遠乗り
「あのーーこれは乗馬服ですよね?」
「あぁ、とても良く似合っている」
「それはありがとうございます。ただ……私、馬に乗ったことなんて一度もーー」
侯爵夫人と街へ出た翌日、彼女の言う通りエドワードは何やら予定を立てていたらしい。
前日に彼から指示を受けていた、というアンナに言われるがまま、やや早めに朝食をとったイザベラ。彼女はその後着せてもらった服を見て目をパチクリとさせつつ、やや不安げな顔のままエドワードと対面した。
「もちろん、イザベラが馬に乗れるとは思ってない。だから今日は2人乗りで行こうかと思って。見せたい場所があるんだ」
「見せたい場所? ……ですか?」
「あぁ、マイルウェル領でもお気に入りの場所だ。馬だったら1時間ほどだから、初めての遠乗りにはちょうど良いだろう。なんなら私が乗馬の練習を始めた頃に通っていた場所だ」
「つまり……エドワード様の思い出の場所ですね」
「そういうことになるな。さ、馬の準備ができたみたいだし行こうか」
エドワード手をとられ、玄関へ向かうとそこには立派な栗毛の馬が壮観な顔を見せていた。
「僕の愛馬のロビンだ。マイルウェルの方が空気が良いからなかなか会えないのが残念だけど……穏やかで優しい子だよ」
「まあ、ロビンさん? よろしくお願いします」
ロビンの首を軽くなでながら彼を紹介するエドワード。イザベラが初めて間近でみる馬の大きさにやや顔をひきつらせつつ、ペコリと頭を下げた。
「よし! じゃあ早速出かけようとするか。おいで」
そういってエドワードはイザベラの方へ手を伸ばす。その声に導かれるまま一歩エドワードの方へ彼女が近づくと、彼の手によってイザベラは抱き上げられ、ひょい、とロビンの上に載せられた。
「暴れるような子じゃないけど、しっかりと手綱を掴んでいて。今私も行くから」
そう言うと、今度はエドワードが鞍に足をかけ、そのままひょい、とロビンの背中に跨る。と当然のように2人の体が密着し、イザベラの鼓動は急に早まり始めた。
「え、エドワード様?」
「あ、あぁ……けど2人で馬に乗るにはこうするしかないから」
イザベラの困惑に気付いたのか、一瞬気まずげな顔をしたエドワードだが、すぐに思い切ったように彼女の腰に手を回し、ぐっと自分の方へ引き寄せる。
予想外に力強い腕によって、イザベラの身体は馬の上でもしっかりと安定したが、反面その距離はさらに縮まることになり、彼女は顔を真赤にした。
「よし! じゃあ行こうか。母上、それでは行ってまいります。昼過ぎには戻るかと」
「行ってらっしゃい、エドワード、イザベラさんも。気を付けてね」
「はい、行ってまいります」
柔らかな声音のする方へイザベラが顔を向けると、そこにはいつの間にか玄関へでてきたらしい侯爵夫人が微笑んでいる。
2人で遠乗りをする以上、この体勢は仕方ない、ということは理解しつつあったイザベラだが、それでもそれを侯爵夫人に見られるは気恥ずかしい。顔の赤みが全く惹かないのを感じつつ、それでも
「行ってまいります、侯爵夫人」
とイザベラは何とか微笑みながら侯爵夫人に挨拶をする。それを合図にエドワードが手綱を引き、ロビンはゆっくりと歩き出したのだった。
「い、以外と馬ってゆっくりですのね」
「あぁ、もちろんもっと早く走ることも出来るが……怖いだろ? それに慣れていないと危ないし」
タウンハウスを出て街とは反対の方向へと歩き出したロビン。その速度は人が歩くよりかはやや速いだろうか? という程度だ。
もっともエドワードの言う通り、これ以上速度をあげられたら怖くて目も開けていられない。のんびりとした調子で歩くロビンの背中でイザベラはようやく落ち着きを取り戻し、周りの景色にも目を向けられるようになってきた。
「今日は丘の方へ向かうのですか?」
「そうだよ、イザベラ嬢。街へは昨日向かっただろう? 楽しかったかい?」
「はい、いろいろ見て回れましたし。とっても素敵な街ですね」
「それは良かった」
それからもポツリ、ポツリと話しつつ、2人を載せたロビンはゆっくりと田園風景の中をいく。ここまでのんびりとした時間をエドワードと過ごしたことはこれまでない。最初は早鐘のようだったイザベラの鼓動も落ち着きを取り戻し、むしろエドワードの身体の温かさに安堵感さえ感じ始めていた。
「まあ! あの辺りは一面オレンジ畑なんですね。とっても綺麗ですわ。それに良い香り」
「だろう? マイルウェル領はあちこちにオレンジ畑があるが、中でもこの辺りは景色がきれいなことで知られているんだ」
「何だかーー風景画みたいですわね。そう……えぇっと……」
「別に授業中じゃないのだから、そう頑張って思い出さなくても良いよ。それに田園風景を描いた作品の人気が高まって、たくさんの作家がこの辺にも来ているからね」
マイルウェルの風景を描いた作品は、令嬢としての授業でも何度か取り上げられている。その作者の名前を上げようとしたイザベラだが、とっさには名前が出てこない。悔しそうに顔を歪めるイザベラにエドワードは少し笑いつつ、そう言った。
彼が朝言ったとおり、目的地までは1時間程で着いた。少し小高い丘の上で馬を止めたエドワードは、またひょいと身軽に馬から降りると、さらにイザベラの方に手を伸ばし彼女も馬からおろしてくれる。
フワッとした浮遊感に一瞬恐怖を感じつつも、すぐにイザベラは地面に下ろされ、ホッと一心地着く。
エドワードがロビンを撫でつつ、
「ありがとう、ロビン。帰りも頼むぞ」
と彼を労るのに合わせ、イザベラもまた、
「ロビンさん、ありがとうございます。帰りもよろしくお願いいたしますね」
と言って、今度は彼女もロビンの首元を軽く撫でる。
2人から優しく撫でてもらい、軽く嘶きを上げたロビンはそれからゆっくりとどこかへ歩き出す。せせらぎの音が聞こえているので、水を飲みにいくのだろう。そんな彼を見送ってから、イザベラは改めて眼下に広がる景色へと目を向けた。
「それにしても素敵な景色ですね、一面緑とオレンジで……とっても気持ちが良いです」
「そうだろう。今回の訪問で是非イザベラ嬢を連れてきたいと思ってたんだ」
エドワードと並んで芝生に座り、マイルウェルの美しい田園風景を眺める。温かな陽の光と風にのってやってくるほのかなオレンジの香りが心地よい。きっと子どもの頃のエドワードもここで令息教育の疲れを束の間癒やしたに違いない。とそこまで考えてところでふ、とイザベラが一瞬顔を歪めた。
「どうした? イザベラ嬢? 虫でもいたか?」
やや慌てた表情をするエドワード。一方イザベラはほんの一瞬の心の揺れを掴まれたことに驚きつつ、「いいえ……」と首をゆっくりと振り、それから遠くに見えるメンシェズの街、そしてその周りに広がる家々へと視線をやった。
「ただ……エドワード様の妻になれば……自ずと私もマイルウェルの領主一家の一員とみなされるんだ、と思いまして、何だか少し怖くなりました」
「怖く? 母上に脅されたか?」
「まさか!? メアリー様はいつもお優しいですよ。こうしてマイルウェルへ来てみて、あらためて貴族になるんだ、と実感しただけです。……にしてもエドワード様は脅されたのですか?」
エドワードの言葉にやや引っかかりを覚えたイザベラは訝しげにした。
「脅かされた……というのは少し違うか。次期侯爵にふさわしい人物になるように、とは口酸っぱく言われたがな……。まあこの立ち位置を狙う人は山程いるから、当然といえば当然なんだが……」
やや遠い目をするエドワード。領地が没落している頃に貴族としての教育を受け始めた彼には、彼しかわからない苦労があるだろう。もちろん肩にのしかかるものも大きかったはず。そう思うのが先かどうか、イザベラはふと、隣に座るエドワードの頭に手を伸ばしていた。
「どうした? なんだかくすぐったいな」
まるで幼子を褒めるようにポンポンと軽く頭を撫でられ、エドワードは言葉通りくすぐったげな表情をする。その言葉にイザベラが今さら自分の行動に気付き、慌てて手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい、つい……エドワード様はもう子供じゃありませんのに」
「いや、別に嫌じゃない。ちょっと驚いたけど……嬉しかったよ」
そう言って、逃げるように引っ込められた手をエドワードが優しく掴んだ。
「むしろ嬉しかった。あの頃は褒めてくれる人なんてなかなかいなかったから……」
その横顔は少し寂しそうだ。
「……でもイザベラ嬢は気負いすぎだよ。私だって昔はなんにも分かっていない坊っちゃんだった。今だって充分未熟だけどね。イザベラ嬢みたいに、私達が人の上に立たないといけない、という自覚があれば、充分立派だよ」
「そんな……買いかぶり過ぎですわ」
一時2人の視線が交差し、それからまた2人は眼の前の広い領地へと目を向ける。そのまま2人は
「そろそろ帰ります?」
とでも言うようにロビンが戻ってくるまで小一時間程、芝生の上で寄り添っているのだった。