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フラワーガーデン(13)



 裏門の脇に、乃愛は自転車を停めて立っていた。片方のハンドルを握っていた。うちらを待つように、夜の影の中に溶けていた。裏道を抜ける車のテールランプが、湿った質感のアスファルトに赤く滲む。その赤色光は、過ぎては消え、闇の中にかすかな残像を残した。バイクが、低いうねりをあげて走り去る。つぎの一台まで、しばらく何も聞こえない。背後の巨大な影になった学校も鳴りをひそめた。ラグビー部も、バスケ部もサッカー部もみんな帰っている。うちらが、最後の下校者であるかのように。静けさのなかで、乃愛のスマホの画面だけがひそかに、四角い光を放っていた。スマホに照らされた横顔はうちらを認めるなり、手を振った。スマホストラップの長い紐につながったビーズの連なりが微かなに光っていた。スマホの下で十字架が、キーホルダーのように揺れている。


「なんでどっか行っとったと?」萌映の声に棘があった。

「ごめーん」

「もー、頼りにならんっちゃけん」

「ミドコロがおったけん、超絶気まずかったもん。マジ息できんかった」

「なんでよ」乃愛は黙った。

「———————ミドコロと付き合とったっちゃん、でね。最近別れた」

「なんそれ?」萌映は、濃ゆい眉を浅くひそめる。

「わりとガチ」乃愛はあざとく舌の先っぽをちょっと出す。

「もー、静香がひどい目に遭ったとよ。それに、乃愛の芸術選択、音楽やろ。これからの音楽の授業どうすると?」

「どうしようかね。これから考える。どうせ、明日ボイコットやけん。休む」


 また、歯の浮くようなこと喋ってる。萌映は怪訝そうに乃愛を睨んだ。乃愛の車輪からチェーンの規則正しい音が鳴った。


 カラカラ、カラカラ。過ぎ去る道端の風が、六本松駅へ涼しく吹き抜ける。


「見て」


 乃愛もスマホに目を逸らした。




 【情報提供のお願い】

 極東で起こった問題行為があれば、情報提供をお願いします





 「暴露しちゃおっかな」


 乃愛は、片頬に浅いえくぼを作って笑った。

 

「なにを?」

「ミドコロがね、浮気しとったちゃん」

「は?」

「おなじ極東の3年と」

「マリア?」

「まったく違う人」


 乃愛は歯切れが悪かった。目を細めて笑っている。でも、嬉しい笑顔ではない。笑顔でひた隠しにしている。萌映の目は、急に尖った。声は、隠し事を暴き立てるかのように、刃先のようにひやりとしていた。


「ホントなの?」

「—————————」


「言いに行こう。ミゾヱに———じゃなかったら警察に」

「大丈夫」

「大丈夫じゃないけん」


 静香も声を上げた。さっき受けたマリアのひどい仕打ちどころじゃなくなる。肩をそびやかせた乃愛は、空の彼方の遠くを見るように言った。


「うち、脅されとうっちゃん」突然のカミングアウト。投げやりと憂いの感情の入り混ざった声が、通りの喧騒を一瞬で遠ざけた。信号が青に変わった。いつの間に、横断歩道のまえで、3人は足を止めていた。


 「誰に?」

「—————ミドコロに」


エクボに小さな影が落ちていた。エクボというより痩せてできた小さな窪み。痩せたのか? 乃愛の声はどこか憂さ晴らしで、どこか投げやりのような空っぽな強がりに感じた。


「なにそれ?」


乃愛も萌映も、五臓六腑を射ぬかれた。空耳だと思った。空耳であって欲しかった。


「もし、だれかに話して、学校を辞めさせられることになったら、乃愛にも同じ思いを———————」


「は?」


 思わず声を上げた。びっくりするというより、さっき何を言ったのか、もう確かめるように。通りのバイクのエンジンの唸り声や、トラックや路線バスの、プシューという圧縮空気が放たれる音で、告白がかき消されていく。


「そんなあれやけん。画像ね。うちが、ちょっと寝ている写真とか、くつろいでいるときの写真とか」


 静香は、溶け残ったのど飴を砕いた。幻想が壊れていく音がした。そして、むせた。その尖ったかけらを、誤って飲み込んでしまい、喉に絡まった。


「告げ口は嫌やけん。忘れたいっちゃん。胸がえぐれるけん」

「ミゾヱに相談すべきやろ。ゲンジはダメ。自分の都合のいいネタとして利用するだけやん」萌映は青ざめた。


「——————安心し、うちも連中は信用しとらんよ。ばってん、教師も信頼しとらん。ミゾヱは大変そうやし。打ち明けたら、たぶん倒れて死んじゃう」


 暗くなっていく街並み。宇宙の夜空と地上の街明かり。そのはざまが、秋色が滲んでいる。街灯やビルの明かりがまっすぐ連なり、一筋の光になる。南北と東西の、ふたつの光が交差する六本松の交差点。光の十字架のまん中で乃愛は笑った。口元だけの笑顔。目は真顔。尖った鼻は、その先っぽさえも、ピクリともしない。スカートのポッケから、あの長い紐が垂れて揺れている。乃愛は、右手をポッケに突っ込ませている。ポッケの中で、小さな十字架をたぶん握りしめている。


「佑太といまは楽しいけん。やけんそっとして」


 言い聞かせているのは、自分なのか、うちらなのか。乃愛はペダルを踏んでバイバイした。たち漕ぎの乃愛は小さくなっていく。秋風が乃愛のうしろ髪をなびかせ、制服のスカートがふわりと持ち上がった。もの寂しい風だった。



********


「萌映——————さっきの話」


 静香は、地下鉄のつり革にぶら下がった。地盤を抉ったような轟音を立てて、七隈線は長いトンネルを駆け抜ける。胸の内のわだかまった不安を煽った。


「女の先生に言ったほうがいいちゃない?」

「だれに?」コンクリートの断面が過ぎていくだけの車窓を、萌映は睨んだ。

「ミゾヱ」静香は呟いた。

「今日だってぶっ倒れそうやった」

「どうする?」


 真っ黒な車窓に、萌映の顔がぼんやりと映った。眉の端も、瞼も、ぴくりとも動かない。それはまるで、胸の中のもやもやを映し出した深層心理の鏡だった。


「本人は、そっとしてって言っとうけん。聞く感じだと写真だっていうし ——————でもさ、ミドコロのことは許せん。いずれ、話すつもり。乃愛がしっかり、このことを自分の口から話すよう。嫌がるかもしれんけど、時間をかけて、辛抱強く。ミゾヱが大変なら、警察にいう。うちは付き添う」

「そやね」静香は小さく頷いた。萌映の声に揺るぎないものがあって、いかにも頼もしかった。


「あのさ」

「ん?」

「なんで、ミドコロ避けとったん?」

「直感」

「あたるんやね」

「いい噂、ないけん——————————————吹奏楽の顧問なのに、まったく練習見んとかね。吉川さんが副部長で困ったときも、放置しとった」

「ダメやん」


 地下鉄が駅に停車するたびに、長い闇のから光がさし込む。その光は、蛍光灯のように白々しかった。ドアが開くたびに、だれかが降りて、だれかが乗る。乗り降りの雑踏に揉まれるたびに、萌映と静香の会話はとぎれる。


 あの話題を再び、口にすることはなかった。地下鉄は、天神駅にすべり込み、静香は降りた。短い発車メロディーとともに、萌映を乗せた七隈線はその先の闇へ、博多方面へ向かっていった。


『心の中に置いとくつもり』


 乃愛の言葉を思い出し、自分に言い聞かせた。乗り換えた西鉄電車の車窓には、福岡の街の灯りが、早瀬のように過ぎ去る。その車窓に、自分のモノクロの表情が重なる。あのとき、乃愛は笑っていた。だけど、表面的なものに過ぎない。


 目の奥はどうだった?

 まっすぐな目をしていた? 芯からちゃんと笑っていた?

 声は震えていなかった? どこか、無理してなかった?



                    ********



 キッチンで味噌汁を注ぎながらママが、明日学校どうするか、訊いてきた。食卓のおかず。ロールキャベツはしなしなで、ひき肉は搾りかすのようにパサパサしていた。ママの手料理のなかで、いちばん味気ない献立。静香は、ロールキャベツの上にマヨネーズをかけた。


「マヨネーズかけないの! 」

「—————べつに、これだけ」

「そんな歳から、なんでもかんでもマヨネーズかけてどうすんの? あんたがお嫁さんになったとき、夫にも、子供にも、マヨネーズだらだらの料理作るの! 」

「もし結婚したら料理は分担する。うちはスタミナ担当で、夫は野菜担当かな」

「そんな味覚がガサツでどうすると! 毎日、マヨネーズばっかだと、肥満一家になるとよ!」


 冷えたロールキャベツのうえで飛び交う小声、愚痴。母子あるあるの静かなヒステリックにうちは慣れている。パパは、静香が中学のときに白血病で先立った。涙を飲んで、強がってたママに、末期症状の貧血と、立つこともできない疲労感に苦しむパパは「もうだめだ」と弱音を吐いた。


 気の利いたことを言って欲しかった。パパが死んだ後も、ママは気丈がって女手ひとつでこの家をまわしてきた。父がいた日々はもう遠い。


 キッチンとリビングを行き来するママの足音が、食卓にリズムを刻む。話題は、ゲンジたちのことに戻った。ママは「あの子たちにも言い分があるのよ」と肩を持っている。


「で、あんたはボイコットするのと? さっき、学校からメールが来とった。溝江先生から、電話もね。いつもどおり、生徒に登校させてくださいだって。あさって、保護者会があるらしいけど、なにをいまさら———————ボイコットでもしないと、先生たちも目を覚まさないよ」


「うん」「そう」

「知らない」


 だるい。言葉をひとつひとつ探す気力もなかった。静香は、乃愛から教えてもらった糖質ダイエットを密かにしている。ごはんを抜いて、おかずだけを食べる。ロールキャベツと、サラダと汁物だけ。


「白米も食べなさい! いま、べらぼうに高いっちゃけん」

「乃愛が言ってた。糖質ダイエットが痩せるって」

「体づくりの大事な成長期になに言っとうと! 兄ちゃんを見習いい。毎日、体づくりで、毎食、4杯食べてきたっちゃけん」

「うちは、ラグビーマンやないけん」


 静香は呟いた。その声の中にある小さな抵抗をママは逃さなかった。


「とか言っとうわりに、マヨネーズかけとるやん! いつから偏食なったん? お母さんは、そのために、いままで料理がんばっとらんけん」

「もういい。ご飯ちゅうに説教なんてイヤ。ごちそうさま」

「あんた、いまさら反抗期? 」

「絶賛ね」


 静香は白米を掻きこみ、味噌汁をごくんと流し込んで、立ち上がった。お椀と皿を重ねて、台所の洗い場に持っていく。蛇口をひねると、水しぶきがシンクに跳ねた。水ですすぎ、スポンジで擦った。それと入れ替わりで、ひと段落したママがエプロンのまま、食卓について、ロールキャベツを頬張ばった。『何よ。美味しいじゃない』と、自分の手料理を自賛する。


「あした学校行くけん。萌映もラグビー部も、学校行くらしいけん——————そのあと、見舞いに行く」

「タケちゃんの?」

「うん」


 ママの喧嘩腰は、嘘のように和らいだ。ピンと張っていた声がゆるんだ。


「————そうね。タケちゃんは元気?」

「がんばっとう」

「まえ、タケちゃんのママから電話があったんよ」

「そうなん」

「泣いて謝とった————————何度も、ごめんなさいって」


 静香は、台所の水を止めた。洗った食器を、食器台に立てかける。


「なんで?」

「あんた、前、タケちゃんとこ、見舞い行とったらしいやん。そこで、あなたに辛くあたってしまったって——————何度も申し訳ないって。すごく疲れてて、分別を失とったって。怒りと悲しみをどうすることもできんかったって、電話口で泣きながら—————うちもなんて返せばいいか」

「——————そうなん」

「なんで、ママに言わんかったとよ。隠すこともないやろ」

「べつにいいやん。ママのことやけん、話したら逆ギレして、タケちゃんのママに怒鳴り込みそう」

「そんなするわけないやろ。あんた、ママのこと、そんな風しか見とらんと?」

「毎日が、雷注意報やけん」

「あんたね」ママは睨みつけた。ほら、言わんこっちゃと静香は笑った。かと思うと、ママは顔を伏せた。


「タケちゃんのママの痛みも悲しみも、辛いほどわかっとう————————————やけん。ママも、今度見舞いに行こうと思っとう。でね、また、兄ちゃん文化の日の3連休帰ってくるけん。そのときに、見舞い一緒に行こうかって」

「また? 去年は『ラガーマンに休みはない』とか言って、お盆しか帰ってこんかったくせに」

「兄ちゃんも、タケちゃんのことが、気が気じゃないの」


 お兄ちゃんは、明大でラグビーをやっている。中学時代のリトルラグビーでは、静香の兄がキャプテンだった。その1つ下の代に、権藤と猛がいた。


「いま行っても、迷惑じゃないかって思うっちゃけど、でも、ママも行かんと。知らんぷりとか、見て見ぬふりがいとかが、一番いかんけん。タケちゃんち、リトルラグビーのときは本当にいい親やった。タケちゃんだって、すごい優しい子やった。なんで、その親子にかぎって」


 母は涙ぐんだ。リビングがしみったれた。ママは、顔を伏せて、エプロンの端っこで涙を拭う。エプロンの端を指で探り、ぎこちなく目元にあてた。あまりに生活じみた布の端っこが、ママの涙と感情を静かに吸いとる。


「ゴン君はどうなの?」

「知らん」

「タケちゃんのために。ラグビーせんと?」

「あの人は変わった」


 静香は冷たく言った。熱もないし、棘もない。しずかに突き放す。あの時の、ひたむきに、グラウンドを駆けていたラグビー少年はどこに行ってしまったのか。かつて『ゴン君』と呼んでいた愛称も、いまの彼の姿と照らし合わせると、嫌な気持ちがこみあげる。


「そうね。でも、ゴン君もかわいそうな子よ。ゴンの母さんもいい人やったのにね。音大も出て、ピアノもばり上手くてね」ママは、感傷的になっていた。

「おったね」


 リトルラグビーのとき、ゴンのママを知っている。お母さん集団の隅っこで、帽子ばかり大きくて体は小さくて、めったに喋らない人。


「——————でもね、その父親がね。あんた覚えとる?」

「いや」


 ママの声が低くなった。あえて『父親』と表現する、その人のことを静香も知っていた。『いや』というのは、それ以上語らなくていいという意味。


 その男とは、静香は接点もなかったし、実害をこうむったこともない。だけど、不気味だった。その人の顔も、声も、指の動きすら、断片的にしか思い出せないのに、あの空気だけが妙に鮮明だった。まだ、善も悪も、通常と異常もあいまいだった頃。悪という概念。異常という場面。それは、絵本の中の鬼でも、アニメの敵キャラだけの話ではない。この世に、平凡な人の姿をして、濁った目をして実在しているんだと、あのとき、悟った。


「変な人やった。トップリーグ選手やったらしいけど。ほんと、自分の子に対しては尋常やなかった。ゴン君がかわいそうよ。ミスするたびに蹴飛ばしとった。実の子に対して、信じられない言葉で罵っとった。ほかの親のまえで。あの父親を不気味がって、クラブを変えさせた親もおったくらい」


「なんて?」ママは困った顔をした。だけど、唾を飲んで言った。

「——————死んじまえって」


 口にするのもうとましげに、ママは眉間に影が走った。


「キモ————————子供が本当にそうなってみんと、分からんっちゃろ」

「あんたにしては雄弁ね」この暗い話の光の糸口を見つけたように、ママは微笑みかけた。うちよりも、2倍速でご飯を平らげ、ごちそうさまをする。

「あたり前やん。皿洗うね」


 静香は、コンロの上の鍋からロールキャベツの一玉をおたまで掬い、丸ごと口いっぱいに頬ばった。頬張りながら、ママの平皿にお椀を重ねて台所に持っていく。


「ゴン君のママも止められんかったっちゃろうね。『かわいそう』って言っとったけど」

「かわいそうって言うだけで、見て見ぬふりしとったちゃろ」


 静香は、食器をシンクの上に置いた。陶器の割れるような音がちょっと大きめに響いた。


「そりゃあ、あんな父親やからさ。ゴン君のママも、言いたいことも言えんくなるとよ」


 ママはテーブルの木目をずっと見ていた。静香はママの分の食器を洗った。


「でもね」


 ママは思いがけず、ゆっくりと口角をゆるめた。台拭きの角と角を揃えて重ね、折りたたむ。それから、いつもより丹念に磨くようにテーブルを拭いた。テーブルは少し、艶を取りもどし、食卓の明かりをやわらかく照り返す。


「あんたの兄ちゃんは勇敢だったのよ。タケちゃんも」

「なんかあったけ」

「中2のとき、お兄ちゃんとタケちゃんであの父親に言いよったの。これ以上、ゴンに酷いことするのやめてくださいって。ゴンにはのびのびとラグビーをやらせたいんです。もうリトルラガーズに来ないでくださいって」

「あったけ?」

「あんた、中学生になってからリトルラガーの練習行っとらんやろ。あんたのお兄ちゃんは、やる時やるのよ。そしたら、ゴンの父親、大人のくせにね、子供相手にほんとみっともないの。『誰の差し金だ? まわりの大人がそう言えって、そそのかしたんだろ』ってね。それでも、タケちゃんとお兄ちゃんは一歩も引かなかった。コーチも、ほかの大人たちも巻きこんでみんなで言った。それから、あの人は来なくなった」

「やるやん」静香に、笑顔がもどった。濡れた手をナプキンで拭いた。


「でも、ゴン君、高校でラグビー辞めたやん。ほんとはね、もっと普通の高校でラグビーしたかったらしいっちゃけど結局、極東やん。あれもね、父親の意向やったらしい。ゴン君、心が折れたんやろうな。ポックリとね。才能の世界はそんなもん。誰かに脅されてやらされるのは、無理がある。親は、子供を見守ってあげんと。わが家の教育方針はね——————————」


 大学ラグビー選手権で活躍をしている長男を誇らしそうに、ママは子育て論のうんちくを語りはじめた。静香はそそくさに席を立った。


「風呂入ってくる。沸いた?」

「シャワーでいいやろ?」

「いや、今夜は風呂入りたい」

「じゃあ、自分で風呂沸かし。入るまえに浴槽、ちょっと擦ってね」


 静香は、硬いスポンジで浴槽をざっと擦ってシャワーをかけて、お湯を張った。沸かした湯船に、乳白色の入浴剤を入れた。湯船はかすかに香り立ち、白く濁った。ミルクの質感とお湯の温もりが肌にまとわり、静香の肌は、ミルクと温もりを受けとめる。しばらくの間、骨も筋肉も、思考もふやけ、身体の輪郭を失った。長湯しながら、去年のことを思い出した。


 ブレザーもスラックスも、シャツだって新しかった。しわも、しみも、糸くずも、毛玉一つもなかった。革靴は硬く、静香のつま先をしめつける。静香が入学した前の年に、創立70周年を記念して、7階建ての新校舎が落成した。削りたての檜の匂い。加工したての樹脂ゴムの匂い。内装も、机も、黒板もピカピカ。晴れの日は、くもり一つないガラス張りの校舎は青く、空色と同化し、眩しい太陽を燦々と照りかえす。ガラスは、校庭の木々の葉っぱの、その葉脈までも映しとっている。


 消去法で、陸上部に入ろうとしていた。中学のとき、中距離走をしていた。球技は、壊滅的だったし文化系はもの足りない。足だけは並みの女子より少し速い。オリエンテーションの3日目、体験入部していたとき、たまたま、部室棟でゴン君に鉢合わせした。


「マネージャーやれよ」


 2年だったゴン君は、少年っぽさを残したあどけない顔つきで、日に焼けていて、いつも軽口を叩いた。フォワードとバックスの境目を無くし、あらゆるポジションからハイテンポに展開するマルチスキルについて、熱く語っていた。誰よりも声を張って、誰よりも走り、誰よりもラグビーが好きだった。目元には、屈託のない笑みがいつも、光をはらんでいた。


「いやです」


 うちはもう懲りていた。小学生のときに毎週さんざん、お兄ちゃんの遠征と練習に連れまわされ、長時間、試合が終わるのを待っている苦痛に心底うんざりしていた。


「陸上って走るだけやろ? どこが楽しいん? そんなの体力テストぐらいにしとけ。マネージャーはいい。うちは、全国常連。陸上部は予選敗退————なあ、アキト」


 ゴン君は、洗い場のほうをふり返った。洗い場で顔を洗っている。上半身裸のショートパンツの男がいた。彼は沐浴とも言えるくらい、水浴びが気持ちよさそうに目を細めていた。


「アキトのこと知ってる? 中学のとき陸上で200メートル全国7位。それが、まさかのラグビーに転身」


 知っている。うちは福岡地区で、彼は北九州地区の中学校。けど、アキトのことは知っていた。県大会の試合会場でどこからともなく、その名が耳に入っていたし、電光掲示板にいつも光っていた。


『北九州にすごい奴がおる』


 アキトの出番が来ると、みんな身を乗りだした。彼が大会新記録を出したとき、観客席がどよめいた。


「まっすぐ、走るだけじゃ嫌やけん。ぶつかりたい」


 静香が「どうして?」と尋ねたとき、アキトはニカっと歯にかんだ。そのときは、それに込められた意味を知らなかった。


「去年はすごかったけん——————揉めたもん。全国出場者がラグビー部入るってなったとき、陸上部の監督が乗りこんできたもん。『アキトを返せ』って。でも、こいつの気持ちがめっちゃ強くてさ」


 ゴンは、まるで自分事のように饒舌だった。瞳は、自分の未来に火をつけたように燃えさかっていて、まっすぐだった。「それに、今年はサッカーで有望やった1年も入るから」


「考えさせてください」静香は拒んだ。

「俺たち、お前の兄ちゃんの後輩やぞ————俺たちと静香が、極東で再会してさ、激アツやん。アキト、お前からも言ってやれ」ゴンは洗い場にもどって沐浴をしているアキトにせまった。


「いいやん。本人がそうなら」


 アキトは洗い場から冷たくあしらっていた。棒読みでもいいから、あのとき、もし『お願い』って言われたら、もしかしたらの違う世界線があったかもしれない。


「猛はどこやろ? こんなときにかぎって——————」ゴンはあたりを見渡して、歯がゆそうにした。


 アキトの琥珀色の瞳。心がぐらついた。アキトと初めて会った時の第一印象は『ラグビー部なの?』だった。


 二重瞼の下の瞳が、茶色い。眉が、くっきりとしていて整っている。それだけで、なぜか、その内面も気になってしまう気持ちがほのかに謎に———————。でも、アキトの脚は、細身でしなやかだった。ラグビーの激しさは、静香も知っている。肉と骨がぶつかるスポーツにしては、彼の体つきも、顔つきも、とがった顎も、あまりに整いすぎている。ラグビーのフィールドは、陸上競技のトラックとは違う。立ちはだかるのは、陸上競技でいう「障害物」ではない。生身の牙を向けた獣。それがこちらへ向かってくる。獰猛な男たちのボールの争奪戦のなかであの細身の彼は、どう戦っていくんだろう。


 体験入部期間の終わり頃、アキトはグランドを走っていた。迎え撃つディフェンスの、肉をえぐりそうな魔の手は、フェイントをかけるアキトを掴めないまま、宙をかすめる。彼の動きが風をはらみ、遠くの静香さえ感じる風を運んだ。ディフェンスを突き放し、人工芝のトラックを駆けぬける。体育大会の部活対抗リレーでもそうだ。野球部、サッカー部、陸上部、バレー部、柔道部。みんな必死だった。だけど、アンカーのアキトが風をまとうと、グランドはざわめきに包まれた。観客席の女子たちがあの子誰?ってなった。追走するサッカー部から怨嗟の、陸上競技部から諦観の声が漏れてくる。


『反則やろ————』

『あれ、ラグビー部やろ? 陸上しているこっちが馬鹿らしくなる』


 間もなくアキトさんに彼女がいることを、萌映から聞いた。そりゃそうだと、自分のなかで納得してみせた。ひそかに想っていた熱は引いた。陸上競技も、そもそも目的がないなって思った。その熱まで冷めてしまった。


 消去法で、軽音部の入部届を書いた。零細部活のプレハブの古い部室から桜の枝の先のグランドが見渡せた。そこから、見えるグランドを疾走するアキトをいつも追いかけた。


「こら、あんた! なに、入浴剤入れてるの! お風呂のお水、洗濯で使うって知らんの! 水道代のことも考えりいよ!」


 風呂上がり、ママに怒鳴られた。自分の部屋にもどって、買ったばかりの準1級の英単語帳をめくった。どれも、これもアルファベットの暗号みたいだった。


urgent 緊急の

spite 悪意,恨み

fertilizer 肥料,育成剤

   nasty 不快な



 新鮮な脳みそでもってしても、消化しきれなくて、同じページに視線はさまよう。ぼおっと、机へ向かう気持ちが崩れる。単語帳は、静香を拒絶するかのようにピタリと、新品の本の復元力をもって、勝手に綴じた。


 うちがマネージャーだったら。うちの影響力なんて、極東ラグビー部にとってとるに足らないものだ。けれど、バタフライエフェクトのように、ある蝶の音の立てない羽ばたきのように、その空気の震えが、いつのにか風になって、山を超えて、海を超えて、気流となり、それが、嵐を呼び——————


 うちの小さな選択、小さな言葉、余波。それが、めぐりにめぐって、誰かの人生を変えることがある。猛の事故が、紙一重の残酷な運命によるものだとしたら。その運命をかろうじてよけさせる蝶の羽ばたきになれたとしたら?


 まぶたが、じんわり重い。ベッドの横になって、天井をぼんやり眺めた。眠くなった。寝ようと思った。なんとなく胸騒ぎがした。どことなく判別がきかず、どこから、不安がやってきたかわからない。心の中の、輪郭のない何か。ほんのちょっと触れようとしたら、不気味な何かは、うねった。変な、動悸を覚える。激しさはない。だけど、眠りの入口になかなか立てないくらい煩わしかった。



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