舞踏会
翌日は朝から屋敷中が目の回るような忙しさだった。普段、常に落ち着き払っているマイルウェル家の使用人達が、ここまでバタバタしているのを見たのは初めてだ、とイザベラが思うほど。
そして当のイザベラも朝早くから侍女たちによって磨き上げられ、ドレスの着付け、そして招待客に関する最終チェックなど慌ただしい。
それでも何とか夕日がオレンジ色になる前には、万事が整うのがマイルウェル家。そうして日が暮れ始めると共に、続々とマイルウェル家のタウンハウスには馬車が集まってきた。
「どうしよう……今更だけどこんなにお客様がいるなんてーー」
「緊張しているのか?」
「エドワード様!」
屋敷の一室の窓辺からエントランスを見ていたイザベラは、不意に後ろからエドワードに声をかけられて飛び上がった。
「済まない、驚かせるつもりはなかったんだ」
「いえ私こそーー少しボーッとしてましたわ。これから本番ですものね、気を張らないと!」
「最初から飛ばしすぎたら途中で倒れてしまう。落ち着いて、楽な気持ちでな」
ぐっと拳を握るイザベラの髪をエドワードは落ち着かせるような仕草でそっと撫でる。すでに髪を結っているため本当にそっとだが、その丁寧さがかえって気恥ずかしく、イザベラはくすぐったそうに笑った。
「ところでイザベラーーそのドレス、本当によく似合っている。今日のあなたは花と戯れる妖精のように可憐で美しい。本当は誰にも見せたくないくらいだ」
「まあ、エドワード様ったら……でもみんなに見せないと婚約披露にならないでしょう?」
「それもそうだな。この美しいあなたを独り占めしたくもあり、見せびらかして自慢したくもある」
「あら、厄介なことですね」
「本当だ」
本当に困っているかのように眉を曲げるエドワードに、イザベラは思わず笑い出す。つられたようにエドワードも笑い出した。
「ハハハ……。さて、じゃあそろそろ時間のようだね。会場に向かおうか。心の準備は良い?」
「はい。エドワード様。あなたと一緒なら」
「もちろん。この手を離すつもりはない」
エドワードはそう言うと、力強くしかし恭しくイザベラの腕をとり、部屋の外へとエスコートするのだった。
イザベラがエドワードと共に大広間へと入ると、それまで思い思いに歓談していた人たちの視線が一斉に2人の方へ向く。
一瞬ビクリ、としつつもイザベラはゆっくりとドレスの裾をつまみ腰をゆっくりと落とすお辞儀をする。エドワードも腰を折る礼をとり、それから2人はすでに上座にいるマイルウェル公爵夫妻のもとへゆっくりと歩いていった。
すでに社交界に何度か出入りしているイザベラだが、彼女のことを初めて見る人も大勢いる。イザベラは今まで習ったことを思い出しつつ、背筋を伸ばし、柔らかく微笑みながら、ゆっくりと歩いた。
彼女が歩くたびに人々の視線もまた動く。何かと話題のグレンシャー家の隠し子、それも庶民育ちとあれば当然良くも悪くも話題になる。たくさんの視線の中には好機を含むものもいくつもあったが、それでもイザベラはエドワードの隣に立ちたい。その一心で前を向いた。
ようやく公爵夫妻のもとへたどり着くと、2人が温かい笑みでイザベラを迎え入れてくれる。侯爵夫人の目配せに従い、2人の間にイゼベラとエドワードが収まると、侯爵が一歩前へと進み出た。
「紳士淑女の皆様方! 今日はとても素晴らしい知らせがあります。我が息子エドワードは素敵なお嬢さんと婚約することになりました。紹介しましょう! イザベラ・グレンシャー伯爵令嬢です!」
侯爵がよく通る声で宣言すると、ワッと会場が湧き拍手があちこちで巻き起こる。それを受けてイザベラがお辞儀をすると、さらに拍手が大きくなる。
会場のざわめきにイザベラが耳を済ましてみると、
「庶民育ちだ、というがとてもそうは思えないな」
「こんな美しい令嬢を伯爵家が隠していたとは……」
といった声が聞こえてくる。
とりあえず、第一印象は良いものに出来たらしい。そうイザベラがホッとした瞬間、会場にまるで雷がつんざくような怒鳴り声が響いた。
「異議あり!」
「異議あり? とはどういうことでしょう、グレンシャー伯爵夫人?」
怒鳴り声のもとへイザベラが目を向けると、そこにはそれは厳しい顔をしたグレンシャー伯爵夫人が、こちらを射殺さんばかりの目で見ていた。彼女は開いていた扇をパチリ! と閉じるとこちらへやや早足で向かってくる。そしてマイルウェル侯爵夫妻の前で足を止めた。
「マイルウェル侯爵。突然のことで大変申し訳ございませんが、この婚約は撤回いただきたく思います。イザベラについて重要なことが分かったのです」
「婚約の撤回? 今更なにを仰っているのですか、グレンシャー伯爵夫人。それにイザベラに何か?」
顔を顰め、グレンシャー伯爵夫人を見据える侯爵。その視線はなかなかの迫力だが、伯爵夫人は全く堪える様子がなかった。
「確かに急ではありますが仕方のないことなのです。とんでもない事実が発覚しました。彼女が夫の隠し子だった、というのは間違いだったのです。ご覧ください、我が家が雇った弁護士の報告書です」
「……見せてもらいましょう」
グレンシャー伯爵夫人から書類を受け取ると、それを一読し、眉を潜める侯爵。それから侯爵は「どうする?」というような表情で書類をエドワードへと手渡した。
「なるほど。確かにグルーム氏は我が国でも名のしれた弁護士です。そしてこの書類には『イザベラ嬢の母とグレンシャー伯爵が関係を持っていたことを示す証拠は何一つ存在せず、彼女がグレンシャー伯爵家と血縁関係にある、というのは誤りである』とありますね」
その言葉に、グレンシャー伯爵夫人の暴挙に言葉を失っていた人々がざわめき出す。しかしイザベラとエドワードはふたりとも、冷静に軽い微笑みを浮かべていた。
悠然とした表情のまま頷き合う2人。それから2人は足を揃えて一歩伯爵夫人の方へ踏み出した。
「ーーで? それが何か問題でも?」
「はい? ……大問題でしょう? 彼女の出自に疑惑が生じているのですよ」
苛立たしげにパチリ、パチリと扇を閉じては開く伯爵夫人。一方エドワードは急にイザベラの手をとると、手袋に軽く口づけた。
「私が結婚したいのはグレンシャー伯爵令嬢ではないーーイザベラです! 彼女がどこの誰か、ということは関係ありません!」
それから会場に響く声で、そう宣言するエドワード。
その声に会場には一気にざわめきが広がった。高位貴族だというのに、身分に関わらずイザベラを妻とすると言い切ったエドワードに高齢の貴族達は眉をしかめる。一方妙齢の婦人方や若い令嬢達は彼の声に小さく黄色い声をあげた。
「イザベラがどこの誰であろうと、彼女はれっきとした『令嬢』です。疑うよしもありません。それでも彼女との婚約が認められないなら私は喜んでこの地位を捨てましょう! ーーイザベラはそれでも良いですか?」
「私はもともと下町暮らしですもの。エドワード様とならどこへでも」
エドワードの腕をギュッとつかんでそう答えるイザベラ。その表情はエドワードへの愛に満ちて愛らしく、会場中の令息と令嬢の心を掴んだ。
「エドワード、それは困るな」
一方見つめ合う恋人たちに割って入るのはマイルウェル侯爵。夫人であるメアリーもその言葉に大きく頷いた。
「私達とて、可愛らしい義娘を今更手放す気はない。彼女の身分が足りない、というなら彼女を養女としてくれる家を探すから、駆け落ちなんて物騒なことは言うな」
「分かりました……父上」
「あなた方! さっきからごちゃごちゃと! 分かっていますの?! イザベラは私達を騙したのですよ」
恋人たちの世界を壊したようで、むしろ助けに入ったマイルウェル侯爵に、グレンシャー伯爵夫人が怒りの声を上げる。が、その言葉にエドワードが先程までとは打って変わった冷たい声を出した。
「イザベラが騙した? なにを言うのです? 教会で慎ましくも幸せに暮らしていたイザベラを、無理やり養女としたのはあなた方でしょう? あなた方がしていた虐待めいた教育についても証言は取れていますーーまあ、その証言を使うまでもないかもしれませんが……ですよね? 殿下」
「その通りだ! エドワード、遅くなったな」
よく通る声の出どころは大広間の入口。招待客の視線は一斉にそこへ向き、そして現れた貴人の姿に慌てて礼をとった。
「遅くなってすまない、マイルウェル侯爵。しかし私がいぬ間にこんなことになっているとはな……」
「またまた殿下……全て承知の上でしょう?」
とぼけたようにそんなことを言う王太子に、マイルウェル侯爵は呆れたような視線を向けた。