侯爵家へ
ポロポロと涙を流すイザベラに侯爵夫人は声をかけることはなく、だが侯爵邸につくまでの間、ずっと手を握っていてくれる。そのお陰もあって侯爵邸に着く頃には涙も引き、イザベラは自然な笑顔を作ることが出来るようになっていた。
伯爵邸から数十分程走り、王都の外れ辺りに来たところで馬車は門をくぐる。綺麗に整えられた庭園にイザベラが目をやっていると馬車が軽く揺れて止まった。
「さあ、着きましたよイザベラさん。マイルウェル家へようこそ」
そう言うと同時くらいに使用人らしき足音が近づき、ドアが開かれる。すると玄関の前には、50手前くらいのやや恰幅の良い、仕立ての良さげなコート姿の男性がにこやかに微笑んでいる。その後ろには10名程の使用人達が綺麗に並んでいた。
「おかえりなさいませ、奥様」
「おかえり、メアリー。やはり予想通りだったようだね」
「お迎えありがとう、ただ今戻りましたわ」
これまた綺麗に揃った礼を見せる使用人たちに微笑むと、サッと列を抜けてメアリーの傍に寄った女性の使用人に日傘とハンドバッグを預け、流れるようにコートの男性の方へ向かうと、男性は当然のようにメアリーの肩を軽く抱く。
一連の挨拶が終わったところで、メアリーはもう一度イザベラの方へ戻ってきた。
「さて、皆さんに彼女を紹介しなければ。イザベラ・グレンシャー伯爵令嬢。エドワードの婚約者となる予定の方ですが、訳あって当家に今日から滞在することになりました。さぁ、イザベラさん」
その視線に促され、イザベラは軽く一歩踏み出してドレスの裾をつまみ膝を折った。
「グレンシャー伯爵の娘、イザベラにございます。今日からよろしくお願いします」
よく考えれば先程泣いてしまったことで化粧は崩れてしまっているし、伯爵邸にいる時より緊張感はないとはいえ、礼はまだまだ不格好だろう。しかしそんな彼女を嘲笑するような声は聴こえず、代わりに彼女の耳に届いたのは低く落ち着いた声だった。
「マイルウェル侯爵家へようこそ。マイルウェル侯爵、ロベルトだ。ここが自分の家だと思って過ごしてくれると良い」
そう言うと、彼女の手を取り、甲に軽く口付ける淑女に対する礼をとる。その時ドレスで隠しきれない赤い跡に気付き、一瞬目を見開いたが、すぐに元の笑顔に戻り何も言わなかった。
「さて、イザベラさんもお疲れでしょうけど、まずはドレスを変えないとね。アンナ? 彼女のことをお願い出来る?」
そう言ってイザベラは玄関に並ぶ使用人達の中から比較的若い女性を呼ぶ。すぐにメアリーの方へきた彼女をさらに近づくよう手招きすると、何やら耳元でささやく。その内容に少し驚いた様子のアンナだったが、彼女もまたすぐに表情を戻し、メアリーに向き直った。
「かしこまりました。精一杯お世話させていただきます。イザベラ様、お召し替えをさせていただきます。どうぞこちらへ」
そう言って彼女を屋敷の方へ招くアンナに案内されて、イザベラは侯爵邸に足を踏み入れるのだった。
とりあえず客間で申し訳ないが私室として使ってほしい、と通された部屋は明るいレモン色の壁紙の部屋で、元より女性の客人を想定しているのだろう。調度品は木目が美しい深い茶色で、落ち着いた印象だが、丸みのある輪郭のもので統一され、どこか可愛らしさも感じる。奥には小さな衣装部屋があるのも見て取れた。
窓辺に視線を移すと、どうやら裏庭に向いて窓があるらしく、これもまた表の庭同様にしっかりと手入れされた美しい庭が目に入る。何よりイザベラを驚かせたのはその広さで、思わず溢れた
「この部屋を……一人で?」
という呟きには、思わずといった様子でアンナもクスッと笑い
「大変失礼しました。貴族の屋敷では標準的な広さの客間ですよ。慣れないかもしれませんがくつろいでお過ごし下さいませ」
とイザベラに微笑みかけた。
とりあえず身体に合っていない、伯爵邸で来ていたドレスを脱がしてもらう。そしてアンナが入浴の手伝いをしてくれ、さらに髪を乾かし、肌を手入れして、と細々とした世話をしてくれる。肌にクリームを縫っていたアンナの手が彼女の腕までくると、アンナは
「少しだけ失礼しますね」
と、手首を裏返してムチの跡が残る辺りに視線を走らせる。
そこに走る傷跡を目にしたアンナは痛ましげに表情を歪めた。
「酷いですわ。お話は聞いておりましたが伯爵夫人はなんてことをされるのでしょう。良い塗り薬を用意してますのでお塗りしますね。しみないとは思いますが、痛いようでしたら仰ってください」
「あ、有難うございますアンナさん」
先ほどまでいた伯爵邸とのあまりの待遇の差にまごつくイザベラだが、アンナはそんな彼女に何も言うことはなく、しかし的確に彼女の身支度を整えてくれた。
「あら! まあ、とっても素敵にしてもらったわね。ドレスもピッタリで安心したわ。アンナも良い仕事をしたわね」
「お褒め頂き光栄にございます」
まだ慣れていないだろうから、とアンナはコルセットはなしで、ドレス自体も裾の広がりを抑えた柔らかく軽いものを着せてくれた。薄桃色のシフォンの素材で作られたふんわりとしたドレスは軽くウェーブした淡い金色の髪に、透き通る青い瞳のイザベラによく似合っている。その姿は孤児院にいた頃から、愛らしいと評されていたイザベラの容姿と相まってまるで人形のようであり、その出来を褒められたアンナは軽く頬を染めて、一礼した。
「ああ、本当に。見違えるように可愛らしくなったねイザベラさん」
一方自分に降り注ぐ賛美に戸惑いを隠せないのはイザベラ。そんな様子を侯爵夫妻は微笑ましそうに見つつ、イザベラに彼らが囲むテーブルの方へ来るように招いた。
使用人に椅子を引かれて夫妻と向かい合う形で座ったイザベラはまず、これまでの感謝を述べた。
「あの……今日は本当に有難うございました。伯爵家から連れ出して頂き……それに素敵な部屋にきれいなドレスも頂いて……」
しどろもどろになりつつ、感謝の気持をなんとか伝えようとするイザベラに夫妻はニッコリと微笑む。
「あなたは息子の婚約者なのだからこのぐらい当然だ。それにむしろ私達はあなたを巻き込んでしまったようなところがあるからね」
「巻き込んだ……というのは?」
眼の前で穏やかな笑顔を浮かべる侯爵が口にした少し不穏な言葉にイザベラは少しだけ表情を曇らせた。
「そもそもグレンシャー伯爵家は相当由緒のある家柄だ、ということは知ってるかい?」
「はい、孤児院にいた頃でも歴史ある家だ、という程度の知識はありました」
「そう、歴史があり、王家の信も厚く、領地も大きい。しかし今はそれだけでやっていける時代ではない。新興貴族や大商人達も力を持ち、古参の貴族も工夫をしなければ生き残れない時代。しかし残念ながかの家はそれに失敗した。イザベラさんもあの家に住んでいれば多少なりとも感づいただろう?」
「はい……正直なところ」
少し気まずけにイザベラが答える。実際使用人たちからは給料が滞っているといった声も聞こえてきたし、修繕されていない調度品や、掃除の行き届いていない部屋も多く見た。
「彼らは広大な領地の経営に失敗し、かなりの負債を背負っている。しかし由緒があるゆえに取り潰すには惜しい。そこで国王陛下が画策したのが同じく古参貴族である我々と婚姻関係を結び援助させることだ。同時に少々きな臭い動きをしている彼らの悪事の芽を摘み取らせたいという思惑も合ったようだ」
そこで侯爵は大きく息を吐き天井を見上げた。
「問題は陛下も我々も彼らを見くびっていたことだ。伯爵夫妻は我々と平行してフォートテイル王国にも援助を求め、彼の国の貴族とつながりを持とうとした。そして結婚させる娘がいないからと、これまで完全に無視していた娘を突然引っ張り出して、平穏な生活を壊すとは…」
こちらの力不足だ、と後悔をにじませる侯爵。その様子にイザベラは慌てたように首をふった。
「そんな……お聞きする限り悪いのはすべてグレンシャー伯爵夫妻ですわ。あなた方は私にとって恩人です!」
「そう言ってくれると救われるね……まあ、そういう訳だから、また息子も紹介するが、まずはこの世界にゆっくり慣れて言ってくれると良い」
「ありがとうございます。そう言えば……ご子息は今どちらに?」
イザベラの婚約者となる人のことが話題に上がったことでふとそんな疑問が湧いた。また紹介する、ということは当面屋敷に帰る予定がない、のだろうか?と不思議そうにするイザベラにメアリーが答える。
「そう言えばそもそもその話をしていませんでしたね。息子は王太子殿下の随行としてフォートテイル王国に行っています。予定ではあと1周間もすれば戻るはずです」
「お、王太子殿下の! ですか?」
「それ程凄いことでもない。息子は外国語に興味を持っていてね、外交官を目指したかったらしい。我が家には彼しか子供がいないからそういう訳には行かなかったが、殿下は学舎での後輩になることもあって外遊の際には随行によく指名されるのだよ。まあ……私からすれば息子も殿下もまだまだ未熟者だ」
「殿下とそんな関係にあられるのですね」
「まあ、そこまで気負わなくて大丈夫だよ」
頭では理解していたものの、改めて実感する今まで住んでいたのと違う世界にイザベラは少し怖気付く。とそこへ一人の従僕が来て侯爵に何かを告げた。
「さて、食事の準備ができたそうだから食堂へ行こうか。我が家の料理人はなかなかの腕だからね、イザベラさんも楽しみにしていると良いよ」
そう言うと、侯爵夫妻は席を立ち、イザベラもそれに続くのだった。
イザベラが食堂に入ると、テーブルにはすでにシワ一つない真っ白なクロスが引かれ、その真ん中に置かれた花瓶には色鮮やかないくつかの花が挿されている。そしてそんなテーブルに整然となれべられたいくつものグラスや皿、カトラリーが目に入ったイザベラは思わず立ちすくんでしまった。
「あら……イザベラさん? どうしたの?」
「いえ……その、すこし緊張してしまって。伯爵家で勉強はしたのですが、お食事のマナーはまだきちんと出来ていなくて……」
二人を心配させまい、と笑ってみせるイザベラだがその手が震えるのは止められない。部屋のあちこちにいる使用人達の目がイザベラの震えを助長させる。
しかしメアリーとロベルトは「何だ、そんなことか」と言わんばかりに彼女に微笑んで見せた。
「そういうことですか。心配いりませんよ、イザベラさん。最初からきちんと出来るなんて誰も思っていません。ゆっくり覚えていけばよいのです」
「まずは私達を見ながら、それを真似するようすると良い」
「わかりました! ありがとうございます」
安心させるような二人の笑みにイザベラも本来の笑顔を取り戻し、そして彼らに促されて席に着いた。
自分たちの真似をして覚えれば良い、というその言葉通りにイザベラの右隣の席に座ったメアリーと、その向かいの席に座るロベルトは、ゆっくりとカトラリーを使って見せてくれる。貴族の食事はゆっくりと進むものだ、とは知っていたが、彼らがイザベラが困らないよう、ことさらゆっくりと食事をして見せてくれているのはイザベラにも分かった。
さらに彼女を手助けしてくれるのは使用人たちもだった。彼女の給仕に立ったのは少し年嵩の柔らかい雰囲気の女性だ。彼女は料理が運ばれる度に、どのカトラリーをどんな風に使えばよいか教えてくれる。それに部屋にはたくさんの使用人が働いていたが・イザベラが見たことのない料理に戸惑ったり、少しマナーを間違えたりしても笑い声一つ立てるものはおらず、みんなが彼女を見守ってくれるのが分かった。
「食事のマナーが不安だ、と仰っていたけど何も問題ないじゃありませんか、イザベラさん。よくできてましたよ」
「いえ、みなさんが優しく教えてくださるからです」
デザートも食べ終え、食後のお茶を頂きながらのメアリーの褒め言葉にイザベラは少し照れながら答えた。
「さて、こちらにいらっしゃって早速なのですが、明日から家庭教師を呼んで貴族令嬢として必要な知識をつけて頂きます」
「イザベラさんにとっては大変かもしれないが、この世界で生きるには必要なことだから、頑張って欲しい」
「はい! 精一杯頑張りますわ」
「でも無理をしては駄目よ」
伯爵邸にいた時と同じく、明日から勉強の日々が始まる。ただ半日この屋敷に過ごしただけで侯爵家の人々の優しさに触れられたイザベラは、やる気に満ち溢れた返事をしたのだった。