリアとスカート丈の短い取り巻きたち。睨みつけるわけでもなく、名指しするわけでもない。ただ、仄めかす。会話を装った言葉の刃。見て見ぬふりをしていたが、静香の心を一語一語、刺した。近くの円卓テーブルに陣取って、日替わりスパゲッティの皿を置く。自分たちのテリトリーのようにながい脚を崩して、あぐらをかく。
「ここ、なんか空気悪くない」取り巻き女子があざ笑い、マリアが小さく尖った鼻をつまんだ。
「てか、臭くない? 」
「どんな?」
「にんにく?」
「へー、うちは、なんか強い香水の匂いがする」
「それは幻覚すぎる」
「めっちゃ強い香水。かたっぱしから男を誘うような感じの。さっきさ、全校集会でうちがさ頭髪検査で引っかかったとき、マジ、笑っとったっちゃけど。性格終わってない?」
彼女たちは唇を尖らせてスパゲティを啜り、午後ティーの紙パックから覗かせたストローを小さな口にくわえて、何度も噛む。ストローの口が楕円に潰れる。舌の根も乾かぬうちに、彼女たちは無数の矢を放つ。
「男に好かれようとして、偽善でラグビー部のキャプテンの見舞い行っとうとよ。そうやって、接点つくって、彼氏を誘惑したけん。まじ、偽善。使えるものはなんでも利用する。てか、キモすぎ。その時も、おんなじ香水しとったちゃない?」
——————笑い声が空気を引っ掻いた。静香の耳の内側で爆ぜた。神経がプチプチ、遮断する。足をジタバタさせる。椅子を曳く、鉄を爪で引っ掻いたような高い音。嫌な嘲笑。言葉の本意を理解するより先に涙がとめどなく、あふれた。
「ちょっとさ!」
椅子の脚が硬い床を擦った。一瞬何事かわからなかった。乃愛が立ち上がる。静香は、声を発し、乃愛の手を掴んだ。歯向かうなんて、——————心の中で叫んだ。口の中が渇いていて、声にならなかった。
ねえって
乃愛は「大丈夫やけん」と小声で言って、静香の手を払った。一瞬だけ、食堂内のざわめきが凪いだ。乃愛の声は、最初こそ震えて、うわずっていたけど、芯はあった。
「言いたいことあるんなら、本人の目を見て、直接言えば! こそこそ、自分たちで笑ってさ。自分ら3年やろ! 」
マリアたちは顔を上げ、乃愛を睨んだ。マリアの睨みつける目は、声を持たないけど音にならない「死ね」が、何度もそこに繰り返されている。少しだけ、間を置き、わざとらしく肩をすくめた。
「もしかして、うちら?」
「なんか絡まれたっちゃけど」
戸惑った風にわざとらしく、とぼけた。それは、彼女たちのいつもの防衛手段。攻撃的で、それでも直球は避ける臆病な戦略。
「え、こわ」マリアはすっとぼけた。けれど、乃愛は一歩も退かなかった。
「土谷万梨亜さん。あなたです」
「は?」
マリアの表情がぴくりと強張り、目は釣りあがる。紙パックから出たストローの先っぽを噛んだ。乃愛は、物怖じしなかった。マリアは上目遣いで睨んだ。
「フツーに会話しとっただけやけん。そっちのこと、何も言っとらんちゃけど、自意識過剰やろ」マリアは細い片眉を上げて、肩をすくめて笑った。悪びれもせず、周囲に聞こえるような声でわざとらしく。
「じゃあ、何の話をしとったと? もう一度言って」
「なんで、そんなダルいことせんといかんと」
マリアは鼻で笑った。小さく「やば」と呟いて、まわりの友だちに同意を乞うように、まぶたをパチクリさせる。
「じゃあ、なんで静香が泣いとうとよ! 」
乃愛はテーブルを強く叩いた。その音は大きく響いた。大食堂の生徒たちの視線がこちらを向く。けれど乃愛は怯まない。
「さっきまで、わざと聞こえるように、でかい声でしゃべっとたやろ——————言っとくけど、キャプテンの見舞いは、香水つけておしゃれできるほど、生半可なもんやないけん! キャプテンは首から下、動かんと。絶望のなかでそれでも、復帰できるように、リハビリしとうと! 歩くとか立ち上がるとかじゃなくて、ただ、上半身を起こすリハビリ。それだけのこと————でも、必死とよ! 静香は心を痛めて泣きそうになって、それでも必死に励ましとうと! なのに、そんな言い方して、茶化すそっちのほうがよっぽど、性格悪くない? 想像だけで他人のことを偽善とか言って、静香のこと何も知らんやろ! 」
取り巻きが舌打ちする。ぐうの音も返さなかった。返せないんだ。静香は、涙に濡れた顔を拭った。まだ、泣いていたけれど、その涙はもう息苦しくなかった。乃愛の背中が少しだけ大きく見えた。
「行こう」
乃愛は、静香の手を引く。ガラス張りの学食。周囲の視線を感じた。みんな箸を止めている。修羅場だ。渦中にいた自分が、客観的に思い返してみる。静香の手を引いて、前をゆく乃愛の背中だけを見た。その先の出口。新校舎と体育館棟のはざまの中庭。そこから、白い光が差しこみ、乃愛の背中は光の中に潰えた。




