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甘い口づけ

「お疲れさま、イザベラ」

「エドワードもお疲れ様」


 夜も更けてきたマイルウェル邸の玄関。馬車から降りた2人はそう言ってお互いを労りあった。


 今夜の2人はさる伯爵家での夜会に出席してきた。もちろん婚約者、ということで一緒にいる時間も長かったが、貴族である2人にとって夜会は仕事場のようなもの。当然私的な会話をする余裕もなかなかない。


 そんなこともあり、エドワードは自室の方へ向かおうとするイザベラを、ふと思い立ったように追いかけた。


「ところでイザベラ? もしまだ眠くなかったらもう少しだけ話さないかい? それにお腹も減っただろう? 」


 一応食事も供されるとはいえ、それを食べる余裕など夜会に不慣れなイザベラにない。それに夜会の興奮も冷めていなかったイザベラは、一も二もなくエドワードの提案に頷いた。


「もちろん構わないわ。ちょうど軽く何か食べたい気分だったの。アンナ? 手間になっちゃうけど良いかしら? 」

「おまかせくださいませ。もともと軽くつまめるものは用意がございますから、客間に用意させましょう。お嬢様はドレスだけ着替えてしまいましょうか?」

「ええ、そうするわ。ありがとう、アンナ。じゃあエドワード、あとで客間でね」

「ああ、待っている。急がなくて良いから」


 その言葉に、イザベラはにっこり頷く。それから侍女のアンナとともに一旦自室へと向かって階段を上がっていった。






「お待たせ、エドワード」

「いや、全く待ってないよ。ほら、こっちにおいで」


 お湯を使って汗を流し、室内用の柔らかいドレスに着替えたイザベラが客間へ向かうと、エドワードはすでにソファに腰掛けてグラスを傾けていた。


 彼もまた湯を使ったらしく、先程までかっちりと固められていた金髪はしっとりと濡れている。シャツとベストだけのラフな姿は、普段の隙のない姿とは随分様子が違い、イザベラは少しドキリとした。


「まあ! 美味しそう。」

「疲れたら甘いものが欲しくなるだろうと思って、焼き菓子を用意してもらってたんだ。さ、これなんかどう?」


 眼の前のかごに積まれた焼き菓子にイザベラが目を輝かせていると、その中の一つをエドワードが摘み、イザベラの口元へ持ってくる。


 あまりにも自然な仕草に、イザベラは思わず口を開けた。


「美味しい……。疲れが消えていきそうだわ」


 エドワードが選んだのは、一口サイズに焼いたチョコレートのケーキだ。しっとりと甘いそれに、イザベラの頬はゆるゆると緩んだ。


  「ーーじゃあ、次がはこれはどう?」


 お菓子の甘さに頬を染めるイザベラを、可愛くて仕方ない、といった目線で見つめるエドワード。彼が次にとったのは、コロンと可愛いサイズのマドレーヌだ。


 タイミングを図って、またしても口元にお菓子を運ぶエドワード。イザベラは先程と同じようにパクリ、とお菓子を口にし、それからふと我に返って顔を真赤にした。


「ってーーエドワード! 私子どもじゃないんですから、自分で食べれます!」


 先程から親鳥が雛にするかのように、エドワードに手ずからお菓子を食べさせてもらっていたことに気づき、イザベラが抗議する。しかし当のエドワードは怒るイザベラも可愛いらしかった。


「もちろん知ってるよ。でも僕の手からお菓子を食べるイザベラはとびきり可愛いからね 」

「もう! エドワード様」


 プイッと顔を背けるイザベラだが、エドワードはそんな顔も見たい、というように頬に手を添えて優しく、しかし有無を言わさず彼女の顔を自分の方へ向ける。


 そうすると、エドワードの美しい顔がイザベラの真正面に来て、2人の視線が交差した。


「良いかい? イザベラ?」

「聞かないでよ、エドワード」


 キラキラとした視線とともに口にするのは口づけの催促。イザベラは相変わらずプンプンしながらも断りはしなかった。


 彼女の許可を得て、エドワードの手がイザベラの顎に優しく触れ、それから唇が重なる。


 婚約披露パーティの日、夜闇に紛れて交わしたキスは随分と初々しいものだったが、それから回数を重ねるごとに2人の口づけは長くなるばかり。


 今日もエドワードの唇は何度も角度を変えつつ、イザベラを屠った。


「……甘い」

「ん? イザベラの唇はもっと甘いよ」


 ようやく唇が離れた後にイザベラがこぼした言葉をエドワードが拾う。しかしイザベラはそういうことではない、とばかりに、長い口づけでボーッとした頭を何度か振った。


「違うのーーエドワードが飲んでるワイン。随分甘いんだなって 」


 口づけの最中、彼の唇から伝わってきたのは、芳醇なワインの香り。しかしそれは彼女が知るそれよりも随分とねっとりとした甘みのある香りだった。


 まるでブランデーをたっぷりと使った焼き菓子のような……その酒精と彼の色香で、イザベラは強かに酔っ払ったような心地だった。


「ああ……これね。これはちょっと変わったワインでね。甘いワインなんだーー飲んでみる?」


 イザベラが特に酒に弱いわけでもないことを知っているエドワードが、なんの気なしに聞く。


 イザベラがコクンと頷くと、エドワードは用意されていたワイングラスに、とろりとした赤い液体を少しだけ注いだ。


「これはわざと度数を強くしたワインでね……ゆっくりと飲むんだよ」


 そう言いつつ、エドワードはイザベラの手にグラスを握らせる。先程までのキスの余韻で未だ夢見心地なイザベラは、されるがまま、言われるがままにゆっくりとグラスを傾けた。


「美味しい……それに甘いですわ」

「だろう? なかなか手に入らないものなんだ。甘い菓子ともよく合う」


 そう言いながら今度はエドワードがかごから菓子をイザベラの口元に持ってくる。今度は何も言わず、イザベラは巣箱の雛鳥のように、口を開くのだった。






 ……失敗した。エドワードは夜更けの客間でひとり反省していた。彼の肩にはイザベラの頭がのり、すやすやと寝息を立てている。


 さる伯爵家での夜会に赴いた後、少しだけ婚約者とお茶を、とここへ来たのが十分少々前。


 お茶を、という言いつつエドワードはワインを傾けていた。南の群島で作られる度数が高く甘いワインだ。


 寄宿学校を卒業して以降、常に忙しい日々を過ごしていたエドワードだが、イザベラとの婚約発表からの1月の忙しさは、その中でも指折りだった。


 それでなくても有望な結婚相手扱いされていたエドワードの婚約は社交界の大事で、2人はいくつもの家にお呼ばれすることになる。その上、彼女は結局レーゼリア公爵の養女となることになった。ただ公爵が後見人になるより、その方がイザベラのためになるだろう、という両家の思惑によるものだ。


 そのために必要な手続きを中心になって進めたのはエドワード。それに加えてエドワードは、グレンシャー伯爵夫妻に関する仕事もあった。


 王太子の前で銃を抜いた罪で投獄されたグレンシャー伯爵。一方夫人は、というとそんな夫を放って外国への逃亡を企てる。しかし、彼女の逃亡劇は半ば仕組まれたものであり、彼女は詐欺の主犯として隣国フォートテイルで拘束され、収監された。彼らの娘、リリーは罪にこそ問われなかったものの、王国の北にある修道院に幽閉されることになる。これらの沙汰の調整に動いたのが王太子であり、彼の側近であるエドワードも当然、それを補佐することになった。


 そんな訳で普段の夜会よりもずっと疲れを感じたエドワード。そんな彼の前に愛らしい笑顔を見せたのは最愛の婚約者イザベラだ。


 湯上がりで上気した白い肌に我慢が効かず、今までで一番深い口付けを落としたエドワード。そんな彼の口づけにイザベラが零したのは「甘い」という一言だった。


 それは唇のことも含んでいるのだろうが、それ以上に彼の飲んでいたワインの香りのことだったらしい。気になるのなら、と味見程度にグラスに注いで、ワインをイザベラに飲ませたのエドワード。しかし、ほんのちょっぴりのワインをご機嫌に飲んだところで、イザベラはあくびをして、それからエドワードの肩を枕にして寝入ってしまった。


 寝息は苦しそうでないので一安心だが、あまりにも無防備な姿はエドワードの理性を急速に削る。


 晩餐や夜会での姿を見るに、決して酒に弱い訳ではないイザベラ。と、なるとやはり疲れていたのだろうな……と、急にやってきた貴族社会で奮闘するイザベラに同情した。


 華やかな夜会の場だが、出席者にとってそこは仕事場であり、戦場だ。


 エドワードも数え切れない程の人と話しつつ、社交界の情報を集め、そして必要なら情報を流す。もちろんこの世界に不慣れなイザベラのフォローも欠かせない。生まれた時から侯爵家の息子である自分ですら精神的に疲弊するのだから、イザベラの疲れは相当だろう。


 それでも彼女が音を上げずにここにいてくれるのは自分と結婚するため。そのことにエドワードは申し訳無さを感じつつも、嬉しさも隠せない。


 せめて、彼女が社交界で苦労しないよう、イザベラを導き、どんな悪意からも守らなければ……


 エドワードはそんなことを考えつつ、彼女の髪をゆっくりと梳く。


 と、そこで急にノックがされ、少しだけ開けていたドアが開かれた。


「ーーっ! 母上!?」

「ええ、きちんとノックもしたでしょう? それとも入ってなにか問題でも?」

「いいえ、誓って何もーードアも軽く開けておりました」


 正確には何もしていない訳でもないが、下手なことをしていたなら殺す、とでも言いたげな母の強い目線に、エドワードはピシリと答えた。


「そう……まあよろしい。にしてもぐっすり眠ってるわね。よほど疲れたのかしら……」

「ええ……今日は外国からのお客様も多かったですから。問題なく振る舞ってくれましたが、やはり疲弊はしたでしょう」

「そうね……まあ、明日は予定もないしゆっくりさせましょう。ーーそれはそうと、いつまでそうしている気? ソファで寝入ってしまったら体を痛めてしまうわよ」


 気持ちよさそうに眠っているイザベラだが、確かにずっとこのまま、というわけにもいかないだろう。かといって起こしてしまうのも忍びない。エドワードは母の前だからか、少し情けない顔をした。


「ーーええ。実を言うと困っておりました。今起こすのは可哀想ですし……」

「じゃあ、エドワードが抱き上げていけば良いじゃない。出来るでしょ?」

「は、母上!?」


 突然の提案にエドワードは目を白黒させる。一方母は何を驚いているのか、とばかりに息を一つ吐いた。


「なにか問題でも? 彼女を起こさず移動するにはそれが一番だわ。今アンナを呼ぶからね」


 決定事項とばかりに呼び鈴を鳴らす母。一方エドワードは覚悟を決めたように、そぉっと立ち上がると、彼女の背中と膝のしたに手を差し入れ、ゆっくりと彼女を持ち上げた。


「イザベラ? 部屋まで送っていくからね」


 そう声をかけてから、いつの間にか客間へ来ていたアンナと共にイザベラの部屋へ向かう。


 その間もイザベラは起きる様子なく、エドワードの腕に身を任せており、エドワードの鼓動は上がりっぱなしだった。


「お嬢様はベッドに寝かせてくださいまし。後はこちらで……」

「ああ……分かった。ありがとう」


 アンナの言葉に答えて、エドワードはゆっくりとイザベラをベッドの上に下ろす。それはまるでもうすぐ来るであろう初夜を思い起こさせて、エドワードの呼吸を早くさせた。


「じゃあイザベラーー今日はお疲れ様。良い夢を」


 それでも何とか自分を抑えて微笑み、軽く触れるだけの口付けをイサベラの額に落とす。


 それからエドワードはゆっくりと彼女の寝室を後にした。


「イザベラは眠ったまま?」

「はい、母上。気持ちよさそうに」


 エドワードに聞くのは一緒についてきていた母親。彼女はエドワードの言葉に少し頬を緩めた。


「なら良かったわ。エドワードも早く寝なさい、あなたも疲れているでしょうから……」

「はい、母上。良い夢を」

「ありがとう。良い夢を」


 そう言葉を交わしてから親子はそれぞれの部屋へ向かう。


 これはイザベラとエドワードが結婚する少しだけ前のお話。

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