フラワーガーデン(12)
「治安わる」
乃愛がくすくす笑っていた。例のように先生のほか、警備員や、野球部や柔道部がつめかけ、ステージはマイクの争奪戦にいり乱れ、美山のたすきは破られた。ブーイングが轟いた。警備員もつめかけた。ついに幕が降りた。
「やめろ!」
幕の降りた舞台に立った虎衛門は、マイク越しに怒鳴った。混乱はやっと収まった。しずまりかえった体育館で、虎衛門は声を震わせた。
「ボイコットは許さん! 進級条件に、出席日数があることを忘れるな。授業日数のうち3分の1以上、欠席があれば単位は認めん。進級も認めん! 卒業も認めん!3年生はわかっとうよな? いま、君たちが直面しているのは自分自身の進路やろ! ボイコットどころじゃない! 特に、内部推薦や指定校を考えている者は肝に銘じとけ。お前ら、あくまでも校内選考に通っただけやけんな! 本選考はこれからや! 1年と2年も同様です! 3年間のうち、出席要件を満たない生徒の推薦は一切認めません!」
校長は憔悴しきっていて、失語症のようにたどたどしく『信じるしかないんですよ——————』とくり返すばかりだった。うつろな無表情で、口以外の顔のパーツは何一つ動かない。青い唇だけ微かに動く。そのあと、担任のミゾヱも登壇した。
「このごろ、先生は眠れません——————」その第一声から嗚咽が混じっていた。厚化粧の瞼が震えている。「さっきの言葉に傷つきました。先生たちが生徒のことを想ってないわけないじゃないですか」
「あの日以来、先生たちは、連日夜おそくまで話し合ってます。これから生徒と、どうむき合えばいいのか—————」震えていた言葉は、重ねれば重ねるほど、切実さが増し、芯が通いはじめる。
「—————心ない言葉に惑わされてはいけません。いま世の中は、自分さえよければ良いという考えと、正しいことが正義で、間違っていれば、それを憎み、責めたて、蹴散らしても構わない———そんな考えがまかり通っています」
館内が静まり返っていた。共感なのか、音のない冷笑なのか。静香にはわからなかった。見ていて心にくるものがあった。それに辛いものがあった。
「これまで、先生たちは日々、全力で生徒と接してきました。少しでも生徒に興味を持ってもらう授業をするために。少しでも、みんなに学校生活を楽しんでもらうため、卒業後も後悔のない生き方をしてもらうために。教師だって同じ人間です。生徒の言葉に、毎日一喜一憂しています。生徒の冷たい言葉に、教師は傷つきます。けれど、生徒のあたたかい言葉に、救われたりもします。さっき、冷たい言葉を投げかけられて、先生たちはつらいです—————ですが、お互いを思いやれば、あたたかい言葉をかけ合えば、きっと—————」
ミゾヱは、嗚咽と共に崩れた。厚化粧はぐちゃぐちゃになっていた。ほかの先生たちが、慟哭するミゾヱによりそった。そのあと、教頭から注意事項の説明があり、学校公認ではない人間を投票しても、無効になるとくり返し言われた。
「かわいそ————」囁く乃愛がうるさかった。
「あなたたちを信じてます。明日も学校に来てください。明日は授業をしません。生徒たちの色んな質問をして、教師がそれに答えます。ここでやります。私たちは、話し合いによって乗り越えられます。ボイコットはやめてください。なんの解決にもなりません」
若い教師がまえに出た。おもむろに一礼した。こうして、演説会はお開きになった。みんな、3時間の芝居をノンストップで見終えたように疲れていた。教室で、投票用紙が配られた。紙の擦れる音がくっきりと響いた。静香は、1枚の投票用紙をじっと見つめていた。ペンを持っていたが、書く気が起こらなかった。ただ、投票用紙の空白をぼんやり眺めていた。目を細めた乃愛がぐいっと椅子を寄せて、静香の横顔を覗きこんだ。ふっと口の端がつり上がり、冗談めかすように小さな声でつぶやいた。
「改革? それとも吉川さん?」
静香は黙っていた。苛立ってどっちでも良くて、何も考えず、無言でペンを走らせた。その筆跡が誰の目にも映らないように、少しだけ身をかがめた。
「正気なの?」
何気ない風を装いながら、みんな乃愛の声にうっすら耳を澄ませていた。みんな、ピリッと敏感になっている。サッカー部があけすけな声で言った。
「吉川はないわ」
「それな」
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『ホームルーム中失礼します。選挙管理委員会です。ただいまから、生徒会選挙の開票結果を発表します。2年3組吉川文子さん、52票。無効、1974票。投票の結果、吉川さんが、第52代生徒会長に当選しました』
6限終了後、校内放送が流れた。どっと哄笑がおこった。同じクラスメイトの子が生徒会長に選ばれたのに、誰も感心を示さなかった。みんな、別のことに昂っていた。
『ボイコットだあああ』
サッカー部が雄叫びをあげた。みんな笑った。ミゾヱは、まだ職員室からまだ戻っていない。男子たちは拳を突きあげる。何度も飛び跳ね、天井を突き抜けようとする。一人は、机の上に立って飛び跳ね、祭壇のように踊った。となりの教室も、上の階からも、足音や、椅子の床をこする音が。そこらじゅう響いた。新校舎が縦に揺れる。若者たちの熱狂と歓声に耐えきれず、建物は音を立てず軋んでいる。机の上のペットボトルが倒れ、筆箱が落っこちた。
ミゾヱが亡霊のように教室に戻ってきた。机の上に立っていた男子もミゾヱに気づかなかった。男子は顔をこわばらせた。ミゾヱはそれに触れなかった。
『明日は学校にきてください』
ミゾヱは嘆願するように呼びかけた。
********
「秋休みー」
乃愛は、口ずさみながら廊下を歩く。ローファーが新校舎の床を擦る。それすら、うるさかった。
「うちらはラグビーをするしかないけん」
萌映は冷静だった。異様な熱狂がなんのそのっていう感じ。まっすぐ、迷わず、女子更衣室に向かった。乃愛はその背中を追って、ただ目を細めて「たくまし」と呟くだけだった。
「誰だ!」
虎衛門が怒鳴った。無数のビラがふきぬけに、雪のように舞い降りた。特別教室フロア7階から、6階から5階へ。さらに4階の1年のフロアにかけて大量のビラが舞っていた。天井から降り注ぐ光を受けていた。吹き抜けに漂うビラの文字が透けて見えた。そこには、ボイコットと書かれていた。乃愛は、紙吹雪のように舞いおりたビラを拾った。
「拾うな!」
先生たちの顔は、戦時下の憲兵みたいにひき攣っていた。乃愛は手離した。ビラはゆっくり空気に戯れながら足もとへ落ちた。吹きぬけの最上階で、ばら撒いた無名のメガネ男子が取り押さえられた。
「物騒やね」
乃愛がうわずった声をだし、クラスラインを見せてきた。インスタにも、革命の嵐が吹き溢れていた。スクロールする尖った爪の指が止まらない。スマホにはメッセージが、ストーリーが、リポストがハッシュタグが、コメントが火花のように散っていた。乃愛の声は、どんどん早くなる。
【拡散希望】
ゲンジが退学になりました。ボイコットを実行します。
極東学院を更生させる会 KKK
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プレハブの部室で静香は萌映を、乃愛は佑太を待った。風が強かった。グラウンドが新校舎をへだてた、ひらけた場所のプレハブはもろに風を受けた。薄い壁に当たるたびに、高い隙間風の唸りが聞こえる。嵐の気配を告げているようだった。風の鳴る音で、なんだか侘しい気持ちになった。文化祭のあと、軽音部はしばらく活動がない。クリスマスライブはまだ先。乃愛はソファーにあお向けになり、長い脚をだらりと投げ出す。紺のソックスの先っぽが、埃かぶったヤマハのアンプに触れる。乃愛はお構いなしにスマホ画面の光に笑っていた。さっきの騒乱の隠し撮りがストーリーに挙がっている。ステージ上で、ゲンジと教師たちがマイクを巡ってもつれ合う動画。乃愛のスマホからつり下がった十字架が揺れている。それを括りつける長いストラップの小粒の数珠が擦れあう。
「みんなどうするんやろ?」
乃愛は、クラスラインのボイコットを呼びかけるメッセージを見せてきた。リアクションはクラスの変わり者や、サッカー部中心のお調子者だけだった。乃愛のニヤついた目は、無邪気で危なげな光を放っている。
「うち、さっきの体育館のあの感じ、なんか苦手」
「わからんでもないけどね。静香、優しいもん」
目線を窓の外へ向けた。日が沈みかけていた。空は、淡く色を変えていた。日が沈みかけていて、ガラス張りの新校舎がオレンジに染まった。空と雲。地平線とビルの輪郭。光と影。日没と夜。滲むように混ざり合い、あらゆる境目があいまいになった。そこに、翳りが入って夜を仄めかす。新校舎3階。職員室の明かりが浮び上がった。先生たちは、ずっと会議をしている。
憔悴した校長の面影が浮かんだ。少し心が痛んだ。声を震わせながら「信じるしかないんです」とくり返した。あれを見て、何も感じない人は、共感性が欠落しているのだろうか。鈍いだけなのか。その鈍さが、人をあそこまで追い込むのだろうか? 乃愛の「優しいもん」という一言に、どこか軽さを感じる。
新校舎エントランスのしゃれた観葉植物たち。そこに水やりする麦わら帽子の校長。中学生から「定年ルフィ」とあだ名がある。毎朝、正門に立って、テカった顔に満面の笑みを浮かべ、しゃがれた声で挨拶する校長。なんでもかんでも、自転車の子にもバスの子にも、中学の子にも、誰でも「ありがとう」を連呼する。
信号を守ってくれてありがとう!
歩行者に道を譲ってくれてありがとう!
自転車のスピードを緩めてくれてありがとう!
挨拶を返してくれてありがとう!
少し笑ってしまった。自分は感じやすいのか。か弱くて、脆くて傷つきやすいのか。窓を見た。青く茂っていた真夏の覇気を、少しずつ手放しはじめた桜の木の奥。グランドが開け、ラグビー部が集まっていた。
桜の木の先のその世界だけが芯がある。ラガーマンたちの背中の影はかすむことはなかった。言葉に染まらず、言葉に惑わされず、言葉ではなく、行動で道を開こうとする世界が見えた。讃え合いで人と人がつながる世界が。
「ラグビー部は模範であるべきだ」
ワンフォーオールを思い出せ。1人はみんなのために。みんなは1人のために。何もかも否定する空気に惑わされるな。強いだけじゃなく、応援されるチームになるために、お前たちはここまでやってきた。これからの県予選、お前たちの行動次第で、みんなが応援しくれる。みんなが応援すれば、みんなが1つになれる。なにより、猛のために。あしたは登校して、普段通り授業を受けて、いつも通りグランドに立とう。お前たちのまっすぐな姿が、この学校の希望になる。
はい!
選手たちの声がまっすぐ飛んだ。
「お堅いねえ」乃愛もいつの間にか窓辺に腰かけ、頬杖をつきながら言った。
「母校の看板を背負っているわけやし」
「ホント明日どうすると?」
「行く———」静香はうわの空だった。
「えーマジ? 学校の肩を持つと?」
「まあね。やっぱ、いまのこの感じ。あんま好きやないしね」
「堅実やね————— まあ、進研模試だって、西南学院A判定やろ、成績表見せてよ」
「そんな、人に見せるもんやないし」
「リスニング満点やん! なんでそんなできるん?」
ベネッセ成績表を見て、乃愛は目をまん丸にして声を上げた。それがあまりに健気で自分の口角がふわりと持ちあがってしまう。自然と浅いエクボができた。
「正しい発音をちゃんと聞いて、正しく発音できる単語の数を増やす」
乃愛は手を伸ばして、そのエクボをぐいっと、指の先を押し込んだ。静香は、笑いながら顔をそむける。
アキト先輩を見た。艶やかな2重の眼ざしの端っこが尖っている。彼の口から鋭い喝を飛ぶ。練習は「15分」に区切られた。その光景だけ変わらない。精緻な、ミスの許されないパス練。見守る2軍、3軍やマネージャーたち。見守る自分たちの立ちふるまい、自分の呼吸、影さえも、フィギアスケートの演舞のようなこの芸術行為を乱していないかとビクビクしている。
**********
「しーずか!」
窓の下から呼ぶ声が聞こえた。青葉の桜の下から萌映がこちらを見上げていた。
「終わったん?」乃愛も真横から顔を出して、大げさに手を振った。
「終わった!」
静香は駆け下りた。茜色の風が校舎の影をすり抜ける。すっかり暗くなっていた。二人は外に出た。桜の下で、身支度を済ませた萌映が、黒いエナメルバックをからって立っていた。
「きいとった? うちら学校行くけん!」萌映の声は、練習後の熱を残し、まっすぐだった。
「まじ—————」頭を抱えて、芝生にしゃがみ込んだ乃愛は悔しがった。
「静香も行く?」萌映が尋ねた。
「まあね」否定しなかった静香の耳に、べつの明るい声が届いた。
「ノア! 」
グランドから佑太が呼んだ。彼はキック練習して、立てられたラグビーボールに向かって、しなやかな脚で蹴りあげる。グランド照明が、青い芝生を照らした。楕円はきれいな弧を描き、闇を切り裂き、H型のゴールポストに吸いこまれた。
「よっしゃ!」
佑太は白い歯をギラつかせ、ニカっと笑った。身体をのけぞらせ、拳を空に突きあげた。細い目をさらに細くさせた。
「呼んどるけん」
乃愛の背中のバッグが上下に弾む。それ以上にカバンにぶら下がったピンク色のうさぎのキーホルダーが揺れた。乃愛は芝生の上で浮き足立った。グランドの照明が眩しかった。乃愛の背中が、グランド照明の光の中に溶けた。萌映と静香だけが取り残された。
「静香はボイコットせんと?」
「いまの空気、なんか違うなって」
「あーね。分かる。KKKって、なんか胡散くさいよね? 権藤も絡んどうし。あいつ、レギュラーになれなくなったときから、目つきも変わったもん」
「そうなん?」
「あのとき、ステージにおったよ。さりげなくスマホかざしとった。あの動画を流したのも権藤やろ? 陰でコソコソ」
「そうなん—————」静香は複雑だった。
「でもさ、そんな嫌な感じ、うちらが吹っ飛ばしてやるけん」萌映は、胸を張って言った。声はまっすぐで夕陽の光を跳ね返していた。「猛が出れんくなって、うちら柱を失ったけど、うちら花園は絶対出るけん」
萌映は、すうっと深呼吸する。何かを失い、また、抱え直している。彼女の呼吸の音は果てしなく澄んでいた。横風が、静香の前髪を持ちあげた。それは、涼しく柔らかかった。
新部室棟に備えつけられた洗い場にスパッツを履いたアキトがいた。上半身裸の鍛えられた筋肉は、硬質な彫刻のように整っていた。無言のまま、冷たい流水に顔を預け、小さな顔にすべり落ちる水のあいまで、アキトは瞳をすっと細めた。そのたびに、肩を上下にゆり動いた。沐浴のように気持ちよさげだった。
「—————ねえ」
うしろで、一人の女が屹立していた。
「雪野ってこの人?」
3年だった。静香より首ひとつ分、背が高かった。乃愛と同じくらい。くるぶしソックスと、短く捲り上げたスカートの合わせ技。それがあいまって、足がとても長い。というより、生まれ持ったスタイルが良い。何をしても見栄えがした。髪は黒色だけど、カラコンをしているのか、瞳は鮮やかな青で濁っている。
「ですけど —————」
恐る恐る答えると、女は無表情のまま、静香の腕を掴んだ。うしろに、同じくらいスカートの短い3年達がいた。
「痛っ」
魔女のように長い爪を立てて、静香の手の甲の肉に食いこませ、静香の手首にくくられたミサンガを値踏みし、嘲るような冷たい目を落とした。アキトと付き合っていたマリアだった。
「アキトのと同じ」
言葉の刃。言葉のナタが振り下ろされた。真っ二つにされた。呼吸の仕方さえ忘れた。
「文化祭のです————」
「キモいよ」
女は、新部室棟を指さした。水浴をしているアキトがいた。逆三角の背中の筋肉が濡れていた。水のしずくがアキトの肩甲骨の輪郭や、肋骨の起伏の光と影の縞を伝っている。
「ペアルックして、少しずつ外堀を埋めるとか」
「違います ————」静香の声が揺れる。
「アキトが大変なときに、甘い香りを匂わせて、うちらを壊した」マリアの手がミサンガをひっ掴んだ。手が捩れた。ミサンガがピアノ線のように皮膚に食い込み、肉と骨を削ぐ。
「ちがいます! 」静香は手を引いた。ミサンガを境に手のひらが千切れそうだ。
「少しずつ染めて、流れを作っとうちゃろ!」
見えない地割れ。その割れた谷底に、自分ひとりが落ちていくような不安を感じた。そんなとき、アキトの声が聞こえた。
「やめろ」
カラカラの地面に、柔らかい水が落ちたような声だった。
「この子は関係ない」
風が止んだ。沐浴を終えたアキトが立っている。グランド照明の下で光に濡れている。上半身は裸で、ただ黒いジャージを一枚まとっている。全開のジャージの隙間から、割れた腹筋がのぞかせる。濡れた前髪からしずくが、鎖骨へ滴る。彼の顔つきは何のしがらみもなさそうだった。
「うちが何したん?」マリアの声は上擦った。
「始業式のとき、ちゃんと時間をとって話したはず—————心の余裕がなくなった」アキトは断ち切るように言った。「気持ち的にそれどころじゃないけん。猛は知っとうやろ?」
「じゃあ、この子はなんなん!」
「だったら、マリアに何してもいいん?」
取り巻き女子たちの集団で放つ言葉は、1つ1つ鋭かった。
「関係ない」
アキトの声は、断ち切るように静かだった。取り巻きたちはマリアの背中をさする。マリアは泣いて被害者になる。そして、こっちを加害者に仕立てる。マリアのカラーコンタクトの目は、軽蔑と未練の色でないまぜになっていた。
「つぎは年下?」
「マリアには関係ない」
アキトは静香をまっすぐ見た。前髪は濡れ、ワックスのように艶があった。沐浴したての濡れた体が、グランド照明の明かりを一際吸い込む。光がアキトの体の輪郭をなぞるように揺れた。アキトの唇は潤んでいる。
「ごめん—————巻きこんで」
********
「あいつがマリアっていう3年」
静香の憔悴した手を、萌映が強く引いた。夕陽は沈み、夜が訪れ、急に訪れた涼しさが、静香の汗を乾かし、体温を奪った。ミサンガの痛みが、まだはっきりと残っている。
「職員室行くよ」
「え?」
「あいつ、アキトさんに振られて、八つ当たりしとるっちゃろ」
「大丈夫やけん」
静香の顔は、丸めた新聞紙のようにくしゃくしゃだった。視界もぐしょ濡れだった。無意識にハンカチを求めた。
「暴言やろ、泣き寝入りはいかんけん」
萌映の目はまっすぐだった。練習中のような集中した目。萌映がハンドタオルをくれた。鼻にあてると、柔軟剤のにおいがする。萌映の家はちゃんとしていて、ハンカチもきちんと洗われている。くしゃくしゃな気持ちは、その優しいハンカチの香りに撫でられ、なだめられた。
「どうしたと?」
乃愛も駆けつけた。修羅場大好きな、いつもの野次馬的なものはなく、真剣に整った眉をきゅっと寄せていた。
「舐めり」
乃愛がのど飴をくれた。蜂蜜とミントが泣いて、ひしゃげた静香の喉を癒してくれた。乃愛はいつもと同じ調子で宥めてくれた。
「もう奪っちゃいな」
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職員室はただならぬ気配が出ていた。普段とまるで違う光景。先生たちがところ構わず、電話をかけている。どの顔も真剣だった。教頭のデスク、窓際、入り口側、コピー機の横。ありとあらゆる電話機の前に、先生たちは立っていた。それでも、電話は足りず、デスクに腰かけ、スマホやガラケーで電話している先生もいた。
「あした、いつも通り学校に行かせてください」
「お子さんにも伝えてください。先生たちは待っていますと—————」
「生徒のあいだで、ボイコットしようって呼びかけがあると思いますが、どうか、それだけは—————」
「いま、教職員全員で信用回復にあたっています。具体的にどう、生徒と向き合うか話し合っている最中です」
どの先生も、早口で助けを求めているようだった。職員室全体は、切迫したコールセンターだった。
「—————あれ、まだ帰ってないの?」
ドア脇のクラスボックスの前に、一人だけまったく違う時間を生きているような若い男が立っていた。黒のオープンカラーのワイシャツ、黒の細身なパンツ、革靴。全身黒だった。卒業生かと思ったけど、ミドコロ先生だった。体育祭の日、ミドコロがジャージ姿で図書館に行ったとき、司書から生徒と間違えられたことだってある。ミドコロは電話をしていない。彼はクラスを持ってなかった。乃愛がさっと、静香と萌映のうしろに身を引き、ひょいと屈みこんだ。小さな静香と、中くらいの萌映の背中では、乃愛を隠しきれない。それでも、乃愛は、黙りこくって空気を務めた。
「先生たち、何しているんですか?」静香の手を握りながら萌映が聞いた。
「人海戦術ってやつ」
ミドコロは他人事のように、お気楽で眠たげな目をしている。視線の端っこで身を隠す乃愛の姿も、まったく意に介していない。無視しているのか、あるいはわざと気づかないふりをしているのか——それすら曖昧だった。
「電話作戦ってやつ。担任が、生徒一人一人の家に電話かけてんの。焼石に水だと思うけど」
「明日、どうなるんですか?」
「五分五分ってとこ。まあ、3年は来るやろ。受験近いし、なんなら、総合選抜の出願だってはじまっとうし—————」
乃愛とミドコロが付き合っていた頃、飛び跳ねてばかりだった乃愛が懐かしい。乃愛は萌映とうちの影で俯いている。
「あれ、どうしたの?」ミドコロは涙目の静香にようやく気づいた。萌映が代わりに言ってくれた。
「色々あって———ミゾヱ先生呼んでくれませんか?」
ミドコロが職員室を見渡し、ミゾヱに声をかけた。すぐミゾヱがやってきた。職員室の椅子から立ち上がる所作はどこか鈍く、疲れがにじんでいた。前髪は少し乱れ、いくつか耳元から下へ力無く垂れている。足取りは心無しか、少しぐらついていた。まぶたが重くのしかかっていた目は疲れていて、乾いていた。けれど、生徒を見る目は、崩れることはかった。ミゾヱは、静香がどこか元気がないのをすぐに察した。
「どうしたの?」
「——————」
静香は黙っていた。下唇を噛みしめ、ミサンガをキュッと握りしめた。手首に巻きついた細い糸が手首に食い込む。その下に、紐で締められた赤い線の跡があった。
同じ柄のミサンガをさりげなく——————
猛さんにも、アキト先輩にも、くるぶしや手首に結びつけた。もしかして、自分の欲でみんなを縛りつけていた。
みんなが幸せになるという願い事だと思ってきた。だけど、さっき、ピシャリと言われた。それは、図星だったかもしれない。純粋な願い事というよりも、個人的な欲望なんだろうか。無意識にあわよくば、アキトって—————。言い訳になるかもしれないけど
「——————いいえ」
「女の子のなんでもないは、何かがあるの」
ミゾヱの声は、厳しさを抑え、穏やかだった。静香を責めないように、けれど、逃さないように。横から萌映がさっと入る。
「ちゃんと説明しな」
「うちが悪いんです」静香は、かすれるように言った。いつの間にか、乃愛はいなくなっていた。
「何があったの?」
「3年の女の先輩から、ひどいことを言われたんです。他人の男を奪ったって」
「本当なの?」
「溝江センセイ、クラスの保護者から折り返しです」
別の先生がミゾヱを呼んだ。職員室はコールセンターだった。常に、誰かが、絶え間ない川のさざめきのように、なにかを話しつづけている。誰もが当たり前の日常を取り戻そうとする。
「ここで待ってて、電話、すぐ終わらせるから————萌咲ちゃんは知ってるんでしょ? あとでゆっくり聞かせて」
「はい」
萌映は、凛とした声で答えた。ミゾヱが職員室に戻ると、残されたのは2人だけだった。電話のざわめきは続く。廊下にひと気がなくなり、閑散としていた。
「ダメよ」
萌映が言った。静香のミサンガのあるほうの手をしっかりと握った。
「静香は、悪くないやろ————泣かせた奴が悪いっちゃけん」
静香は、無言でうなずいた。ふと、乃愛がいないことに気づく。萌映は、肩を落とした。
「ったく————————ほんと、薄情っちゃけん」
「うち、やっぱ帰る」
「ちょっと、静香!」
「今夜は、ミゾヱ先生も忙しいそうやしさ。さっき見たやろ。ぶっ倒れそうやし。マリアさんだって失恋しとうっちゃけん。ひどいこと言ったかもしれんやん」
「でもね、あんな言い方許せんけん」
「とりあえず、様子を見よう。また、マリアさんが言ってきたら、ミゾヱ先生に言えばいいやん。告げ口するほうが、逆恨みされるかもしれんし」
「—————」
萌映が、なにかを言おうとしたとき、静香は踵を返した。萌咲が、静香を呼んだ時には、とっくに階段を駆け降りていた。




