かかとの高い靴
「本っ当に危なっかしいな。庶民でも多少かかとのある靴を履くことはあるんじゃないのか?」
「おしゃれな子はそういうこともありますわ。残念ながら私はそうではなかったですが!」
今日何度目かでつまずきそうになったイザベラを、エドワードはすんでのところで肩を抱きとめて体勢を整えさせる。なんとかバランスを取り戻し、殊勝にお礼を言ったイザベラ。しかし、その後に続いたエドワードの嫌味に思わず声を荒げていた。
春の心地の良い風が吹く王都の郊外。今日のイザベラはドレスの捌き方の練習、と称して美しく整えられた公爵家の庭を、エドワードと共にゆっくりと歩いていた。
彼女の社交界デビューは夏の予定。茶会にしても夜会にしても、夏が短いハンヴェルトーン王国では今しかない、とばかりに屋外での社交が増える。それに備えての授業、ということだったが、実際にはずっと屋敷の中で授業を受けていても息苦しいだろう、という侯爵夫人の配慮でもあった。
ついでに
「今日は時間があるのでしょう? たまにはあなたもレッスンを手伝ってあげなさい」
という鶴の一声でエスコート兼教師役がエドワードとなったのは侯爵夫人のお節介だ。
今日の装いは春の若葉の色に映えるレモン色。薄手の生地には花をモチーフにした繊細な刺繍が散りばめられ、清楚さと華やかさを併せ持っている。
彼女の姿をみたエドワードも手放しで褒めてくれたが、当の本人はうっかり泥でも跳ね上げて、この美しいドレスを汚してしまわないか気が気でない。そしてそれ以上に彼女を悩ませるのは足元だった。
エドワードに言ったとおり、これまであまりおしゃれをしてこなかったイザベラは、かかとの高い靴を履いた経験が少ない。エドワードの対面した日以来積極的に令嬢らしいドレスを纏い、着飾ることに慣れよう、としているイザベラ。
とは言え今日は最初の外出だから、と当初アンナは靴については底が平らなものを用意してくれていたのだが、それに待ったをかけたのはイザベラ自身だった。
「待ってーーやっぱり今日はかかとのある靴を履くことにしても良い? アンナ?」
「ですがお嬢様? まだお部屋の中でも慣れていらっしゃらないのに、少し危ないのでは?」
「だって……きっとこの靴を履いていったらエドワード様に『まだかかとのある靴になれていないのか?』って馬鹿にされそうだもの。それは避けたいわ!」
あの日以来イザベラはエドワードに相当な対抗心を燃やしているイザベラにアンナは苦笑する。
孤児院を出てからのあれこれで少し鳴りを潜めていたが、元来の彼女の性格は結構な負けず嫌いだ。そんな彼女の性格を短い間で正確に見抜いていたアンナはこれは引かないだろう……と判断し、侯爵夫人にお伺いを立てた上で、比較的実際の社交に使うのに近い高さのかかとの靴を用意してくれた。
と、ここまでは良かったのだが、いざ庭に出てみると庭師達が常に美しく整備しているとは言え、外を歩くのは家の中を歩くのとは訳が違う。
「きゃっ」
「ってまたか……! もう少し歩幅を狭くするか?」
「お、お願いしますわ」
エドワードの手を取ってまたあるき始めたイザベラだがまた数歩歩いたところでまたつまずきそうになる。それをまたすんでのところで抱きとめたエドワードが、流石に心配そうにそう尋ねる。
イザベラの答えを聞いて、もう一度彼女の手を取り直したエドワードは、元々彼女に併せて狭くしていた歩幅を更に狭くして、ゆっくりと彼女を導いた。
「どうだ? これらな歩けるか?」
「えぇ、なんとか……。そういえばエドワード様……こういうところはちゃんとされるんですね」
「ちゃんと? というのは」
「いや……こういうエスコートの歩幅とか、さっきからも何度もつまずきかけてますが、全部助けてくれてますし……」
「それは……まあ、紳士として当然のことだからな」
「ですけど……私が街にいた頃よく一緒に遊んだ男の子達は全っ然そんなことに気にしてなかったですわ。一緒にお使いに行っても一人足早に行ってしまいますし……」
「おい……それ何歳の子と比べてるんだ」
まだまだ危なっかしさを残しつつも、やっとバランスを取れるようになってきたイザベラは、少しだけ会話をする余裕も出てくる。とはいえ慣れ始めたばかりのドレスに慣れない靴。十分少々で息は上がってきたらしいイザベラの様子をみてエドワードは美しく咲いたバラがよく見えるところに置かれたベンチに彼女を誘った。
「疲れてきているんだろう? 少し休憩しよう」
「そうさせていただきますわ。街にいたときはこの何倍も歩いたって平気だったのに……体が訛っているのでしょうか……あ、ごめんなさい」
エドワードがハンカチを引いてれたベンチに腰をおろしつつ、ものの10分ちょっとで息が上がってしまったことを嘆くイザベラ。しかしそれと同時に背筋が丸くなり、視線が下を向く。エドワードの目がギラリ、と光ったのに気付きイザベラは慌てて姿勢を正した。
「よろしいーーイザベラ嬢が疲れやすくなったのは、どちらかというと着慣れない服と履き慣れない靴のせいだろう。比較的軽いものとはいえ、そのドレスの重さだって馬鹿には出来ないしな」
「そうかも知れませんわね……。でもこれからダンスの練習もしていかなくてはならないのに……先が思いやられますわ」
エドワードに認められるべくかかとの高い靴を選んだ、というのにここまで頻繁に転ぶと、流石のイザベラも自信を失ってきていた。
「心配しなくてもデビューまでには時間がある。ここまで令嬢教育をものにしているのだから大丈夫だろう」
「……なんだかエドワード様に褒められると不思議な気分ですわ」
「出会って早々にあんなことを言っておいて何だが……今のイザベラ嬢は好ましいと思っているぞ。努力家だし、物覚えも良い。まあ外国語だけはあれだが……特にマナーの授業はかなり進んでいるらしいじゃないか?どこかで習っていたのか?」
エドワードの言う通り複数の授業を並行して勧めていく中で、特に貴族としての礼儀作法の教育の進行度は他よりもかなり早い。その習熟の速さは教師も舌を巻いていた。
「もともとどこかの裕福な家に奉公に出よう、と思っていたのである程度の勉強はしていました。雇い主の前に出ることが許されるか否か、で給金は随分変わりますし……」
貴族を始め中上流以上の過程では幾人もの使用人を雇っているのが当たり前だ。その業務内容は多岐に渡るが、雇い主である主人一家と言葉を交わすには、ある程度の礼儀作法を知っていることが前提となる。
それができれば例え下働きでも仕事の幅は増えるし、将来的に高級使用人を目指す道がないわけでもない。そのためセント・キュイーズ教会では礼儀作法や言葉遣いの指導に力を入れていた。それに加えて……
「あと、月に1回ぐらい『院長先生のお茶会』という行事があったのです」
「『院長先生のお茶会』?」
月に一度、毎月題目が変わるテストで高成績を収めた子は、院長先生にお茶に誘って貰うことが出来た。
大きなソファが置かれ、普段は入ることが許されない応接室に招かれ、きれいな柄のポットで入れた紅茶と、院長が街の店で買ってきてくれるケーキを楽しむ。
それは孤児院の子どもたち全員の憧れの時間だった。
「普段はまず口に出来ない美味しいお茶とお菓子をいただけてとっても嬉しいのですが、今思うと同時に礼儀作法のお勉強も兼ねていたみたいのです。私も何度が招かれましたが、そこで教えてもらった作法は上流でも通用しそうなものでしたわ」
「なるほど……孤児院には色々な境遇の子がいるからね。もしかするとイザベラ嬢のようなことが起こるかも知らない、と院長は考えていたのかもしれないな。イザベラ嬢であれば何度もそのお茶会に呼ばれたのだろう?」
「買いかぶり過ぎですわ。できるだけたくさんの子が呼ばれるように毎回テストの内容は変わりますの。勉強のときもあればかけっこのときもありますし、絵のときもあります。全部が得意だった訳ではありませんわ」
「そうか。でもイザベラ嬢ならどれも一生懸命に頑張ったのだろうな。その時のことが今生きているのだろう?」
「ですから買いかぶり過ぎですわ」
流石に自信を失っているイザベラが可愛そうだったのか今日のエドワードはやけに優しい。調子を崩されたイザベラはプイッと顔を背けた。
「よしっ、じゃあイザベラ嬢? そろそろ散歩に戻っても大丈夫か?」
「ええ、十分休憩出来ましたわ」
その言葉を聞いて立ち上がったエドワードがこちらに手を差し伸べる。バランスを崩さないようその手を慎重にとって立ち上がったイザベラは、少し上にあるエドワードの目を見て口を開いた。
「エドワード様」
「どうしたんだ」
「私、絶対にあなたに認められる立派なレディになってませますわ」
突然の宣言に一瞬言葉を失ったエドワードだが、すぐに笑みを取り戻し
「期待しているよ、イザベラ嬢」
と言って、それから彼女の手を引くのだった。