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フラワーガーデン(17)


 中高合同2000人の運動会。一般ピーポーたちの出番はない。居場所すらない。生徒たちはただ、無言でスマホをつつく。応援よりも、太陽の下のスマホがバッテリーをすぐ食ってしまうことに嘆く。一般ピーポーの唯一の出番はフォークダンス。それで教師たちは、学校行事をやった気になっている。この体育祭の唯一の見せ場といえば、全国レベルの強豪たちが火花を散らす部活対抗リレー。それも、部活動の人たちだけが小さなコミュニティーの中で、勝手に沸騰するだけの内輪イベント。その一部の歓声の渦も、芝生の葉っぱを巻き上げて走るラグビー部のアキトの姿も、ひとつひとつ、退屈なプログラムが消化していく一般ピーポーからすれば、よその学校の出来事みたいに遠く感じられた。湿気を帯びた初夏。応援? 盛り上げ? そんなものを期待するほうがどうかしてる。もうすでに熱に溶けた。生徒たちはそう言わんばかりに茹だるだけだった。太陽の光がスマホの画面の光を眩しく照り返し、バッテリーはみるみる溶けていく。そして、バッテリー残量がもうないと嘆く。惰性の砂漠に立たされた群れの中で、ある女子グループはおしゃべりだった。マリアは、ブロック応援席のまん中でふんぞり返り、よくない笑みを、にひひと浮かべている。


 スタンドの先頭にひとり座っている。茶髪の女の子にむけて、わざとらしく聞こえるように言った。


『進路変更するならどうすると? 未来高校とかよさそう。「未来」があって。東京きずな学園もいいね。新しいクラスメイトと「絆」ができそう。でも、やっぱ王道は「エヌ高」やね。え————迷う。うちも入りたいなー。転入試験とかあるのかな。てか、随時ネット出願できるやん』


 干された子は、聞こえないふりをした。ふり向けば、それが命取りになるかのように懸命に。ちょうど、やっていたあどけない中学生たちのダンスに、感情を捨てた虚な瞳を向けている。おなじブロックのスタンド席にいた俺も、その険悪な状況がわかった。思わず、目を大きくして驚いて、森シンと顔を合わすと、物知りの彼が、その意地悪な女の子の名を教えてくれた。


 あいつ、マリアっていうけん————皮肉やろ


 その子とマリアは、2年遠足の班決めで揉めたらしい。そのくだらない女の子の取り合いをマリアが制した。それから、女の子のよく分からない勢力図はマリア優位になった。優位なのに、班決めのことを恨み、その子を影でクスクスしながら揶揄するようになった。干された子が、専門学生と付き合いはじめると髪を染色してメイクをはじめた。


『なにあいつ』


 マリアのその呟きからはじまった。ある日、その子が、たまたま、首もとに絆創膏を貼って登校すると


 『キスマークやない?』


 と、またニタニタした。母性愛の象徴。キリストの聖母からあやかった名のはずなのに、クラスの隅のいる女子の変身を赦すような「器」はないらしい。昼休みになれば、その子の1年のときのノーメイク写真を見せあって、きこえよがしに『変わちまった』と小さく毒づく。


 半年経ったある日、干した子が「ほろよい」を、彼と嗜んでいるストーリーズを挙げた。マリアは人づてでそのスクショを手にし、1ヶ月あまり寝かしてから、学年末考査1週間前にあたかも、自然と湧いたようにストーリーズをリークした。


 干した子の飲酒がテスト直前でバレたら、定期考査はどうなるんやろ? ちょっと好奇心をそそる人体実験。干した子は結局、別室受験にとどまった。


 「おもんな」とマリアは周囲に漏らした。その結果にすこぶる不満げだった。教師たちは人間関係の機微のところまでは読まない。みんな等しく、頭髪を加工し、メイクとスカート丈を指導する。表面的なものでしか判断しない。マリアも、あの副会長だってこの学校で君臨している。そのマリアが、アキトと付き合っていて、最近、別れた。辛辣な者同士、お似合いだったのに。



 ************



 「はじまりました!」


 旧道場の宴会から美山が、顔を乗りだした。豪邸にいた人たちもプールサイドで騒いでいた人たちも、再び中へなだれ込んだ。


 ある生徒の大学生の兄から協力を得た。生徒の兄の立ち位置で、保護者説明会に参加し、その模様をライブ配信していた。美山のスマホでそれを流し、マイクが拾い、ステージのアンプから拡声される。音だけの配信だったけど、みんな、戦時中のラジオのように食い入いった。熱気の緊張に包まれた。ゲンジはその輪から外れ、ソファーに腰かけ、焼けた豚足をしゃぶっている。豚の皮を飲み込み、骨を吐きだし、脂ぎった指先を舐めてから言う。


 「余裕やろ」


 校長の声が、旧道場内にこだました。スピーカーから、校長のおぼつかない長い言い訳が流される。辿々しい声、くぐもった声。それらは電波の乱れではなく、校長本人の逡巡と狼狽によるものだった。


 『——————今回のボイコット、それを止めることができなかった経緯、今後の学校の対応についてお話しします。これまで教職員たちは、教育活動や部活動において、熱心に指導してきました。創立以来、その教育方針は受け継がれています。場合によっては、教師が大声を上げるなど、厳しい指導だってあります。いまに、はじまったことではありません。しかしながら、スマートフォンで断面だけが切りとられて——————』


 『言い訳はうんざりです!』


 ある母親のひび割れた声が口を挟んだ。会場で怒号が巻き起こる。


 『そうだ!』

 『なぜ今朝、テレビで取り上げられるまで、私たちに説明する機会がなかったんですか?』

 『子供たちは学校や先生に対して不信感を抱いてます。子供たちの行動を、ここにいる親たちは支持します。ボイコットなんて、本当は馬鹿げてます。親たちは止めます。学校に行かせます。ですが、この現状では、子どもを学校に行かせられないんです!』



 喝采が巻き起こる。メンバーたちはことごとく手汗をにぎった。美山が飛び跳ねるように叫んだ。ライブ配信だけでなく、それを聞いている生徒からも喝采が起こった。


「もっとやれ!」

「だはははは」マリアはお腹を抱え、ソファーの上でのたうちまわっていた。


『くどい説明は要りません。学校としてどう対応をしていくんですか? 私たちが子どもたちを安心して、学校に行かせることができるような納得できる対応があるなら、そこを教えてください!』


「お——————」群衆は煽った。


『髪や身だしなみのルールを含め、校則を見直します。新入生向けの制服の更新を前倒しで進めます。教員の処分と退学の生徒2人の処分取り消しを検討します。信頼を取りもどし、私は校長の職を辞します』


 一瞬の沈黙、そのあとの爆発のような歓喜。


「よっしゃあ」

 「パーティーやん!」


 みんな、たがいの胸を抱いて喜んだ。ボイコットは成就した。教師たちは降参した。初期メンバーも、烏合の衆たちも歓喜に沸いた。廃墟の館は熱く揺れた。あっけなかった。ゲンジと美山も、感極まって結婚しそうなほど、たがいの胸に顔を押しつけ合い、男泣きした。マリアはスマホをかまえ、360度見渡し、感極まる現場をおさめた。サッカー部は、コカコーラにメントスを入れて、こげ茶色のキャラメのバブルを沸かせた。勝利のビールかけのように、たがいの顔にかけ合った。美山にも、ゲンジにも浴びせた。ほかの連中もゲンジのもとに駆け寄り、ナイアガラの滝のように大量のコーラの泡をかけた。


建物は人で決まる。埃かぶっていた廃墟が一晩だけ、生きた青春の仮住まいになった。祝祭の神殿だった。みんなコーラまみれになった。ビデオを撮るマリアにも、コーラの泡がぶちまけられた。


 「ベトベトやん」

 「サイテー、ベトベト」


 輩たちが寄ってたかって、マリアの身体を持ちあげた。プールに放りこみ、白波の飛沫が上あがった。波打つプールサイドから悲鳴にも、歓喜にも聞こえる叫びが、夜空に突きあがる。水は、骨に沁みこむほど冷たかった。旧道場では、ゲンジコールと熱気で蒸し返していた。みんな、汗と脂っている。つぎにゲンジが放り込まれた。美山も続いた。場の空気が弾けた。なだれのように男子たちが押され、ある者は笑いながら自ら身を投げた。水音が絶えず、誰もが誰かに、水飛沫をかけた。一人ひとりの頬や瞳、鼻に唇、まつ毛、眉毛。ありとあらゆる月光を照り返すように、雫ひとつひとつが月光の光を宿らせ、濡れている。


 俺は、それを少し離れた場所から眺め——————口もとが綻んだ。セピアな過去と、いま、転がりこんできた至福。それらが、心の中でいり交じった。


「ねえちょっと、気分が悪い子がいる」


 ざわめきの片隅で、ひとりの女の子がしゃがみ込んでいた。顔を伏せたまま、指先で口元を覆い、かすかに震えている。髪が汗で張りつく頬は、ほんのり熱がこもり赤くなっているのに、唇は青白くなっていた。


 「だいじょうぶ?」

 「誰か、水ある?」

 

 返事はなかった。肩を揺らしたかと思うと、そのまま、ぐらりと身体を傾け、音もなく冷たい土に沈んだ。とうとう、彼女の口から、白く泡だった吐瀉物を出した。まわりは無関心に、プールの水遊びと、旧道場から流れる音楽に明け暮れている。胃液とアルコールのまざった匂いに、あたりは顔をしかめた。悪いことは、さらに、決定的に悪いことを引き寄せた。誰かが声を潜めて、それでも、周りに聞こえるように助けを求めた。


「警察がおる」


 波紋とざわめき。正門から中庭からプール、そこから豪邸と道場に伝わった。俺は、正門を見た。そこで静かな揉み合いが起こっていた。招かざる客がいた。水色のシャツにダークブルーのベスト。『福岡県警』のロゴの上の、金の階級バッチが右胸に煌めいている。


 「近隣から通報が入ったんだけど。ここにいる人たちの中で代表者とかいる? 君たち『極東生』だよね」

 「ちょっと待ってください」

 「所有者に許可とか取ってる?」

 「何人いるの? ちょっとなかを確認させて」


 数人の警官が湧いた。それを、メンバーたちが人間の壁を作って、押しとどめている。たちまち、違法クラブの摘発みたいになっていく。


 「応援願いたい」


もう一人の巡査が、勘づいて無線で応援を呼びかけた。俺は道場に忍び寄って、ステージのアンプのコンセントを抜いて、ソファーでくつろいでいたゲンジに伝えた。


「警察が来た」


 ゲンジは青ざめた。美山も顔をひき攣らせた。たがいに青くなった顔を見せ合った。美山は、ステージにいる軽音部たちに、音を下げろと開けんだ。音楽が断たれた。一気に、静寂が支配した。道場の音楽も、プールの笑い声も、豪邸の談笑も、糸がぷつりと切れるように止んだ。かわりにサイレンの音が聞こえた。遠くからも、近くからも。アジトを囲む瓦屋根は赤く煌めく。塀を越えたその先に、赤色灯の蠢くパトカーが集結している。みんな、夏の夢から覚めた。サイレンに包囲されている。物理的にも精神的にも。選択肢は考えるまでもなかった。そうこうしているうちにも、サイレンの音は、より重層的に、より濃密に息苦しいほど、耳の内側を占めてくる。


「撤収する準備しろ!」

「酒の缶は、全部バッグに入れろ!」


 ゲンジは叫んだ。みんな、鞄を持った。リュックサックを背負った。通学鞄をからった。


「撤収の準備」から「撤収」へ

「撤収」から「逃げろ」になった。


 恐怖心によって、伝わる言葉は変遷した。みんなが逃亡する。鞄に、自分のスマホや充電器、財布を突っ込んだ。それさえも、どうでも良くなった。缶ビールや、カクテルの缶、アンプ、音響機器はなおさらどうでも良くなった。みんな着の身着のまま、奥の塀をよじ登って、飛び降りた。あるいは、裏手の山の茂みに逃げこんだ。あるいは、正面からの強行突破を試みた。


 「待て!」


 警官数人では、群衆の激流をくい止めることができず、ダム決壊のように、隙間からすり抜け、逃げていく。ある者は、路傍に停めてあった自転車の鍵を開け、自転車にしがみつくようにして、急勾配な坂を転落するように降っていく。美山は、警官3人にはがいじめにされていた。


 「何するとや!」


 ゲンジと仲間たちが、花と散るように体当たりした。それを横目に、俺は突破口へ走った。門外に出るとパトカーは、十数台も止まっていた。


 六本松へ、薬院へ、桜坂へ——


 群衆は四方八方に散っていく。警官はところどころで、逃亡者を取り押さえていた。その間を、生徒たちはすり抜ける。群衆は雲散霧消し、夜の街、夜の茂み、路地裏に溶け、祝祭の神殿は空洞になっていた。


 月明かりを受けて、俺はひたすら走った。夜の空気をひたすら吸って吐き出した。新鮮な空気が肺をめぐる。そして、体内のあらゆる部分を浄化させ、感化させた。空気は透きとおっていて、冷気は心地いい。すみきった夜空へ目をすぼめれば、星がほんわずかに見てとれた。


 『そういえば、若者やった』


 駆けながら僕は笑った。青春の当事者であることが、照れくさく感じた。あれだけ、乏しく感じ、劣等感を覚えて、飢えていたはずなのに。それを目の前にすると、気恥ずかしくなった。あらゆることを鈍感にさせる苦行を重ねてきた俺は、いま、若者の感度を取りもどした。街明かりのネオンが、宇宙のワープのように俺を、はてしなく何度も通り過ぎる。


 時間だけが過ぎゆく無意味なベクトルの中で、俺は飼い殺され、ずいぶん歳老いた気持ちになっていた。だけど、いま、ネオンとそれを溶かす闇夜が、鮮やかに感じるほど、俺は若者らしい感性を、ゴミのような三角形をめぐる生活からとり戻した。夜中の黒でも、いろんな黒がある。いろんな階調と奥ゆきがある。夜空の黒。アスファルトの黒。街の灯りがにじむ、その周辺の黒。夜さえも感じる豊かな色彩を謳歌したいとさえ思った。


 気づけば一人だった。見ず知らずの住宅街にゆきついた。遠くで犬が吠えている。こんなに運動したのは久しぶりだ。心地いい疲労に襲われた。そうだ、俺はこうやってラグビーをしていた。見知らぬ街の、見知らぬ公園の入り口にさしかかった。公園の砂場には、街灯の明かりを受けた広葉樹が、無数の葉っぱの影を落としていた。


「ゴンさん?」


 男の声が聞こえた。公園の四方の柱に支えられた三角屋根。その下のベンチに、人影が蠢いていた。


「美山?」

 「無事でしたか?」


 丸い肩から立ちのぼる湯気が、美山のメガネを曇らせ、レンズが街灯で白くてかっている。


「そっちこそ逃げきれたん?」

「ゲンジさんが助けてくれて、でも———ゲンジさんがどうなったのかはわかりません」

「まじ」

「ここどこなん」

「たぶん、平尾あたりです」


その時、植え込みの影から濡れた女が現れた。制服は水を吸い、素肌に張りつく。透明な亡霊のようだった。


「最悪」


マリアは幻滅していた。着こなした制服とメイクが、濡れそぼって崩れたことへの「最悪」なのか、逃避行の果てに巡り合ったメガネ男子2人が「最悪」なのか。


 彼女はハンカチで濡れた髪を撫でた。長髪を乾かすにはハンカチは小さかった。卵型の平べったい表情が、白い月光であらわになった。自分自身の分身であるスマホのバッテリーの画面が割れて、そのうえバッテリーが切れたこと、化粧が溶けたこと、すっぴんを晒していること。4方面で苛立っているのか、マリアはとんがった顎をわずかに引き、睥睨した目つきでこちらを見た。


「タオルある?」


 とりあえず、ポケットのなかを型どおり確かめて答えた。


「ない」

「充電器は?」

「それもない」


 不満を爆発させたマリアはベンチから立った。帰ると言った。美山が呼び止める。


「街は、教師と警察が街でウロウロしてます」

「うちは関係ない」


 顔も、格好も、メイクも、連んでいるグループも友達も、全部「かわいい」のために揃えてきたはずなのに。


「ゲンジは? ハヤトは? リュウシンは? 」


 栄える男子を求めた。離散してしまった女子たちの名も挙げた。それが叶わないとなると小さな顔をうずめて泣いた。逃避行の末、メガネとニキビ・丸刈りに囲まれている現状が悲しいらしい。鈴虫の鳴き声が、秋色の情景をひき立てていた。俺は、自分のスマホを貸してあげた。俺のスマホもバッテリー残量20パーセントで際どかった。俺の、フォロワもフォローも乏しいインスタの最弱アカウントに不満をこぼした。ゲンジのアカウントをなんとか手ぐりよせ、通話ボタンを押した。ながい呼び出し音のあとでゲンジの声がした。ゲンジが無事だと分かったとき、ほっと安堵が広がった。ゲンジたちは、天神の雑踏に逃れたらしい。


「誰かおる?」


 電話口の向こうからマリアの友の声が聞こえた。


「無事と?」

「まじでダッシュで天神まで走った」


 マリアは甲高くはしゃいだ。甦ったかのように飛び跳ねた。俺と美山はその瞬間、空気にされた。彼女は自分だけの世界に入った。こじんまりとした祝賀会のはずだった。なのに、雪だるま式に、輩たちは別の輩を呼んだ。雪だるまは手に負えないくらい膨張して、そして、弾けた。


「まずいですね」

「なにが?」

「警察ですよ。誰ですか? あんなに人を呼んだのは?だから、俺は言ったんです。天神のまねきねこで、しんみりとやりましょうって!」

「しゃーない。みんな舞い上がとった」


 俺はベンチに腰を下ろした。自販機で水を買う。それは、冷たかった。ぬるい水と冷たい水では別の飲み物だった。冷たい水が体を巡る。


「マリアさん、カメラをまわしてたんですけど、大丈夫すか? ストーリーズに挙げたりしてないですよね?」

「非公開だから大丈夫って」

「そういや!」


 勝利に酔いしれた気分から生き地獄に凋落した。という風に、美山の顔はまたしても歪んだ。青ざめて、くちびるは戦慄に震えた。


 「酒はどうなたんですか? 気分が悪くなった子も!」

 「警察が踏み込んですぐ逃げたから、空き缶も、瓶も、吸い殻もそのまんまかも——————軽音部のアンプもマイクだって極東ってラベルが貼られてる」

 「ウソやん」美山は髪もないのに、丸刈りの毛を掻いた。不安を掻きたてる夜に耐えられなくなったのか、思い詰めた彼は嘆きはじめた。

「どうしてくれるんですか」

 「俺に言われても」

「酒とタバコ持ち込んだのは誰ですか? いっぱい野次馬を呼んだのは!」秋風は俺たちの汗を乾かし、わずかな体温さえも奪われて寒気がした。

「うちはサッカー部に誘われた。あいつら、馬鹿やけん飲酒しとったもん。今シーズンは絶望的やろうね。どっちみち、弱小なんよ。先週も、公立に負けちゃって」


通話の余熱が残っているスマホを、マリアは俺の胸元へ押しつけるように返してきた。ありがとうという言葉は、彼女の中には存在していないみたいだ。


「飲酒が学校に知られたら———」美山の顔が蒼白くなった。


「大丈夫やて」マリアは紅い唇を捩らせた。「バレても、うち、えげつない爆弾をにぎっとうけん」

「なんですか?」

「ミドコロと小西乃愛。メガネ君も知っとるやろ」

「都市伝説ですよ。あと、僕の名はミヤマです」美山は言った。

「やっとるっちゃん。あの2人」

「え?」


 2人の手のひら返しがよっぽど可笑しいのか、残酷的なものを隠し持っているかのような愉悦をまとった笑みを浮かべる。マリアはもったいぶった。


 「どゆこと?」

 「さあね」


 とぼけくさったマリアは、軽佻なスキップをしてふりかえり、小さな頭をかしげて言った。マリアの唇の端っこがつり上がっている。ひけらかしたいのはまる分かりだった。


 「教えてください?」美山は土下座をする勢いでせまった。

 「タオル買ってくれたら。あと、アイス。ハーゲンダッツ」


  美山は、警察の目を掻いくぐりながら、コンビニへ使い走りをされた。



  ************



  帰ったのは夜9時だった。玄関を上がったとき、リビングからにぎやかな笑い声が聞こえてきた。しばらく聞いたことがなかった団欒の声だけだった。というより、よその家の食卓の声だった。県内屈指の県立高校のラグビー部でスタメン入りを果たした俺の弟に、さらにおめでたいことがあったらしい。リビングから醤油に砂糖の溶けた甘ったるい匂いが漂ってくる。今夜はすき焼きだったらしかった。敷居をまたいで玄関ドアを閉じた。その音で、笑い声はぴたりと止んだ。わかりやすいほど、リビングの団欒は止んだ。ひとまず、自分の部屋へ逃避しようとしたとき、毒親の怒声が轟いた。


「ただいまは!」


「ただいま」ポツリとこぼして、そのまま、2階にあがろうとした。1階に俺の居場所はない。足を止めず、階段を上がろうとした、その背中にさらに、怒声が追い打ちをかけた。


 「夕飯は!」

 「いい」

 「こいっ! 手を洗って来い!今日はご馳走やけん、早く帰ってこいって言っとたやろうが! なんでこんな遅いとや!」リビングからテーブルを叩く音がした。


 「—————調子が悪い」


 俺は、階段のおどり場で屹立した。手すりに手をかけたまま、しばらく凍りついた。居間から怒声がまた炸裂した。そっとしてくれればいいのに。


 「いいから、来いっ!」


 俺は、食卓に出頭した。弟は夏の光を、全身に受けたかのように健康的に灼けている。竜骨のような頑丈な骨格。それに応える筋肉で、筋骨隆々の完成形をたたえていた。それが、不健康な白さと、か細い体を縮こませる俺の身体を揶揄する。


 食卓の名の下、人間の比較と照合がはじまる。ラグビーをやる人間と、それから逃れた人間。2つ下の弟は、逆三角の背筋を少し丸めて、食卓のまん中にあとの祭りの、熱の抜けた鍋を見つめている。脂の浮いた醤油に浮かぶ、残り物のふやけた白菜が、遺物のように漂う。母も重い空気に服従し、両ひざに、左右の拳をそれぞれ置いて、鍋のかたわらにある2切れの黒毛和牛の赤身を見つめる。それを手につけることも、言葉を挟むこともなく。


 「今日、学校行ったのか?」

 「————行った」

 「嘘をつくな! 」


 父の手が飛んできた。元トップリーグの腕力は相当で、張り手でも、それは鉄拳に等しかった。毒親は、反動的だった。ラグビーから逃げた男が、ラグビーと学業以外に熱心になることに忌み嫌っていた。


 「学校から連絡があったぞ! 今日、学校に来てませんって! それどころか、率先してほかの生徒を扇動しとるって! 文化祭とか、ラグビー部の動画を無断でネットに拡散したり、加担しとうって! 担任から電話があった! それでラグビー部は、根も葉もない誹謗をうけとうって! ラグビー部になんの恨みがあるとや! 貴様はラグビーから逃げたんやろうが!」


 フツーの家庭環境に生まれたかった。だけど、俺はこの状況を、理不尽に対する怒りを、冷静に吸い込んでいきた。蓄積した憎しみと怒りを、「この家を出ていく」という悲願で晴らすためのエネルギーに変えてきた。東京の大学に行くこと。それが、憎しみと怒りの果てに見いだした俺の唯一の光。


 「玄汰が、西高でスタメンをとって今日は家族みんなで祝っとうったい! なのに、お前はすっぽかしって街をフラフラノコノコ!帰ってきたと思えば、水を差してばっか!」

 「だったらそっとしてくれよ! 3人だけで平和的に祝えばいいやろうが!」

 「なんつったや! そういう自己中なことばっか言いよって! 俺は親父として、お前に聞かんといかんことが山ほどあるったい!」


 毒親は、胸ぐらを掴んで首を絞めつけた。


「離せ!」


 俺は、父の手を払いのけた。毒親は、尻もちをついた。ドスンと床がたてに揺れた。鍋が揺れ、テーブルが軋み、砂糖がとけた醤油の汁が波打って、食卓にあふれ出た。


 父の胸もとにある、赤い三羽のキーウィ——、カンタベリーのロゴが、血のように見えた。父は、それを室内着にしている。なすすべもなく座ったままの弟も、そのシャツを着ている。ラグビー部もアキトもこれを着て、日々の練習に励んでいる。猛も身にまとって、希望のないリハビリ生活を送っている。ラグビーを辞めた日から、連中は、結託してこのシンボルを見せつけ、俺を孤立させる。それは俺の人生の唾棄すべき部分を、みっちり凝縮させた悪の紋章だった。


————カンタベリー


その紋章を一生許さない。そう誓って、俺は階段を駆けあがった。自分の部屋の扉を閉め、やっと、安住の地にたどり着いた。


 「お願い、新——————ドアを開けて。悪気があったわけやないよね—————みんな、ボイコットに参加しとったわけやろ? 新だけじゃないっちゃろ?」


 母は、ドア越しに啜り泣いていた。情にすがる声が、逆に俺を冷えさせた。もどかしくて情けない気持ち。心は冷めたつもり。なのに、湿った感情が、心の中でふくれあがる。それが喉もとに絡みつき、嗚咽しそうになる。平静さを取り戻すために、スマホを取り出して、猛にメッセージを打った。心の中で思い浮かべるあいつの顔は、いつだって笑っていた。俺はメッセージを打った。


 毒親とケンカした


 ドア越しで再び、あの男の声がした。


「なんしよっとや!お前がこうやって甘やかすから、新は、ダメになったんやろうが!」


 怒りで、全身が震えた。怒りが、血の中で泡立った。


「親を突き飛ばすとはどういうことや! 出てこい! 今度は、引きこもるつもりとや!」


 ドン


 毒親はドアを蹴った。ドアのちょうつがいが唸った。その轟音は物理的というより、心理的かつ暴力的に響いた。俺の自制心はぐらついた。


「聞えとうとや! お前がラグビーから逃げてからろくなことがない。猛があんな目に遭って、仲間が猛のために花園目指しとるのに! お前は足を引っぱってばっか! 弟は負けん気で西高でがんばっとうっていうのに、お前は逃げてばっか! 少しはまわりを見渡したらどうや。弟とおんなじ教育をしてきたんやぞ。どうしてなん? なんで、こうもちがってしまったん? いつからこんなふうになった! 」


「だまれ! 」


俺の中の、別人格の男の怒鳴った声が、自分の耳にも割れて聞こえた。自分でも驚いた。こんな声を出せるのかと思った。俺の中で、別人格の凶暴な男が、俺の中に巣食っていた。


「俺は今日、猛のところに見舞いに行とった! 知らんやろうが! 全然、知らんくせに、猛のことを知ったような口を聞くな!」


 俺はドアを蹴飛ばした。足の裏全体がじんと痛んだ。ドアのちょうつがいがイカれ、左開きとは真逆の、父のほうへ吹っ飛んだ。


 「つぎ、ラグビーって言葉、口にしてみろ!」


 俺は、表に出た。毒親の胸ぐらを掴んだ。手が震えていた。自分の顔がどうなっていたのか分からない。ただ、怒りと絶望の火が、目の奥で燃えた。


「俺はこの家から出ていく!」



 **********



 すべてが終わった。


 怒りの熱が、まだ皮膚の裏側に残っていた。誰かにこの気持ちを分かってほしくて、俺はスマホを見た。猛からのメッセージ。その通知が灯っていた。俺の心も灯った。平静を取り戻そうとする。猛の言葉がその足場になる。


 離散した理性を一つ一つかき集めるように

 猛への言葉の断片を一つ一つ拾い集めるように


『またかよ笑』

『言ってやった。つぎ、ラグビーって言ったら家を出ていくって』

『だったら俺の病室に来い。泊めてやる笑』


 殴りたい衝動。いまここにいる世界が、自分もろとも瓦解してしまえという欲望。藻屑か、星屑になりたい一閃の感情。その心のざらつきは和らいだ。


 『俺、やるけん』


 俺はメッセージを打った。それ以上の言葉はいらなかった。強がりでも、意地でもなく、自暴自棄でもなく、切実にそう思った。返信はすぐに届いた。


『ありがとな』


 スマホを伏せた。室内の静けさを改めて感じた。内心穏やかではなかった。言葉の意味も、意図も、俺と猛はわかっている。通じ合っている二人にしかわからない秘密であり、暗号であり、隠語であり、合言葉であり、号砲だった。


 無音の病室の白いベッドから

 胃に直結したチューブの感触から

 猛の尿道に突き刺さるカテーテルから、あいつの肉体を解き放つ。


 眠れない夜だった。孤独な長い夜になりそうだった。

 けれど、気分は冴えわたっていた。


 深海の底の————音も、光も届かない場所で息をひそめていた、名も形もない獣が動き出そうとしている。


 極東学院第一グラウンドは、去年まで砂のグランドだった。俺の中であの場所はまだ、泥の匂いをまとっている。雨の日はぬかるんで、沼地に這いずりまわる恰好になる。ジャージもソックスも泥で重くなる。洗濯機にかける前に、母は決まって庭の蛇口でそれを手洗いした。リトルラグビーのときから変わらず、背を丸くして、しゃがんで揉み洗いする。母の背中。リトルラグビーやジュニアのときは、その背中に報いることができた。だけど、極東高校に入ってから不遇が続くと、その背中は、俺の心にひどく突き刺さった。報いることができない不甲斐なさに、もどかしく思えた。


 かすかな眠気を、努力してたぐり寄せる。それが苦しく感じた。掛け布団が暑苦しくて、寝汗がにじみ、寝苦しかった。はいだら、秋の夜でちょっと肌寒い。かと言って、かぶると、5分たらずで寝汗が、背中とマットレスの間で滲む。掛け布団を剥いだ。仰向けの自分の身体を天井に晒すと、また凍えた。完全犯罪を考えた。いろんな方法を巡らせた。コナンのように、密室で首吊り、板氷を使ってナイフを立てるか。それより、冬の川に車いすごと入水する方がシンプルで周りくどくない。でも、街中や病棟の監視カメラをどう掻いくぐるか。ラガーマンの車いすは、あまりにも目立ちすぎた。少しずつ意識がまどろんでくる。


————安楽死


 筋弛緩剤。俺が、薬剤師になってその薬を渡す。それも、だめだ。解剖でその成分を解析されれば、足がつく。あいつが成人になって、自分の責任で自分のことを決める年齢になってスイスに渡米する。けれど、親が納得するはずがない。止めようとする人たちもきっと現れる。


 仮説がポツンと閃いた。武者ぶるいがして、眠気はさらわれた。まどろむ意識のなかで、矛盾がないか考えた。いかにも荒唐無稽だった。ほころびはいくらでも出てくる。だけど、それを逆手に取っている。


 高度な死を猛にもたらす。飛び込みとか首吊りは頭が悪い。原始的な手段によるものは、年間全国自殺者数という統計のうちの1つにすぎなくなる。でも、『高度な死』は違う。その死にはストーリーがある。


 学校を破壊し、火を放つ。騒乱の中で猛の願いを叶える。鬱積した生活のなかで抑え続けてきた危ない叫び。それは完全犯罪で、コナンでも迷宮入り。それが、明らかになったとしても、世の中はきっと刮目するだろう。そうせざる負えなくなった背景を。そう仕向けた猛の地獄を。俺の不遇を。————それだけの、同情の余地がある物語がある。


「名案が浮かんだ」


 暗がりのなかでスマホをたぐり寄せ、俺は打った。それから、俺は目をつむって、つぎこそ、眠りにつこうとした。


 ************



 ボイコット解除は、翌日の夜のことだった。陶酔の中でゲンジたちK K Kは、勝利宣言をし、登校を再開するよう呼びかけた。けど、あの夜の招かざる警察の件で、こちらに検挙者が出たことは美山から聞いた。完全勝利の酔いが覚めて、雲行きを怪しくする俺たちに、ゲンジは「気にすんな」と言った。それは自分自身を言い聞かせているように、うそぶいて聞こえた。


 新天町のカラオケボックス「まねきねこ」で、K K Kの中心メンバーの会合があった。テーブルに置かれたタブレットに、誰も触れようとしなかった。フリードリンクなのに、誰もドリンクバーに行こうとしない始末だった。閉め切った個室の暗がりで個室モニターは音を消され、チカチカ白く光る。目をしょぼつかせながら、ゲンジは口火を切った。


 「お酒とタバコ————」


 みんなの眼球が前にせり出した。人狼ゲームのように探り合う視線が、暗い室内のモニターのチカチカした点滅とともに交錯する。明滅のリズムが、それぞれの顔を照らしたり、沈めたりする。みんな、各々あてられた疑惑の視線を払うように、顔を横に振った。


 「プールに氷を張ったのは自分です」美山が頭を抱え、悲鳴を上げるように叫んだ。そして、泣きたそうな顔をして、自己弁護をはじめた。「————やけど、自分はソフトドリンクを振る舞うつもりでした」


ゲンジの顔は、個室モニターの青白い光の明滅を斜めから浴びていた。その光と影のコントラストが、彼の焦点のない虚な表情に、立体を与えた。眉の下、頬の影、唇の縁の影が蠢く。


 「いつの間にか、入口の門のとこに、段ボールが置かれとった。ビールとほろ酔いが————ラッキーって思って段ボールを開封して、缶をプールに投げ込んだ」


 見張り役だったメンバーがやっとの思いで、渇いた口を開いた。泣きたそうな気の毒な顔をしていた。


 「いつの間にか、お酒がそこにあったと? 」ゲンジは糾弾するかのように、見張り役だった彼に鋭い視線を向けた。空気が重くなった。ただ、空調の送風音だけが聞こえる。それ以外、人間もソファーも、椅子やテーブルも、カラオケ機器も黙秘していた。


 「はい————」重みに耐えかねて、見張り役はうなだれた。


「なんそれ、マジックやん」ゲンジは嘲笑した。だけど、テーブルを大きく叩いた。コップやフォークが高く割れるような音を立てた。ゲンジは怒鳴った。


「そんなことあるわけないやろ!」


 俺は、みじめな見張り役を庇った。


 「しゃーない。そもそも、場所がいけんかった。もっと細々と、ちゃんと店ですべきやった。それよりお酒のほかに、俺には不可解なことがある」

 「なに?」ゲンジは暗がりの中の正体不明の裏切りの気配を、用心深く感じ取ろうとしていた。


「警察が来たときの、あいつらの一言目————————覚えとう?」

「いや」美山は、脂でくもったメガネのフレームを、人差し指で持ちあげた。

「はじめから『極東?』って言っとった」

 「それがなんですか?」美山は、ピンときてなかった。ピンときたゲンジが、美山を遮って、続けろと目くばせした。

 「あのとき、屋敷の中でほとんどが夏服か、私服やった。一目じゃ、極東って分からん。フツーさ、若者を職務質問するときさ、まず『大学生? それとも高校?』って聞かん?」

「————確かに」


 みんなの喉がゴクリと鳴った。タブレットの画面がスリープに入り、いよいよ、室内は暗くなった。


 「なんで極東って知とったちゃろ? それに、警察が来たタイミングも的確やった。不自然なくらい」


 言葉は、宙を漂った。その場にいた誰もが、おなじ考えに至っていた。けれど、誰も、安易に口にしようとしなかった。


 ————誰かが仕組んだ。


 誰かの意図が絡んでいた——————そう思ったとたん、カラオケルームの空気が変わった。静寂の中に、憎しみが満ちはじめた。その矛先がどこへ向かうのか。だから、みんな用心深く口を閉じた。ゲンジは小さく笑った。その笑いにはユーモアの影もなかった。室内の空気が、ピリッと音を立てる。


 「笑えん冗談やん、それ」



 **********



朝7時半の通学路。城南線の大通り。朝補講前。権藤と美山、K K Kメンバーはフードをかぶり、マスクを深くかぶり、口数少なく待ち伏せしていた。ホームルームには早すぎる朝。無防備な朝の空白。上目遣いの眼光が、西新方面を睨んでいた。朝日が首筋と背中に差しこむ。我々の細長い影が、舗道を斜めに伸びていく。自転車の影がゆっくり近づいてきた。車輪の回転音も近づいてくる。夏の眩しい名残り。まばゆい朝日を照り返し中で、自転車のベルがチラリと輝いた。


 ——来た


 読みどおり西新方面からやってきた。ペダルを軽やかに踏みながら、何の警戒もなく、いつも通り、こちらへやって来る。スーパー特進で、副会長とよくつるみ、威丈高な笑い方をする人間。あの白い顔、細い腕、細い指。妙に澄ました目つき。副会長と共によく笑い、同調圧力と排除の理論の信奉者。俺たち集団は歩み寄った。その足音すら、舗道に吸い込まれていくような、のどかな朝だった。


 美山は、自転車の前に立ちはだかった。俺は真横にまわった。自転車は急ブレーキをかけて、チュッとタイヤが擦れながら、急停止したクラスメイトはよろけた。輩たちの手によって自転車のハンドルを掴まれた。俺は、友好的に声をかけた。


 「やあ」

 「ゴンドー?」クラスメイトは怯えていた。

 「ちょっと話がしたい」

 「いや、補講あるけん」

 「授業聞いとらんやろ。スーパー特進の悪しき風習。無意味な強制補講」


 フード集団に連れられ、男は城南線から逸れた。裏の住宅街を通り過ぎ、湖畔の森に入った。散歩客も少ない平日の朝。湖の水面は鈍く、東の空から射す光をのっぺり反射している。湖畔のジョギングコースさえも逸れた。城南線では俺たちはよく笑い、紳士的に腰や肩に手を添えていた。だけど、青くさい藪の茂みの中では俺たちの目つきも、言葉遣いも粗暴になった。眼球は、前に迫り出す。灰色の長ズボンのくるぶしは露に濡れ、白いスニーカーは泥に染まった。連行されてポロシャツの襟元の乱れた男は、肩が縮こまり、うなじや額に脂っぽい汗が浮いた。


 囲まれる恐怖。硬くひび割れた大木の幹に、連行された男は押しやられた。古びたベンチ、水飲み場。少し錆びたアスレチック、風に押されて揺れるブランコ。野良猫や散歩の犬の糞が混ざった砂場。平日の朝、誰もいない子供広場。湿気のある土の匂い。


 「なんで呼ばれたかわかっとうよな」

 「知らん」クラスメイトの肩がピクリとすくんだ。反射的に身を守ろうとした動きだった。

「あああ!」


美山は考える前に、そいつのポロシャツを掴んだ。糸が切れる音がした。美山の大きな拳が、力強く、獣のように彼の首根を縛りつけた。怒っているというより、何もかも制御できなくなった感じ。


「俺たちにもおんなじ話してくれよ」俺はいたってニコニコしていた。

「なんの?」うわずった声で大木に打ちつけられた男は尋ねた。

「とぼけんな!」美山は怒鳴った。怒りの前に、先輩も後輩もなかった。何もかも現実味のない滑稽さが怒りと入り混じる。俺たちはみんな頬肉を引き攣らせ、思わず微笑んだ表情になった。

「昨日、河合塾でスーパー特進の女の子に自慢しとったらしいやん」


 相手の肩が震え、下瞼の縁が湿っていた。半分、泣き目になっている。怯えている。それは、言われのない本能的な恐怖からではない。俺たちにうしろめたいことがあり、それが晒されてしまうのではないかという発覚の予感だった。


「俺たちにも聞かせろよ。お前の武勇伝」俺はあくまで物腰柔らかった。

「知らん————」クラスメイトは顔をそむけた。美山は、その男を正面へ引き戻した。


「ぜんぶ知っとうけんな!」


大木の幹と詰め寄る男たちの間で、クラスメイトの足はわずかに浮いた。ひゃああと、悲鳴をあげて勘弁した。


「おととい、あのパーティーは知った貴様は、こっそりお酒を持ち込んだんだろう! ああなることを見越して!」

「それをなんで?」

「卓球部の2年が、実家が吉塚の酒屋の生徒に、お酒を箱買いできるか尋ねとったらしいな? その卓球部の2年にも、こんな感じで脅したらすぐ教えてくれたよ! テメーの名を」

「俺は、知らんけん!」

「とぼける気かよ! 吉塚の酒屋に断られて、別の方法で手に入れた酒をウーバーイーツに扮して、あの日、あの豪邸に届けたんだろうが!」


 美山は、胸ぐらを掴んだ拳を、そのまま天へ突き出した。締め上げられた男は、驚くほど軽かった。歪んだ唇からヨレヨレの舌が、だらしなく出た。壊れかけた機械が、最後の力でゼンマイの音を絞り出すように、小さなうめきがあがった。


 「————俺は指示された」

 「誰から!」


  間髪入れずに問うと、男はしばらく歯を食いしばっていたが、ついに口を開いた。


「————副会長」


  風が吹いて、ブランコが揺れた。新記録だった。卓球部の1年は、3分で吐いた。この男は30秒だった。


 「あいつは、あの場に、あの屋敷の茂みのどこかにいたっちゃろが! 」

 「いた—————。でも、俺は、ただ運んだだけやけん。通報はしとらんけん」


 血の気が引いた。


「いまなんて?」

 「通報しとらん」

 「通報は、近隣住民じゃなかったと?」


男は頷いた。細い首の喉だけが上下に動いていた。瞼の震えは続いていた。


「誰が通報したとや!」

「副会長がスマホで110番した。極東生が私有地に侵入して騒いでますって————」


 現実として告げられると、怒りさえも凍りついた。連行されたクラスメイトの目に、涙は流れてなかった。けれど、赤くなった鼻はヒクヒクするたびに、鼻の穴が不恰好にちょっとだけ大きくなった。溢れた鼻水を垂れし、ポロシャツの裾を濡らした。そのクラスメイトは、拭うことすら忘れるくらい怯えていた。




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