私だけの呼び名
マイルウェル家にはそれはいくつもの寝室がある。その中で一番大きくて立派な部屋ーー主寝室を使うのは現当主夫妻。だが、次期当主夫妻であるエドワードとイザベラにはそれと同じくらい大きな寝室が用意されていた。
クリーム色の壁紙が目に優しい部屋。東向きの窓からは、朝になれば柔らかい陽射しが差し込み、天然の目覚ましとなる。
今朝もふんわりとした陽の光につつまれて、イザベラは少し意識を覚醒させた。とはいえまだまだボーッとした頭のまま、体を無意識に隣のぬくもりの方へ寄せる。
ーーが、そこには誰もいず、彼女の体はそのままゴロンと一回転した。孤児院時代のベッドなら確実に落っこちていただろうが、そこは彼女が5人は眠れる広さの侯爵家のベッド。彼女の体はふかふかのマットに受け止められ、イザベラはまたまどろみの中へ沈んだ。
「……そうだわ。エドワードはお出かけなんだった……」
モヤがかかったような頭でイザベラはそう小さく呟く。そう、いつもこの寝台を共有しているエドワードはいつかと同じように、王太子の随行で出張中。
彼の留守を守るべく、前夜、侯爵夫妻と3人での社交に精を出したイザベラはまだまだ眠り足りない、というように軽くあくびをした。
そもそも貴族、というものは夜型の人種だ。夜会、食事会、観劇など社交は圧倒的に夜行われることが多い。
昨日もさる伯爵家に招かれ、夜更けに帰宅した彼女がベッドに潜ったのは日付も変わる頃。その上、その夜会での話が頭にこびりついていた彼女は、なかなか眠ることが出来なかったのだった。
幸い、彼女の義両親たる侯爵夫妻も同じ夜会に出席していたため、朝食は遅くなると思われる。まだアンナが起こしにこない、ということはそういうことだろう、と理解してイザベラはまたまどろむ。頭に浮かぶのは愛しい夫のことと……それから夜会で聞いた、ある話にについてだった。
「……イザベラ? イザベラ? 起きてる?」
とイザベラがほんの少しだけ頭を回転させつつ二度寝を満喫していると、不意に低い声が彼女に注ぐ。
聞き慣れた、しかし今日聞くと思ってなかった声にイザベラの意識は急激に覚醒した。
「ん……? エド?」
そう発しつつ、パチリと目を開け、ゆっくりと半身を起こしたイザベラ。彼女のの瞳が捉えたのは想像していた通りの紫の瞳ーーそして、その瞳は大きく見開かていた。
「あら……? どうされたのですか? それに随分早いお戻りですね」
彼女の前にいたのはもちろん愛しい夫、エドワード。帰宅したばかりらしく、コートとクラヴァットこそ外しているが、その服装は外出用のもの。そんなエドワードは「カチン」という効果音がしそうな程、固まっていた。
「いや、仕事が早く終わってね。それより……そのーーエド、っていうのは?」
「え……まぁ! やだ、私ったらつい。もしかしてお気に触りました?」
イザベラは先ほど発した自分の言葉を思い出し赤面する。エドワードたっての願いで様付けをやめた時も相当恥ずかしがったが、今朝の恥ずかしさはその比ではない。
「いや。むしろグッときた。ーーでもまたどうして急に?」
「えっと……それはですね……昨日の夜会で……」
昨日の夜会にはイザベラ同様に結婚したばかりの若婦人がたくさん集まっていた。比較的歳の近い彼女たちはイザベラにとっても話しやすい。
そんな中、彼女たちの間で「夫の呼び方」が話題になったのだ。
そもそものきっかけは彼女の親友たるライラーーイザベラを養女としたレーゼリア公爵の孫だーーが婚約者であるルーベルのことを「ルー」と呼びかけたことに始まる。
何でも幼馴染同士で婚約したライラは、婚約した後、ルーベルの求めで、幼い頃の呼び方を復活させたらしい。
ちょっぴり頬を染めて「ルー」とよぶライラの姿は婦人、といってもまだ少女と言える女性陣をときめかせ、あっという間に話題の中心が「夫をいかに呼びたいか?」へと移ったのだった。
同じ名前でも愛称というのはいろいろある。イザベラの夫エドワードなら、エド、エディ、テッドなど。
「私ならああ呼びたい」、「私は今度こう呼んでみる」
そんな話題で盛り上がったイザベラは帰宅した後も自分ならエドワードをどんな風に呼ぶか? もし愛称で呼んだら彼はどんな顔をしてくれるか? とぐるぐる考え、つい夜ふかししてしまったのだった。
「……と、いうわけでして……もしよければこれからも『エド』とお呼びしても?」
イザベラの知る限り、エドワードのことを愛称で呼ぶ人はいない。嫌ならばもちろんやめますが……とおずおずとイザベラはエドワードを見やる。その姿にエドワードはまたしてもピキン、と固まった。
「い、いや。構わない。むしろ嬉しいよ。代わりに……僕もイザベラのことを愛称で呼んでも良い?」
「ええ! もちろん。私の名前だと、どうなるんでしょう?」
「そうだねーーベラ、ベル……ベルが良い?」
「はい! ベルーーとっても素敵な響きですわ」
そう言って頬を軽く染めるイザベラ。そんな彼女が愛しくて仕方ない、というように目を細めつつ、エドワードは決まったばかりの愛称を口にした。
「ねえ、ベル?」
「はい、エド」
「ベル」
「エド」
互いに意味もなく呼び合い、そして顔を見合わせ笑い合う。2人の目が合うと、エドワードはこらえきれない、とでもいうようにそっと親指で唇をなぞる。
イザベラが「……エド」とだけ発して頷く。それを合図にエドワードはこれまできっちり止めていたシャツのボタンを上2つ程外し、そうしてイザベラを抱き寄せつつ、唇を重ねる。
最初は穏やかに、そしてだんだんと深くなっていく口づけに酔いしれるイザベラ。彼女はエドワードの背中へ腕を回す。
唇に、まぶたに、首に……次から次へ降り注ぐ口づけを受け止めていたイザベラだが、その体がゆっくりと押し倒され、エドワードの右手が若干不埒な動きを見せたところで、はた、と我に返った。
「エド! ーーまだ朝ですわよ……それにもうすぐ朝食……」
「……。それもそうだね。流石にここで遅れると何を言われるか……」
もちろん侯爵夫妻のもとにもエドワードが帰宅した知らせは入っているだろう。これでイザベラとエドワードが揃って朝食の席に現れなければ、何をしていたのかなんて、バレバレだろう。
少し名残おしそうにしつつ、体を起こすエドワード。そんな彼を追いかけるようにしてイザベラも起き上がると、軽く彼のシャツの裾を引いた。
「どうしたの? ベル」
「え…と、エド? 今晩はどこにも行かないのですわよね。でしたらーー期待してますわ」
上目遣いにそう言い、やや恥ずかしげに笑うイザベラ。その瞳に射抜かれたエドワードは、顔を真赤に染め上げつつ、
「ベル……あまりそういうことを言うと、夜に後悔するよ」
そう言って、ベッドから降りると、
「じゃあ、着替えてくる。また朝食の席でね。ベル、愛してる」
今度はほんの軽い口づけをイザベラに落とし、部屋を出ていく。
その後、入れ替わるようにしてアンナが部屋に入ってきたことで、彼女がドアの前に待機していたことを知ったイザベラは声にならない悲鳴を上げたのだった。




