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フラワーガーデン(14)



 担任たちが、保護者に電話をかけてる。


 潜伏している仲間からの一報。実際に、おうちに担任から電話が来たという知らせ。俺たちに激震が走った。


 ゲンジは戦略を変えた。決起集会をやめて、生徒一人一人にラインや通話で、呼びかけて一人一人潰していく。ホワイトボードに太く赤い文字で「目標 1800人」と書かれていた。ゲンジは楽観していた。演説に手ごたえを感じていた。だけど、今ではただ、固唾を飲んで数字を冷たく見ていた。


「足りん」


 ゲンジの口癖になっていた。選挙終盤の1票1票に、執念を燃やす選対幹部のように表情は険しかった。ホワイトボードの『1800人』という文字は、血で書かれた誓いのようだった。旧礼拝堂のとなりの豪邸に、ゲンジたちは身を寄せていた。おそらく、教祖が住んでいた館なののだろうか。一般家庭の何倍もの広さと高さのリビングルームには、調度品や金品、家電、絵画はほとんど持って行かれていた。けれど、大ぶりなソファーと、異様に重厚なリビングテーブルだけはそのままだった。ソファーにも、壁にも、柱にも、ソファーにも、いかがわしい線香の匂いが残っている。囁かれるのは祈りの言葉でも、神からのお告げでもなく、早口コールセンターのようなボイコットの呼びかけだった。ソファーの上にも、ダイニングテーブルの椅子にも、隅っこのバーカウンターにもメンバーたちは散らばって座り、前屈みになって、耳をスマホにあてている。


 「マジで頼む—————」

 「親に登校しろと言われても、学校に行くふりして天神とかで時間つぶして————」

 「圧に負けんな。団結すれば、推薦なんて覆せる」


 ゲンジもスマホで熱弁していた。玉座どころではなかった。他のメンバーと肩を並べて、電話をしている。


 「3年間ぜんぜん、おもんなかったやろ? 最後に青春かまそう!」


 熱気と、はりつめた空気感。廃墟は、蜂起前夜のアジトのようだった。すでに、夜更けだった。ホワイトボードに呼びかけに応じる人数が、3学年45学級ごとに書かれていた。


19人/40人

15人/38人

8人/39人


 どの数字も停滞している。いざ、確かめると冴えない数字が見えてきた。全校生徒の意志は、いまだ宙ぶらりんだった。


「やべえ———バッテリー、10パーセントしかねえわ。通話、めっちゃ電気消費する」


 K K Kのメンバーは、コンセントに充電器をつなげた。ここは廃墟で、水はない。けれど、電気は通っている。使ってしまうと、廃墟の持ち主に電気代の請求が届いて、俺たちの寄生がバレる。わかってはいるけど、使わずにいられる余裕がない。ボイコットは、明日になってみないとわからない。生徒たちの意思なんて朝の空気、生徒の気分、親の一言で覆るかもしれない。何かをしないと落ち着かない。通話の合間。空腹ではないのに、持ち寄ったカントリーマームやポテトチップス、たけのこの里、柿の種。甘いものと塩っからないものを、交互に手をつける。塩と、でんぷんの粉と油まみれの指を舐めて、スマホに握りしめ、耳に当てる。バリバリ、ボリボリ。部屋のそこかしこで、咀嚼音が響く。それはもはや、食べるというより、明日への恐怖を無限に噛んで呑み下しているようだった。


 「1、2年の半分はカタい。既読スルーが多くて————でも、さっきまでこんな感じじゃなかった」


 美山は、肌荒れでピンク色になった首をボリボリ掻いた。指のすき間から皮膚の白く乾いたカスが落ちて、灰色の制服の肩につもった。ゲンジはため息をついた。


 「————半分ボイコットしても、残り半分が登校すれば、たった一日で、教師たちに空気を持っていかれる」


 圧倒的ボイコットでなければ、勝利と言えない。せめて8割—————ゲンジは、拳をにぎった。


 「3年が苦戦です」美山は水性マーカーにキャップを嵌めた。親指のつけ根は、赤いインクで汚れていた。


 美山の目の奥に、不安の揺らぎがあった。グループラインでスタンプを連打する生徒も、いざ朝になって布団からたたき起こされて、母に「学校に行きなさい」と言われたら、あっさり折れるかもしれない。スタサプ、提出物、評定、出席日数、担任や親の顔色、推薦。生まれてこのかた、高校生は所詮、大人たちの秩序が刷り込まれた、いたいけな存在。スーパー特進のクラスラインをスクロールして、K K K のメッセージを転送した。


【拡散希望】


  ゲンジが退学になりました。ボイコットを実行します。


                極東学院を更生させる会 KKK

 


38の既読。返信はない。けれど、その空白の行間にありったけの、ざらついた感情のノイズを感じる。無言の嘲笑。見えない侮蔑。透明な憎悪。俺はスクロールしながら、それらをトークルームの空白から拾いつづける。副会長たちが冷笑しているものなら————俺は、はるか高い位置から、陰湿で頑迷な連中を見下ろす。


 「ちょっと、ゴンさん———先輩のクラスわかってます?」


 美山は、チョコを頬張りながら、俺を見下ろしていた。美山の顔に点在するニキビが、感情と連動するように赤く膨れあがっていた。皮膚の内側から怒りが芽を出し、いまにも咲き誇らせそうな出来物は、はちきれんばかりだった。美山は、ホワイトボードをトントン小突いた。


 3年10組 1人/38人


 数字は揺れる。小柄な体のわりに、手首や指だけは野太い美山の拳は、彼なりの決意を語る。


「————人望ないみたい」俺は皮肉めいて笑った。

「一人ずつ、個人LINEしてくださいよ」

「無理だ」俺は、手足を縦にぐっと伸ばして、ソファーに背中をのけぞらす。線香の匂いがハウスダストとともに漂った。


「あきらめないでください」

「しゃーない、あそこは、副会長の本丸やけん」リビングの片隅のバーカウンターの椅子を回転させて、ゲンジがこちらに顔を向けた。「巣窟みたいなもん。俺たちが必死なとこ、見せんでもいいやろ。そおっとしとけ」

「ラグビー部とバスケ部、野球部、柔道部。あいつら、鉄の結束ですよ。学校行くって言っています。副会長と一緒です。生徒の敵ですね」美山は、悪の枢軸のように、敵対勢力を並び立てた。

「ラグビー部は、辛辣な思いをさせられた———文化祭のとき、学校側の先頭に立とった」ゲンジはずっとスマホを握っていた指の関節を、ぽきっと鳴らして文化祭の悪夢を、追想する。

 「傭兵みたいなもんです。つぎの生徒総会でラグビー部の補正予算、否決しましょう。喝采投票でブーイングを呼びかけるんです」

 「天才やん」バーカウンターからゲンジは手を叩く。


 ゲンジと美山は、ボイコットが成就したあとの青写真を広げていた。明日の恐怖からめを背けている。ゲンジはまた閃いた。


「ゴン——————お前キャプテンとおなじ中学やろ? 猛と話できん? 」

「なんで?」俺はスマホに夢中だった。

「学校相手に、裁判できんと? ラグビーの事故で後遺症を負ったんやぞ」

「無理やね。猛は、虎衛門を憎んでない」


 噂をすれば、猛からメッセージがきていた。


 「この曲、めっちゃいいわ。お前、ピアノ弾ける?」


 聖人が突然現れた。俺は自らの行いを恥じる。そんな心地だ。僕はさっと、その悪趣味な会話からフェードアウトした。


 「うん」

 「弾いてくれん? こっち、グランドピアノあるけん」

 「お前が学校戻ったら、音楽室でやってやるよ」

 「萌映は弾いてくれた。今まで弾いてくれんかったのに」

 「あいつは音大を目指してるけん」

 「また来てくれん? お前と話したいことがある」

 「ラグビーはやらんけんな」

 「歌詞の意味を知りたい」

 「歌詞は俺もわからん」

 「俺はこの曲が好きやけん。俺の人生がこの曲やん。それにさ、お前に一生のお願いがあるけん」

 「言っとくけどラグビーはせんけんな。そんなのに一生使うな」

 「違う。まったく、別のお願い」


 俺は病床の人間を突きはなした。俺は、無理難題を拒絶しただけに過ぎない。それでも「俺」と「お前」で呼びあう、奇妙な「縁」はつづいている。ゲンジの拳がテーブルに下された。打音が深く響いた。


 「あすの朝、六本松駅の前に立とう。登校してきた生徒を足止めして、呼びかけるしかない。今夜はここで徹夜して、ギリギリまで個人ラインして粘らん?」

 「その必要はない」俺は口を挟んだ。

 「なんで?」

 「例の動画」俺は不敵な笑みを浮かべた。みんなが目を細めた。

「第二弾を仕掛けるってわけか」


 豪邸の広間の沈黙のなかで、美山が小さく息を吸った。ふたたび、手垢だらけのスマホに手を伸ばした。釣られてひとり、またひとりとスマホを耳にあてた。リビングルームでは、早口の呼びかけや、ラインの着信音、呼出音がまた絶え間なく響く。



********


 

 1年の春。アキトは初心者でパスもタックルもできなかった。ルールだってノックオンしか知らず、トライのことをタッチダウンって呼んだ。パス練習では、前にいる選手に、アメリカンフットボールなみのロングパスを決め、スローフォワードの反則を取られた。そんなアキトに基礎を仕込んだのは俺だった。極東学院高校ラグビー部で、アキトだけが初心者だった。それ以外は経験者だった。福岡、九州はおろか、全国から猛者が門を叩いた。強豪に初心者が入りこめる余地はなかった。足の速さだけで試合が出られるほど、タックルやパスを身体化させたチームは甘くない。足が速いだけでは試合に出られない。なによりタックルとそれに対する打たれ強さが求められる。アキトはタックルにも苦戦した。タックルの痛みは、アキトにとって予想外だったらしい。


 アキトのハンドリングは、どれも胸で抱え込むようなキャッチだった。胸でキャッチするたびにテンポが乱れた。たびたびボールを落とした。ラグビーボールを胸の中で、抱え込むようにキャッチでは、つぎのパスにつなげられない。展開のスピードがそこで止まる。俊敏にパスまわしするためには、両手だけでキャッチしなければならない。そのパス練習に付き合ってあげた。ボールを放りだすとき、指の動きや角度、遠くに投げるスクリューパスの技法も教えた。練習の日はいつも夜がふけるまでマンツーマンで付き合ってやった。いつの間にか、師弟関係ができた。


 タックルバックなしの生身で、1対1でタックル練習。そこで、アキトは初めてタックルの痛みを知った。骨と肉同士がぶつかる衝撃。骨の疼き。肩にかかる衝撃。タックルを受けて、受け身をしながら地面にうちつけられる痛み。にがい顔をしたアキトは、ここで初めて音を上げて、太ももをさすった。これまでの陸上競技ではまったく無縁だった痛み。でも、アキトは強打した太ももや、尻をさすりながら、何度も立ち上がってニカっと笑った。


 「これが欲しかった」


 俺の手から巣立ったのはいつだろうか。はっきりとした境界はなかった。毎回、自主練に付き合うたびに、アキトは「サンキュー」とにっこり、白い歯を見せて微笑んだ。思い出すたびに、その過去に対して唾棄したくなる。アキトから「師匠」と呼ばれた記憶さえ、胸糞だった。アキトはパスのコツを掴んだ。両手だけのキャッチ、そのまま、次のパスにつなげるハンドリング。スクリューパスも形になった。何より、タックルの痛みにも慣れて、痛みを恐れなくなった。それが、あいつは飛躍的に実力を伸ばした。タックルをして敵を叩きつけるたびに目を細めて恍惚とした顔をした。痛みがアキトの中に眠っていた獣のような闘争心を目覚めさせた。フィジカルトレーニングを重ね、増量に励み、タックルやコンタクトに重みをのせた。さらにパスの精度を巧め、フェイントに鋭さを与え、キックプレーの練度を高め、あらゆる技巧を身体化させた。


 2年の春。新人戦で、アキトはベンチメンバーに名を連ねて、1軍デビューした。みんな、初心者のスタメンは「奇跡」と言われた。その夏明け、アキトは1軍右ウィングになった。奇跡は、事実になった。俺も必死に追いかけようとした。けれど、極東学院は部員120人の強豪校。2年の夏の終わり。極東第一グラウンドでの練習試合。気温は40度を超えた。エアコンの効いた部屋から外に出ると、一瞬で汗が吹き出る。そんなうだる暑さだった。人工芝から湯気が立ちのぼる。その陽炎でプレイヤーの輪郭が揺れ、グランドがぼやけた。


 練習試合のとき、トライ直後のコンバージョンキックの合間、俺はポカリのスクイズボトル8本をカゴに詰めた。その日、学校の製氷機が故障した。俺は、氷なしでスポーツドリンクを運んだ。一秒でも早く水を届けるためにグランドを駈けた。アキトは片手でもぎ取って、ノズルに口を加えて、まもなく唾を吐いた。


 「ぬるい」


 パシャン


 アキトは、地面にボトルを叩きつけた。そのはずみでキャップが外れた。中身の水がどっと溢れ、芝の根っこに染みこみ、朝露のように光を受けた、尖った葉っぱの水滴はきらめいていた。スクイズボトルは亡骸のように転がった。血が透明で、ラガーマンとしての俺の屍がそこにあった。そのスクイズボトルのように、空虚になった心を抱えて、俺は立ちつくした。彼は、俺を見ていなかった。彼は、俺に対して無意識で、無関心だった。


 あまりに暑かった。脳裏に白いもやがかかった。遠くからホイッスルが鳴った。それ以外、風もない、音もしない。怒号が聞こえた。くっきりと耳に残った。


 「邪魔たい!」


 キックオフのホイッスルが鳴っていた。敵がラグビーボールを蹴りあげ、極東のフォワードがそれを受け止める。俺は、場違いにもその中に立っていた。ホイッスルがもう一度鳴った。プレー中断、やり直しのホイッスル。


 なんの為の3年間


 胸焼けがした。2年じゃない。俺は小学生のときから、ラグビーをやってきた。となると、なんの為の10年だったんだろう。ひとつのプレーでも、一本のタックルで、毒父の一発の制裁でも。その積み重ねが、ラガーマンである自分を形づくってきたはずだったのに。その日を境に、心はぽっかり空洞になっていた。俺の芯はグシャリと潰れた。これ以上なにかを注ごうとしても、もう心の底は抜けている。それから、俺は練習を休みがちになった。



********


 「お前には、ラグビーをやる資格がない」


 高2の冬。俺は、アキトを殴った。先に、手を出したのはアキトだ。だから、報復した。ラグビー部の仲間に取り押さえられ、容疑者のように職員室につき出された。歯茎がズキズキする。唇の端っこは切れて腫れあがり、鉄の味がした。虎衛門は、判事のように椅子に深くもたれて、無愛想に言った。相変わらず、カンタベリーのウィンドブレーカーを羽織っていた。


 「最初に、手を出したアキトが悪い。だが、お前は、それと同等の言葉の暴力を放った。アキトが生まれなら背負わされた宿命———————アキトには一切責任のない、生い立ちを揶揄した。その言葉がアキトをどれだけ傷つけたか、権藤にはわかっていない。そのうえ、反撃で武器まで使った。アキトは大けが。すぐに、まわりが止めに入ったから良かった。それがなければ、アキトは大会に出られなくなったかもしれん。男の努力を、男であるお前が踏みにじる。俺はワンフォーオールの精神をずっと言い続けてきた———————」


 「このチームにその精神はありません。その精神は死んでいます」


俺は、そう言ってクシャクシャになった退部届を渡した。


「負け惜しみにしか聞こえん」


 虎衛門は、動じなかった。けれど、胸のすく幕引きだった。報いきれなかったものが、一気に整理された。すべてが「済んだ」感覚がする。あいつから手を出した。俺だって、こんな怪我している。けど、アキトのほうが、価値がある。以来、俺はラグビー部全員から、無視されるようなった。誰一人———いのっち以外に、ラグビー部で話しかけてくれる人はいなかった。猛だって——————だから、正直いうと、受傷後の猛との交流は、なんだか今さら感が拭えない。


 1週間の特別指導になった。暴力事件の直後、毒父が学校に呼び出しされた。校長室で、担任に、傷害事件のあらましを説明されると、すかさず、鼻息を荒くし、顔をまっ赤にして、血管が浮かび上がった瞬間、怒号より先に俺に飛びついた。ラグビーをドロップアウトをした裏切り者。親の顔に泥を塗った失敗作。


「離せ! 先生もわかっとうやろが! 体罰もできんくて歯痒く思っとうやろ!こんな社会のゴミは、殴らねえとわからん!」


 教師数人がかりで、毒父は押さえつけられた。俺は、屹立していた。感情はない。親子こぞって凶暴的であることが露呈した。俺は、歪な家庭で育った。それが校長室の中で顕になっていく。毒父が俺を殴り、俺はアキトを殴る。暴力は遺伝する。虎衛門は、その場にはいなかった。底辺の争いは関わらないことにしているらしい。家に帰ったとき、俺は、毒父に殴られた。母が泣いて止めた。毒父はためらうことなく、思いっきり、母を平手で撃ち抜いた。母はうなだれた。その父もカンタベリーを着ていた。三羽のキーウィが横に並ぶデザインマーク。それは、悪魔の紋章。


 お前のせいだ。お前が甘やかしてきたからこうなった—————


 殴られるより、母へ投げつけられた他責の声を聞かされるほうが心は痛かった。



        **********



 虎衛門は、人の深奥を見とおせる達眼がある。ねちっこい敗北感がこみあげる。そんな気持ちが禁じえないとき、俺は、文化祭の吹き抜けの生徒ホールの動画を見た。


 森シンの丸刈り事件とは別の、俺たちの切り札。ゲンジもためらっていた。そのカードは俺たちが本当に追い詰められたときに切ることにしていた。


 俺は、改めてその動画を再生させた。やはり、よく撮られていた。神になって地上の出来事を見下ろす心地がした。公開にあたって、その動画の登場人物の顔はすべてぼかした。余すことなく晒せば、猛が傷つくと思った。


 翌朝、学校に行くふりをして、一人糸島に出かけた。秋晴れだった。真夏のひどい暑さは嘘のように、空気は肌触りがよくて、風は柔らかで、空は青で澄みきっている。僕ひとりだけを乗せた西鉄バスは、どこかピクニックにでも連れて行くようだった。車窓にはエメラルドグリーンをわだかませた玄界灘が広がる。心のうちに薄幸を感じた。不意に唇の両端に、ふっと持ちあがり、笑みがこぼれた。K K Kの全体ラインは、荒れていた。次から次へと、メッセージが矢継ぎ早に更新されている。


 「六本松駅に教員が立っとう!」

 「正門にも、裏門の通学路にも」

 「登校する生徒に声かけられん」

 「とりま、潜入以外、アジトに引き返せ! 」

 「やばい。相当数が六本松のホームに降りた! ラグビー部、野球部、バスケ部、柔道部も! 」

 「サッカー部も確認、3年も結構」

 「たった、いま副会長が、正門を通過。めっちゃ余裕そう」


 指先をスクロールするだけで、画面越しに混乱と緊迫が押し寄せてくる。けれど、その目まぐるしいグループラインの喧騒すら、いま目の前に広がるこの静かな海原のまえでは、世俗に思えた。うるさい———そんな言葉が、心の奥でそよぐ。バスは、静かに揺れていた。俺は微笑んだ。こいつら、朝のテレビを観ていない。


 「お前、今日学校やろ」


 猛の顔色は、ほのかに白桃色がわだかませる。その瞳に濁りはなく、燦然としていた。病室のテレビに電源を入れようと思った。だけど、なんとなく猛のことを慮ってしまい踏みとどまった。


「ボイコットやってる」

「学校をめちゃくちゃにすんな」


 猛のげっそりした頬にえくぼの影ができた。だけど、それ以外の影がなかった。この前、会ったとき、猛の顔にはいろんな影があった。瞼の下、鼻筋、眉間。表情の中の、ほんの少しの翳りで、人は疲れているとわかる。だけど、今朝の猛に、翳りはなかった。


「ラグビーをやってたときより、今が楽しい」俺は笑った。

「受験しろって。ゲンジとつるんでたら、推薦受けられんくなる」

「一般入試を狙う。世界史と国語、英語に力入れて、それ以外全部捨てた」

「ゴンは、東京の大学狙うん?」

「俺はこの街を捨てる」

「いいな———————」そう呟いた猛に、ほんの一瞬だけ影が差した。


「猛は、帝京の推薦もらっとうやろ」

「推薦、ナシになったっちゃん———————」


 そのとき、猛は不思議なほど神々しい顔をしていた。影はすっかり消えた表情は真っ白で、苦しさや悲しみ、悔しさを象る陰影は一切なかった。事故後、はじめて対面したときと同じ顔だった。


「なんでなん?」

「この体で、ひとり暮らしできるわけないやん。介護が必要やもん。誰かの助けが必要やけん。風呂入るのも、ご飯食べるのも、着替えるのも、トイレ行くのも」


 俺はベッドの下に目を落とした。透明パックに入った黄色い液体がわずかに揺れた。言葉が思いつかなかった。


「ラグビーできんくなるのも辛い。けど、一人でトイレできんのも辛い。ひとり暮らしで介護はさ、お金がかかるっちゃん。お母さんを東京に連れていくわけにもいかん。やけん、福岡でリハビリを続けようと思うけん。そんで、車いす乗れるようになったら、地元の大学行こうって—————」

「言われたと?」

「人聞き悪いこと言うなって—————俺から辞退するっちゃけん。ちゃんと、地に足つけて、リハビリせんと。それに、いまは外出したくないっちゃん」

「引きこもりとか、お前らしくない。中学のときさ、引きこもる奴の気がしれん。とにかく、プロテインをして、筋トレやれば、自信がつくのにってお前、言っとったやろ」

「でもさ、漏らすのが怖いっちゃん。大便をさ。俺、まったく、わからんっちゃん。クソがしたいとか、溜まってるとか。お腹の筋肉もなくてさ。いきなり出てしまうっちゃん。俺、臭いでしか、漏らしたのわからけん。嫌やろ。そんなの—————いきなり、におい出してさ。みんな困るやろ」


 なにも言えなかった。どうすればいいのかわからなかった。気の利いた言葉も、力強い励ましも、すべて陳腐に思えた。思いつくあらゆる言葉が、猛の苦しみを逆なでするとしか思えなかった。


「なあ、ゴン—————」


 猛は表情をまったく変えなかった。地獄を知り尽くし、その最果てにでもある境地にたどり着いたような、恍惚とした顔になった。


「俺、しんどいわ」

「弱音を吐くな。 何もならんやろ。 みんな、お前を待っとうけん。どうしたん! この前会った時は、お前はそんなに弱気じゃなかった! 悲観してなかった! この前のお前はどうした! ラグビーをはじめたことを後悔しとらんて、胸を張って言っとった猛はどこに行った?」

「誰にも吐いとらん! ゴンを除いて!」

「なんで俺なん? 俺なんかに吐いたって、どうにもならんやろ」

「親友やけん!」


 猛は荒ぶった。俺の瞳の奥が熱く震えている。俺は、感情の荒波を、理性の瓦解を————かろうじてせき止める。


「辛いんよ。みんなの前じゃさ、辛い顔できんっちゃん。それにさ、俺が暗い顔したら、もっと辛い思いをさせるやろ? やけん、俺は、そんな顔絶対にせん。一ミリも。お母さんには」


「もっと、甘えろよ。甘えろ。そうじゃないと、持たん!」

「きついっちゃん—————」


 猛はまっすぐ俺を見つめた。瞳は潤んでいた。微かなアゴの動きで俺に指図する。


「俺のタブレット見てみ。アレクサ、めっちゃ便利やけん」


 俺は言われるがまま、猛のタブレットを手に取った。


「履歴見てくれん?」猛は言った。

「エロいやつでも、調べとうとや?」


 無味乾燥な冗談を言っても、猛はニコリともしなかった。ただ、俺との視線を逸らし、眩んだ眼を細めて、海の風景を眺めた。微かな潮騒が聞こえた。微かな潮の匂いが鼻につく。


「安楽死できる国」

「スイス渡航する 未成年」

「安楽死 費用」

「車いす 自殺方法」

「イギリス ラガーマン脊髄損傷 安楽死」


 意味はわかる。認識できる。なぜか頭の中の何かが、まっ白に膨張していく。読める。読めるのに脳みそが、理性も感情も受けつけない。文字の輪郭だけが浮いて、一人歩きしている。意味は霧散する。検索履歴の文字が猛の声になって聞こえてくる。


 きついっちゃん————

 

 脳内で反響した。何度も、何度も


「なん考えとうとや!」


 愕然とした。床に叩きつけたタブレットは、床にぶつかってから、ガラスの割れる音を立ててバウンドした。画面の隅っこから蜘蛛の巣のような亀裂が走った。そのひとつひとつが、僕の心の断面のよう思えた。


「ゴン—————」


 猛は仏像のように俺と対座していた。視線は、病棟の窓から、広がる玄海灘の方を向けている。エメラルドの海面が窓越しにちらつく。目が眩む。


「一生のお願いがある、一生やけん————あいつらの花園を見たい。最後に、ラグビーの花園を見届けてさ、手伝ってほしいことがある」


「なん考えとうとや! ふざけんな! 俺を犯罪者にさせる気なん!」


 椅子を蹴とばした。


「じゃあ、なんで、お前は、俺にあの曲を送った? あの歌詞、ゴンもわかってるやろ! わかったうえで送ったんやろ? お前も、心の底では、俺と同じことを考えているやん」


 俺は狼狽えた。


 「この薬を見ろよ」


 猛は、永久的に悴んだ右手で、無数の錠剤を俺に見せびらかした。


 「この薬を見ろ————これは下剤、これは細菌を弱める薬、これは、血液の循環を良くする薬。んで、これは自律神経を補強する薬。こいつは痰を吐く薬で、頭痛をしずめる薬。胃薬—————」


 右手ではすべてを持ちきれず、いろんな色かたちをした錠剤、カプセルが、俺の足もとに散らばり、猛の右手には何も残らなくなった。


「俺は、この薬がないと生きていけんけん。なあ、ゴン。俺さ、本来なら、死ぬはずやった。いまが縄文時代やったら、床ずれで死んどった。肺にたまった痰で肺炎なって、死んどった。布団のなかで便秘になって、クソとしっこのバイ菌にやられて—————俺は何度も死を免れとう————俺はあの試合で、ひと思いに死ぬべきやったちゃん」


「そんなことして、おかんはどう思う」

「悲しむ。ふざけんなって言われる。でも、永遠につづく辛い気持ちは取り除かれる。辛い思いだけは和らげたい」

「お前のために、どれだけの仲間が見舞いに来たと思っとうと? アキトとか、静香とか、虎衛門とか、そいつらを裏切るん?」

「でも、会いたくない」

「なんで!」

「何度も言っとうやろ! 俺は、いつ暴発するかわからん爆弾を抱えとる———————それに、人工呼吸器で息苦しい。喉は腫れた感じがする。熱にうなされて、めまいもする。薬の副作用で、胃もむかつくし、食欲は完全に失せた—————ゴン。このまえ、盛大にやらかしたけん———————下剤の調整ができんくてさ。少なすぎたら便秘。そんで、ほんのちょっと、下剤の量を増やした。そしたら、もう地獄なんよ。オムツから下痢がはみ出て、シーツどころか、マットレスを汚した。もう、自尊心がズタボロなんよ。それを見られるのは、母さんと看護師だけでこりごりなんよ。アキトとか、静香には絶対見られたくない。いまだって、わからん。それがいつ出てくるか。首から下がまったく感じん。やけん怖い。見舞に来てくれるアキトとか、静香が、顔をしかめるのを想像するだけで怖い」


 俺は、凄まじい悲壮に押しこめられないよう、自分自身を必死につなぎとめるように言葉をつぐんだ。


「先立たれるほうが酷やろ!」

「介護の方が酷やけん。俺、体重百キロこえる。こんなん、俺のお母さんが抱えきれんやろ!」


 言葉を失った。いや、あの日、静香に八つ当たりした言葉が、脳内に堂々巡りに脳裏を占めていく。


 猛に何をかければいい?

「諦めるな」か「がんばれ」か


 なにを言えばいい。何をどう言えば、猛は前向きになれるのか。その答えは、永遠に導き出せない。


「なにか、方法があるはず」猛は言った。


 受け入れがたいけど、不意に思索してしまう。踏切に屹立する猛の車いすを思い浮かべた。それがもっとも現実的だった。だけど、それは飛躍だった——————人身事故の賠償請求。遺族に巨額の負担がかかる。邪念だと気づき、俺は必死にかぶりをふった。


 「———命をとりとめたのも、何かワケがあるやろ!」

 「ここ2ヶ月、天井を見ながらそれを考えてきた。けど、さっぱりやん」


 「もう帰るわ! 」


 俺は立ち上がった。感情が暴走した。心の中で憎しみが爆ぜた。猛にもだけど、それ以上に頭の中でかすめた邪念に対して。


「いま、俺の目の前にいるのはお前じゃない! 俺が知ってる猛じゃないけん! 猛はあの時試合で死んだ! いま、俺が相手にしとうのは、魂のない抜け殻やけん! ここまで落ちぶれるとは思えんかった! 腹立つ! 言っとくけど、俺、マジでキレとうけんな! そんなに逝ってしまいたんやったら、いますぐ、この場で逝かせてやる!」


 猛は、豪傑に笑った。首から下は不動だった。無防備な首をさし出しているようだった。


 「じゃあ、やってくれ」


 むっくりした瞼とは、対照的にげっそり削げた頬。皮の剥れた唇。それぞれに影ができはじめた。かすかな光を受け、表情の明暗が少しくっきりする。首から下はまったく動かない。俺はリュックを背負った。それ以外にこの病室に持ってきたものも、持ち帰るものもない。俺はそっけなく、なんでもない風で「じゃね」と言った。猛は、ぽつりと言った。


 「また会おうな、つぎはセーラームーンの格好でな」


 俺は振り返なかった。病室の白と消毒液の匂いが、道中でバスから眺めた太陽の光、エメラルドグリーンの海原をすべて漂白させた。猛の笑顔。俺の怒り。それらすべてが混ざり合って、わからなくなった。



           *********



 動揺を紛らわせるために、俺はユーチューブからテレビ局が配信しているショート動画を観た。だけど、それは、いささかの慰めにもならなかった。K K K のグループラインを色めき立っていた。


「おい、朝の番組観た!極東が報じられとう!」

「テレ朝だけじゃない! 日本テレビも!」

「全国デビューやん!」

「@Gonメンションされました  おい、ゴン  テメー知とったな!」


 帰りのバスは穏やかだった。スマホ画面だけが騒がしく、祭りのようにきらめいていた。潜伏しているスパイから吉報が、つぎつぎと届いた。


 「やべえ! どの学年も教室ガラ空き! 」

 「だいたいやけど、登校は100人切った!」

 「ボイコット成功!」

 「授業中止! 全学年自習になった!」

 「職員会議は、大荒れ笑」

 「教頭マジギレ。校長は亡霊」

 「ゲンジ、警固公園はよ来い!寄り道勢がめっちゃ集結しとう。公園に収まりきれん」

 「やばい、テレビカメラが来た!」


 胸をくすぐるような勝利感に酔っていい場面だった。だが、胸の内には、まったく別の重みが居座っている。思いがけない使命に全身が押しつぶされそうだった。


 「登校した奴は、リストアップしとけ」

 「野球部3割、サッカー部1割、バレー部7割、柔道部、バスケ部、剣道部ほぼ」

 「ラグビー部も全員出席」

 「副会長は、まっ青笑」

 

 ふんと鼻を鳴らしてみたくなった。権威があっけなく崩れた。ささいなひらめき。ちょっとした運動で、多くの人を感化させ、正当化される革命になった。自分の目論見と、現実が絡まり合っていく。生まれて初めての快挙。芸術の域。いい気になれる一日のはずだった。だけど、僕のまわりにある景色が、墨汁一滴が混ざったかのようにどんよりしている。景色の彩度が下がり、翳りが見えた。猛の願いが、僕がみる景色をどんよりさせた。


 俺は、薬院の河合塾に行って、自習室の机に向きあった。勉強に身が入らなかった。猛の願いに、俺は呪われていた。自習室は閉めきっていて天井は、徐々に低くなり、勉強机の左右の仕切りさえも僕に迫ってくる。俺を物理的に押し潰しそうに思えた。自習室の閉めきった沈黙は、俺の耳を圧迫する。そして、俺を心理的に押し潰した。


 この前、会ったときよりも、猛は痩せこけ、白くなっていた。足は、残酷なくらい痩せぎすなモデルのように細くなり、表情や体の輪郭の線は、さらに曖昧になっていた。それでも、この前の、猛は豪傑に笑い、悔いはないと言いはっていた。あいつは気丈で、俺以外涙を見せない。いまでも、キャプテンであり続けている。それこそ、思い込みで、慢心の産物だった。ながい間、その自習室にいた。両目が押さえつけられる痛みを感じる頃には、すっかり夜も深まり、天神のネオンが灯りはじめた。美山からラインが来た。今夜、K K Kで打ち上げをするらしかった。




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