外国語のお勉強
暖かな日差しが気持ちの良い昼下がり、イザベラが令嬢教育の授業でよく使っている応接間で、彼女は今日もフォートテイル語に四苦八苦していた。
『昔々、それは美しい城に住んでいる王様とお妃様の間に赤ん坊が……』
「グレンシャー伯爵令嬢、そこは少し発音が違いますね。最初からもう一度」
「分かりました。ドーシェル夫人」
今日の課題は物語の音読。この国の貴族であれば、フォートテイル語で手紙のやり取りをしたり、あるいは詩を諳んじたりすることは当然の教養とされる。とはいえまだそのレベルに達していないイザベラは、まず子供向けの童話を教科書にして読み上げている。
使っている文字こそ同じであれ、そこは違う国の言葉。童話の音読すら満足に出来ず、果たして自分は本当に令嬢として貴族社会に認めてもらえるようになるのか、とイザベラが少し落ち込んでいると、不意にドアを叩く硬質な音がした。
「エドワード様がいらしています。お入れしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ……どうしたのかしら?」
来客を告げる侍女にそう言って扉を開けさせると、その向こうから来たのは、エドワードが入ってきた。
「ドーシェル夫人、イザベラ嬢。レッスンの途中で急にお邪魔して申し訳ありません」
「いえ、ちょうどそろそろ休憩しても、と思っていたところですから。それにしても久しぶりですねエドワード。最近の活躍は耳にしていますよ」
「まだまだ若輩者ですが……ドーシェル夫人もお元気そうで何よりです」
ドーシェル夫人がいるからか、エドワードはよそ行きモードだ。そしてそれは服装も同じであり、光沢のある青いクラヴァットにテイルコートをあわせ、ハットを手にした姿はまさにさっき外出から帰ってきた、という様子だ。
「ところでエドワード様? 突然どうなさったのですか?」
イザベラが朝耳に挟んだ話の通りなら、エドワードは昼間は王宮で王太子の御前に上がり、夕方からはマイルウェル家と親交のある伯爵の元を訪れる、と聞いていた。
孤児院にいる時はお茶会に晩餐会、そして舞踏会、ととにかく華やかなイメージだった貴族の生活だが、実際に間近で見ると彼らの生活はなかなか忙しい。少なくともマイルウェル侯爵家の人々は日々忙しくしており、王太子の側近として王宮に上がりつつ、次期侯爵としての足場固めもしなければならないエドワードも、なかなかゆっくり顔を合わせる機会はないのだった。
「夕方からの予定が少し遅くなることになりましたので……少々ご機嫌伺いを、と。たまには婚約者にも顔を見せるように、と母上にも言われていますしね。あとこれを」
そう答えたエドワードは右手に下げていた白い箱をイザベラに渡す。なんだろう? と不思議そうな顔をするイザベラにエドワードはよそ行きモードのまま微笑みかけた。
「婚約者なら贈り物の一つもしなければ、と思いましてね……開けてみてください」
今は授業中だし……と、イザベラがドーシェル婦人に目を向けると、彼女も開けてみなさい、と促す。そこで真っ白な箱をゆっくりと開け、そして感嘆の声を挙げた。
「まあっ、素敵だわ! これはなんというお菓子なのですか? エドワード様」
箱にぎっしりと詰まっていたのは赤、青、黄、緑、白とまさに色とりどりのコロンとした可愛らしいお菓子。どうやらそれぞれの色ごとに味が違うらしく、箱からは色々な香りが漂ってくる。その美味しそうな香りに思わず笑みを溢したイザベラにエドワードが声をかける。
『イザベラ嬢? 使う言葉が違うのでは? 今はまだ授業中ですよ』
よそ行きの仕草と美しい発音のフォートテイル語で話すエドワードの表情は少し意地悪げ。
「なによ、器用な……」
と小声でつぶやいたイザベラは息を一つ吸って、それからエドワードと目を合わせてパンっと胸の前で手を合わせる。
『まあっ、なんて素敵な贈り物でしょう! これはなんというお菓子なのですか? エドワード様?』
『そんなに可愛らしく喜んでいただけるとは婚約者冥利につきますね。ところでこのお菓子の名前でしたね、マカロン、といいます。フォートテイルで人気のお菓子ですよ』
芝居がかって喜ぶイザベラに合わせるようにエドワードも気障な表情でイザベラに微笑みかける。とは言えその表情はどちらとも芝居ではない。
侯爵夫人が心配げに話していた程には仲は悪そうでなく、しかしどこか挑発し合うような声音に、ドーシェル夫人が良いことを思いついた、とばかりにいたずらっぽい言葉をあげる。
「そうだわっ、せっかくですしエドワードも授業に参加していかれてわいかがでしょう? せっかく美味しいお菓子を頂いたのでエドワードがグレンシャー伯爵令嬢をお茶に招く、という設定でーーエドワードもあなたと同じように最初は私がフォートテイル語を教えたのよ」
「そうなのですか! ドーシェル夫人」
初耳の情報にイザベラは驚き、目を見開いた。
「ええ、エドワードがまだ随分幼い頃ですけどね。いかがかしら? お時間が許せばですけど」
「分かりました、夫人。あまり長居は出来ませんが、私も参加させていただきましょう」
「ありがとう、エドワード! 素敵だわ。では伯爵令嬢?」
「分かりましたわ、夫人。アンナ、みなさんとお茶をするから準備してくれるかしら」
「かしこまりました、お嬢様」
夫人に促され、イザベラがアンナにそう言う。優秀な侍女は菓子の差し入れがあった時点でお茶の準備を進めつつあったらしい。想像していたより早く部屋の真ん中に置かれたテーブルにはお茶が用意され、色とりどりのマカロンはその色が映えるガラスの器にきれいに盛り付けられた。
それを見たエドワードはイザベラに右手を差し出し、そっと立ち上がらせる。そして貴公子としての笑みを作った。
『イザベラ・グレンシャー伯爵令嬢。本日はあなたを我が家にお招き出来、至極光栄です。どうぞゆっくりとおくつろぎください』
『ヴァーレンシア子爵。こちらこそこんな素敵なお茶会にお呼びいただき、嬉しいですわ』
わざとなのか、難しい単語を使いつつキラキラとした笑顔を向けてくるエドワードについていこう、とイザベラも必死に頭を回転させ、言葉を紡ぎつつゆっくりと膝を折る。そして元の姿勢に戻ったところで、パンパン! と夫人が手を2回叩いた。
何か間違えたかしら? そんな不安がよぎったイザベラだったが、夫人が視線を向けたのはエドワードの方だった。
「あら、エドワード? あなたフォートテイルで何を学んできたのかしら? フォートテイルの男ならこんな可愛らしい婚約者を前にすれば、そんな当たり障りのない挨拶はしない筈よ」
そう言って夫人はいたずらっぽく笑う。
フォートテイルは昔から情熱的な国民性で知られている。こと恋愛においてはそれが如実に現れ、恋人たちはその好意を言葉でも態度でも分かりやすく示すのだ。
授業の合間の雑談で夫人が教えてくれたことを思い出したイザベラは夫人は何をさせる気なのか? と視線を泳がせる。
一方かつての師にダメ出しされたエドワードは挑戦的な視線を夫人に、次いでイザベラに向けた。
『イザベラ嬢、今日はあなたのような素敵な婚約者をこの場にお迎え出来て、私は国一番の幸せものです。さあ、どうぞこちらへ』
『こ、こちらこそお招きいただきありがとうございます! でも国一番だなんて言い過ぎですわ』
『何を言いますか、むしろ控えたほうですよ。それにしても今日の装いもよくお似合いだ。普段のあなたは野に咲く可憐な花のようだ愛らしさだが、美しく咲く一輪のバラのような装いも似合うとは……』
『まあ……野花だの薔薇だのって、お世辞もいい加減にしてくださいませ』
『お世辞などではありませんよ。さぁ、頑張るあなたのためにちょっとしたご褒美があるのです。一緒にいただきましょう』
キラキラといつもより何割増しかの笑顔を浮かべつつ美辞麗句を並べ立てるエドワードに
(貴族の本気って凄い……)
とやや的はずれな感想を抱きつつ、次から次へとフォートテイル語の長文を並べ立てるエドワードに合わせて、イザベラも必死に会話についていく。
なかなかの美丈夫の怒涛の口説き文句。しかし今のイザベラにはそれに頬を染めている余裕はなかった。
その後もエドワードの言葉は続く。ガラスの器に並べられたマカロンの美しさを『素敵だ』と褒めれば、
『その鈴のような美しい声で褒めたら、私は菓子にまで嫉妬しまうよ』
と囁かれ、
黄色のマカロンを一口かじり、その甘酸っぱい美味しさに
頬を緩めれば
『いっそ私もそのマカロンになりたい』
と目を細められる始末。その一つ一つに反応しつつ、返事を返すイザベラは、お茶を一杯飲み切る頃にはかなり疲れ切っていた。
そんなイザベラを見かねてか、そこでようやく夫人から
『お二人ともよく出来ました。今日はこのぐらいにしておきましょうか。普通にお話してよいですよ』
と合図があったことで、イザベラは息をつくことが出来た。
「それにしても……ふたりともなかなか息が合ってたじゃありませんか。奥様から色々聞いて心配しておりましたが……意外と相性はよろしいようですね」
「そんなことありませんわ!」
「どこがですか?!」
先程まで見事な掛け合いを見せていた二人をそんなふうに評する夫人に反論する二人だが、その声までピタリと揃い、夫人は更に笑みを深める。
流石に気まずいのか、すっとイザベラから視線をそらし、壁時計に目をやったエドワードは
「さて、お茶の途中で大変申し訳ございませんが、私はそろそろ時間のようですのでこれで。夫人、今日は楽しい時間をありがとうございました」
「あら、もう行ってしまうの? まあお忙しそうだし仕方ないわね。こちらこそ楽しかったわ。ありがとう」
そう言って席を立つ。なんだかんだと言って彼が部屋に来て一刻も経ってない辺り、本当に予定の合間を縫って来たらしい。そのことにやや申し訳無さを感じていたイザベラだが、部屋を出る直前、エドワードはそんなイザベラの気持ちを吹き飛ばす大きな爆弾を投下して言ったのだった。
「そうだ、イザベラ嬢。来週末だが王太子殿下夫妻があなたに会いたいそうだ。準備をお願いできるか?」