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侯爵夫人の取引

「お初にお目にかかります。グレンシャー伯爵が娘、イザベラにございます。以後お見知りおきを」


 そう言って教師に言われたことを思い出しながらゆっくりと柔らかい笑顔を意識しながら膝を折る。

 しかし、そうすると、ムチで打つ音と、厳しい叱責が蘇り、思わず顔がひきつり膝が震えてしまう。

 礼としてはあまり点数の高くないものだろう、とイザベラは思ったが、目の前の侯爵夫人は特に気にした様子もなくにこやかな表情を作った。


「ご丁寧にありがとう、イザベラさん。はじめまして、マイルウェル侯爵の妻、メアリーよ。よろしくね」


 緊張を与えないようにか、穏やかな声音で言った侯爵夫人はその場でイザベラが下のと同じように膝を折って礼を取る。にっこりと笑いつつも、その姿は威厳もあり、背筋は全く動かない。貴族のお手本のようで、しかし威圧感は与えない礼に、イザベラはポカンとしてしまい、隣の伯爵夫人の厳しい視線で我に返った。


「さあ、マイルウェル侯爵夫人もお席へ、今お茶とお菓子を用意させますね」


 そうしてテーブルに並べられたティーセットと焼き菓子を囲んで3人の歓談が始まる。夫人同士の世間話を聞きつつ、時折投げかかけられる質問になんとか答えていたイザベラだが、そんな中急に侯爵夫人の目線がイザベラの全身を巡った。


 伯爵夫妻と初めて孤児院で会った時も同じように見られたが、あのときのような不快に値踏みされるような目とは違う。どことなく心配するような目だ。そのためイザベラは疑問は抱きつつ、嫌な感じは受けなかった。やがて彼女から視線を外した侯爵夫人は穏やかな笑みを作ったまま伯爵夫人問いかけた。


「ところでグレンシャー伯爵夫人? イザベラさんのドレスなのですけど少しサイズが合っていないのではなくて?」


 ギクリーーそうとでも言いたげな表情になった伯爵夫人。しかし彼女はすぐに普段の調子を取り戻す。


「お恥ずかしながら……まだドレスの仕立てが間に合っておらず、とりあえずで用意したので多少サイズが合っていないかもしれませんね。もう少ししたら彼女にピッタリのドレスが縫い上がりますわ」


 もちろんそんなことは嘘だ。侯爵夫人の前に出るから、と今日はきちんと採寸をした普段のドレスよりは体型に合ったドレスを着ているほうだ。それでもリリー嬢のお下がりを伯爵邸の使用人がおなざりに直したドレスはイザベラの体型にも、雰囲気にも合っていない。それは一流の貴族の目にかかればすぐにわかることだ。


 伯爵夫人の嘘を見抜いた侯爵夫人は、しかしそれを指摘せず、代わりにイザベラのドレスの袖口を見ると、サッと立ち上がりイザベラの傍にやってきた。


「ドレスを仕立てる必要はありませんわ。イザベラさんは我が家で引き取らせて頂きます。急で申し訳ないけどイザベラさんは私と一緒に侯爵邸に向かえるかしら?」

「は、はい。問題ありませんが……」


 突然のことに混乱するイザベラだが、そこへ「何を言うんだ」とばかりに憤慨した伯爵夫人が鋭い声を上げた。


「突然何を仰るのですか? 伯爵夫人。確かに彼女はご子息と婚約する予定とはいえ、今は我が家の娘。それに教育中の身です。とてもではありませんが外にお出し出来る状態では」

「問題ありません。教育でしたら我が家で与えましょう。……そうですねこれでしたらいかがですか? ミリア?」


 先程までの穏やかな顔が一変して険しくなり、見下ろすように伯爵夫人に視線を向ける。と、突然雰囲気の変わった侯爵夫人に恐怖を覚えた様子のイザベラを安心させるように彼女に軽く微笑むと、再度伯爵夫人と対峙し、そして後ろに控えていた侍女を呼ぶ。


 心得たように近づいた侍女から、冊子らしきものを受け取りその一枚に何やら書きつけた侯爵夫人はそれをちぎって伯爵夫人に見せた。


「婚約の暁にお渡しすることになっていた援助金。今これだけ前金としてお渡ししましょう。その代わり彼女を私達が引き取ることを了承するーーいかがですか?」


 侍女が手渡したのは小切手帳らしい。その小切手には結構な額が書かれていたらしく、伯爵夫人は軽く目を見張り、そして少し表情を緩めた。


「なるほど……まあ、そういうことでしたらお願いいたしましょうか。侯爵夫人。イザベラ、すぐに荷物をまとめていらっしゃい。侯爵家の皆様にご迷惑をおかけするのではありませんよ。あなたはまだ我が家の令嬢なのですからね」


 そうイザベラに言いつけた伯爵夫人はすぐに侯爵夫人の方へ視線を戻す。

 伯爵夫人に言われた通り、イザベラは急いで部屋に戻り、少ない私物をトランクに詰める。それからイザベラは彼女を待っていた侯爵夫人と共に、伯爵邸を後にしたのだった。






 ほとんど何が起こったのかわからない程急に伯爵邸を出ていくことになったイザベラだが、こうして侯爵家のフカフカの馬車の座席に座り、遠ざかっていく伯爵邸をながめていると、あのつらい日々が終わるのだ、という実感が生まれ安堵する。と、同時に先程までの光景が思い出され、イザベラは慌てたように侯爵夫人に向かいあった。


「あ、あの……侯爵夫人、申し訳ございませんでした」


 突然の謝罪に少し驚いた顔をしつつも、侯爵夫人はすぐに元の穏やかな表情に戻った。


「あら、イザベラさん。どうしたの? 謝られるようなことでもあったかしら」

「それは……私をあそこから連れ出してくださるために、結構なお金を使ってくださったのですよね?」


 具体的な金額までは分からないが、そもそも小切手でやり取りするような金額、というのは相当な金額だろう。そんなお金を自分のために使わせたことが申し訳ない、と思ったイザベラだが、そんな彼女に侯爵夫人はクスリ、と笑った。


「あら、そんなこと。気にしなくて良いわよ。もともと払う予定のお金を前払いしただけだわ。でもあの程度の額に飛びつくなんて、本当に伯爵家は困っているのね」


 そう言いつつ、侯爵夫人はイザベラの隣に席を移した。


「むしろあのような場面をお見せして申し訳なかったわ。自分がお金でやり取りされる場面なんて見たくなかったでしょう? でも彼女にはあれが一番効果的だと思ったから……」

「そんな! 申し訳なくは思いますが……嫌だ、なんて」


 気にするな、とはいえ少なくないお金を自分をあの場所から連れ出すために使ってくれたのだ、侯爵夫人に嫌だ、と思うことなどあるはずない、とイザベラは訴える。


「それならちょっと安心だけど……ところでイザベラさん? 少しだけ手を見せてもらっても良いかしら」

「手、ですか? それは……構いませんが」


 そう言いつつ、少し手を引っ込めてしまうのは、ドレスの袖で隠れるくらいの場所にいくつものムチの跡があるからだ。毎日のように打たれたことで幾重にもついたあざは見て気持ちの良いものではない。


 そんな彼女の困惑を感じてか、見せてもらっても良いか? と聞きつつも侯爵夫人は穏やかな笑顔のまま手は伸ばしてこない。そんな彼女の表情にこれまでも感じていた優しさを感じ取ったイザベラはおずおずと腕を侯爵夫人の方へ伸ばした。


「ありがとう、イザベラさん。少し触るわよ」


 そう言うと、ドレスの袖を軽くめくり、手首を裏返す。するとそこには今日ムチで打たれ、まだ赤く晴れた跡や、数日前に打たれ青くなった痣がいくつも走っている。それをみて侯爵夫人は少し顔を曇らせた。


「申し訳ございません、侯爵夫人。令嬢として恥ずかしいですよね」

「あなたが謝ることはないわイザベラさん。伯爵邸でつけられたのでしょう?」

「そ、それは……」

「伯爵夫妻のことを気にすることはないわ。もうあなたをあの家にいれることは決してないから安心して。それにこの傷なんて、明らかに今日ついたものでしょう?」

「は、はい。その……私が不出来なので」

「イザベラさんはこれまで貴族令嬢としての教育は受けてこなかったのでしょう? できなくて当然だわ。それに不出来だとして、暴力を振るう理由にはならないわ。辛かったわね」


 そう言うと、ドレスを袖をそっと戻し、そして手を握る。その暖かく柔らかい感触にイザベラは少し涙を浮かべるのだった。

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