フラワーガーデン(11)
つぎの日、担任は不機嫌だった。歯茎に立てかけられた不ぞろいな背くらべの歯。それを生きた骸骨のように歯ぎしりさせた。駿台の難関国公立模試をサボった男子や、塾のテキストを開いて内職していた女子、使い勝手のわるい文科省検定教科書を清掃具のロッカーに隠していた男子。禁煙の破たんと、更年期の悲壮をにじませて怒鳴った。
あの動画の現場が、極東学院だと特定されるやいなや、バッシングに晒された。被害者であるはずの生徒が、教員への暴行容疑で逮捕されていたことがさらに波紋を呼んだ。担任はありもしない噂に惑わされることなく、さしせまった一般入試に集中するようにとしか言わなかった。森シンのことは、一切触れようとしない。それ以上の説明はなかった。
「権藤、話がある」
ホームルームのあと、担任に連れ出された。平然を装っているが、言葉が震え、唇が震え、顎がけいれんしているのが透けて見えた。先生の歩幅は鈍かった。床を擦るように、のそりのそりと、歩を進める。怒鳴りちらす前兆だった。向かった先は、職員室でも生徒指導室でもなかった。あの体育館だった。ステージに学年主任、生徒指導部、教頭という錚々たる顔ぶれが待ちかまえていた。体育館のエントランスではホームルームを終えたバスケ部やバレー部が仁王立ちで、6限の体育を終えたばかりの2年たちの撤収を見守っていた。というか、無言の圧をかけていた。強豪の部活の圧に耐えきれないのか、2年生たちはせっせと、倉庫にバトミントンの羽や巻きつけたネットを運ぶ。
「早く! バレー部怒っとう」
静香を呼ぶ声がした。不運な巡り合わせ。教師たちに連行された俺は、その間を縫うようにステージに向かった。2年生たちはみんな、好奇な目を向け、口々に言った。
「何事?」
「もしかして——————」
僕は胸を張った。光栄であると自分に言い聞かせた。体育館ステージは、分厚い幕で閉ざされていた。ステージ脇の扉から入って、そのまま、幕の降りたステージに上がった。担任は、護送の役目を終えると、石像のようにおし黙った。幕で隠されても、体育館じゅうから視線を受けている。無数の視線がカーテンを貫通し、僕に刺さる。その視線の総量が、体育館を支配し、空気がうすく感じた。
反対側の舞台袖から罪人のように、いのっちが連れて来られた。噛みちがえた歯車がうねり出した。俺はここに立っている実感さえも見失うほど動揺した。役者が揃った。そう言わんばかりに、壁にもたれていた教頭が起きあがり、ゆっくり、スラックスのポケットからスマホをとり出した。
「投稿したの権藤君?」
教頭のメガネのレンズがステージ照明の光を受けていている。教頭は、動画を再生した。舞台袖。暴力。森シンの叫び。かつての現場に立っている。6日前の回想がありありと、いまいる舞台袖の光景と重なる。
「はい」俺は頷いた。
「どうしてこんなことをやったの?」
問いかけといより問い詰め。耳を疑った。彼らの憤りをかわす、もっとも無難な受けごたえを考えた。でも、それも無駄だと思った。
「何しとうとや!」
あてこすられた怒号が体育館に響く。怒号の残響が、あとからやってきた沈黙を揺らす。幕の向こう側は、鎮まり返っている。
表情は均一。感情は不在。何十何百もの無表情が、閉ざされたステージのカーテンを通り過ぎて、俺に冷たい視線を投げかける。このステージに立つ自分が見透かされているのではと思うと俺は震えた。
「スマホで撮ったの?」教頭はいんぎんそうに言った。ステージ外の沈黙の重みが、俺の全身にかかる。その重さが肩にのしかかって心臓を押しつぶす。いのっちは泣きじゃくった。
「スマホは?」学年主任は言った。
「いまここで、iPhoneのアルバムを見せなさい」と言った。見せつけるのためらい、もじもじしていると、「早くしろ!」と担任から一喝された。
「行事中のスマホは禁止じゃないのか?」
そんな決まりはすでに建前になっている。『学習用タブレットが一人一台配布されているから、学校内ではスマホは不要』という入学初期の論理をいま、引き合いに出す。
「極東生S N Sポリシーに反する」
5月の生徒総会で説明されていたはずだ。学年主任はうやうやしく、今年春の生徒総会で可決された、ポリシーを一文一文、仰々しく読みあげる。
私的な動画撮影の禁止
顔写真、氏名など個人情報が分かる投稿の禁止
学校が特定されるような投稿の禁止
教頭はいのっちを睨みつけた。
「この動画の笑い声は井上くんだろ? なぜ、止めなかった? これは『花園』に関わる問題やぞ」
「井上はその場にいただけです。撮影も投稿も、私一人がやったことです」
「それは先生が決めることだ!」
森シンみたいに、殴ろうかと思った。森シンのあとを追おうと思った。幕越しの視線を一身に浴びる。身体の緊張でそれが分かる。そのうち1つが、静香の視線だと思うと、1本の矢が心臓をつき刺すように感じる。
「目的は?」
「動画に手を加えたよね? 前後を削ってるよね? なんの意図があったの?学校にどんな印象を与えようとしたの?」
「権藤君は、ことし1月に喫煙の同席。3月にラグビー部の傷害の件で、特別指導を受けたよね? あのとき、自分の進退について真剣に考え、自分自身で折り合いをつけなさいって言われたよね? いろいろな先生と、保護者とも話して、何日も考えた末に、キミは、『学校を続けたい』と言った。それに、被害生徒は被害届を出さなかった。先生たちは、キミの言葉を信じて、学校に戻れる道すじを立てた。その矢先に—————」
一方的な恩を、反故にされた。嫌味ったらしく言う。論点が、俺の過去のことになり、その上で、動画をネットに上げた行為になっている。本質は巧妙に消された。そもそも、社会で槍玉に上がっているのは、被写体たちの決定的な行為のはずなのに。
『道すじ』
心が笑った。学校に呼び出されて、アキトを殴った事実を知らされた毒親が、今度は俺に殴りかかった。その件で、俺の指導はうやむやになった。ただ、それだけのこと。
「盗撮したわけじゃないです。暴露したんです」
「どっちも同じことだ!」
担任の罵声が響いた。現実ではなく、ひたすら怒鳴りちらされる演目の、こっけいな芝居に立たされた役者になった心地。
「あの動画は、社会に誤解を与えた。そのせいで、極東は、開校以来の危機を迎えている。ほかの生徒には、勉強の身が入らないほど動揺している。来年の生徒募集も危うい。わが校は創設以来、たくさんの極東人を育ててきた。歴史ある学び舎が崩れつつある」
極東人。その括りに、俺はますます笑ってしまう。この学校のウィキペディアで、卒業生を調べれば、鼻白む。小さな自治体の首長と万年野党議員、地元企業の社長しかいない。それ以外、バスケだの、野球だの、サッカーだの、ラグビーだの、どこかのリーグで、名もなく消えていったスポーツ選手ばっか。いのっちを見た。まるで、戦後最大の犯罪に加担してしまったように。ただ、面白いくらいに泣き崩れた。笑える。
「人が真剣な話をしてんのに、ニヤニヤすんな! 」
担任が怒鳴った。大声を上げて、生徒の心を制圧することしか能がない。もう、しまいにしよう。疲れた。ギブアップだ。森シンの後を追おう。森シンと再会しよう。森シンに言おう。俺も連れて行ってくれ。俺は、拳を握った。俺は、小学生のときから、毒親に殴られてきた。つまらないプレイをすると、よく拳が飛んだ。殴られることには慣れている。だったら、殴ることにも慣れているはず。そのとき。ステージに風が吹いた。
「待ってください」
女の子の声がした。まぎれもなく静香だ。体操服のまま、なぜかステージのカーテンの下に潜りこんできて、ここにいる。マジかよって思った。
「なんだね、キミは?」
苛立った教頭は、メガネのフレームを中指で押し上げ、レンズ越しに睨んだ。
「2年3組31番の雪原静香です」
静香の潤んだ眼差しはまっすぐだった。
「そんな言い方はないんじゃないですか?」
「そんなとはなんだ!」担任の怒りは、静香にも飛び火する。
「私も、あの現場にいました。センセイたちはゴンさんのことを、ツラくあたってますが、センセイたちも森シンさんにひどいことをしてると思います! そもそも、先生たちがやった仕打ちで大騒ぎになってるんです!」
「なんだと!」
「ライブの途中でアンプを切るなんて、ギターをしてる身からすると、ホント屈辱です!」
「キミには関係ないやろうがああ!」担任は際限なく、うわずった怒号をあげた。
「大アリです!」
担任のとんでもない地雷を踏んだなって思った。その小さな震える肩で、声も裏返っていて、ほぼ悲鳴だった。いまにも、崩れそうなほど、瞳は濡れ、唇と、整った眉の端っこは、面白いほど震えている。小さな拳もまくり上がったズボンの裾からのぞいた、白くふっくらとした太ももも小刻みに揺れている。どうして、冒険に出たのか。
「ささっと、ステージから降りなさい! 関係なかろうが!」
「降りません! 」
「なんだと口答えするのか!」
「その子の言うとおりだ」
また、風が吹いた。初老の校長がやって来た。赦すような、あるいは赦すふりをするような笑みだった。慌ただしい足音がした。
「しずか!」
べつの女の子の声がした。いつもつるんでいる背の高い子と、マネージャーの萌映。二人は幕の下をくぐって立ち上がり、片方が静香の腕を引き、もう片方が静香の肩を掴んだ。修羅場だったステージ上の空気が一変した。
「何してんの!」
「行くよ! みんな、ホームルームできんくて、ミゾヱも男子も教室でイライラしとう!」
連れて行かれた。ステージの幕を揺らし、静香は、幕の外へ押し込まれ、忽然と消えた。いまのは、何だったんだろう。
「待て!」
担任があとを追おうとしたとき、校長が遮った。
「センセイたち、丸聞こえです。場所を移してください」
「そうですが、実際の現場でどんな動機でどう撮ったのか。なぜ、誰にも相談せず、ネットに広げようとしたのかを確認しなくてはなりません」
「森田と相談した上でネットにあげました。あのとき、先生たちは森シンの人権を踏みにじっていました!」
「我々には相談しとらんやろうが」担任が噛みついた。唾が飛んだ。吸い殻の匂いのする唾液に、俺は忌々しく目を細めた。「勝手にネット上に顔を晒された三好センセイの人権はどうなるとや!」
「声を荒げるのをやめましょう」校長は言った。
「彼には前歴があれます」
「だが、この件とは切り離して話すべきです。 我々の行為にだって非がある。なぜ、あんな指導が起こったのかを、職員会議で確かめている最中でしょうが。この子への指導は、それが終わってからです」
「何度も言いますが、あの丸刈りは任意でした! 生徒からも保護者からも。学校の指導に従わなければ、床屋に連れて行ってもいいと言質は、あらかじめ担任が保護者からとってあります」
「三好先生は、自らの手で、学校のステージで感情的に———————」
「わかっています!」
教頭は、校長の声を遮った。
「ですが、権藤君は、無断で教師の指導を盗撮して、無断でネットにあげたんです! それが波紋を呼んでいます。前回の特別指導は、不十分だったとしか言えません。本来なら毅然とした態度で、生徒の進退について真剣に話し合うべきでした! そこに横槍を入れたのは校長、あなたじゃないですか! あなたが、権藤くんに学校に戻れると捉えられるような事を口走ったから、特別指導がおかしくなったんです。教員がおなじ方向を向いた対応ができなくなったんです! その結果がこれです。いまでは、学校経営が危ぶまれています!」
教頭は吐き捨て、ステージの幕をひるがえし、幕の外に出た。背中が、怒りでこわばっている。
**********
『ゴン、なんかいい曲知ってる?』
またしても、前触れもなくメッセージが届いた。俺は、無難なメッセージでやり過ごそうとした。
『どうした?』
『リハビリ生活ながくて退屈やけん。自分の知ってるレパートリー飽きた』
『ジャンルは?』
『なんでもいい』
途方に暮れた。応援ソングがいいのか。青春ラブソングがいいのか。どれもこれも、猛からすれば、すべて皮肉のように聴こえやしないか。猛は、俺にまたしても難題を押しつける。またしても、俺は試されている。
旧中学棟の生徒会室。生徒会選挙の日、朝日がさしていた。その光が、浮遊しているハウスダストの1粒1粒を照らす。人が呼吸するたびに、微細なホコリは飛んだり、鼻の穴に吸い寄せられたりする。文化祭の残骸が散乱していた。乾ききったペンキのローラー、空っぽになってビー玉が虚しく鳴るスプレー缶、文化祭パンフレットの余り、インクの無くなったマジック、ホコリかぶった工具箱や延長コード。
「もっと、根まわしした方が」
窓際の丸椅子に座って、ゲンジは貧乏ゆすりしている。俺がゴーストライトした原稿をくり返し、呪文のように呟きていた。
「根まわししすぎたら、必ず漏れる」
俺はソファーにもたれて、スマホ片手に別のことで思いつめていた。俺が、猛を泣かせ、俺も泣いた世にも奇妙なお見舞い。メッセージはそれ以来のことだ。この前の見舞いで、あんな仕打ちをしたのに懲りていないようだ。俺は言った。
「最後にぶちまけろ。みんな乗る」
「ゴンさんは羨ましいですよ。ただのスピーチライターで済むんで」
美山も落ち着きがなかった。太くて丸い鼻頭を何度も撫でたり、ソファーに腰かけて、立ち上がったり。原稿を読んで「徹底抗戦」や「清き一票」を呟いていた。俺は決然と言ってのけた。
いきなりの主人公感。いきなり、僕の生活に陽光がかかった。けれど、それは、温度もなく、虚ろで輪郭のない光だった。いや、僕自身が太陽のあたたかい光を感じる心を失ってしまった。
俺は、誰かにまったく知らない物語を投げつけられた。けれど、この物語は、はじめから、光を受けとめるような余地はない。はじめから呪われていて、闇に沈んでいる。猛は二度と立てない。その時点で俺を含めた、猛に関わるすべての人が敗北している。敗者復活のない絶望的な物語に立たされている。
背後から、ねちっこい声がした。
「勝手に生徒会室に入るな」
粘膜の音。発声するたびに、ねちっこく舌打ちしているような話し方。アンバランスな大きな顔の、のっぺりした顎。白いスポーツメガネの奥のみみっちくすぼめた瞳に、憎悪をたぎらせた副会長。
「俺の客」ゲンジは何食わぬ顔をする。
「お前はクビやろうが」
異質なものは、祓わないと気が済まない潔癖。不健康な白い肌の丸い身体。しまりのない頬と顎で、ひどくむくんだ顔立ち。人のことを正常か異常か、頭良いか悪いかで判断するような視界が狭い小さな眼。
『マイウェイ』
いい曲を思いついた。猛にぴったりの曲。「名曲」と言われて、森シンに聴かされた曲。はじめて聴いたときは、アイフォーンで聴くより、蓄音機で聴いたほうが似つかわしいような埃っぽい洋楽だった。壮年が唄う、鈍いメロディ。俺は、猛にそのユーチューブのリンクを送った。俺は衝動的に言った。
「森シンを売ったの?」
「俺はありのままを伝えた」副会長は、矯正された前歯を見せて笑った。「浮いてたじゃん。みんな、あいつのこと、生理的に無理やったし。学校で浮いていたアイツを、俺が解き放ってやった」
彼のスキャナーのような目が、室内の異常を見つけた。粘着質に反応しはじめた。
「美山、なにしてんの? 選挙ポスターとかふざけんな」
「副会長には、関係ないです」
「もおさ、最後まで、学校をめちゃくちゃにすんな! まじ、きしょい。体育会、文化祭、弁論大会、新入生歓迎会、お前らが投げだした行事を、誰が尻ぬぐいしたと思ってんの?」
「去年の生徒会選挙でお前はなんだっけ。『校則は伝統ある文化。同窓会会長の父が言っていた』って訴えた。結果どうだった? 俺が2281票。お前が53票。なのにお前は、何食わぬ顔をして偉そうな口を叩いてきた」ゲンジは皮肉った。
「結局、お前に能力なかったやん。リーダーシップもないし、人望もない。てか、自己中で毎回、掻きまわして、いつも投げだして、俺が尻ぬぐいする。お前らは、意味わからんパフォーマンスをくり返す。いままで、嫌なものを見せられてきた、こっちの身にもなれよ」
「そういうお前は、学校が準備したスピーチを読むだけの密告野郎やろうが」
「はいでた、中傷」副会長はみみっちい勝利を取った顔をする。
「教頭に言うけんな。密告野郎って言われて、心が傷つきましたって。それに、美山くんは、立候補を禁止されとうのに選挙ポスター作ってましたって。選挙管理委員には、変なのステージに現れたら、マイクの電源を切れって言っとくわ」
「ぜんぶ医学部のためやろ? 評定平均4でもないくせに、なぜかお前は2つしかない医学科の推薦枠をもぎとった」
「俺は正しいことをしてきたけん。みんなから信頼されてフェアプレイで勝ちとった」
「散々、人を安売りしやがって。つぎは、お前が売られる番やけんな」
「意味がわからん」副会長は嘲笑していた。
「3年の夏も終わったというのに、まだ革命ごっことか。痛いと思わんの? ほかの3年はみんな、自分の進路で忙しくて、それどころじゃないってわからんの? もういい加減、気づけよ。それにお前の説明、マジ分かりにくい。説明が下手。ちゃんと日本語喋れよ—————————」
副会長の眉間は、老獪に刻まれるしわが波打つ。年齢そぐわない、他人を仕分けしてきた履歴を物語るような嫌なしわだった。目は細く、唇は怒張でひきつり、ほっぺは嘲笑で膨れあがり、顔のパーツの1つ1つが、異物に対する嫌悪をはらみ、何ひとつ人間の表情が成り立ってない。嫌悪に歪めた表情を残像に、彼は背を向けて去っていく。スマホが鳴った。猛からメッセージだったた。
「いい曲やん」
排水溝のように、喉に髪の毛と埃が堆積したような気持ちが、するするほどけるように洗い流された。嫌なヤツと顔を合わせ、心が濁った日は、いい奴に会って話をするといい。それだけで嫌な一日は、少しだけ救われる。
********
「皆さんにお願いがあります」
応援演説で、副会長は涙ぐんでいた。体育館の照明はやけに白く、そのステージの中央に立つ副会長の涙がその光に溶けた。去年の選挙演説会はみんな瞳孔をかすめて、みんな猫背になる茶番だったはずなのに。
「この選挙を今まで以上に大切にしてほしいのです。憎悪を煽る言葉に惑わされてはいけません。先生たちとの信頼関係を損ない、学校を暗いものにさせます。不穏な空気が漂ってるいまだからこそ、先生と生徒との語らいの場を作って、すれ違いをなくし、話し合う必要があります。私が推薦する2年3組の吉川さんは、聴く力を兼ねそろえ、誰に対しても公平で、橋渡し的な役割が担ってくれます。いまの極東になくてはならない存在です」
『会長候補 2年3組 吉川文子さん』
息のかかった候補者は、選挙用のタスキを肩から腰へ、斜めにかけていた。マイクのまえに出て、ひょっこり一礼してから、あたり障りのない抱負を述べた。生徒会にいる女の子のテンプレだ。小さい体に不釣り合いなほどタスキは大きかった。学校の傀儡である二人が腰を下ろしたとき、副委員長がこわばった口ぶりで言った。よく見たら、司会席のワイヤレスマイクを持つ手が震えている。
「——————もう1名、届け出がありました。委員会はこれを認めます。それでは美山君と、応援演説者は登壇してください」
ゲンジと美山が、舞台袖から姿を現した。生徒たちは顔をあげた。いろんな感情がまざっている。囁きはざわめきを呼び、戸惑いは困惑を呼び、冷笑は嘲笑を呼んだ。体育館は揺れる。
「なにしてる!」教師たちの怒号が飛ぶ。
「俺たちは自由を訴えてきた! 学校が耳を傾けていれば、あの事件は起きなかった! 学校は変わっていない!」体育館のざわめきが波打つ。いろんな感情がないまぜになっている。だけど、聴衆の心はまだゲンジから遠く離れたところにある。
「この学校に『信頼』がありますか?」ゲンジは叫んだ。みんな顔を見合わせあって動揺した。
「頭髪検査、スマホ禁止、磁石が組みこまれた制服、革靴。どこが信頼ですか? あの事件からも、暴力教師を罰せず、被害生徒をやっかい払いする。なのに、学校は『信頼の回復』『相互理解』ばかり。そんな血の通ってない言葉、まったく伝わりま——————」
ボン
巨大な瓶の栓を抜くような鈍く尖った衝撃音。演説台に置かれた有線マイクが、教員たちにもぎ取られた。叫ぼうとしても、声が響かなくなった。舞台の片隅に、校長が立っていた。別のワイアレスマイクで呼びかける。
「さっさと、ステージから降りなさい。先生たちは生徒を誰ひとり、無下に思ってない。どの先生だって、生徒が夢を叶えたときは喜ぶし、部活での活躍を、自分ゴトのように喜んでいる」
照明は、ステージ中央のゲンジを鮮明に映している。選挙管理委員の1人が、司会席のワイアレスマイクをゲンジに託した。教師たちが阻もうする。だけど、ステージに上がったK K Kのメンバーたちが、風よけのように阻む。仲間たちの背中に守られてゲンジは強迫的に叫んだ。
「今年の卒業生は700人。九大合格者はたった50人。東大は3年連続ゼロ。それよりも許しがたいのは———————まったく楽しくない学校生活です! 名ばかりの運動会と文化祭、太宰府遠足。すべて教師の怠慢です! 現状を直視せず、校則だけを押しつけ、その矛盾が、文化祭2日目に爆発した! これが『格式高い極東の教育』の現実です!」
「先生たちは日々全力を尽くしている! 発言を撤回しなさい!」
教頭が絶叫した。体育館全体がソワソワしている。ところどころで笑い声も起こった。でも、大半は困惑した表情になっている。聴衆の心は、いろんな感情がないまぜになっていて、まだ、先生にもゲンジたちにもどっちにもついてない。
「この声がすべてです!」ゲンジの声に息継ぎもせず、喉を枯らして、鼻息を荒くして叫び続けた。
「運動会は、手狭なグランドで中高合同です! 3500人が炎天下の中、すし詰めになって強行される。唯一の見せ場といえば、部活動対抗リレー。ですが、大半の生徒が蚊帳の外で立っているだけです! なにひとつ、参加できない生徒だっています! 修学旅行だって、先生たちが独断で決めた京都金沢のお寺めぐり。学校は楽しくない! 体罰、ラグビー部の事故あってもなお、この学校は変わらない! このうえ、教師の息がかかった候補一人だけの選挙。どう選べというんですか? こんな学校の制服に誇りなんて持てない!」
「ゲンジ」聴衆たちのところどころで、かけ声が聞こえてきた。まだ、まばらだった。だけど1つ1つが力強かった。
「校長に再度お尋ねします! ラグビー部が去年導入した、あのトレーニングバイク。あれは一体いくらですか?」
「いまここで説明する話じゃない!」
「答えてください!」
「答えろ!」観衆の声が鋭く轟いた。さっきより、まとまりがあった。
「一台45万円です。今年、それが15台導入されました! 総額675万円!」
「えええ」
「ラグビー部100人のうち、学費全額免除のスポーツ特待生は何人ですか?」
「答えろ!」
「答える気がないなら、代わりに答えます! 学費を払ってない部員は30人余り!」
「えええええ!」体育館がどよめいた。
「この学校は一般生徒から搾取し、その金で高校スポーツに莫大な金を注ぎ込んでいる! 我々は、学校の宣伝費の養分になっている!」
「ゲンジ!」轟音のざわめきが、体育館を埋め尽くした。
「いい加減なことを言うな! トレーニングバイクは、地元のスポーツ企業と連携して、無償で提供されたものだ!」虎衛門が、校長に代わって怒鳴った。だけど、その声は喝采によってかき消された。歓声に乗せられたゲンジは息巻いた。もう無敵だった。
「この1年、スクールカウンセラーを勧められ、何度も、自主退学をうながされました。最後の最後で、私の想いはみんなに届きました。今回の選挙で退任になりますが、この運動の火は消えません! 次期会長に美山くんに推薦し、つぎの要求をします。校則の廃止! 制服と革靴の廃止! 体罰教師の解雇! 校長の辞任! 自治の強化! 期限は、翌日までとし、要求を呑まない場合——————」
ざわめきが1つの感情の熱を帯びた。熱は、場の空気のおおよそを掴みはじめる。ざわめきが、少しずつ野次になりかわる。聴衆の声に一体感が現れた。
「全校生徒でボイコットを挙行します!」
喝采が沸いた。群衆の足踏みで体育館揺れた。非公認候補の美山にマイクが渡たった。
「公約はボイコット! 徹底抗戦! 校則撤廃! どうか清き一票を——————」
遠隔でワイアレスマイクの音が切られた。だけど、観衆の胸騒ぎはスイッチ1つで止めることはできなかった。
「辞任しろ!」
「やめろ!」
「マイクを切るなあ!」
ブーイングがまき起こった。嘲笑ったり、蔑んだり、困惑したり、恥ずかしがったり、言葉にならなかった感情が『やめろ』に収束する。喝采が、天井をどこまでも突きあげた。聴衆は立ち上あがった。一度、なだれが起これば、あとは簡単で、声はとめどもなく溢れた。校長の表情は、幽霊のように白く、脂気もなく青ざめていた。校長は、何かを訴えている。遠くからでも見てとれる。若者の熱狂は、それをたやすく蹴散らす。




