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侯爵領へ

「まあ! とても大きな橋ですわ。あの川はこのまま海にまで繋がっているのですわよね」

「ええ、そうよ。イザベラさん。河口の付近はこの国でも指折りの港があるわね」


 整備された街道を軽快に走る侯爵家の馬車の窓から、次々に移りゆく景色を見ていたイザベラは、石造りの大きな橋が見て声をあげる。しかしそこで彼女を見守る3人の瞳がとても微笑ましげなことに気付き、慌てて声量をおとした。


「あ、はしゃぎすぎましたよね。気をつけます」

「いやぁ、別に構わないよ、イザベラ嬢。エドワードだって始めて領地へ向かった時は、窓に齧りついて興奮しっぱなしだったんだから」

「そうよ、懐かしいわねぇ。イザベラさんは王都から出たことがなかったのですものね。興奮するのも分かるわ。ほら、もうすぐ橋を渡るわよ」


 謝るイザベラに気にすることはない、とマイルウェル侯爵夫妻が微笑む。一方突然幼い頃の話を持ち出されたエドワードは


「私の子供の頃の話は良いでしょう? 父上」


 とやや不貞腐れた顔をして、あとの3人は笑い声を噛み殺した。


 4人を載せた馬車は、王都の南を流れるドーゼル川を渡り、石畳で舗装された街道を南東に向けて走る。目的地はマイルウェル侯爵領、つまり侯爵家の領地だ。


 婚約発表の夜会も近づき、準備や令嬢教育の仕上げも進む時期ではあるが、その前に一度領地を見ていかないか? という侯爵夫妻の提案により、侯爵家一家とイザベラは一週間程の旅程で、マイルウェル領のマナーハウスに滞在することになっていた。


 主な目的は領内で新たに稼働するというオレンジ加工工場の視察だが、それ以外には主だった予定もなく、比較的のんびりとした滞在になる。そこにはここ最近、特に夜会の準備と教育で慌ただしくしていたイザベラを休ませたい、という侯爵夫妻の意向も反映されていた。


 ロベルトの代になってから道幅が広げられた街道を馬車は進む。王都を外れて、段々と窓の外の景色が牧歌的になると、同時に遠くには山も見えるようになり、授業で何度かみた風景画が次々に流れるような景色に、イザベラは心躍らせた。






 休憩を挟みつつ進む馬車。王都をでてすでに半日程、馬車の規則的な揺れに昼下がりのぽかぽかとした暖かさもあり、イザベラは段々とうとうとしてくる。そんな夢現の目で窓の外を追っていたイザベラはふ、と窓の外に橙色の実が実った木々を見つけた。


「あれはオレンジの木ですよね! とっても良い香りですわ」


 緑の葉が生い茂る木々に実るのは、瑞々しいオレンジの実。拳程の大きさのそれは生食には向かないが、ハンヴェルトーン王国の朝食には欠かせないマーマレードを初め、ジュースや菓子の原料として知られているマイルウェル領の象徴だ。


 だんだんと馬車が進むに連れて、橙色の実をつけて木の数はますます増えていき、それは畑の様相をなしていく。オレンジの爽やかな香りが馬車の中にまで漂うようになると、同時に段々と木々の間に作業をする人々の姿も見えるようになり、イザベラは今一度背筋を伸ばした。


 街道は領都メンシェズを掠めて丘陵地帯を超えていく。その中腹にどっしりと構えるのがマイルウェル侯爵家の領館だ。


 領館の玄関に馬車が止まると、使用人がさっと近づきドアを開けてくれ、その手を借りてイザベラは馬車を降りる。 眼の前の建物を見上げたイザベラはその迫力に息を呑んだ。


 建物の大きさとしては王都にあるタウンハウスとそこまで変わるものではない。しかし緑と橙のコントラストが美しい丘陵を背景に佇む赤レンガの屋敷は、どっしりと構えていて、壁は若干色褪せている部分もあるが、それすらも屋敷の歴史を感じさせる味となっている。


 改めて侯爵家の凄さを目の当たりにし、足が固まったように立ちすくむイザベラ。だが、侯爵家の面々にカチリとした、しかし柔らかい笑顔を向ける領館の執事の声を聞いて、慌ててそちらへ意識を向けた。


「おかえりなさいませ、旦那様方。無事の到着で何よりでございます」

「出迎えありがとう、アルバート。予定は変わらず手紙で伝えたとおりだ。それから……彼女を紹介しないと。イザベラさん」


 侯爵の視線を受けてイザベラは半歩前へ出る。様々な場数を踏んできたイザベラは緊張することもなく、産まれた頃から教えられてきました、とばかりの堂々とした様子でゆっくりと膝を折った。


「初めまして、エドワード様と婚約する予定になっております、グレンシャー伯爵が二女、イザベラです。今後よろしくお願します」

「イザベラ様。お話は旦那様から常々お聞きしております。お坊ちゃまにこのような素敵な婚約者が出来ることは私を初めこちらの使用人一同感慨深く感じております。どうぞ我が家と思ってお過ごしくださいませ」


 そう言ってアルバートは折り目正しく腰を折った。


 姿勢を戻したアルバートは後ろに控えていた使用人達に合図を送り、それを皮切りに彼らが一斉に動き出す。荷物を馬車から運び出す姿を見つつ、侯爵家の面々も屋敷へとはいるのだった。






「このお茶、とっても素敵な香りですわ、オレンジでしょうか」

「えぇ、そうよ、イザベラさん。メンシェズで一番大きな紅茶店の新作出そうでね。今度王都の商会にも売り込む予定なんですって」


 マイルウェル領にやって来た翌日。メアリーとイザベラは領館の広大な庭に面したテラスでお茶をしていた。お菓子だけでなくお茶にもオレンジが使われ、テーブルには爽やかな香りが広がっていた。


「それにしても……イザベラさん、本当に落ち着きが出てきたわね。もう、どこへ出しても問題ないくらい。昨日もしっかり振る舞えていたしね」

「お褒めいただきありがとうございます。皆様が優しく教えてくださるおかげにございます」


 昨日の夜のディナーには領内の有力貴族、メンシェズの市長や大きな商会の会長等、マイルウェル領の有力者を招いた夕食会が開かれた。もちろんイザベラにとっては初対面の人ばかりだったが、ごく少人数の会だったこともあり、比較的緊張せずに振る舞えた。招かれた人々が皆優しくて、気さくな人達だったこともイザベラを安心させた。


「ところで侯爵夫人……? 私、本当にここでゆっくりお茶していて構わないのでしょうか? いえ、皆様が大丈夫と言ってくださっているのはわかっているのですが、どうも落ち着かなくて」

「フフフ、イザベラさんは心配性ね。大丈夫よ、今のあなたなら明日が婚約発表の夜会でも大丈夫! ……それにね、ここに来てもらったのも実は勉強の一つなのよ」

「ここに来たのが勉強……ですか?」

「ええ……領民あっての貴族。高貴な者は義務も負うわ」

「高貴な……義務……ですか?」

「そうよ。すぐに理解してもらうのは難しいと思うけど……少しでも分かって貰えればと思ってね」


 その言葉にイザベラは噛みしめるような、不安そうな顔をする。


「そんな不安そうにしなくても大丈夫よ。イザベラさん。幸い今のマイルウェル領はとても繁栄してるわ。それでね、せっかくだしメンシェズの街を見に行かない?」

「街をですか?」

「えぇ、そうよ。とっても素敵な街よ。私、娘とあの街を歩くのが夢だったの。昨日到着したばかりだけど……良いかしら」

「はい! もちろんですわ」

「じゃあ決まりね。ターニャ、アンネ、準備をお願い出来るかしら!」


 メアリーとイザベラはそれぞれ一旦私室に戻り、ドレスを着替える。しかしアンナが用意した服は彼女の意表を突くもので、居間に戻った彼女は疑問符を顔に貼り付けていた。


「あの……侯爵夫人? これは一体? いえ、その……とっても素敵な服なのですが……」


 今日イザベラに用意されたのは、淡い橙色で裾の部分に花の刺繍がなされたドレス。可愛らしい雰囲気はイザベラによく似合っているが、普段着ているそれと比べると装飾は控えめでどちらかと言えば、少し裕福な商家のお嬢さん、といった様子だ。


 それは公爵夫人も同じで、上品なブラウスにスカート、肩にはショールをかけた姿はよく似合っているが、やはりどちらかと言えば中上流の装いだった。


「ふふふ、一目で気付くなんてやっぱり日々進歩してるわね。そうよ、これはお忍び用の服なの!」

「お忍び……ですか?」

「ええ、まあ私なんか顔が知られているから完全なお忍びとは行かないけどね。でも普段よりは街に溶け込めるわ。私娘とメンシェズをお忍びデートするのが夢だったの。さ、いきましょう、イザベラさん」

「は、はい! 侯爵夫人」


 夢だったの言葉通り、メアリーはいつになく上機嫌だ。彼女と共に馬車に乗り、イザベラは丘の下に広がる街を目指すのだった。






「わぁ! 侯爵……メアリー様! この通り、屋根の色が全てオレンジ色ですわ! それにオレンジのとっても良い匂い」

「ここがメンシェズの中心街よ。この辺りは私が結婚してすぐくらいに大嵐で大きな被害が出てね……もちろん我が家が復興を支援したのだけど、その時にみんなに協力してもらって、屋根の色を同じにしてもらったの」

「マイルウェルの象徴のオレンジ色にですか?」

「ええ、昔はこの辺もたくさんの観光客が来ていたらしいけど、当時は寂れていたから……こうして同じ屋根の建物が並んでいると、観光名所になるでしょう?」

「ええ、とっても素敵です。それに歩いている人もたくさんいますね」


 メアリーが言う通り、王都から程よく近い避暑地として知られていたマイルウェル領は、蒸気船の発達で一度観光地としても廃れてしまった。海外の観光地の物珍しさに負けてしまったのだ。


 しかし今では、街道と駅が整備され、昔以上に簡単に来れる避暑地として、マイルウェル領は再び脚光を浴びている。そこにはこれまで旅など無縁だった中流層に余暇を楽しむ余裕が出てきたことも関係しているだろう。


 そんなマイルウェルの領都メンシェズの目抜き通りがここリーシェル通り、通称オレンジ通り。名物のマーマレードを使った菓子の香りが初夏の爽やかな風に乗って漂う通りは、イゼベラの言う通り、たくさんの人で賑わっていた。


「さ、じゃあまずは甘いものでも食べましょうか? とってもおすすめのお店があるの」


 そう言ってメアリーはイザベラの手を引き、一軒の菓子店へと入っていった。


「いらっしゃいませ……これはこれは……メアリー様。それにお可愛らしいお嬢様まで、ご健勝でなによりにございます」

「ありがとう、ロバートさん。この子はイザベラ。愚息の婚約者よ」

「イザベラですわ。よろしくお願いします」


 メアリーの紹介に合わせ、イザベラはドレスの裾をつまみお辞儀をする。その初々しい雰囲気にロバートと呼ばれた壮年の菓子職人は相好を崩した。


「これはこれはご丁寧に……。私はロバートです。この通りで親子3代菓子を焼き続けております。にしてもエドワード様がご結婚とは……私も歳をとりましたな」

「何を仰るんですか。まだまだ若いでしょう? それで、この子にマーマレードパイを食べてもらいたくて来たんですけど……まだ残ってるかしら?」

「えぇ、メアリー様は運が良い。あと少しですが残っております。ここで食べていかれますか?」

「えぇ、お願い出来るかしら?」

「もちろんですとも。どうぞ奥のテーブルへ。お茶をお出ししましょう」


 そういってロバートは店の奥にあるちょっとしたティールームへ案内する。慣れた様子のメアリーにイザベラは目を丸くしつつ、彼女についていくのだった。


 メアリーと向かい合い、とびきり美味しいマーマレードパイをお供にお茶をしたイザベラ。その後も彼女はメアリーに連れられてメンシェズの街を巡った。


 街で最初にマーマレードを作った、と豪語する迫力ある店主の元でマーマレードを買い、王都で修行した、というティーブレンダーのお店で量り売りのお茶を買う。それに古くから続くガラス細工の店では可愛らしい猫の置物も買った。


 王都のど真ん中の生まれとは言え、孤児院暮らしの長いイザベラにはどれも新鮮な体験だ。目を輝かせるイザベラを微笑ましく見守るメアリーの視線に気づき、イザベラはハッとした。


「すいません! メアリー様。年甲斐もなくはしゃいでしまって……それにお勉強のためにここにきたのですよね?」

「いいのよイザベラさん。私だってとっても楽しんでるわ。それにね……こうして街の活気に触れることが大事なお勉強だと私は思ってるの」

「大事なお勉強……? ですか?」

「ええ、エドワードもよくメンシェズの街へ送り出したものよ。もちろんこういう賑やかな場所だけじゃないけどね。でもまずイザベラさんには私達が守るべき場所がどんな場所なのか知って欲しかったの」

「守るべき場所……」


 メアリーの言葉をイザベラはゆっくりと噛みしめるように反芻した。


「私達貴族にとって守るべきは自分たちの家だけじゃないわ。領地に住む全ての人達、その生活が全部私達の肩に乗っている。大丈夫よイザベラさんなら。あなたはとても賢いもの、きっと立派なレディになれるわ」

「はい。はい! 私、頑張ります」

「ふふっ、その意気よ。じゃあ、そろそろ戻りましょうか。明日はエドワードがなにか計画しているみたいだし、ゆっくり寝て疲れを取ってもらわないとね」

「エドワード様が? 何でしょうか?」

「それは明日のお楽しみよ。きっとイザベラさんも気に入るはずだから……期待しておいて」


 にっこり笑ってそう言うとメアリーはイザベラの手を引き、馬車が待つ方へと歩き出す。イザベラもまた、そちらへと歩き出すのだった。

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